戦没者慰霊碑の彼方に

大倉忠夫

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蝶の写真  沖縄戦は私が湾国民学校高等科一年を終わる頃始まった。航空基地のどまん中の中里に住んでいた私にとって、沖縄戦とは、沖縄に来襲した米軍部隊のグラマンやシコルスキー、ロッキードなどと呼ばれる各種の米軍機が空から襲いかかってくることであった。それは沖縄における日本軍の組織的抵抗が終わったとされる六月ニニ日とは関係がなかったから、戦闘から逃げまわるだけしかない子供としての戦争体験は八月一五日まで続いたのである。この体験は善かれ悪しかれ私の人生に影を落としており、五〇年を経ても逃れようがない。私は時々歴史とは何だろうか、と自間する。沖縄の芥川賞作家大城立裕が書いた「神女(のろ)」という小説は琉球王尚徳の喜界島遠征を題材にしている。しかし私たちの島にこの史実を証明する資料はない。琉球王府の残した歴史書である中山譜によれば、明国の成化二年二月二八日琉球王が自ら五〇艘余りの船で二千余の兵を引き連れて喜界島に到着したという。これまで屡々兵を出して喜界島を征服しようと試みたが効き目がなく「王怒りて日く、ただに功なきのみならず、却りて侮辱せらる、吾宜しくみずから軍兵を率いて賊兵を平らげんと」。この戦闘は遠征軍にとって大変な苦戦だった様子で「賊兵港口に柵を立て塁を築き矢石雨の如し、決して進むべからず」という状況で、王国軍は大勢の戦死者を出し、計略で喜界島防衛軍を欺き一週問程かかってやっと上陸できたという。上陸した王国軍は「火を放ち屋を焼く、喊声天に振るう」という。わが島人の方は「賊兵大いに驚き、魂、体に付かず、降る者無数なり。賊首、力窮し、擒にせられ誅を受く」というのである。勿論これは王様の権威を領域内に広めることを目的とし編纂したものであろうから人民の抵抗に価値は置かない。私たちが征服にやって来た琉球王に立ち向かった島の祖先の抵抗の歴史を琉球王側の書物でしか知り得ないというのは寂しい。今は庶民も文字を持っている。庶民の歴史は庶民の方法で庶民が残さなければならないと思う。
蝶の写真  第二次世界大戦が終わって五〇年経とうとしている。戦争体験者は圧倒的少数者になりつつある。と同時に戦後を働き詰めに働いたこの世代は今漸く己れの時間を得て書き残すべきことを書き始めている。二年程前のこと、「鹿児島たより」という同郷者のミニコミの消息欄に、もと海軍整備兵の宮原清三氏が「沖縄戦線最後の砦喜界島海軍基地」という本を自費出版されたという記事が小さく載った。宮原氏は喜界島の島中出身という。私は早速宮原氏に本の購入を申し入れたところ、寄贈するということで遠慮なく頂いた。本は決して上出来のものとは言えなかったが、自らの喜界島航空基地における戦争体験を消してはならないという宮原氏の真撃な思いが伝わってきて私はその思いに感動した。私は調査中の、大戦末期喜界島基地から沖縄へ向けて飛び立ち帰って来なかった特攻隊について宮原氏に情報を与えたり、教えを受けたりするようになった。
 その宮原氏から喜界島航空基地戦没者慰霊碑の建立を企画しているとの通知が届いた。宮原氏にとってはあの基地で戦死した同僚や送り出した特攻兵の顔を思い出すにつけ、自分たちの生きている内に慰霊の碑を建てなければいずれ忘れられていくという切羽詰まった思いがあったのであろう。私も、あの大戦で島が経験したことが次第にその痕跡を薄めていくことに焦燥を感じていた。忘れたくても忘れてはならないことがある。あの大戦末期、島が経験した悲劇は島の歴史上稀有の事件であった。歴史上滅多に起こらないことを私たちは目撃したのである。戦没者慰霊碑は消えかかった記億を呼ぴ覚まし未来の島の人にこの島が経験した未曾有の災難を考えるきっかけを与える。この慰霊碑建立を呼びかけて来たのが島出身の、軍豚の中では下級の元兵士であったということが心に響いた。反戦反軍論者の私は慰霊碑建立について思想的に恐らく彼とは異なる地平にいたけれども、建立については積極的に賛同した。
蝶の写真  平成六年一〇月二三日、除幕式があり私も参列した。それは宗教色のまったく感じられない儀式で、あっけない程に簡素なものであった。碑は喜界空港と海の間の工事中の公園予定地に、そこだけは僅かに植え込みが施されて佗しげに建っていた。何れは周囲も整備され公園の中の重要なポイントになるだろう。私は元巌部隊(南西諸島航空隊)喜界島派遣隊の老兵士たちがどのような気持ちで碑に向かっていたか分からない。戦後五〇年という歳月はあの戦争を現実感のない遠い物語にしようとしている。島の老婦人たちが老兵士たちに懐かしげに話しかける。私とは五、六歳しか違わない筈であるのに、私とは関係のない世界がそこに繰り広げられていた。死者への思いは胸に迫るものがなく総てのことが坦々と形式的に、事務的に運ばれていく。参列者の中の異色は、終戦直前の喜界島基地から出撃して奇跡的に生き残った特攻隊長岡本元海軍中尉であった。昭和二〇年八月一三日の夕刻、五機の爆弾装着ゼロ戦が喜界島から沖縄に向けて飛び立った。彼らは喜界島に二か月間潜伏していたのである。この作戦的には無駄な特攻出撃命令は、ポツダム宣言受託の外国放送を聞いて錯乱した第五航空艦隊司令長官宇垣中将の責任だと私は思っており、いずれその調査結果を文章にしたいと考えている。それは兎も角、岡本元中尉の口からこの特攻隊の存在した事実が具体的に島の人の前で語られ、現地の新聞に掲載されたことはこの慰霊碑除幕式の思わぬ功績であった。しかし歴史というものは過去の事実を知るという所に立ち止まっては物語を楽しむ以上に現代的意味を持ち得ない。私たちは過去の事実に対して、何故、という問を発し、悲劇の再発を防ぐ手だてを考えなければならない。無数の何故がある。あの大戦中、喜界島で起こった最大の悲劇は巌部隊が撃墜して捕虜にした米軍飛行士トーマス少尉とキンカーン中尉を殺害したことである。奄美大島古仁屋で捕らえられ徳之島に送られた米軍捕虜は殺されず終戦後米軍に引き渡されている。何故喜界島では殺されてしまったのか。私は日本軍側の戦死者の多さとも関係があるのではないかと密かに考えている。この事件は、戦後横浜で行われたBC級戦犯裁判で喜界島事件と呼ばれている。喜界島に来ていた第五航空艦隊司令のS中佐の他に巌部隊や宮本部隊(飛行場工作隊)の兵士たち、総計五人が被告席に立たされた。二名に死刑が宣告され、内一名は減刑され、処刑されたのはS中佐だけである。戦犯に指名されながら逃げおおせた者もいるという。喜界島の戦争を考える時、この事件から目をそらす訳にはいかない。除幕式で碑を見上げながら、私は遠くの空を見ていた。
 目を狙え目をという語にどきりとす戦の島の森に見しこと
(朝日歌壇・平成六年八月二一日)
WEB master 註1:本稿は「榕樹」第11号(1995年,東京)より転載した。