更新履歴と日々の雑感

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Aug 22, 2001
 ヒロシマの日だとか、終戦記念日だとか、八月だからというわけではないのだが、
 こんなのを思い出した。
 遠き日の 石に刻み 砂に影落ち
 崩れ堕つ 天地の真中 一輪の花の幻
 語句もうろ覚えなんだが、原民喜の詩の一節ではなかったかと思う。
 終戦記念日から一週間の今日、そんな幻のような花束が手許に届く。
 これについては、いずれ何か書こうと思う。
 そう言えば、終戦記念日のTVで聞いた「大義」とか「殉ずる」とかいう言葉が、
 いろんな意味で耳にこびりついてしまった。これについても、時間があれば書いてみたい。
 そうは言っても、いつになるやら…。
May 13, 2001
 多忙な4月を過ぎてやっと更新。もう、まる3年が過ぎた。この3年間のお客様は
 9630人

 だった。
 牛の歩みも重ねてゆけば、もうすぐ1万人かぁ…。
 10,000人目ゲットの方にプレゼント、なんて企画をやってもいいんだけれど、
 ガラぢゃないやうな気もしますね。あ、それに身内が多いしなぁ、お客さん。(^_^;;


Jan. 13, 2001
 ナビ恋問題のアップ以外に、出来る限り、各コンテンツの行間を広げた。
 従来から「読みにくい」とお叱りを受けていたが、やっとこさ、である(苦笑)。
 職業柄、こういうことに対しては、もっと気を遣わなければ、と反省。
 確認は、Mac/WinともNC4.7、IE5 で行ったが、それ以前のバージョンについては
 未確認である。ただ、古いブラウザでは行間の指定が無効になるケースもあるようなので、
 致し方ないかもしれない。それでも、読めることは読めます。
May. 14, 2000
 いつの間にやら2年が経過。早いもんである。2年間の訪問者数は
 5894

 だった。こんなページによくもまぁ…というべきか?(^_^;; お客様には感謝します。
 天女の羽衣問題について広報きかい平成12年03月号の記述から追加。


Jan. 13, 2000
 某所よりコンテンツの中にY2K問題多数との御指摘。一部訂正。まだあるか?
Jan. 12, 2000
 得本さんの南点の原稿に添えた写真を、少々サイズアップした。
 以前から、あまりに小さくてあまりに見にくい、という御指摘は頂いていたのだ。
 ま、それでも、ホームページ容量は19MBも空いている。(^_^;;
Jan. 10, 2000
 やっとこさ更新。とは言うものの、苦いニュースが多い。
 模様替えもしたいのだが、それどころではない。時間がない。
 落ち穂のせいか、年賀状にURLなど書き込んでしまったせいか、
 ここのところ定期的なアクセスはあるようなのだが。
 内容が伴わないなぁ....。嘆息....。
Dec. 08, 1999
 先週末は那覇に出張。復路の空港へのタクシーに上司と同乗する。
 那覇軍港を指して上司曰く「あれが古い空港?」....。言葉が無い。
 もう何回沖縄に来ているのだろう。
 空港は移転していなくてターミナルビルが、と言いかけたところで、それまで黙っていた
 運転手さんが喋り出す。
「米軍の那覇軍港ですよ」「ずっと以前に返還が決まったのに、まだ返さない」
「隣の浦添というところに移転しようという話もあるんだけど、誰もお断りさ」
 聞こえなかったのか、どうか、上司は高揚した声で喋り出す。
「いやぁ、世界に冠たる米軍艦隊の補給基地なわけですかぁ」「さぞや経済的にも....」
 何を言い出すのか、これ以上言わないでくれ、身の縮む思いでいたら、運転手さんが
 遮るように、しかし何も聞かなかったかのようにこう言った。
「誰だって受け容れたくはないよね」「右の頬のおできを左の頬に移すようなもんだ」
「それとも、内地で引き取ってくれるところ、ありますか?」
 そんなやりとりをするうちに空港に着いた。\810。千円札を渡し、財布の中から十円玉を
 探す僕らに、運転手さんは\200を渡してこう言った。
「いいですよ」「また沖縄に来て、今度はじっくり見ていって下さいね」
 苦い思いで帰路についた。
Nov. 23, 1999
 得本拓さん、ついに原稿落ちの模様。(((^_^;;;;;
Nov. 07, 1999
 昨夜、鹿児島県教研集会「市民の夕べ」の企画として、大田昌秀前沖縄県知事の講演会。
Oct. 11, 1999
 大した更新はしていない。資料集にリンク漏れがあったので少しだけ追加した。
Sep. 06, 1999
 まぁ、相手は「お上」なんだから当然なのかも知れないが、なかなか諦めてくれない。
 来年度概算要求1億200万円で、対前年度2600万円の増額だそうだ。
 その中に土地の借り上げ費用が含まれている、という事は、反対しきれないまでも
 土地を売ることに抵抗を示す地主もいる、という事だと思うのだが....。
 しかし、盗聴法だ何だと大変な法案をバンバン通して、おまけに地方分権何とやら
 と言いつつ、土地の強制収容も可能な法案まで通している政府のことだ。
 ますます、平和を求める住民の気持ちなんてお構いなしになって行くんだろうなぁ....。
 一方では、戦時下の喜界島で軍が住民の労力緊急動員を求めた文書が見つかっている
 そんなにも、愚かな時代に逆戻りしたいのか。
Aug. 05, 1999
 先日更新した中で、
吉野健二さんのWEBの中にある、喜界高等学校草創の記に関して、
 私がトップページで自分達で島に高校を作った少年達の話と紹介したことについて、
「少年達が作ったというわけでもあるまいに、誤解を招く」とのお問い合わせを頂いた。
 まぁ、確かに「作った」のは行政だったかも知れないが、そこまで行政を動かし得たのは、
 筆者の喜久氏をはじめとする、当時の少年少女達の学ぶ欲求以外の何ものでもない。
 私自身は、このような先輩がいたこと、その後輩として喜界高校で学べたことを、
 何よりも誇りに思っている。
Aug. 01, 1999
 更新はしたが、今回は他力本願モードである。
 吉野健二さんのWEBの中にある、喜界島出身者の同人誌「榕樹」のページにリンクさせて頂いた。
 まぁ、コラボレーションということで御勘弁下さい。> 健二兄
July. 10, 1999
 いや、特に何もないんですが、叔父ばかモード2です。m(_)m


Jun. 25, 1999
 どーにかこーにか、落ち穂を脱稿。少々虚脱状態です。


May. 14, 1999
 いや、特に何もないんですが、叔父ばかモードです。m(_)m


Apr. 30, 1999
 こういうのを繰り言というのだろうから、言わない方がいいのだろうが、それにしても....。
 ガイドライン法案、あんなにもアッサリと行くものなんだろうか? 国民・支持者の声よりも
 党利党略が優先する無様さ。某政党国会議員の皆さん、どっちを向いて仕事してるんだ?
 政党政治に対する不信感がまたひとつ....。


Apr. 19, 1999
 早いもので、もう1年。2793アクセスというのが多いのか少ないのか分からないが、
 こんな偏屈なページによくもまぁ、と、来訪者の方々に感謝申し上げたい。
 最近多忙で落ち穂ひろい以外の更新が滞りがちだが、そのうち何とか。
 まだまだ偏屈モードで頑張ります。(^_^;;


Mar. 14, 1999
 厚意に甘えて、天女の羽衣問題をアップ。本当は、もう少し詳細にしたいのだが時間がとれない。
 まずは、写真だけでも、というところ。申し訳ありません。> 提供者の方


Jan. 18, 1999
 しばらく放置していた象のオリ問題の経緯に1行追加。詳細は追って掲載予定。


Jan. 16, 1999
 年末から気にかかっていた「岩下三四展〜卒寿をこえて」、やっと見に行けた。
 私はゲージツには縁のない人間なのだが、同郷の大先輩でもあり、どうしても見たかったのだ。
 無縁な人間なりに感激した。一徹の意志をふぅわりと優しくくるんだかのような暖かな色彩。
 卒寿を越えてなお輝きを増す画風。そんな風に思えた。帰る頃には、わけもなく涙が出そうになった。
 「岩下三四展〜卒寿をこえて」。長島美術館にて。明日まで。


Jan. 12, 1999
 本日より、琉球新報文化面のコラム「落ち穂」に原稿が載ったはず。
 2週に1回、半年間、毎回800字。気が遠くなりそうな感じもする(苦笑)。
 とにかく「原稿落ち」だけは避けようと背水の陣を張った。
 しかし、このページ本来のネタはたまる一方で更新できないのに、大丈夫かいな?> 自分。


Jan. 08, 1999
 およよ? いつの間にか2000アクセス達成。
 のんびりペースの更新にも関わらずありがたいことである。
 感謝申し上げます > 読者の皆様。
 と同時に、ネタはたまる一方なのに更新できない鈍牛ぶりをお詫び申し上げます。m(_)m


Dec. 31, 1998
 まったくもって貧乏ヒマ無し。更新していない。
 クリスマスには象のオリを巡ってちょっとした動きがあったのだが、この件についても更新は来年。
 ただ、作者のプロフィールだけはアップした。
 読者からの問い合わせに毎回同じ事を書くのに疲れたこともあるのだが、読んでもらえるだろうか。
 琉球新報文化面「落ち穂」欄の原稿をやっと1本送信。
 もとはと言えば従兄の代役が回ってきたのだが、饒舌な人間に800字は辛い。半年間13回、何とか頑張らねば....。


Nov. 29, 1998
 終日仕事。母と愚妻は首里城と県立博物館へ。
 夕方おちあって、最終便で鹿児島へ。
 公文館史料編集室に寄れなかったり、多少の心残りはあるが、母は母なりに、私は私なりに、捜し物に出会えた旅だったかとも思う。
 I shall return, OKINAWA.


Nov. 28, 1998
 午後からは仕事。午前中に、壺屋と市場近辺を散策。母と愚妻は午後からも街で買い物。夕方ホテルへ帰ると、とんでもなく大きな包みが出来上がっていた。どうせ持つのはオレだよね、と愚痴の一つも出てくる。
 18:00、くもじパレット前の広場でディアマンテスのライブとの情報。夕食前に少しでも、と出かけるが前座が長い。諦めてタクシーに乗る。
 うらしまにて夕食。職場の皆に混ぜてもらう。週末のせいか、単価が安いせいか、満員の客。上口説(ぬぶりくどぅち)という唄は、死んだ親父がよく唄っていたのだ、と母の弁。
 二次会はバーボン。琉大生諸君と語り込む。沖縄の来し方と未来、基地と経済の問題、皆それぞれに想いが熱い。知事選の影響いまだ冷めやらず、といったところかも知れないが、それにしても、ここ沖縄でも「議論を許されない」雰囲気はある、と聞いて驚く。意見の表明だけはいついかなる時でも保障されるべきだろうに。負けるな、若者。


Nov. 27, 1998
 小雨模様。まずは豊見城村の海軍壕跡へ。大田少将の電文を見て少しく考え込む。昭和20(1945)年06月26日付けの讀賣報知新聞の展示あり。次は奄美大島・喜界島か?との解説記事が載っていた。琉球ガラス、琉球漆器を見学してひめゆりの塔へ。
 ひめゆり平和祈念資料館は涙。遺影の写真を正視するのが辛く感じられる。生存者の方が解説をしておられた。同行の母は涙と鼻水垂れ流し状態。鼻水をぬぐった両手を拭きもせず握手を求め「よく生きておられましたね。どうか長生きして語り継いで下さい」などと話しかけている。牛島中将の電文を見てさらに考え込む。
 平和の礎および祈念公園。鹿児島の碑を訪ねると、沖縄喜界郷友会の名に出くわす。沖縄戦で亡くなった喜界島出身者51名の慰霊を定期的にされている模様。
 玉泉洞へ行くが、今日の気分ではテーマパークは少なからず食傷。歩き疲れたこともあり、入場せずにホテルへ帰る。
 うみないびにて夕食。島唄ライブも取りやめ、早々にホテルへ帰って購入した各種資料を読みあさる。


Nov. 26, 1998
 09:30、ANK機にて那覇空港着。ジャパレンが迎えに来てくれる。まずは宜野湾へ。少しばかり道に迷って佐喜真美術館着。沖縄戦の絵に限らず、丸木夫妻の絵の実物に接するのは初めて。言葉が無い。それにしても、ああいう絵を描き続けるのは、描く人にとっても辛い作業であったろうなと思う。
 高速に乗り、石川インターから琉球村へ。昼食をとる。
 残波岬に寄って琉球の風へ。テーマパークとしては琉球村よりこちらの方が気に入ったのだが、人はまばら。だから良かったのか?
 この道沿いでは否応なしに巨大な象のオリが目に付く。適当な場所を探して写真を撮った。
 城跡によってからホテルへ。夕食は四ツ竹。平日のせいか客はまばら。花笠の美人と記念撮影。


Nov. 08, 1998
 一昨夜のこと。肩にコードレスホンを挟んで話しながら、筐体を開けたMacをいじっていた。
 ついつい、電源を落とさぬままに内部のケーブルを抜き差しし、見事、3GBほどのデータが飛んでしまった。(ToT)
 今日は午後からずっと復旧作業。
 そのついでに、と言ってはいけないのだろうが、動作確認がてら1本アップした。
 旅の空って何ですか? という御照会は結構多かった。少しは分かっていただけるだろうか?


Oct. 25, 1998
 以前から預かっていた英語の原稿を1本だけアップした。
 こんなところを見に来る外人さんが現実にいる、というのがにわかには信じがたいのだが....。
 何にせよ、私の英語力ではどうにもリクエストに応えきれないし、喜界島を紹介する
英語の原稿をお預かりしていたのは幸いと言うべきだろう。

 それにしても、日本語のコンテンツも未消化部分がまだまだたくさんあるのだが....。


Oct. 23, 1998
 2週間前にリンクを一部更新したのだが、ここのところ本業(?)で死ぬ思いだった。(^^;;
 今日になって、やっとここも更新。

 一昨日は奄美出身者で作る「奄美を軍事基地から守る鹿児島の会」が発足したらしいのだが、多忙で参加できず。

 皆おなじ思いなのかも知れないが、ここは、こんな時代だからこそ、という思いだけでやっている。


Sep. 25, 1998
 リンク等若干更新。
 こんなページでもいろんな方が見て下さっているものだ、と自分ながらに感心。
 コツコツ頑張り続けましょう。
 それにしても、何をしているわけでもないのに時間だけが過ぎてゆくなぁ....。
せめて実りのある仕事に注力したいものだ....。


Aug. 23, 1998
 これまでのポリシー(というほどのモノでもないが)を曲げることになるが、幾つかの原稿には写真を折り込むことにした。
数人の方から「使ってくれ」と写真を送っていただいたことが一つのきっかけではある。
 また、このサイトの大きな柱である象のオリについても、関連する資料をいくつか送っていただいた。
 ヒマを見て、遅くならないうちに順次掲載していきたいと考えている。


Aug. 22, 1998
 大倉忠夫さんの原稿「戦没者慰霊碑の彼方に」を追加掲載した。

以下、事情により4行削除。




Aug. 18, 1998
 島を離れた方々の御意見を掲載することにした。まずは、K H さんの御意見から。

 終戦記念日前後のせいか、最近少々アクセスが多くなったか? と感じている。その割には御意見をとんと頂かない。
本当に、ある時期を境にしてプッツリという感じである。まぁ、声をかけにくいサイトであろうとは思うが。
 御意見をお待ちしております。反論の方がより嬉しいです。無断掲載はしませんから。(^^;;


Aug. 15, 1998
 勿論あえて意図的にこの日を選んだわけではないのだが、更新と資料整理に着手できた。
夜勤明けで疲れてはいるがヒマだったから、という程度のことである。
ただ、念願のOCRが導入できるかも知れず、そんなこんなで気合いが入った。

 そう言えば、いつの間にやら1000アクセス突破。有り難いことではある。


July. 29, 1998
 与論に寄って、那覇経由で昨日帰り着いた。
いまだ微かに黒糖酒の酔いが残っているような....。(^^;;

 結構な数の方から、インターネットは見れないんだけど、と、このページのことを聞かれたりした。
もう少しマメに更新せねば、と焦りも募る。旅の空からということについては、早く書き上げねば。


July. 26, 1998
 喜界島からです。
 アップロードはまた後日になるが、今日が島で最後の夜なので書いておきたい。
わずか三泊四日の日程とは言え、それでもこれだけ長く日程を確保できたのは5年ぶりのことだった。
 兄弟・親戚はもちろん、同級生や恩師、いろんな人に会えたのが大きな収穫だった。それでも、
三泊四日では不足ではあるが。(^^;;

 島の良さを再認識する一方で、島ならではの問題も見えてきたのは事実だが、それはまた後日。


July. 23, 1998
 大して更新もしていないのだが、このページだけ作り替えた。
 長くなりすぎて「ふんどし」になってしまっている気がしたので、とりあえず私の基本的な考え方だけを
はじめに〜私の基本的な考え方」として別ファイルにした。
 それから、このファイルの名前自体にスペルミスがあったので、それを訂正した。
 <-- スペルミスがあってもリンクが切れていない。っちゅうのはどーゆーこと? > 自分。(^^;

 近日中に島に帰る予定。三泊四日の日程なのだが、もう少しゆっくりできないものか?
いっそ台風でも来てくれれば、と思ったりして....。(^^;;
 島からリアルタイム更新でもすれば面白いのかも知れないのだが、どうせ見る人もいないしなぁ、と思い直す。
それでもパワーブックをもって帰るのは貧乏性のなせるワザか?


July. 18, 1998
 本当に久しぶりに更新した。
 こんなことではいかん、と思いつつ、時間がとれないんである。

 今朝の朝日新聞の「防衛庁首脳が名護市民投票を批判。衆愚政治…やるべきでなかった」という記事には
あきれと怒りがないまぜになってしまった。この首脳というのは長崎選出の久間防衛庁長官らしいのだが、
アサヒ・コムによると「多数の利益のために、少数の反対があっても押しつけざるを得ないことはある。それは、
間接民主制だからこそ可能だ。例えば、ごみ処理場をすべて住民投票で決めたら、どこにも造れなくなる」とも
語ったらしい。
 上等ぢゃねぇか! ぢゃぁ、長崎に持って行けよ。米軍基地も、象のオリも。そのセリフで自分の選挙区の
選挙民を説得していただきたいもんである。

 高校野球鹿児島県予選では、準準決勝で第1シードの樟南高校と対戦した喜界高校が3対10で8回コールド負け。
TV桟敷から離れられなかった。(^^;;
 負けはしたが、良くやった、とほめてやりたい気分。


May. 30, 1998
 更新ペースが鈍ってきているなぁ、と感じるのだが、息切れしているわけではない。職場の仕事(本業ではない(?_?))が
忙しいんである。不調のパソコンを自宅に持ち帰ってシコシコ、というのがこの1ヶ月続いている(私は何者?)。

 読者の方から御要望を頂いた。テキストの色をモノクロ印刷しても見やすいものにしろ、というもの。
印刷して活用して頂ければこれに過ぎたる幸いはない。色付きのテキストは概ね太字に変更した。


May. 28, 1998
 今日はお悔やみで川内市まで。ついでに原発を見て帰ろうと思い立つ。
しかし、川内原発は、見事なまでに市内のどこからも見えない。海か空からしか見えないような立地なんである。
 ダメモトで、と、正門からクルマを乗り入れて「見学って出来ないんですかぁ?」と訊いてみるが、当然不可。
まぁ、広瀬隆に間違えられるくらいなら光栄だが、テロリストと間違われたくはないので、尻尾を巻いて帰る。
 帰宅してみれば「パキスタン核実験」のニュース。
 原発と核兵器とを同列に扱うつもりはないが、それにしてもウンザリだ....。


May. 27, 1998
 わずかずつながらもカウンターの数字が上がっていくのに対して、最近ではとんと反論メールを頂かない。
正確に言うと「米軍の喜界島上陸計画」の記事を載せてからプッツリである。
 もとより、980503のこの欄にも書いたように、今までの反応の方が多すぎた気がしているのだが、
これが普通、と思ってみても、あれ以来レスポンスが無くなると不気味ではある。


May. 21, 1998
 某所からの「味気なさすぎる」という再三の苦情・要請に応えてタイトルのみ img タグを使用。
 ま、カラフルなのはいいことなんですが....(苦笑)。


May. 20, 1998
 米軍の喜界島上陸計画のオペレーションマップをアップ。
 不謹慎かも知れないが、これが実に興味深い。集落名の誤りを見ていると、地図作成に関わった「兵士」の姿が想像されるようである。
 ま、考え過ぎかも知れないが....。


May. 19, 1998
 喜界島の豊かな自然と平和を守る町民会議事務局から届いた米軍の喜界島上陸計画に関する資料をアップ。
と言っても今日のところは新聞報道分のみである。
 実はオペレーションマップ等も入手しているのだが、ナマで掲載する前に内容を吟味してみたくて、これは後日とした。
 それにしても、ひとつ間違えば喜界島も地獄絵図の中だったのか、と思うと....。


May. 12, 1998
 明日(980507)には何とか....が今日になってしまったが、往復書簡をアップデートした。
 ふぅぅ....。ヒマが欲しい。


May. 06, 1998
 May, 03 で言及した掲載遅延の「お詫び」のみアップ。
 他のコンテンツが進まない。
 言い訳がましいが、連休はこどもの日の午後2時間ほどドライブしたのみで、あとはずっと持ち帰りの仕事。
 数日間の総睡眠が10時間に満たない。(;_;)
 往復書簡の中で、とした事柄については、明日には何とか....。


May. 03, 1998
 幾つかのお問い合わせを頂いた。アクセス総数わずか200程度のページにしては多いと思って喜んでいる。
 ただし、照会の内容自体は結構厳しい。
 同様の疑問を持たれる方もいるかと思ったので、急遽以下のようにお答えを用意した。
 ・工事中のページについて:出来てから載せればよいではないか、と言われればその通りです。
  ただ、私がここで何を扱いたいか、という事を示す意味で、そのままにしてあります。
  仕方がないので、一両日中に「お詫び」を書いて掲載したいと思います。
 ・硫黄島や伊江島と喜界島とを同列に並べるな、との件について:
  これは、近日中に往復書簡の中で明らかにしたいと思います。
 ・軍備は要らない、というのは幻想ではないか、との件について:
  これについては基本的には見解の相違なのかも知れません。
  ただ、奄美や沖縄にとっての軍備は足枷でしかない、という思いが私の中からは消えません。
  詳しくは、近日中にやはり往復書簡の中で明らかにしたいと思います。
さういふ訳である。連休中も仕事があるので、数日お待ちいただきたい。


May. 02, 1998
 以前から書いていた島時間についての原稿のみアップした。


May. 01, 1998
 本日から、象のオリ問題については喜界島の豊かな自然と平和を守る町民会議に管理していただくこととした。
 サーバへのアップなどはやはり私(大口)が行うし、メールのコンタクト等も今のところは私であるが、問題の性質上、コンテンツの管理は町民会議に委ねることとした。だからと言って、私が象のオリ問題について書かないという訳ではない。やはり書きたいことのメインであることには変わりない。昨日の「何故に」という問いについてはこだわり続けて行くつもりである。そのためにも、喜界島あるいは奄美・琉球弧の歴史について学び、発信していきたいと思っている。


Apr. 30, 1998
 1985〜1987年、つまり象のオリ問題発生当時の資料集を整理・追加した。
 影の支援者(このサイトの支援者は影にしかいないのか?...苦笑...)からは「焦眉の急のこの時期に何故?」と叱られそうだが、この時期だからこそ原点に立ち返って確認したかった事があった。そして、やはり見直した甲斐があったと思う。
 OTHレーダー基地問題の発生当時、防衛庁が候補地として検討していたのが、小笠原の硫黄島、沖縄の伊江島、そして喜界島であったという事を思い出した。いずれも、大きな戦争被害を被った島々だ。伊江島など、沖縄戦終結前には日本軍によって住民が殺され、米軍上陸後は「銃剣とブルドーザー」による土地の収奪と米軍基地建設が行われ、揚げ句にいまでは基地依存体質の島に仕立て上げられた(この表現については異論のある方もおられるかと思うが)ような面も無しとしないらしい。
 何故に、太平洋戦争の終結から数十年を経てなお、このような島々が候補地となるのか。やはりこだわり続けていきたい。
 それにしても、象のオリ問題以外の更新が進まない(ToT)。書きたいことは山ほどあるのだが....。


Apr. 28, 1998
 画像を使わないにも程があるとのお叱りを某氏より頂く。
 いくらポリシーだと言え、Back to Synapse くらいは分かりやすくするのが、
 シナプスから来た人への礼儀だ、と。
 うなずけるものがあったので、早速更新。img タグを入れた。


Apr. 27, 1998
 リンクを少々追加。環境ネットワーク奄美は多くの人に見てもらいたいところ。
 資料集もやっと1本追加。牛の歩みだなぁ....。