喜界島から

 喜界町城久集落在の 得本 拓 (とくもと ひらく) 氏から原稿を頂いた。
 氏は現在喜界町図書館の司書として働いているが、サンデーファーマーでもあり、
 熱心な社会活動家でもあり、また、喜界島には数少ない(自称)Macエバンジェリストでもある。
 この原稿はもともと南日本新聞のコラム「南点」に1年間連載されたものであるが、
 現在の島の暮らしや風俗と氏独特の視点がなかなかに面白い。御一読を。
  第1回:2回目の成人式   第7回:禁欲的消費のガイドライン
  第2回:余計なお世話    第8回:行政の創造性と寛容性
  第3回:選択の価値判断   第9回:オイシイ話し
  第4回:サトウキビ畑から  第10回:地方にとっての情報化
  第5回:18の春に     第11回:島の豊かさ
  第6回:耳の痛い話し    第12回:戦後民主主義

追記980823:得本氏より母校である湾小学校(WEB master にとっても母校である)の写真を寄せていただいた。
 同校は老朽化した校舎の全面改築を控えており、今頃は解体工事が始まっている時期かもしれない。
 消えゆく学び舎への感謝と「鎮魂」の念を込めて、本稿にミニ写真展を併設した。

改訂20000112:以前から写真が小さすぎて見えにくい、という御指摘を頂いていたのだが、
 仕事のフォトレタッチのついでにサイズを改訂した。
 以前は160×120だったのだが、320×240に「引き伸ばし」た。それでもケチくさいと言われそうだが、
 軽さを旨とする信条からはこれが精一杯である。
 ま、しかし、容量は19MBも余裕があるのだが……。(^_^;;
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2回目の成人式

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school_photo1  今年2回目の成人式を済ませた。アッという間に過ぎた40年であった。残りの約40年の余命も同じように過ぎてしまうのであろう。
島では、成人式を正月におこなう。とにかく盆と正月しか島には青年がいないからで ある。正月の2日、今春の成人式を手伝う機会があった。成長した体の線をボディコンシャスな服装でアピールし肩をはって歩く娘さん達、栗色に染めしっかりリン黷ス 長髪を後ろで束ねた青年、そして堂々とした体格の青年の耳元に光るピアスなどなど、会場は新鮮な驚きでいっぱいであった。改めてこの島でも時代は確実に変わりつつあることを実感し、自由な服装や髪型で自己表現している彼らをうらやましくも感じた。
 ひるがえって、もう一方の来賓席の方に目を移す。灰色と黒の俗に言うドブネズミスーツ(失礼な表現であるが)に身をまとった各界方々が並ぶ。年齢を重ねるとい うことは没個性的になることなのか、組織の責任あるポストにつくということは明確な自己表現をひかえることなのかとつい短絡的に思ったりもした。
 単なる服装だけの問題ではない。何を着るかということは何を選択するかということであり、自己表現のシンボリックな意味をもつ。若者の持つ自己表現の豊かさと周囲にこだわらぬ自由闊達さ。一方、皆と一緒であることの感と周囲との和を大切にする協調性、島社会の閉息性云々・・。
 いろいろ考えているとR・ストーンズのミック・ジャガーの「大人になるということは、社会と折り合いをつけ、生きる術を覚えることである」のことばが思い出された。
 折り合う術をしった大人ばかりだと世の中おもしろくない。そんな大人が多すぎるからこの島に若者が残らないのでは・・と、自省をこめて思った。 得本拓(とくもとひらく)1954年喜界町赤連生まれ、40歳。喜界町図書館司書、誇れることは農家の四男であるということ。
初出:94年11月??日,南日本新聞コラム「南点」
写真解説:校門方向から見た中央校舎2棟。30年前は左側の棟の1階左端に理科室があり、2階は4年生以上の教室だった。右側の棟の1階左端が校長室で、その隣が職員室。2階は5年生以上の教室だった。以下、説明は全て30年前の記憶に基づく。

余計なお世話

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school_photo2  正月休み、帰省した友人と語らう機会があった。10数年ぶりの出会いと言った大げさなものではない、2〜3年毎に帰省する彼である。
 開口一番、島の物質化が目につくようになったと言う。さらに続け、以前にもまして高級乗用車の数が多くなった、と。潮風の吹くこの島で4〜5年でサビてしまう車にそんな大金をかけるのがわからないと彼はぼやく。
 走るクツやゲタとして車を見た時、周囲40数キロの狭いこの島では、確かに軽乗用車や大衆車で十分であろう。しかしゲタ以外に車にはさまざまな機能がある。
 地縁、血縁、職縁に単なる酒縁。狭い島は縁でいっぱいだ。知り合い同士のこの社会は、お互いが観察しあう舞台でもあり、自分を着飾るショーウィンドウでもある。そこでは、車は乗る人を判断するモノサシであり、自分を飾jーであったりもする。稼いだ金を見せんがための高級車や権威を誇示する一見豪邸、そんなアクセサリーが島でも増えたようだ。
 「隔絶された外洋離島・・」という形容詞は現在の喜界島には当てはまらない。夜の船で一晩寝たらもうそこは消費都市カゴシマである。カゴシマ行きの飛行機直行便も近々再開される。20数年前NHK2チャンネルのTV受信が現在は民放含め5チャンネルとなった。今、喜界島はモノも消費情報もとどめなく押し寄せる消費社会に急速に移行しつつある。
 裏庭で採れた野菜を隣近所で分けあい、共同で労働しあう貧しくもつつましい生活はノスタルNな世界となり、共同体意識は急速に薄れつつある。野菜はスーパーで買 うものであり、労働はお金で精算するものとなった。
 マーケットが小さいという投資的理由で幸いにもバブルの直接的影響をこの島は免れた。しかしバブル後の物質・金銭社会の反省を体験的に理解しえないまま、依然として金やモノで計れる豊かさを追い求めている一部島民の精神のうすっぺらさが最近、気になる。
初出:94年12月??日,南日本新聞コラム「南点」
写真解説:中央校舎右側の棟。校舎の手前にガジュマル(榕樹)が2本立っている。暑い夏の日、休み時間に木陰で憩うばかりでなく、時には木陰で授業を受けることもあった。クーラーどころか、扇風機(天井扇)も無かった頃のおはなし。

選択の価値判断

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school_photo3  先日、娘齒盾ノ「喜界子ども劇場」の定期公演を観る。総勢10名、4トン車に機材を 満載しての上演で、島では滅多に見れない演劇を童心にかえって楽しんだ。興奮冷めやらぬ会場を名残り惜しそうに去る子ども達を見ながらこの会を運営しているお母さん達の選択について考えてみた。
 経済活動が本土と不可分となりそれにともなう人の交流は、従来島にはなかった組織や活動を島に運んでくる。「子ども劇場」「ライオンズクラブ」「ゴルフコンペ」「カラオケボックス」さらには、複式学級の児童生徒に送られてくる通信添削指導のダイレクトメール・・・。古いものと新しいもの、島的なものとヤマト的なもの、それらが渾然一体となって島の生活がある。
新しく入ってくるものにどう対応するかは、受け入れる側の許容力と価値判断によっ て決まる。価値観が硬直化し閉鎖的であればあるほど、「豊かな想像力と斬新な発想」は、単なるスピーチでの常套句で終わってしまう。そんな社会では、「萎えた想像力」と「隣と似た発想」が繰り返され、直面する深刻な問題も「とりあえず・・」的な応急処置で終わり、意識の新陳代謝は滞る。
 生の演劇体験をとおして、子ども達に豊かな感動と想像力を、というこの「こども劇場」での体験は、スポーツ偏重になりがちな島の子どもにとっても、そして子育てに不安を感じている親にとっても新鮮な驚きであり新しい感動となっている。
 周囲40数キロという喜界島の地理的な狭さが多彩な体験の制約となり、それが子どもの可能性をせばめてしまうことは少なくな@それ故に、次の時代を担う好奇心いっぱいの子ども達に何を選択し、何を残し、どんな体験をさせ得られるのか、それは親だけでなく地域社会の課題でもある。今、急速に変わりゆくこの島で、大人達の選択の価値判断が問われている。
初出:95年01月??日,南日本新聞コラム「南点」
写真解説:同じく中央校舎前のガジュマル。木の下にベンチのようなものが設置されているのが分かるだろうか。1階は図書室で、本を持ち出しては木陰で読んでいたのを思い出す。

サトウキビ畑から

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school_photo4  農家の息子としての意識が芽ばえてきたのか、現金の必要に迫られてか、サトウキビの収穫作業に週末は忙しい。
 女房子供の手をかりた家族農業で、小型脱葉機を使い週末に2tのキビを出荷する。農作業は、結構体力を用し、雨の日の作業となると汗と雨で体はズブぬれで確かにきつい。しかしそれにもまして仕事を終わった後の充足感は表現し難いものがある。夕食時、一日の作業の話しをかわしながら黒糖酒の酔いで疲れを癒し、翌日の作業にそなえ早々と寝る。単調だが充実した家族の週末である。
 一日、約10時間を夫婦それぞれが別々にすごし、共有する生活実感の少なさを家族の対話やレジャーで補いあうサラリーマンの生活と違い、農業では、お互いの労働の結果と生活実感を収穫した作物の量として確認できる。「たまにやるからそう美化できるんで、本当農家の苦労なんてサラリーマンには分からない」そう言われるとなんにもいえない。
 1tのキビを出荷して、20490 円、その中から諸経費が引かれ、手取りが17,000円前後。炎天下での植え付けから収穫までの労働の報償である。
 過去10年程キビ価格はほとんど横ばいである。貿易自由化、輸入砂糖との格差、いろんな理由を関係者はもっともらしく言う。キビの価格据え置きと高齢化する農家への労働負担の増大もあり専業農家戸数は減りつつある。さらに、後継者の嫁さん問題は、離農か離島(=島を離れる)かの選択を迫るようになっている。
 その対応として、規模拡大を行政は盛んにいう。週末農家の身で偉そうなことは言えない。しかし、まっとうに働き流した汗が正当に評価されない価格それ自体が先ずおかしい。家族型農業から企業的経営への移行をいう行政は、農業を作物を再生産する手段としか見ていないのでは。農家人口の多い集落ほど地域の自治が機能しており、農業の子供達に果たす教育役割も大きい。そういった農業の多面性への理解をもっと深めてほしいものである。
初出:95年02月27日,南日本新聞コラム「南点」
写真解説:北側校舎。1年生の教室と左端に音楽室があった。写真には写っていないが、棟の左側にプールがある。我々の在校当時はプールはなく、体育の授業で水泳のあるときは池治海岸まで出かけていたものだった。

18の春に

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school_photo5  18年間島で育ち、教育を受けた若者達が島を出ていく。空港では、見送る人を前にして飛行機がエプロンで一周する。本土へむかう彼らへのパイロットの粋な計らいであろうか。卒業生のほとんどが都会へ出て島には残らない。
 以前に比べると基本的な生活レベルでの格差はせばまりつつあるが、社会変化が急速な分だけ時代の先端部分での格差は依然としてある。
 25年前、中学校の修学旅行で鹿児島本土に行く前に、その準備実習があり、当時新しくできた公民館の水洗トイレでその使い方の説明を受けたことを思いだす。声変わりでニキビ面、思春期まっ盛りの男子生徒がトイレに詰め込まれ、水の流し方を習っている光景は、思いだすと結構シュールでもある。
 水で流そうが流すまいが用は足せる、そんな格差なんて笑ってすませれる。しかし、当時に較べ、より深刻化した、水に流せない教育格差には憤慨する。離島での専門教科の教師不足である。
 中学校から高校にかけて生徒の知的好奇心・関心の広がりは著しい。しかし生徒の旺盛な知的欲求に応え成長を助けれる専門教科の教師が離島では少ない。それだけではない、免許教科外の教科を担当することもよくあり、場合によっては一人で三つの教科を担当せざるをえない状況もある。そのような教育環境が島外への高校進学を加速させる悪循環をきたしてもいる。
 生徒が少ないのがその原因ならば、行政はまずその現状を地域の人達に説明し、学校統廃合も含めた問題解決へのビジョンを示し、話し合いの出発点を提示してほしい。学校は本来教育の場であるという原則にそった議論からはずれない限り、問題解決は可能であると思いたい。
 島の将来を担うべき中・高生が、自らの関心や興味の対象を広げ、自己の能力や技能を十分に伸ばして島から巣立っていけるように現在の教育環境を考えるのは、行政ばかりでなく大人全体の責任でもあろう。
初出:95年03月??日,南日本新聞コラム「南点」
写真解説:南側校舎。2・1年生の教室があった。校舎手前の樹はアカギ。

耳の痛い話し

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school_photo6  鹿児島県民は、
1、外部に対する関心が薄い。外はどうなっているかという外的感知力に乏しい。
2、固定観念に引きずられやすい。これはこうなっているのだとすぐに決めてかかる。
3、自分と異なった意見を聞くのが下手である。自分と同じ意見を言う人が一番大切だと考えている。
4、連れを大切にし、自ら動かない。人の判断によって自分の判断をする。
5、コミュニケーションの力が弱い。順序立てて論理的に説明するのが下手である。
6、表現が下手で、思っていることを口に出そうとしない。
7、想像力に欠ける。状況を推し量る力が弱い。
8、ゆとりや遊びに弱く、それらを罪悪視する。
9、文化面を軽視しがちである。教育熱心ではあるが文化熱心ではない。
 以上は、県図書館協会発行「県図協だより第10号」の「鹿児島の情報力と鹿児島県民」(講師:鹿児島総合研究所社長東眞人氏)からの引用である。
 自分の欠点を他人から指摘されることは、気持ちよいものではない。ましては、それがいい大人への的を得た指摘となるとなおさらであろう。
 自分の非を認めたがらないのは人の常、自分のことは棚に上げ、悪いのはほかのせいにするのも又人の常である。
 地方公務員として働きすでに11年、日々仕事をしながら感じ、石橋保存問題などでの行政のさまざまな対応のあり方を読むにつけ、先ほどの9項目を、そのまま「公務員は」と読み直してしまうのは私だけであろうか。
 独創性を嫌い、先例を大切にし、手間のかかる煩わしい仕事は避けたがる。住民との対話よりも上司や同僚との関係を大切にしグループをつくりたがる。それでいて面従後言を多としがちである……。
 東氏の9つの指摘は、制度的疲労が顕著になりつつある地方行政機構で働く公務員の実態の一端をも指摘しているように思われる。モチロン私もその内の一人ではあるのだが……。
初出:95年04月??日,南日本新聞コラム「南点」
写真解説:同じく南側校舎前のアカギ。幹周りは3m以上ありそうである。昭和初期にはそこに植わっていたというからかなりの老木。大正生まれの老母がこの木を見て曰く「この木にはまだ葉がついているけど、あたしの歯は全部抜けてしまったわねぇ」。

禁欲的消費のガイドライン

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school_photo7  18本もの活断層が喜界島にあり、1911年、1938年のM7〜8の喜界島近海地震以降、エネルギーは、確実に蓄積されつつあることを知った。
 震度7クラスの地震が深夜喜界島を襲ったという想定では、末娘と女房はタンスにつぶされ、もう一方に寝ている私は本棚につぶされて重傷、何とか無傷でいられそうなのは長女一人ということが分かり、わが家でも地震対策は緊急の課題となった。
 日本の7割の家庭では、夜中にトイレに行く時、カミサンまたは旦那をまたいで行くという。住環境が劣悪なのは都市に限らず地方も同じで、わが家も狭い部屋に、物、モノがひしめき合っている。
 食器棚の中の洋食器に和食器、和箪笥に洋箪笥、テーブルに挫卓、コタツにストーブに電気あんか、玄関には、下駄にスニーカー、まさに和と洋の二重生活である。それこそが日本人の旺盛な消費意欲を支えている根源なのだろう。
 震災の後は、1ドル90円を切った円高ショックである。長期化する不況を案じて経済評論家は、より一層の規制緩和による早急な内需の拡大を、などとテレビで解説する。
 驚いた。いったい次は何を買えというのであろう。昭和63年型の軽自動車では、恥ずかしいから乗り換えなさいというのだろうか。それとも14インチのテレビでは、小さすぎるとでも言うのであろうか。
 個人の欲望を拡大し実現することで資本主義消費社会は物質的な繁栄を維持してきた。しかし、その繁栄もオゾンホールの広がりや地球の温暖化で無制限な発展はすでに望めないことは明らかである。
 「もう十分なんだ。これ以上は、いらない」。そういった個々人の禁欲的消費ガイドラインが??億の地球人口を維持していく上で、すべての消費者に今以上に求められている。
 あっても無くてもいいような物、モノに満たされ居間のテレビが映し出す神戸被災地の災害復旧現場のガレキの山を見ながら、そう思った。・・・合掌。
初出:95年05月??日,南日本新聞コラム「南点」
写真解説:中央校舎前の池。戦前はここに奉安殿が建っていたのだが、戦後それを貯水タンクに改造し、水道を配置して生徒の水飲み場になっていた。今ではそのタンクも取り壊され、池が残るのみである。

行政の創造性と寛容性

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school_photo8  高齢化、過疎化が著しい町村行政では、おのずと高齢者へのケアが優先されがちであり、その事自体大切なことではあるが、ともすれば、今島で働いている若者の存在が忘れられがちな面もある。
 スポーツ施設を充実し、各種大会を運営することだけで事足りるわけではない。若者の多面な要望を汲み上げ、行政の側から積極的に若者の地域参加の芽を育てていくという姿勢がもっとあってもいい。
 地方の若者の不満に音楽や演劇などを体験する機会が少ないというのがある。新聞で紹介される都市を中心としたイベント案内を白々しく一瞥するのは私一人ではあるまい。
 新しい試みは、常に若者から始まる。離島のそのような文化状況を打破しようとす る試みが奄美でも具体化しつつある。各島々をネットで結びツアーによるコンサートを定期的に実現しようという動きがそれである。
 数年前のウィーンフィルのメンバーによる弦楽四重奏団の公演をきっかけにして、去年のリンケン・バンド、そして、今月は、喜納昌吉&チャンプルーズさらにはネーネーズのコンサートと結構多彩な活動が続いている。すべて地元の青年たちの献身的な活動により実現できたものである。
 アッレ、島にもまだこんなに多くの若者がいたんだと驚く程の人、人。熱気でむせかえるコンサート会場で、音楽をとおして、お互いがこの島に住んでいるんだという実感を共有することができた。
 「行政は最大のサービス業である」と、前出雲市長の岩國氏は言う。また、「故郷で生活してはいるが、自分の人生を生きているという実感を感じにくい」と青年達は言う。
 若者への古い価値観の強要と組織や地域への責任と義務観が求められがちな地方だ からこそ、次代を担う若者の柔らかい発想と情熱を行政が汲み上げ、そして活かしていくことが大切になってくる。
 高齢化と過疎化が進めば進むほど、行政で働く人達の創造性と若者への許容性、寛容性が求められてくる。
初出:95年06月??日,南日本新聞コラム「南点」
写真解説:同じく中央校舎前の池。池の中には日本列島を模したコンクリート製の飛石が配してあり、格好の遊び場だった。写真の子供が立っているのは四国・九州。

オイシイ話し

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school_photo9  川嶺集落の簡易水道施設が老朽化しているので、巨大な円形無線傍受基地(通称ゾ ウのおり)を誘致し、その見返りに防衛施設局に水道施設を作ってもらおう、という誘致運動が水面化で始まりすでに数年になる。
 当初の赤連地区での計画が地主の反対で宙に浮いている防衛施設局にとっては実にオイシイ提案に違いない。
 高齢化し後継者のいない農家にとって、現金は魅力的であり、不安な老後を前にして、お金は何よりも心強い。集落の水問題も解決し地主にも集落にも、その基地誘致はオイシイ話しに違いない。
 オイシサは更に続く。過疎に悩む当町にとっては、人口減への歯止めとなるらしく、それに基地関連の交付金も入ると町当局は説明する。
 町の土建業者や、商工会のお店の皆さんも工事が増え消費者が増えることは結構なことだと同様におっしゃる。
 オイシサイッパイの軍事施設「ゾウのおり」。それこそ反対すること自体がモッタイナイ話しなのであろうか。
 奄美群島振興開発事業は、1992年までの5年間で5,173億円を奄美に投入し、本土との格差是正を図った。その結果として振興した業者も多い。資金を持つ者は権力と近い距離に常にいる。公共事業で得た資金で若い議会議員に先行投資し育成された業界系議員が町村でも増えつつある。
 当然、議会でのチェック機能は低下し公共事業優先の議会運営になりがちである。奄振事業の影の部分でもある。
 経済的な自立ができず、義理人情と親分子分の主従関係が根強いシマ社会では、9割近くが票読みできる選挙風土であり、業者による票の抱え込みも多い。
今回の基地誘致が実現した時、上司の命令に従うことに馴れた隊員さんが倍増し、そ れによって業界系議員に加え防衛庁系の議員も確実に増えるであろう。
 小さなの島でバランスを欠いた公共事業が、貧しい地方自治をさらに形骸化していく構図ができつつあることが憂えられる。
初出:95年07月??日,南日本新聞コラム「南点」
写真解説:同じく中央校舎前の池。校舎2階の廊下から撮影したもの。左上に見えるのは二宮金次郎の銅像。

地方にとっての情報化

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school_photo10  所用があり東京に行く。お上りさんパソコンオタクには、聖地と化したアキハバラを訪ねることにした。
 ゲームマシンやパソコンを中心とした電脳都市に変容した街は、新作ゲームソフトに興じるオタクや歩きながら電話をかけたがるビジネスマンであふれていた。無口な日本人の中でひときわかん高い外国人の会話が宣伝用の電子音の中で響く。
 マルチメディア、インターネットと、情報媒体の進化が華々しく喧伝されており、地方では実態の感じられない情報社会がアキハバラでは、モニターの中に実在する。電脳都市はすでに21世紀だ。
情報化で思い出すのに、1977年のミュンヘンでの体験がある。友人のパーティーで出会った哲学風の男が遠くオリエントから来た私に尋ねた。「どうしてドイツまで来たのか?」「各国を旅し、いろいろな人達に出会い情報を広げたかったから」「では、君は日本各地を旅行し、島のすべての人達と会い、語ったことがあるのか?」と。「ノー」と 答えるとたたみ掛けるように彼が言う。「結局、高い金と時間を費やして、ここまで来る必要はなかった。旅をするべきところは日本にもあり、あなたが話したことのない人は島にも多いのだから」と。
 地理的に狭い所に住む者は、つい視点を外へ外へと向けがちになる。奄美が「人材の島」と呼ばれ多くの若者がヤマトをめざした時期、伝えられたのは本土からのサクセスストーリーが主であった。故郷の歴史文化を十分に理解することなく若者は島を去り、その結果として島の現状もある。
 中央からの情報を受けるだけの情報化なんてマインドコントロールと一緒でいらない。自分自身をしっかり表現できるパーソナルアイデンティティー、故郷をしっかりと説明できるローカルアイデンティティーが情報化、国際化の大前提である。
 あれから18年、まだ会っていない人、語っていない人は依然として多い。情報は文字どおり人の情けに報いると書く。
初出:95年08月??日,南日本新聞コラム「南点」
写真解説:建て替えを前にすっかり片付けられた教室。外に面した窓はサッシに変えられているが、廊下内側の窓が木枠のままである。

島の豊かさ

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school_photo11  島で暮らす豊かさに都会とは違ってとうとうと流れる時間がある。ビジネスではない人々が生きる営みとしての時間の流れである。
 昼休み、会社勤めの人たちは家に帰りゆっくりと昼食をとる。シエスタを都合よくとる人もいる。アフター5は、お店で缶ビールでも買いそこで世間話を交わしながら一杯やる。そのまま車・バイクで家へといったことも以前はできたが今はもうご法度だ。
 一方、アルコホリック(アルコール中毒患者)をもじり、勤勉な日本人を揶揄してワークホリックと言う言葉があり、更にはカローシ(過労死)という現実もある。
 よく点検してみると、私達の生活環境は確かに仕事を中心にして回っている。集落や隣近所の葬儀ですら、「申し訳ないが仕事が忙しくて‥‥」と言えばそれが許され、仕事ができる人が人間的にも立派な人といった考えさえ社会通念の一つとしてある。
 10数年前、仕事で疲れ酔っぱらったオジサン達のストレス発散の道具であったカラオケは今、親子や子供たちの主要な娯楽にになっている。政治家やエリート・ビジネスマンのステータスであり商談の道具であったゴルフは、中流日本人の虚栄心をくすぐり土地開発ブームにのっかり見事にビジネスとなった。
 島でイージーに暮らす人にとって、都会の会社勤め事情の中で理解できないことの一つに単身赴任がある。家族と切り放されて24時間管理の労働マシーンになり、時にはカローシをむかえる程働く会社員は、戦中のカミカゼパイロットのイメージとも重なる。
 「家族のためにショウガナイ‥‥」と言いながら送金を続けているもう一方で、単身赴任グッズやお父さん割引コールなどが商品化され、会社も赴任手当を増額し、本来異常な労働環境を快適化、正当化しようとする。
 個人の幸せや家族の平安を実現していくための社会整備は遅々として進まぬまま、人間を効率的に働かせるための環境がますます整っていく都市社会の変化が、島で暮らす者には不思議である。
初出:95年09月??日,南日本新聞コラム「南点」
写真解説:同じく、建て替えを前にすっかり片付けられた教室。

戦後民主主義

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school_photo12  仕事がら子供達と接する機会は多い。その中で気になることの一つに子供達がハッキリと意思表示をしないというのがある。何をしたいのか尋ねても、その判断を他の人にゆだね、感想を尋ねても前に答えた人の意見をそのまま、「私も〜だと思いまーす」「とってもおもしろかったでーす」と、単純にオウム返す傾向がある。
 そういうことは大人社会の会議でもよくある傾向だ。根回しを優先するあまり、反対意見が出にくく、会議はおのずと上からの意向や指示を確認する場となる。出てくる意見はせいぜい太鼓持ちによるヨイッショ意見。同意だけが確認され、ことが進行していく。
 民主的であり活発に討議されて当然の労働組合の会合ですら発言者は少ない。他の会合はおして知るべしであろう。
 自分の意見を明確に主張する。それにより他の意見との違いが明らかになり、議論の過程でお互いの意見の相違を認め補いあう。青臭いがそれが民主主義の基本である。身近な会合で意見が出ない、議論が感情的なレベルで止まってしまう。そのことは民主主義の根の浅さを示している。
 大江健三郎のノーベル賞授賞以降、戦後民主主義ということばをよく見聞きする。しかし政治は大きく右旋回をしたままであり、憲法改正試案すら大きく現れるに到った。
 戦前、天皇を頂点とする権力構造の中で、ものを言えなくなった普通の人達がアジア各地で非人道的戦争犯罪を命じられるままに遂行した。上からの命令だけで動く社会と、意見を言わなくなった国民が暴走を始めた結果である。
 戦後の民主主義教育は、8月15日の悲惨さから出発した。その実を受け継いだ世代が、すでに社会の中堅にいる。
 憲法の理念を生活の中に根づかせるために、一人ひとりが自分の意見を発言する「小さな勇気」が大切である。豊かさの中で去勢された中年にはもうオサラバだ。
 戦後民主主義の力量が、それぞれの職場や生活の中で試されている。
初出:95年10月??日,南日本新聞コラム「南点」
写真解説:取り壊しを待つ教室の黒板には「ありがとう6年い組!」と大書され、生徒ひとりひとりが思い思いの言葉を綴っていた。