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現在の南さつま市(旧加世田市)と合併する前は大正十四から万世町と呼ばれ其の
由来は万之瀬川の万の字と、加世田の世の字を取り「万世不易」(永久に変わらず
続く事)の願いを込めて万世町としたが、昭和二十九年(1954年)加世田町と万世町
が合併し加世田市政が施行されたが、地元の人は今でも当地を「ばんせい」と呼び
親しんでいます。
万世駅跡
万世町の由来
南さつま市の紹介、続編

慰霊塔

都仁塚

平成17年11月7日、市町村合併に依り市名変更しました

大正五年十月、東加世田村当局は加世田(現南さつま市)まで2,5キロメートル
の鉄道用地を提供し、工事費四万余円も村の有志が会社に貸与して加世田〜万世
大崎間の鉄道を開通させた。
戦前笠沙方面のバスは万世駅を起点にし、戦後一時は一日48本の列車を運行され
たが、昭和三十七年一月十五日廃止された。終戦前、特攻隊員と其の家族が
最後の悲しい別れをした此の万世駅も今は駅舎の基礎の石が僅かに残る空き地と
なり当時を忍ぶすべも有りません。
1802年大洪水で万之瀬川の流れが変わった後港は小松原、大崎から新川港
に移った。
大崎の商人達は新川港を利用して川辺郡、日置郡、屋久島等の物資を一手に
取り扱い長崎、瀬戸内方面と交易した。明治十三年には新川港の出入り船舶
二百九十二隻、県下二位を誇り大崎は南薩随一の商業地となり、
天保15年(1844年)大崎商人の守り神として万之瀬川の川跡に祇園社を
建てた。其の後明治初年、八坂神社と改称した。
境内には武士が建てた灯籠六基と手打鉢、二才中(にせじゅう)が寄進した絵馬が
あり、当時の大崎商人の羽振りの良さを誇示している。古くからあった恵比寿神の
祠(ほこら)も此処に移され祭られている。

満州事変以来、万世町出身の戦没者の霊を祀る為、大崎青年団(報公義会)が建設。
昭和十八年に竣工し万世町に寄贈された。昭和二十六年(1951年)平和条約成立後、
改めて日清戦争以来の戦没者、五百九十八人の霊を祀つた。終戦後は慰霊塔として
万世町民のシンボルとして親しまれる。(万世の歴史より抜粋)

八坂神社
伊地知弾正平季随(すえみち)は畠山重忠から四代目の孫で越前の国(
福井県伊地知の城にて足利尊氏に使えていたが、或る争いで尊氏の怒りに
触れ獄舎に繋がれた。
そして将に死罪になろうとした時、島津五代の貞久が尊氏に願って南朝方の
楠木正行を討った四条畷の戦功と引き替えに季随の死罪を助けた。
季随は貞久の恩に感じて島津の家臣となり、康永三年(興国五年、1344)
六月薩摩へ来て忠勤に励んだ。
其の後、観応二年(正平六年、1351)貞久の子の六代氏久の供をして
筑前(福岡県)金隈城に於いて肥後の雄菊池武光と戦った。大層な難戦であった
ので氏久の甲冑を貰い氏久の身代わりとなって戦死した。
氏久は其の隙にからくも戦場を逃れたが傷を負っていたので残りの兵を纏めて
薩摩に帰った。
其の後季随の死体を乗せた船が甑島の沖で時化に遭い沈没し、死体は当時の
唐仁原の浜辺に打ち上げられた。そこで島津氏は季随の霊を慰める為死体の
漂着した場所近くに布袋山西照寺と云う寺を建てて祀り、漂着した場所と西照寺の
二ヶ所に五輪の石塔を建て法名「光輝都仁庵主」と刻んだ。
現在唐人塚川、大崎橋近くの川沿いに五輪墓が残って何時も綺麗な花が手向けら
れている。
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