ナビィの恋・異聞

もう一つのナビィの恋?

 先日(2001年01月08日)World Reader に、映画「ナビィの恋」について書いた「苦難を越えて在るべき場所へ(映画『ナビィの恋』に見るミルクユー(弥勒世)への願い)」という拙文が掲載されてから、少なからぬ知人から(あるいは面識のない読者の方からも)お問い合わせを頂いた。

 多くは、そんな見方があるとは思わなかったという反応で、かつ、その半分以上は私の見方がひねくれているのではないかという忠告だった。中には、私が見た「ナビィの恋」は別の映画ではないのかという厳しい反応もあった(苦笑)。
 まぁ、映画の見方は人それぞれで構わないわけで、私がどのように感じようと私の勝手といえばそうなのだが、そう言う私自身が「沖縄の歴史や文化、人情といったもの(略)に対する理解と共感なしには、その含意するところは読み解けないだろう」と書いたことがお怒りを買ったようである。
 なるほど、これは失言だったかと思う。

 ……。衷心よりお詫び申し上げます。m(_)m

 言い訳は潔くないが、練る(寝る)間のない中で書いた「やっつけ仕事」の原稿ゆえ、校正不足が舌足らずに拍車をかけた面がある。ただ、実際にこの映画(のビデオ)を見た後で、昨年各所で見聞きしたこの映画の評(あるいは紹介)を思い返すたびに、何だか薄っぺらに感じてしまったのは事実である。
 マスコミ・ミニコミ、あるいはインターネットも含めれば、この映画の評の中には、元気な高齢者の姿を描いたなどというものが実際にあった。なかには、同日のWorld Reader の「今日のWEB」で紹介されたような、愛される幸せと、愛する歓びは似て非なるもの、なのだろうかと問いかける真面目なものもあったが、
  註:ラブ・ストーリーとして捉えた評が最も多かったが、
    中でも、これは、かなり上質な評だと私は思う。
    私ごときがそう言っては、評者に失礼かも知れないが。
沖縄的なドタバタ喜劇であるという評など、思い起こせば、目を通したことすら後悔したくなるようなものだった。

 単なるドタバタ喜劇であるというだけでは、この映画の結末は、やはり「読み解けない」ように思うのだ。
 確かに、奈々子と福之助の間に恋が成り立っていく過程がよく見えない、全体に演技が粗雑である、等々の批評は当たっているとも思うが、それをもってドタバタ喜劇であるというのでは、あまりにも見方が皮相である。むしろ、それは計算のうちであり、中江監督(この人、いわゆるシマナイチャーである)にとっては「ありがちなウチナンチュらしさ」の演出なのだろう、と、私は思う。
 あるいは、フェミニズムの立場から、過去の因習からの女性の解放を描いたとする評を読んだときには、ぶったまげた。フェミニズムやジェンダー論そのものを頭から否定するつもりはないが、それは明らかな「誤読」ではないのか。ラストの「フィルムの速回し」に描かれる奈々子の将来像は、フェミニズムの立場とは到底相容れないように思うのだが…。

 最も多く見かけたのは、壮大なラブ・ストーリーという解釈(前述の真面目な解釈も、その一つだろう)で、そう思ってこの映画を見ても何の破綻もない。
 監督自身も、そう見られるつもりで作っているのだろうとも思う。

 ただ、私自身は、どうしても、この映画の結末にこだわってしまうのだ。

 実にあっけらかんとしたハッピー・エンドである。誰一人として泣くこともなく、明るい顔で結末を迎える。
 何故に皆ここまでハッピーなのか?
 「沖縄だから」と答えることも出来るかもしれない。あくまでも明るく、可笑しい「ありがちなウチナンチュらしさ」に彩られた物語の結末は、やはり明るくなくてはならないから、と言えば、そうかも知れない。
 嘆きや悲しみ、怒りといった負の感情を全て覆い隠して、明るく終わってこそ、この映画の「らしさ」は際立つ。
 しかし、この「沖縄だから」という答えには、もう一つ、奪われ、押しつけられ、虐げられてきた土地柄だからこそ、どのような苦難があろうとも「あるべき姿」へと回帰していくことこそが幸福への道筋である、という暗示としての意味があるように思うのだ。
 それを、あくまで明るく、コミカルに描ききったところに、この映画の真骨頂がある。

 また、最後の方で、アブジャーマー男が仮面を剥ぎ取り、笑みを見せる、という作りにも、あえて言葉では語られなかった意図を感じる。実は、この映画の中で、ナビィの人生(あるいは沖縄の歴史)に秘められた嘆きや悲しみ、あるいは、時に狂気じみてさえいる怒り、といった負の感情は、アブジャーマー男の「仮面を通した」「声なき声」として描かれている(のだと、私は思う)。
 最後にアブジャーマー男が仮面を剥いで笑顔で祝いの座に参加する場面は、恵達をも含む「全てのウチナンチュ」に「恩讐を越えた」真の祝福が訪れたことを暗示しているように思われるのだ。

 このような祝福の発想は、単なるラブ・ストーリーからは出てこないように思われる。
 むろん「ナビィの恋」の縦糸が「ミルクユー(弥勒世)」への願いであったとして、その願いは、単に米軍基地の返還などという問題だけでなく、もっと広い意味で、沖縄が如何に生きるべきかという問題を包摂するものなのだろう。

 ここまで書いてもまだ舌足らずだが、以上をもって、お問い合わせ下さった方々への返事としたい。いずれ、時間があれば、この原稿に追記するなり、考え直すなりすることもあるかも知れないが。

Jan. 12, 2001 OHGUCHI Bak