この事実は、沖縄県公文館史料編集室が米国空軍歴史調査センター(アラバマ州)所蔵のマイクロフィルムから入手した資料から明らかになったもので、1945年(昭和20年)5月、沖縄戦に臨んだ米軍の精強部隊第十軍(S・B・バックナー陸軍中将)が、沖縄攻略の「アイスバーグ作戦(註)」を策定していた中で、大兵力による喜界島上陸を計画していたことが示されている。米軍は空中撮影などによって綿密な準備の下に上陸計画を進めていたと思われ、別紙地図に示すように喜界島の地理や日本軍の兵器、施設などについて「丸裸」にするほどの事前情報を収集していたと見られる。
南海日日新聞98年05月04日の報道によれば、「第十軍は陸兵七個師団(18万3000人)、艦船1500
隻、艦載機2000機といわれ、太平洋戦争中最大規模の編成部隊。研究者は『八月の敗
戦がなければ九州上陸への目標として攻略されていただろう』と話している」という。
入手史料から見る限り、米軍の喜界島上陸作戦では「エーブル」「ベーカー」「チャーリー」と3つの計画地図が作成されており、池治海岸を「ビーチレッド」に、湾港を「ビーチグリーン」に、志戸桶港周辺を「ビーチイエロー」に、早町漁港周辺を「ビーチブルー」にそれぞれ色別している。
いずれも現在象のオリ建設計画が進んでいる百之台周辺を喜界島攻略の主要点と位置付けているのが特徴で、「17・MAY・1945」と記されているのは上陸作戦開始日だった可能性が高い。
喜界島には45年4月に海軍航空基地が造られ、特攻機の中継基地となっていた。陸軍守備隊や高射砲隊、高射機関砲隊、砲台隊などが配備され、百之台近辺には高射砲の砲台跡も残されている。空襲は45年1月22日から8月13日までの半年余りで100余日を数え、被災戸数1910戸、死者は119人に上ると言われている。海軍航空基地に隣接する中里集落は全戸被災・焼失しており、他の集落も、入り江に面した赤連・湾・荒木・上嘉鉄・嘉鈍・阿伝・白水・早町・塩道・佐手久・志戸桶・小野津の各集落では半数以上の家屋が被災している。他の集落でも大なり小なり被害はあって、ほとんど無傷で済んだのは、山手のガジュマルの防風林に隠れた小さな集落のみだったと言われている。
南海日日新聞98年05月04日の報道によると「今回の調査にあたった沖縄県公文館史料編集室の吉浜忍主幹(48)は『沖縄戦では実際のプランと作戦が違っていたが、喜界島の計画は上陸に値する港や陸地の状況を分析している。米軍はアイスバーグの後、南九州に上陸するオリンピック作戦、関東上陸のコロネット作戦の三つを策定しており、喜界島は九州侵攻のための航空基地を建設する計画だった可能性が高い』と話している」という。
以下、当方が独自に入手した米軍作成の作戦地図その他を紹介したい。
最後に。余談であり、少々不謹慎な言い方でもあるが、このマップに記載された集落名の誤りが実に興味深い。
まず、山手の集落(西目・大朝戸・島中・滝川・城久・羽里・山田・川嶺・長嶺)が殆ど記載されておらず、西目は誤った位置に、長嶺が正しい位置に記載されているが、その他の集落は全て無視されている。
また、隣接して境界の定かでない(集落の境界が接していて、緑地が無い)赤連集落と湾集落とが合わせて湾集落とされており、池治集落が赤連(Agare)集落とされている。ちなみに、赤連集落のことを喜界島の方言では「アガレー」と言う。
さらに、マップ上では二つに分かれているかに見える小野津集落(実際、小野津集落は前金久集落と神宮集落との合体したものである)は「Onozu」と記載されており、実際の読み(おのつ)と異なっている。
さらに付言すれば、早町集落の南方に位置する小集落を「Komura」と記載しているが、現在はそのような集落は存在しない。ただし、かつて単独の集落として存在したものの、後に隣接集落に飲み込まれた集落があったのかも知れない。
このマップの各集落名は米軍偵察機の撮影した航空写真に記入されたものと思われるが、その過程でマップ作成作業に従事させられた喜界島出身の日系兵士がいたのかも知れない。
WEB master 註:アイスバーグ作戦:米軍が1944年(昭和19年)秋に策定した沖縄上陸作戦。当初の台湾攻略作戦を中止し、小笠原と琉球列島をたたくもので、まず、慶良間諸島と沖縄中南部を占領して日本本土への上陸作戦用の基地を建設し、次いで伊江島を占拠、沖縄本島北部を制圧。最後に南西諸島の占拠範囲を拡大する作戦であったとされる。ちなみにアイスバーグ(iceberg)とは氷山のことであり、小笠原・沖縄・奄美諸島を氷山になぞらえ、一つ一つ叩き潰していく計画であったとされる。