店頭より  
※ 日常ぬちゃめしぐとぅ・さばくりぐとぅぬ   メモ
2000年らがやぁ 庵主ぬ森本眞一郎ぬ 担当
おたよりやぁ→ amamian@po.synapse.ne.jp
2011年!こ(子)読み



鎮魂譜187
137億62歳(?)の記憶と記録
2012/08/15旧6/29
(ムィズィ)

「国際運動会」も幕を閉じ、
今日は、日本国(家・民)という「菊と刀族」の敗戦記念日だが
戦争と収奪、
その検証と総括もいまだしだ。

アイヌ・アマミの地で、日本国(民)による過酷なイクサ(殺戮)や植民地収奪はなかったのか?
台湾、朝鮮半島、満州、太平洋諸島、東南アジアなどでも同様になかったのか?
中国でも、南京虐殺はなかったのか?
沖縄でも、日本軍は住民を虐殺し、
「集団自決」を誘導・命令しなかったのか?
権力者とその取り巻きたちは、なぜ、かくも正当な史実を隠蔽し捏造しつづけるのか?
国家賠償などの せこい理由からか?
国民と国家の歴史は権力者たちのものか。

「歴史は研究者のものか」

8月13日付、南海日日新聞「ひろば」のコラム、
これは奄美諸島の島民にとって避けては通れぬ重要な課題を突きつけている。
小・中学校時代からの友、原井一郎氏の投稿だが、
彼には、『奄美の四季』や『苦い砂糖』などの名著があり、
今回は、鹿児島と奄美の歴史(郷土)研究家たちに鋭く反論している

原口泉氏は、鹿児島県立図書館の館長&奄振審議会の委員長でもある
いまや鹿児島県の顔として、県の公職・要職にある御仁。
『江戸期の奄美諸島 ~「琉球から「薩摩」へ』(2,011年・南方新社刊)、
前利潔氏(司会)・弓削政巳氏・原口泉氏らの鼎談だが、89pの爆弾発言を少し紹介する

以下、原口氏の発言から抜粋


「そして龍馬を上海に行かせて、上海貿易をさせるわけですよ。
それまで薩摩は武器艦船を買って、土佐藩や広島(安芸藩)に横流しをしていたわけですよ。
黒砂糖の収益なんて、もうとるにたりません。
薩摩の倒幕資金、つまり中央での政治資金というのは、
黒砂糖の収益からでてきたわけではありません。
薩摩という大きな組織をマネジメントする基本的な収入は、
上海貿易からの収益です。


薩摩藩が奄美の黒砂糖の収益で明治維新をやったという話は、
資金の出所の問題でいうと、まちがっています。

黒砂糖の収益で、明治維新をやったわけではありません。




この問題発言の責任の取り方について、
沖永良部郷土研究会の先田光演会長から指摘されるまで。
わんはこの本に目を通していなかった。
3年前
沖永良部でのシンポジウムに出かけたのだが、補助金頼みのできレースのようで、
内容にあまり興味がもてなかったから。

さて、原口発言に噛みついたのが下の原井一郎氏のコラムである。
弓削政巳氏にも矛先を向けて一刀両断。
一読、溜飲が下った。
まったくぶれていない。
われわれもなんらかの手をうたねばと
模索している矢先の投稿fだった。



歴史研究家の原口泉さんの発言が波紋を広げている。
それは「薩摩の倒幕資金、つまり中央での政治資金というのは、
黒砂糖の収益からでてきたわけではありません。
基本的には上海貿易からの収益です」と座談会で断言したという件だ。

早速、えらぶ郷土研究会の先田光演さがこれに反論している。
幕末、西郷隆盛が「軍艦購入資金に御産物を当ててはどうか」と
大久保利通宛書簡で画策していること、
維新動乱期に島の与人が連名で砂糖30万斤を「軍用金の足しに」と差し出した。
などの資料を基に倒幕資金の大半は道之島の砂糖」と
奄美側の旧来説を補強している。

原口さんは前に磯の華倉御殿を「ニセ金づくりの工場」と記し、
歴史家の芳即正さんから「実証する資料があってのことか」と反撃されたことがある。

また奄美の郷土史研究家・弓削政巳さんは最近しきりに
奄美の一字姓は「(薩摩側の差別から生まれたものではない」として
「冊封制度下で対中交易をスムーズにするためでは」といった発言をしている。
だが傍証の類あれど確証なし。
具体的資料や数値に基づく、説明責任が何よりも求められる。

それにしてもだ。
道之島と呼ばれた奄美群島の近世史は、
植民地政策で集団逃避・潰れ村・大量餓死が連続する、
特異な経緯をたどってきた。
そうした悲惨な歴史のメカニズムズ解明こそ課題と思うのだが、
無名の島民たちの声なき声をくみ取ろうとする試み乏しく、
権力者の残した古文書解読の歴史解釈ばかり大手を振るのはどうしたことだろうか

「過つのが専門家」という皮肉な実態が、
福島第一原発事故で一層明白になってしまった。
歴史もまた権威主義や白亜の塔に委ね過ぎると、
庶民史の実相から遠のく。

いずれにしても、私たちはこの愛する郷土のためにも、
もっと主体的に向き合う必要がある。
自らの歴史に対して傍観者であってはならず、「発信者」でなければならない。
先田光演さんの問題提起の意義は小さくない。
(原井一郎・奄美市名瀬)



       想えば3年前の2,009年。
1,609年から400年という節目を相互に考えるために
多様なイベントが各島々で目白押しだった。
わんも徳之島・沖永良部、鹿児島・奄美大島の会場に出向いてきた。
しかし、そこで繰りひろげられたのは、
目を覆いたくなるような行政主導の復帰祭りだった。
どこの会場の演壇にも、決まって、上のお二人が陣取っていた。
これでは奄美の歴史は総括できるはずがない。

あれは、終わりからの始まりだったが
私たちが、全島・全国の仲間たちとの連名で
伊藤鹿児島県知事に提出した「公開質問状」。
奄美と鹿児島県の相互の歴史を共同で検証し
、総括(確認)する試みだったのだが、
いまだになしのつぶてで聞く耳などもっていない。
そして、鹿児島からは今回の無責任きまわる差別発言だ。
またもや、彼は、ほっかむりを決めつけるのだろうか。

今回の原口氏発言に対して、
先田氏は公開質問状などは提出しない旨だが、
関係者や当事者たちに反論した分厚な論文は、
同じ南方新社からこの本の続編として刊行の予定だ。
なんらかの「発信者」として、
私たち「無名の島民」たちも、「声なき声」を届けること。
島々の終わりなき始まりへ向けて。



鎮魂譜187
137億62歳(?)の記憶と記録
2012/08/12旧6/25
(tida)

 記憶(録)に とどめておきたい

をぅってぃ(おととい)

奄美文化センター

あくがれの 月&星!

生きてぃさえ をぅれぃば

いちかやぁ めぐりくるのか

ねりやぁ とぅ かなやぁ

やね(来年)やぁ

ガンらが 十年一日

あと一念!



鎮魂譜187
137億62歳(?)の記憶と記録
2012/08/12旧6/25
(tida)

拝ん遠さ ありょうたぁ(おひさしぶり)

きぬぬゆる(昨夜)やぁ
逢坂なんてぃ 看護師しりょん 長女((結)ぬ 盆帰郷
「喜楽」にてごちそうたまわり
うん後やぁ  「ミユーズ」なんてぃ カラオケざんまい
「北予備」なんてぃ 医師ばぁめざしゅん 
次女ぬ「みこ」がり をぅれぃばやぁ
全員集合のどんちゃん! ありょうたんばぁ

長男ぬ一円(ひとまろ)にだか 及ばらん彼女ぬ いじてぃ
三女ぬ 美祝(みのり)子やぁ やね(来年) 高卒

あまみ庵だか やねやぁ いよいよ 閉店じゃがぁ
きゃっしぃ なりゅんかい?

おぼくり ありょうたぁ!



鎮魂譜187
137億62歳(?)の記憶と記録
2011/10/19旧9/22
(むじぃ=水)

なにも はじまらず だから おわらず

いつも 歴史解釈の おれきれき

あいもかわらず

波も風も雲も

46億年間  循環(再生)している

ヒトとヒトとのあいだの

植民地・戦争・核・天皇・民族・自治・自決・・・などの 歴史認識

負の学習能力のない

あさはかな

能書き(読み・書き・算盤)ばかりが 漂流中

逝きつくさきは 再生不能か

死の星まんだら

愛があれば?

自然主義?

いま なにを?

それぞれの しまぬゆで



鎮魂譜186
137億62歳(?)の記憶と記録
2011/6/20旧5/20(てぃき=月)

今日のメモ(南海日日新聞と『まんでぃ』から)

奄美諸島の人口が最も多かったのは、ワンが生まれた
1950年(昭和25年12月1日現在)で、22万779人。
今年は11万7430人(5月1日現在)。
約半減だ。

大島ブロック(奄美諸島)の全集落(シマ)数は332(2010年度)。
うち8集落が集落機能の維持が困難な限界集落。
そのうち10年以内に消滅の可能性がある集落は6集落。

どこの集落かは聞いていないが、
おそらく、瀬戸内町のカケロマ島に集中しているのではなかろうか。
記者に尋ねたら県としては公表できないそうだ。

このたび、『まんでぃー加計呂麻島・請島・与路島をめぐる旅』が発刊された。
版元は鹿児島市の株トライ社・224頁・オールカラーでなんと1000円!
しまぐちの「まんでぃ」とは「たくさん」という奄美語。

そこに掲載されているシマ(集落)数は、
加計呂麻島30・請島2・与路島1島で計33の「しまぬゆ」だ。

「(奄美)大島の奥座敷」?
それは鹿児島・赤木名からのまなざしだ。
しかし、琉球時代は大島の玄関であった。

かつてこの3島には鎮西村と実久村という村役場が二つもあった。
明治41(1908)年、
加計呂麻島・請島・与路島に鎮西村が発足した。
その後、大正5(1916)年、
行政事務の利便性や地域発展等を目的として、
鎮西村から分離して実久村が誕生した。
鎮西村は押角(おしかく)に、
実久村は瀬武(せだけ)に役場が置かれた。

昭和31(1956)年、奄美の日本復帰の3年後、
古仁屋町、西方村、鎮西村、実久村が瀬戸内町として合併した。

この3島は、日本復帰に伴う昭和の大合併の波で犠牲になったのだ。
そして、平成の大合併では、今、笠利町と住用村が。
大きな原因は、自治体の崩壊だろう。



鎮魂譜186
137億62歳(?)の記憶と記録
2011/6/18
旧5/18(にちゃ=土)

今年も はや折り返し

『週刊文春』(6月9日号・65頁)
また、あまみ庵の記事が掲載された。

「福岡ハカセがこれまでに、いいね!と思った三つの書店。
その第一は、三月書房(京都)。
(略)
サンタモニカの某書店(ああ、名前が出てこない!)
(カリフォルニア)
(略)
もうひとつは前にも書いた奄美大島のあまみ庵(蕎麦屋ではない)。
書店主が読んで面白いと思った本がそのままならべてあるような書店。
郷土資料も充実している。
新刊と同じ本が古本でも並んでいるような緩やかさがまたいい。」

「本屋さんの愉しみ」
福岡(伸一)ハカセのパラレルターンパラドクスより



鎮魂譜186
137億62歳(?)の記憶と記録
2011/2/2(
旧1/1(き=木)


 みぃどぅし(新年)ぬぅ あらたま(新魂)りょうてぃ 
な(汝)きゃぬぅ かほ(果報)ばぁ ゆわ(祝)てぃおしょろぉ


くず(去年)やぁ 1609年ぬぅ 400年モンダイなんてぃ あけくれしょうたぁ
くんとぅし(今年)だかぁ う(其)りやぁ かわりょうらん
まずぃやぁ 伊藤祐一郎知事がなしがり ただ(質)しふみばぁ いじゃしまいじゃが
あんかり(みんな)しぃ
うんあとぅやぁ 旧暦3月7日ぬ慰霊ぬぅ さばく(捌)りぐとぅ
いち(何時)でん なま(今)がどぅ ぬんけん(何事)ぬぅ始むぃ

なきゃぬぅ ゐ(良)っちゃん かんげ(考)ばぁ くんとぅしだかぁ ゆ(諭))してくりんしょれぃ
たん(頼)びょっとぉ!
どうかどうか…・・


これは去年
今年もかわらず
よろしく!



2010年 これにて千秋楽!

鎮魂譜185
137億61歳(?)の記憶と記録
2010/12/27(てぃき=月)

年賀欠礼ぬぅ
葉書200枚
弔問者たちがりぃ
アンマ(母)ぬ礼

50万時間
2万日あまり
(61年×365日×24時間)
毎歳月日
寄てぃやぁ引きゅりぃ

こ~ろ(心)だか どぅ(身)だかぁ
アジアぬかたすみ
くぬ島宇宙ぬぅ 
どぅ~なぁ(ど真ん中)なんてぃ

連鎖や続しゅりぃ
九死に一生 
いくえぬ風雨
 波ち まかしぇ

常熱(夏)ぬウチナ~?
常暖(春)ぬウ~シマ~?
ゐっちゃん年あたぁ!
ひぐる(冷)しゃぁ ぬく(温)しゃぁ


うりずん(熟れ初む?)はちなち(初夏)
すでぃる(巣出る)うずまき
とぅき(季)やぁ水車
あまぬぅ春がりぃ

あんかりぃ ゐゐ歳
 もけ(迎)りんしょうれぃよぉ!
(Have A Good Year Everybody!)
逝き来ゅん節ぐゎぁ
いゅぬち(命)めぐりぃ


鎮魂譜184
137億61歳(?)の記憶と記録
2010/12/12(てぃだ=日)

わぬぅ おっかんやぁ もう(亡)りっくゎ しょうたぁ

12月5日(日) 96歳
世話好きで、感謝ひとすじの人生だった
今日は初七日
慎んでご報告させていただきます

とうと(尊)さぬぅ おっかんがな(愛)しぃ 
おぼこ(御誇)りぃ ありょうたぁ
汝んぬぅ しっただかさばぁ
くゎぁまぐゎぁ(子孫)きゃんぬ
つな(繋)じぃ をぅ(居)りょっとぉ~
137億年!


鎮魂譜183
137億61歳(?)の記憶と記録
2010/11/18(qi=木)旧9/
13


「奄美は”兄弟圏域”人ごとではない」
稲嶺名護市長来島
被災地視察し義援金
徳之島への基地問題にも理解

贈呈後、稲嶺市長は記者取材に応じた。米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)問題で、名護市辺野古(移設先)とともに日米共同声明に明記された徳之島(訓練移転先)について、「(奄美群島は)昔から琉球弧として歴史や文化生活圏を共有した。沖縄県外であっても”圏内”。徳之島の話は、人ごととすましてはいられない」と強調。「日米安保条約で国民を守るとしながら、沖縄県民を犠牲にすることはおかしい」とも指摘した。

奄美新聞/11/18

ワンはこう読む
だらだらの注釈はなし

「兄弟圏域」→うなり(姉妹)圏域
「県外であっても圏内」→日本国(民)の圏外
「国民を守るとしながら、沖縄県民を犠牲にする」

日本国民を守るために、非日本人(琉球弧人)を犠牲にする

つまり、日本「国」の南方領土、琉球弧(人)は日本「人」の植民地(人)ということ
日本「国」の北海道と北方領土も同じ
グアム、サイパン、ハワイ、オーストらリア、その他、太平洋諸島など欧米の植民地諸島(人)も
ミッションや植民者たち固有の領土(不動産)ではない
もちろんネイティブや固有種たちだけのもでもない
その土地土地固有の生態系(=しまぬゆ)にかかわる
生物と非生物間、可視と不可視界など全体世界(=コスモス)の財産なんだ

ただそれだけのこと
相互に、基本的な歴史認識を確認する好機到来なのだ
日本人と琉球弧人たちは

1609!
負×負は正!
内外の植民地認識を!
ひとり ひとり 
もっと もっと もっと


鎮魂譜182
137億61歳(?)の記憶と記録
2010/11/16(umachi=火)旧9/
11

はぁ~れぇ~
まねぇ~まねぇ(稀稀)~ 汝きゃばぁ~ 拝でぃ~
どぅくさ(元気)しぃ いもりんしょんにゃぁ?
(How are you?)
わんだか どぅくさ しゅりょっとぉ~!
(アイム ファイン トゥ~)

あっ!というまのこの半年近く
今年も激流に流され続け

店の引越し
1階(23坪)を閉店
2階(60坪)へ移動
それにともなうリストラ(スタッフ2名)
7月からは1人で運営中
とぅじがなしが ときどきアシスト
PC環境が故障 今日復旧
メールだか回復

豪雨による店の雨もり
自宅の裏山崩壊などの事後処理
お世話になりつづけたM姉さんが突然の旅たち
『いじゅんご』休刊のゆらい
『地(つち)のなかの革命』(森宣雄著)をめぐる「ポチの会」が来島
・・・・・・・・・
そのほか もろもろの流れにのりながらも
ばたぐらん!

よ-りよーり いきょうろうやぁ
っち 思ゆん きゅう(今日) くま(ここ)だりょっかぁ~




鎮魂譜181
137億61歳?の記憶と記録
2010/5/30(tida=日)旧4/
17

「徳之島への米軍基地移設反対奄美群島大会」
きのう、雨のため名瀬小学校の体育館で挙行された
一応の成果かもしれない
実行委員の打ち上げにも参加
30人ほど

tokunosima?

奄美群島?
琉球弧(諸島)?
南(西諸)島?
日本列島?
ヤポネシア?
アジア・太平洋ネシア?
地球(島)?
太陽系?
銀河?
宇宙?
マクロ?
ミクロ?
いのち?
リンク?
コスモス?

 なまらがぬぅ 
なきゃぁ わきゃぁぬぅ さばくり じゃがぁ
たむぃだむぃ がどぅ しま
しま がどぉ いぬち!
だ~ちぃ~?
きゃし しぃ?
はまろぉやぁ!
よ~りぃ よ~りぃ くゎ~
 きゅうだかぁ めぐみぬぅ あむぃ ながしぃ
しまぬゆぬぅ あむぃ がなしぃ
 
いちがりん
あむぃぬゆばぁ

またぁ をぅがみんしょうろぉゑ~



鎮魂譜180
137億61歳?の記憶と記録
2010/5/27(qi=木)旧4/
14

大型台風401号大接近!の共同声明!

いよいよ、
日米の台風(ハリケーン)401号(アマオキがなし)が「接近」した奄美・沖縄「地方」
今日、「上陸」だぜ!という日米共同の予報があった。

徳之島案を「県外移設」といえるのか?
この記事の東本高志氏が韓国の「天安号事件」情報にも投稿している。
ワンが展望してきた内容やサイトと重複はするが、読んでほしい。
この中の「もう沖縄は騙されない」、を検証してきたマキシーの本も読んでほしい。
アメリカのシナリオ通りなのだ。
昨今はこのような本やネットしか信用できない・

東本のサイトには、
アメリカの情報操作に追随しっぱなしの日本のマスメディアへのリンクもある。

朝鮮国も含めて東アジアの動向に目が離せないご時勢。
地球はみんなリンクしている。
明日は、名瀬小学校で「徳之島への米軍基地移設反対、奄美郡島民大会」

日米のキーワードは「北緯30度線」
奄美・沖縄にとっては「北緯27度線」
線引き、分断は植民地の象徴。
世界のキーワードは「グローバル=商品としてのモノ」ではない。
「ローカル(地域/しま/個人/故人)」「先住民族」「植民地」

=生物多様性(いのち総体としてのシマ島)=コスモス
しまぬゆ =自分世・・・



鎮魂譜179
137億61歳?の記憶と記録
2010/5/27(qi=木)旧4/
14

真相はいかに?



韓国の「チャムセサン」の記事を転載します。
リンクの和訳を読むとコトの深層が視えてくるようです。
日本のメディアでは伝わってきません。

^^^^^^^^^^^^^^^^^
安田です。

20日以後、チャムセサンに掲載された関連記事の和訳をレイバーネット日本のサ
イトに掲載しました。以下のURLの一覧で和訳が読めます。

http://www.labornetjp.org/search?Subject=nk&sort_on=created&sort_order=reverse

当初、金属疲労説、内部爆発説、魚雷説、機雷説、米原潜説、座礁説などがあり
ましたが、現在では公式の魚雷説以外は座礁説が残っている程度です。

韓国では、過去に何か不利な事故があった時(シルミ島事件や光州事件など)は、
必ず政府が「北朝鮮の仕業」と言ってきたこと、多くの「疑問死」と言われる事
件の数々、最近も竜山惨事などで政府が明らかな証拠を隠したり捏造したなどで
特に左派系は政府発表、特に「北朝鮮の仕業」と発表した時は、徹底的に疑います。
米国もこの手の謀略では国際的に有名なので、合同調査団に韓米以外の国や専門
家グループを加えたのは、そうした議論が出ることを予防するためだったので
しょう。

それでも問題は、「天安の沈没」、「北朝鮮製と思われる魚雷の残骸」、「北朝
鮮の潜水艦が当該海域で行動していた」という三つのファクトをつなぐ論理がな
く、「常識的に、当該海域で行動していた北朝鮮の潜水艦が魚雷で天安を沈めた
と考えられる」という結論を導いている部分です。その魚雷が北朝鮮製だったと
して、補足された潜水艦から発射されたのか、その魚雷が天安を沈めたのか、と
いう部分は立証されていません。
北朝鮮が「調査団を送る」と言っているのも、実際に北朝鮮の仕業なのかどうか
は別として、こうした因果関係を韓国は立証できないと考えているからだと思い
ます。個人的にも、常識的には関係ありそうな気もしますが、強力な制裁措置の
根拠にできるほど「決定的」とは言えないと思ってます。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^



上の記事にはでていませんが、
「天安沈没」 韓国系アメリカ人団体の公開質問状。
「米合衆国連邦政府、連邦上院議員らに送る公開質問状」全文、を以下転載します。

^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^

吉田です。

重要な資料なので転送します。

●「天安沈没」 韓国系アメリカ人団体の公開質問状
From: "y-Nagaya" <y-nagaya@m3.kcn.ne.jp>
To: AWC日本連 <awcjapan21@yahoo.co.jp>
Date: Wed, 26 May 2010 12:50:06 +0900
米政府の情報公開と、米原潜との衝突疑惑を追及する内容です

(韓国で5月22日ごろに報道されたものを日本語に訳しています)

**************************************************************

「米合衆国連邦政府、連邦上院議員らに送る公開質問状」全文

「人が生きる世の中-シアトル」(略称:サシモ)が
   米合衆国連邦政府、連邦上院議員に送る公開質問状

こんにちは。
 私たちサシモは米国、シアトルに居住する韓国出身米国人で
す。私たちは最近韓国であった海軍艦艇の沈没に対して大きい
衝撃を受けました。
 しかし韓国政府の主導で国際調査委員との共助によって発表
された調査結果は、色々な疑問点をきちんと解消してくれてい
ないと思います。いつ製造されたかも分からない魚雷一つだけ
を物証として提出し、北朝鮮の仕業と決めつけていることに対
して深く憂慮しないわけにはいきません。 これは韓国政府が
韓国民の安保不安心理を刺激して今回の地方選
挙に利用しようとしているものであり、ひいては韓半島の危機
を深化させる行為と考えるからです。
 ところで米国政府は、韓国に派遣した国際調査団活動を通じ
て、そしてホワイトハウスのスポークスマンを通じて、韓国政
府の発表を支持し、すでに上院軍事委員会でも同じような決議
案を採択しております。 これに対して私たちはより一層憂慮
しないわけにはいきません。 これは韓半島の平和を損ない、
韓国の民主主義を後退させることに米国が意図せずに関与する
行動だと考えるからです。 その上、私たちが抱いている天安
艦沈没の疑問点に対して、より一層信憑性を持たせる行動だっ
たと感じざるをえません。
 天安艦が沈没する当時、米国と韓国の海軍はキーリゾルブ合
同訓練中でした。 そしてその過程で天安艦は何らかの事故に
遭って沈没しました。 世界最強の軍事力と情報力を持ってい
る米軍が天安艦沈没の転末に対する情報が全くないだろうとは
私たちは決して考えることができません。
 よって私たちは次の通り質問するものです。

1. 天安艦の沈没と関連した、ほとんどすべての情報を掌握し
ているにもかかわらず米国が沈黙を守っている理由は何なのか
、むしろ真相を覆い隠すのに力を入れている韓国政府に同調し
ている理由は何なのか、責任ある回答をして下さい。 韓国軍
の戦時作戦権は米軍司令官が持っているので、より一層その責
任があるといえます。

2. 天安艦が沈没したあとの潜水捜索過程で、韓国海軍特殊潜
水隊(UDT,特殊戦旅団)のハン・ジュホ准尉が潜水中に失神した
後に亡くなりました。 ハン・ジュホ准尉が捜索をした地点は
船尾が発見された場所(第1ブイ)でも、船首が発見された場所(
第2ブイ)でもない、約6キロ離れた第1ブイと第2ブイの間に存
在する、天安艦と関係ない「第3のブイ」でした。そしてKBSテ
レビが4月7日報道したことによれば、その地点からある物体を
引き揚げて運んだのは、は米軍のシーホークヘリコプターでし
た。 まもなくその引き揚げされた物体は米イージス巡洋艦シ
ャイロー号に移されました。
 a. 引き揚げされたその物体は、天安艦沈没の原因を明らか
にすることができた物だったのですか?
 b. 日本から急に、大型上陸艦ハーパーズ・フェリー号まで
追加で該当地域に派遣されたのは、沈没の本当の原因を明らか
にしうる証拠物を管理するためだったのではなかったのですか?
 c. ハン・ジュホ韓国海軍准尉の葬儀室にキャサリン・スチ
ーブンス駐韓米大使とウォルター・シャープ韓米連合司令部司
令官、そして米特殊戦司令官のような最高位級の要人らがぞろ
ぞろ弔問に行って慰労金まで渡したのはどういう理由ですか?
 スチーブンス大使とシャープ司令官が前例にない最前方地域
のペクリョン島を直接訪問した理由は何ですか?

3. 今まで米軍の潜水艦は、何度も太平洋で船舶との衝突事故
があったし、今回の合同訓練にも原子力潜水艦が投入されたの
で、そのような可能性に対して憂慮せざるをえません。 とり
わけ今回の合同訓練に参加したといわれているバージニア級原
子力潜水艦であるハワイ号が事故後にドライドックで修理を受
けていたというのですが、今回の天安艦の沈没事故と果たして
無関係なのでしょうか?
4. 連邦政府の弔旗掲揚に関する規定によれば、米国各級官公
庁と海外公館の弔旗掲揚は現職大統領の指示によってのみ可能
です。
ところで米大使館は韓国政府よりさらに長いあいだ弔旗を掲
げていました。いったい米国がこのように長い期間、弔旗を掲
げねばならなかった本当の理由が何なのか疑問を禁じえません

過去の西海交戦で戦死した6人の葬儀期間にも米国が今のよ
うに弔旗を長く掲げなかったことを考えれば、今回のオバマ行
政府の弔旗掲揚は理解が出来ないのが実際のところです。

 上の質問事項に対する回答を期待します。
私たちは今回の天安艦沈没事件に対し米国政府が責任をもっ
て真剣に調査結果を発表し知らせることによって私たち皆が平
和的な世の中により一層近付くことができることになると信じます。

ありがとうございます。

^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^


鎮魂譜178
137億61歳?の記憶と記録
2010/5/26(miji=水)旧4/
13


訓練移転先「徳之島」と例示 
日米共同声明の概要判明
朝日新聞(5月26日)



今日の南海日日新聞、その他の全国紙の関連記事にも
ここまで突っ込んだ「徳之島へ移転」の表現は出ていない。
朝日のすっぱ抜きのようだ。


移設先として沖縄県名護市の「辺野古周辺」を明記し、ヘリコプター部隊の訓練移転先として、鹿児島県・徳之島を例示する。発表に先立ち、鳩山由紀夫首相とオバマ米大統領が電話協議して最終合意する。

徳之島をめぐっては、日米両国の外務・防衛当局者による実務者協議で、地元の3町長が反対を表明するなど反発が強いことを理由に、いったんは地名を書き込まない方向になっていた。しかし、首相自身が徳之島への訓練移転にこだわったことや、具体的な地名を明記すれば負担を沖縄県外に分散する姿勢を強調できることもあって日本側が強く要望。米側が最終的に受け入れた。

これによって、
ヘノコ(沖縄)&トクノシマ(奄美)の共同戦線が形成されることになる。
「奄沖連合」VS「日米同盟」との戦いの始まりだ。

401年間、
切られ続けて切られなかった「しまぬゆ」のつながり。
ここにきて世界に宣言するトキがきた。
非暴力による植民地解放の戦いを国連の場へ!

^^^^^^^^^^^^^^^^^


「日刊ゲンダイ」をのぞいてみた。
「普天間移設問題」について、今日現在これだけひろえた。
今日に至るまでの背景が透けて見える。
民主党首脳部よりの論調だが、さて明日からの記事が楽しみだ。
やはり、「ヤマト民主党」のカタをもつのだろう、か。



渡部恒三が普天間問題でまた余計な発言

鳩山首相は米国に媚びる必要ナシ

沖縄県と徳之島を激怒させた平野官房長官ついに更迭か

普天間移設問題 大メディアがまったく伝えない米国のホンネ

普天間移設問題 「鳩山VS.沖縄県民」をひたすら煽るテレビの無責任報道

普天間問題“思考停止”の大メディアに呆れる小沢幹事長のホンネ

やっぱり怪しい 米軍再編交付金

官房長官のメンツで潰れた鳩山とグアム・マリアナ両知事トップ会談


【普天間報道を疑え】第2回 2兆円も差し出す日本は占領地なのか

【普天間報道を疑え】第3回 「抑止力で沖縄に基地が必要」という真っ赤なウソ

【普天間報道を疑え】第4回 大新聞が垂れ流してきた「日米同盟の危機」は全くのデタラメだ

【普天間報道を疑え】第5回 だから沖縄から基地はなくならない

本当に沖縄県民は鳩山首相を辞めさせたいのか



鎮魂譜177
137億61歳?の記憶と記録
2010/5/25(tumachi=火)旧4/
12

天安艦事件に関する続報だりょん。
マスゴミによる虚偽(捏造)報道が続いている。

仕掛け人はまたしてもこりないアメリカか。
1898年(明治31年)、米西戦争(戦艦メイン号事件)以来のことだから。
いつもの常套手段?
情報操作(戦争)!
もう続かないだろう
化けの皮がはがれるのも時間の問題
内外ともににおもしろくなってきた。

一方、同盟国の日本は。

1609年、奄美・琉球侵略
1875年(明治8年)、江華島事件
1931年(昭和6年)、満州事変(柳条湖事件
1937年(昭和12年)、シナ事変(盧溝橋事件
2010年(平成22年)、奄美・沖縄への再侵略

いずこも同じ、覇権国家の謀略戦だ



鎮魂譜176
137億61歳?の記憶と記録
2010/5/23(tida=日)旧4/
1 0

またまたこんな情報が。
読でぃくりんしょうし
騙されしょんなよ~あったに


http://tanakanews.com/100507korea.htm
http://ameblo.jp/dewisukarno/entry-10537984956.html
http://www.awcjapan.org/index.html
そして、これっ!
http://tanakanews.com/100507korea.htm

深層と真相
それぞれの

ーーーーーーーーーーーー

日本のメディアはなぜふたをするのか?
韓国ではこれだけの団体が真相究明を求めているというのに。
「韓国運動圏」っち、知っちもんにゃ?
まるで2001年911の再来だ。
これも


^^^^^^^^^^^^^^^^^^
> ●韓国運動圏の声明 哨戒艦沈没事件について
>
> 日韓ネット@渡辺です。  *転載・転送歓迎
>
> 韓国軍の哨戒艦「天安」沈没をめぐり、5月20日、李明博
政権と韓国軍は「北の魚雷攻撃」とする調査結果を発表しまし
た。韓国の事実上の中間選挙である統一地方選挙の開始と、ヒ
ラリー・クリントンの日韓中などアジア歴訪に合わせ、またぞ
ろ「北風」世論作りによる緊張激化へ舵がきられました。
>
> 北朝鮮側は即座に関与を否定し、強く反論しています。
>
> 普天間問題で袋小路に入った鳩山首相も、この問題で「先頭
に立つ」などと言っています。「沖縄海兵隊の抑止力としての
必要をあらためて学んだ」というこの人が、この新たな朝鮮半
島の緊張を内心「歓迎」しているのだとしたら、許しがたいこ
とです。
>
> TVに出演しているコメテンターなども、韓国政府発表に何
の疑問も呈さず、寺島実郎にいたっては「ならず者国家にどう
対処するか」などとブッシュ張りのコメントを行っています(5/22
の読売TV「ウェークアップ!ぷらす」)。
>
> 今こそ、朝鮮半島の停戦=準戦時状態に終止符を打つ国際的
世論の喚起が必要ではないでしょうか。
>
> こうした中で、韓国の運動圏が5月20日、即座に記者会見
を開き、天安号沈没事件に対する韓国政府発表を厳しく批判し
ています。以下は、その韓国運動圏の連名による記者発表文で
す。
>
>
**************************************************************************************
>
> 【天安号沈没事件の調査結果と発表に対する記者会見文】
>
> 李明博政権による天安号沈没事件に対する調査結果を認める
ことはできない。
> 軍と李明博政権が20日、天安号沈没事件に対して「北の武
力攻撃による挑発」と規定する真相調査結果を発表した。
>
> われわれは、調査内容、調査過程と方向、調査主体など、あ
らゆる側面から調査の科学性と客観性、透明性と公正性を認め
ることはできない。以下の通り、われわれの立場を明らかにす
る。
>
> 第一に、われわれは軍が提示する「証拠」を信用することは
できない。
> 軍は、「一番」という文字が書かれた「魚雷のスクリュー」
破片を、事故の起こった海域で回収したことを決定的な証拠と
して挙げている。軍発表の事実関係に対する客観的な検証問題
を除外しても、事故海域で北の魚雷のスクリュー破片が発見さ
れたということが、そのまま北が魚雷で天安号を攻撃したとい
う決定的な証拠にはなりえない。なぜなら、それは北側の海域
からいくらでも潮の流れによって漂着しうるからだ。北の訓練
用軽魚雷が、南海と西海の潮の流れがぶつかる地点で回収され
たということは、その可能性を示している。激しく腐食した破
片の状態を見ても、それが今回の事故と関係しているとみるの
は難しい。こうした点から、軍内部でも慎重論が提起されたと
いう。
>
> 天安号の煙突と切断面、海底で発見されたという火薬痕と金
属破片も、事故海域が韓国軍の射撃訓練区域一帯という点から
、韓国軍や米軍のものではないということが立証されてこそ、
証拠の一つとして提示できる。火薬痕は天安号自体の砲煙の可
能性も検証されなければならない。しかし軍は、こうした課程
を経ていないという。
>
> こうした軍の調査内容は、厳正で科学的な調査とは距離があ
る。こうした点からわれわれは、客観性と科学性が担保されな
い調査内容を認めることはできない。
>
> 第二に、われわれは軍の調査過程と方向を信用できない。
> 軍は、天安号沈没事件の真相を明らかにしてくれる核心的で
基本的な資料さえ、まつたく公開しなかった。韓国海軍戦術指
揮搭載装置(KNTDS)のレーダー映像と裂傷感知装備(T
OD)の映像、事件発生前後の航跡記録と交信記録、天安号の
切断面、生存者の陳述書などが、まさにそれだ。こうした基礎
的な資料さえ公開しない不透明な調査結果発表を、われわれは
まったく信用できない。
>
> また、軍は当初から座礁や披露破損などの他の可能性を事実
上遮断したまま、ただ外部からの攻撃を立証することだけに没
頭した。また、提起される数多くの疑惑と問題提起に対して、
説得力ある答弁も反論もできないでいる。むしろ、問題提起す
る人らを告発し、口に轡(くつわ)をかませようとした。こう
した行為は、公正で客観的な調査に反するものだ。
>
> ところが、軍は「決定的証拠」と主張する魚雷のスクリュー
の破片が発見される前から、天安沈没の原因を北の攻撃と誘導
した。また、魚雷攻撃を受けた場所だと軍が示したガスタービ
ン室は、いまだ引き上げられてもいなかった。ところが、軍は
魚雷攻撃の可否を判断しうる核心的な船体部位に対する科学的
で慎重な調査を行いもせず、調査結果を急いで発表した。コン
ピューターのシミュレーションもこれを反映できなかったのは
もちろんだ。
>
> こうした点からわれわれは、軍が北の攻撃という結論をあら
かじめ下しておいて、それに合わせて調査を行ったと見なさざ
るをえない。したがってわれわれは、調査過程と方向において
客観性と公正性を欠如した軍の調査結果を信用できない。
>
> 第三に、われわれは調査対象者が調査を主導した結果を信用
できない。
> 軍は、事件発生の責任者であり、事件の隠蔽・歪曲の責任者
だ。甚だしくは船体に対する証拠隠滅疑惑まで提起されている
のが実情だ。
> 軍は調査の対象者だ。調査対象者が調査を主導することは、
調査の公正性を決定的に破壊する行為だ。調査対象者は、自身
の責任を最小化する方向に調査を進める可能性が高いためだ。
>
> こうした点からわれわれは、被告人が検事となってしまった
軍の調査結果をけっして認めることはできない。
>
> われわれは、軍と李明博政権が、国民がまったく信頼できな
い荒唐無稽な調査結果を発表したのは、各自の利害関係が作用
したものと見る。軍は、自身に向けられている国民の憤怒をそ
らして自身の責任を最小化し、李明博政権は「北風」を利用し
て選挙に有利な局面をつくろうとする意図から、拙速に発表し
たと見る。さらに李明博政権は、朝鮮半島の非核化と平和協定
締結による「反北守旧勢力」の既得権崩壊の危険を、天安号事
件を口実に阻もうとしている。
>
> われわれは、李明博政権が天安号事件を北の攻撃と断定した
ことによって、朝鮮半島に軍事的緊張が高まることを非常に憂
慮する。北はすでに李明博政権の調査結果発表を「でっち上げ
だ」と規定し、検問団を派遣するという立場を明らかにしなが
ら、「どんな制裁に対しても即時全面戦争を含めたさまざまな
強硬措置で対応するだろう」と警告している。
>
> また不十分な調査結果発表で国論が分裂し、国際的に自ら恥
をさらしはしないか気がかりだ。
> したがって、われわれは軍と李明博政権による今日の調査結
果発表を認めることができないという点をはっきりと明らかに
する。われわれは、天安号事件の真実を知りたいと願う国民と
同じように、ありのままの事実を知りたいと願う。
> われわれは、KNTDレーダー映像とTOD映像など核心的
な資料を公開し、国政調査を含め国民が信頼することのできる
主体による全面的再調査を要求する。
>
> われわれは、真実を願う国民とともに天安号事件の客観的で
、科学的な真相究明のために、われわれのすべての努力を尽く
すだろう。
>
> 2010年5月20日
>
> キリスト教社会宣教連帯会議、南北共同宣言実践連帯、労働
人権会館、露店労働連帯、農民薬局、民家協良心囚後援会、民
族民主烈士犠牲者追慕(記念)団体連帯会議、民族問題研究所
、民族自主統一中央協議会、民族和合運動連合、民主労働党、
民主労働者全国会議、民主化のための弁護士の集い(民弁)、
米軍問題研究委員会・統一委員会、民主化実践家族運動協議会
(民家協)、仏教平和連帯、四月革命会、開かれた平和フォー
ラム、イエスの暮らし、わが民族連邦制統一推進会議、利潤よ
り人間を、全国農民会総連盟(全農)、全国民主労働組合総連
盟(民主労総)、全国民主化運動遺家族協議会、全国民主化運
動遺家族協議会(社)、全国貧民連合、全国女性農民会総連合
、全国女性連帯、全泰壱につづく民主労働研究所、祖国統一汎
民族連合南側本部、平和と統一を開く人たち、平和在郷軍人会
、統一広場、韓国キリスト教教授協議会、韓国進歩連帯、韓国
青年連帯、韓国カトリック農民会、21世紀韓国大学生連合、
6・15青年学生連帯

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鎮魂譜176
137億61歳?の記憶と記録
2010/5/21(kani=金)旧4/
8


 100名規模の「訪問団」を組織(案)


☆ 

当欄、インターバル中だが、沖縄のドゥシからのメールを転送します。

1609
時節到来!?
鳩山連合政権とそれを支持した日本国民に逆感謝?
自公民路線ではこの流れは創れない

歴史的な潮目の波がひたひたと琉球弧の島々を

^^^^^^^^^^^^^^^^^^^


沖縄平和市民連絡会事務局さま、こんばんわ。
ベン@沖縄のタカラです。

1)普天間基地「県外・国外移設」への取り組み、ご苦労様です。
「5.23鳩山首相再来沖に対する緊急行動」の準備・呼びかけ
ありがとうございます。

2)5月17日(月)の夜、テレビの全国ニュースを見ていたら
「国民新党県連」の県議や市町村議員が徳之島へ行って、徳之島町長へ
「普天間移設」の一部を徳之島町に「協力要請」したことが報道されて
いました・

3)その件は、5月18日の沖縄タイムス、琉球新報にも報道されています。

4)私は、とても恥ずかしいと同時に、はらわたの煮えかえるような
「怒」を覚えました。

5)直ちに、「国民新党沖縄県連」や下地幹郎衆議員に対する
「抗議と糾弾」のアピールを、市町村議員、市町村長、県会議員、
市民・住民運動団体、学者・知識人、その他を含めて100人規模の
連署で出せないか、と考え友人・ドゥシ(同志)の与那原町議員、
西原町議員へ電話しました。

6)というのも、私(たち)は金武湾の反CTS闘争以来、新崎盛暉氏や
岡本恵徳氏等々と「琉球弧の住民運動を拡げる会」をやってきたし、
奄美群島合宿や奄美自由大学等々で何度も徳之島の皆様にお世話に
なっているからです。
また、昨年は「薩摩の琉球支配400年 琉球処分130年を問う会」で
共に、琉球弧の歴史的体験の共通部分と異質部分を検証するシンポジウム
を開き、議論してきたからです。
同時に、徳之島をはじめ奄美群島の皆さまが沖縄を「兄弟島」と呼び
沖縄県内で「徳州会」をはじめ奄美群島各島ジマの「郷友会」が活発に
活動していることを知っているからです。

さらに、私(たち)は4・25県民大会で、「琉球弧の自己決定権の樹立」
を訴え、「琉球弧(奄美・沖縄)の分断を許すな」というスローガンを
かかげてきたからです。

7)それに対して、「国民新党沖縄県連」や下地幹郎衆議員は、鳩山連合政権
やヤマト官僚どもの「手先・尖兵」となって、徳之島住民の大会決議を
踏みにじり、徳之島住民・分断・対立・混乱を持ち込もうとし、正に
「兄弟島」をヤマト政府に売り渡そうとしているのです。
なんという、おぞましい姿・行動。

8)このような、「国民新党沖縄県連」や下地幹郎衆議員に対する
「抗議と糾弾」のアピールは、西原町会議員の意見によれば、ますます
彼らの動きを有名にし全国的に注目させる結果しか生まない。
それよりも、「徳之島住民頑張れ、徳之島3町長頑張れ」の親善・激励・
交流団で訪問した方がいいのではないか」という「提案」を受けました。

9)そこで、私は昨晩与那原町の「居酒屋」で与那原町会議員の友人や
島尻ネットワークの有志と「意見交換」をやりました。

10)その結果、下記のような「徳之島訪問団(案)」について提案し、
議論・決定を御願い申し上げます。

*目的
徳之島住民大会への支持と激励を伝える。
徳之島3町長の「移設拒否」を支持し・激励・連帯する
鳩山連立政権の「辺野古と徳之島への移設」案を粉砕し
4・25県民大会の「国外・県外移設」の可能性へ前進する。

*主催
沖縄平和市民連絡会、県民会議等々による「実行委員会」

*参加者
・伊波宜野湾市長、稲嶺名護市長を始めとする市町村長
・「国外移設」を求める新里米吉、高嶺善信を始めとする県会議員
・平良さとこ、上江洲安昌、与那嶺義雄、知花昌一を始めとする
市町村議員団
・沖縄平和市民連、ヘリ基地反対協、普天間基地爆音訴訟団等を
始めとする、市民・住民運動団体代表
・新川明、川満信一、新崎盛暉、比屋根照夫、我部政明、仲里効、
高良 勉を始めとする学者・知識人の代表
・その他
で100名規模の「訪問団」を組織する。

*日時
徳之島と相談の上決める。(6月上旬か)

*日程
・3町長への訪問
・3町会議員との「懇談」と激励
・住民団体との交流。(浦島さん、補足説明を・・・)

11)以上の件を、沖縄平和市民連の「運営委員会」に提案します。
よろしく、ご検討の上「協議・決定・呼びかけ」を御願い申し上げます。

100520  ベン 拝




鎮魂譜175
137億61歳?の記憶と記録
2010/5/14(kani=金)旧4/
1

またぁ 拝みょうろぉ~!



あたかも国民の総意(?)のようなメジャーなメディア。
「フテンマ」や「ミンイ」などで大フィーバのようだ。
「抑止力」や「負担軽減」?
色あせたコトノハが資本の諸媒体にのって漂流している。
宗主国USAは、Coronial Yaponesiaの迷走ぶりをどう観ているのだろうか。

移設と在沖海兵隊の抑止力についての主張(Yahoo!ニュース)」
アメリカの高官たちの見解に耳をすまそう。
アメリカの本音、フテンマなんか目ではない。
死守したいのは、ドル箱Japからの「財源安保」だけ。
Japごときの平和と生命なんて考えたこともない。
Japだって、南島人ごときの平和と生命なんて考えたことはない。
War Is Business!

21世紀のアメリカ本国を防衛(?)するため、
米軍の新戦略は、自国アメリカ領(植民地)グアムを本拠地として、
アジア・太平洋からアフリカ東岸まで、地球上の半分の地域を攻撃しようとするものだ。

21世紀のオキナワは、
今やグアムがメインの補助基地として位置づけ(格下げ)されている。
ご当地グアムの住民(チャモロ族)だって反対している。
水道や電気の供給を米軍に盗られてしまうからだ。
コモンウエルスとしてのサイパン・テニアンなどの北マリアナ諸島は、
アメリカの自治連邦区(保護領)だから、お家の事情がグアムとは違う。
いわば、フィリピン海(ミクロネシア)と東シナ海(南西諸島)のコロネシアに
二股l膏薬を貼ろうというのが米軍再編の戦略なのだ。
有事の際の前線基地を2箇所、太平洋(フィリピン海と東シナ海)に、
ジパンゴたちのおいしい税金で。
ハワイは併合された米国の1州だから後方基地へと格上げ。
それがアメリカのシナリオだ。

いずれにしろ、日米の観光と基地によってシャブ漬けされた太平洋の島々。
日本の南島(琉球弧)と同じ、補助金による被依存経済ネシア。
自給率と就職率を上げてはいけない。
民族自決されるとヤバイからだ。
新植民地主義のマニュアルどおりである。



2001年、ポスト911。
米軍の世界戦略は見直された。
しかし、旧態依然、
世界のマフィアに法外な見か締め料を見継ぎ続けるシマがある。
世界でダントツに思いやりの深いジパンゴ島だ。
ジパンゴ島の深い思いやりは、戦争マフィアの抑止力のためではない。
シマの利権で食い続けるシマのボス(政官財学)たちのアガリのためである。



1492年。
欧羅巴の西班牙。
コロンブスが銃と十字架を両手に船出した。
黄金のシマ・ジパンゴを求めて。
あれから508年。
日本人 なに考えてんだか あきれてるあるよ 
アメリカンもアジアンも
アメラジアンもアマミアンだか



2,009年、政権交代。
日本のメディアは国内の政局絡みの情報操作に終始している。
ミンイとはなんだろう?
沖縄「県民」や徳之島「島民」の意見?
それとも、日本「国民」の合意?、

日本人の「ミンイ」の深層。
それは、政権を奪取した鳩山民主党が掲げていた、
「常駐なき日米安保」であり、そのための一手が
「普天間基地の沖縄県外か日本国外への移設」だったはず。

その公約が、口約となり、
自公民案、「沖縄県内」での基地拡充策へブーメランしようが、
どっか、「奄美・沖縄圏内」の島々に不時着しようが、
いずれにしろそこは、「サムライ日本」の「圏外」だ。
だって、その選択肢の方が都合がいいの、ほとんどの日本国民には。
それが「日本国民の民意」、「日本人の総意」なんだから。
24時間、大本営発表の野次馬報道が真相を物語っている。
21世紀のフテンマ・ヘノコ・トクノシマ・・・
ついこの間は南方の、レイテ、アッツ、イオートー・・・

なぜ、日本人は自分たちのためのアンポの質や功罪、
それ自体を選挙で争点としないのか?
政界もマスゴミも御用学会も。
だれのためのアンポ、思いやり血税、米国軍隊のプレゼンスか!
これもまたODA、ブーメラン化するJapの侵攻資金のためだからだ。
日本人がまず手をつけるべきは、アンポの事業仕分けだ!
奄美・沖縄の人権や環境のことを、
日米の援助交際費ほどにしか想像できない、思考停止民族といえる。



九州以北に住む日本列島民たちよ、
日本国資本のためのジャーナリズムに踊らされて総評論家ぶっているが、
ワンにはそれが平成の大政翼賛体制にしか見えない。
象徴天皇制を要石、
被征服民族・非日本人たちを国(皇)土防衛のための捨て石として。

あんたがたの「日米同盟」や「抑止力理論」なんて、
戦後、いや有史以来、1㎝も変わってはいない。
日本列島の先住民族たちを侵略し、南北に駆逐しながら、
身も心も「本土(大八州)防衛」のことだけだ。
日本人の総論は平和憲法?、
しかし、本土内への米軍基地には断固反対!?
なに、それ?

「日本人」の「民意」「合意」「総意」とは。
「南島人」「アイヌ」「ネイティヴ」、
その他、「社会的弱者」「非日本人」の基本的人権のことなど、もとより論外なのだ。

異国(人)である奄美・沖縄(南西諸島)圏からは、
ダーティヤマトがよく見える。
琉球弧の島々に大型台風が「上陸」しても、
日本国の本土人にはそれは「接近」でしかない。
地上戦、核持込、米軍再編・・・・・・
それらも本土外の異国でのことでしかない。



近世から近代。
ヤポネシア(日本帝国列島)は、北方と南方の領土を植民地として併合してきた。
吾々、南方にいる奄美・沖縄の先住民族たちは、
薩摩藩・鹿児島県・日本国から1609年以来、
「総論」の埒外で「各論」扱いされてきて、今の「しまぬゆ」で生きている。
島にゆかりの内外の島人たちとのつながりによって。

それにしても ここは おクニの コロ(ニアル)ネシア
401年
そろそろ
未来の「しまぬゆ連合」を!

▼ この「店頭より」 しばらく休みます
いつまで続くか閉店セール
夏ごろ
引越しはついに訪れる!?
念じながら・・・

(^ム^)

またぁ 拝みょうろぉ~
どぅくさ(元気) しぃ いもりんしょれよぉ~





鎮魂譜174
137億61歳?の記憶と記録
2010/5/7(kani=金)旧3/
23


5月7日02時 産経新聞
首相の「徳之島移転」 
根拠は1953年の奄美群島利用の覚書



今日、これからの首相官邸が注目の的。
徳之島・奄美・鹿児島県代表との会談が行われる。
鳩山総理が「徳之島」に着目したのは、
「沖縄本島に近い」という立地条件、
沖縄県外=鹿児島県内=徳之島
やまと・本土圏外=琉球圏徳之島
内外のジャパンポッポな発想だけではなかったみたい。
腹案?

奄美の復帰時に日米で交わされた非公式の交換文書がある。
昨年の11月、総理はこの存在を誰かに吹き込まれたのだ。
ワンが危ぶんだ「伝家の宝刀(密約)」だが、
恒久的に杞憂であればと念じてはいる。

しかし、なぜ、今日のこの日に、こんな裏情報を全国版でリークしたのか?
世論を情報操作している闇の軍団。
徳之島と辺野古陸上からの二段階論から、
最終的にはホワイトビーチ沖へ人工島統合案が控えている。
徳之島(奄美群島)と沖縄県の業界がこの案に釣られなければいいが。
しかし、選挙になると分からない。
魑魅魍魎の利権の世界。

PS:明日(5月15日)、
平野官房長官が徳之島の商工業者とまたしても鹿児島市で会談するという。
仕掛け人の上田義明や前田英忠などは昨夜のTVでも自信満面のほくそ笑みを浮かべていた。



「民意」など頭越しになんでもござれ、
「国家の宝刀」のおでましか?
会談後のノー天気な首相発言に背後霊が現出した
植民地主義者、日本人!&アメリカ合衆国人!
これを知らないではすまされない
納税と投票という義務と権利がある
諸島連合へ↓

やはり日本の安全保障
かが守らなきゃならない状況の中で・・・
(鳩山総理記者会見、2009年5月7日1830分)

「誰かが」?
南島にいる非日本人たちが?
「日本の安全保障」」を?
日本人のために?
///////をささげて?
はっげっ~
いつまでたっても
ヤマトとアメリカの植民地としてのアマミとオキナワ
占領統治時代のトカラ・アマミ・オキナワ
そして、それぞれの復帰と分断
1609年から現在進行形
これを機に南西諸島(琉球弧)相互のDNAとビジョンの再連合を!
隔ての海を結びの海へ!

^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^

普天間問題 
首相「徳之島」固執の根拠 
防衛利用で覚書 返還時

普天間問題 首相「徳之島」固執の根拠 防衛利用で覚書 返還時
拡大写真
普天間飛行場と徳之島の位置関係(写真:産経新聞)
 米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾(ぎのわん)市)移設問題で、鳩山由紀夫首相がぎりぎりまで徳之島への海兵隊移転にこだわった背景には、日米両政府が昭和28(1953)年にかわした覚書の存在があった。これは、鹿児島県の奄美群島を利用した防衛協力に関するもので、首相はこれを盾にして、徳之島移転を米側に要求する方針だったとみられる。

 徳之島を含む奄美群島は戦後、米国に統治されていたが、同年12月に「奄美群島に関する日本国と米国との間の協定」が締結され、日本側に返還された。

 しかし、協定とは別に当時のジョン・M・アリソン米特命全権大使は同月24日、岡崎勝男外相にあてた覚書で「奄美群島とその領水は、極東の防衛および安全と特異の関係を有する」として、南西諸島その他の島の防衛強化のため、「米国が必要と認める要求を考慮してもらいたい」と日本側に要請していた。これに対し、岡崎外相は、要請を了解する覚書を即日返信した。首相周辺は「協定の裏で結ばれた覚書で、米側は奄美群島での基地建設を想定していた。普天間の移転先が沖縄でなければならないというのは理解できない」と話していた。

 鳩山首相は移転先選定過程で(1)滑走路や港がある(2)米海兵隊の「即応力」を保つため沖縄から遠くない場所-を想定。昨年11月に、この覚書の存在を知り、徳之島移転案に固執するようになったという。

 米側はヘリ部隊と地上部隊が、約200キロ離れた沖縄本島と徳之島に分散されるため難色を示していた。だが、覚書は米側から提案されたものであるため、首相は徳之島に移転しても運用可能と考えていたようだ。(尾崎良樹)

 ■奄美群島に関する日米外相級の「覚書」

 【ジョン・M・アリソン米国特命全権大使からの書簡】

 (訳)奄美群島およびその領水は、日本本土と南西諸島のその他の島における米国の軍事施設との双方に近接しているため、極東の防衛および安全と特異の関係を有する。日本国政府は、この特異の関係を認め、南西諸島のその他の島の防衛を保全し、強化し、および容易にするため米国が必要と認める要求を考慮に入れるものと了解される。

 1953年12月24日

 ジョン・M・アリソン

 日本国外務大臣 岡崎勝男閣下

 【岡崎勝男外相からの返信】

(訳)本大臣は、更に閣下が述べられたことを記録にとどめ、且つ、前記に掲げる了解が日本国政府の了解でもあることを閣下に対し、通報する光栄を有する。

 1953年12月24日

 外務大臣 岡崎勝男

 日本国駐在アメリカ合衆国特命全権大使 ジョン・M・アリソン閣下

記憶と記録は過ぎ去った出来事に関する私的な知識ではない。

記憶や記録を語ることは過去をめぐる現在の解釈であり、
現在の吾々のたち位置を決定する行為である。

それは、未来の行動指針を編み上げる社会的な行為へとつなぐことができる。

グアムと日本人 戦争を埋立てた楽園』

山口 誠著(岩波新書、2007年)からワンなりのもじり。



鎮魂譜173
137億61歳?の記憶と記録
2010/5/5(miji=水)旧3/
21



昨夜は松原隆一郎さんのご家族(3人)に呼ばれて「かずみ」で呑む(5人)
阿佐ヶ谷の「吐夢」やネパールの「ポカラ」などをサカナに、踊りまで
二次会は、「やどりっくゎ(旧いずみ)」で田町さん、松原さんと3人
深夜まで
蝶のように舞い、蜂のように刺す、柔軟な格闘家だ
最近、アマミ、カケロマにはまりつつ



きのうは鳩山首相が墓穴を掘りにオキナワ入り
あさっては、トクノシマ3町長と奄美・鹿児島の関係者が首相官邸へ

ワンの議論はひとつ。
オキナワとアマミの島々の人意はNO!
日本国の民意はYES!か?
おふこーす!?
ならば しまは クニから た(断裁絶截発起建立)とう!

アマオキ自由連合政府の下敷き

琉球政府の旗

それ以前の琉球国の日章旗
(日の丸のルーツ)



鎮魂譜172
137億61歳?の記憶と記録
2010/5/4(uachi=火)旧3/
21



水と緑に風薫る未来の大人たちの季節
きのうは、「憲法記念日」
今日、「みどりの日」
あすは、「こどもの日」
非武装中立!
世界一立派な日本国の憲法
琉球列島
それぞれのしまんちゅたちがあくがれの彼岸へとソコクへの復帰を果たした
「みどりこ」たちの未来は保障されているか
今、また、さらに
JapとYankeeのイクサ世のアラシ
リーフを超えてひたひたと
蟻の一穴
米国製の軍事均衡と欲始力
神は死んだ
キリスト教は邪教で奴隷の道徳だ!(ニーチェ)
いや、どっこい、かみガミは偏在している
ア(マ)ミニズム
はキョラ(清ら)ジマの精なるマブリ(魂だ!(しまんちゅ)
しゃーまん
ゆた





奄美新聞(5/4)

先人の気概継ぎ「断固反対」アピール
徳之島町亀徳
秋徳湊の戦い401年記念事業「官邸に民意伝える」


  【徳之島】薩摩軍による1609(慶長14)年の琉球侵攻の際、徳之島島民との水際攻防の激戦地となった「秋徳湊の戦い」の401年記念事業が3日夕、徳之島亀徳の秋津神社であった。徳之島、、伊仙町長や住民有志など約80人が参加。約300人とされる戦没者を哀悼しながら先人の気概をしのび、徳之島への米軍基地移設に断固反対していくことをアピールした。

  昨年の「薩摩藩による奄美・沖縄進行400年記念事業」で歴史的背景などを検証、世界自然遺産登録や農業振興に新たな一歩を踏み出した中で、米軍普天間飛行場の移設問題が浮上。住民有志らが「先祖たちが島を守るために命がけで戦ったことを忘れず、未来の子どもたちに豊かな自然と平和を残そう」と401年記念の集いを呼びかけた。
(略)
  続いて徳之島町文化財保護審議会の町田進委員長、元伊仙町同委員長の穂積重信さんらがあいさつ。基地移設は「島の自然や伝統文化、人々の絆も失われてしまう。(藩政時代の一揆)母間騒動や犬田部騒動などに次ぐ有史以来の危機として一致団結していこう」と呼びかけた。

  「先祖が血の汗と涙を流して耕し興した土地と平和を子々孫々に連綿と継続することを誓う」などとするアピール文を朗読。基地移設に反対し徳の島の自然と平和を守るための『がんばろう』三唱で決意し合った。





鎮魂譜171
137億61歳?の記憶と記録
2010/4/30(kani=金)旧3/
17

5月15日は沖縄の「日本復帰」、それから38年。
韓国・グアム・アイヌからのゲストも参加して、「5・15を問う沖縄行動」がある。

日本国本土民たちとのこの温度差はどこからきているのだろうか?
たとえば、1609年に侵略された琉球弧の植民地問題。
それこそが現在、それぞれの琉球弧問題を規定している最大の原因である。
そのことを深く自覚している地域と、
そんなこととは無縁のところで日本人の歴史と現在は進行している、
と思い込んだり、見て見ぬふりをしている地域との歴史認識の差である。

吾々奄美は、それを薩摩・鹿児島県と向き合う日常のくらしから確信している。
韓国も、グアムも、アイヌも同じ位相でそれぞれの地域から問うている。


■韓国併合100年・安保改定50年・「日本復帰」38年を問う沖縄集会
――普天間基地即時閉鎖と「琉球弧内移設」を阻止しよう!――
――琉球・アイヌ・太平洋諸民族の自決権を獲得しよう!――

日 時:2010 年 5月14日(金)午後6:00~9:00
場 所:浦添市社会福祉センター3Fホール
発 言:韓国・グアムからのゲスト
   アイヌ:川村シンリツ・エオリパック・アイヌ、浦川治造、星野工
   沖縄:仲里 効、金城 實、ダグラス・ラミス、他
コンサート:海勢頭 豊、まよなか しんや、他
参加費:1000 円
主 催:5・15を問う沖縄行動実行委員会
協 賛:アジアから基地をなくそう!国際連帯集会実行委員会
よびかけ人:金城 實/平良 修/島田善次/黒島善市/平良研一/上里和美/石原昌家/知花昌一/上江洲安昌/まよなか しんや/金城あゆみ/高良 勉/渡名喜守太/川村シンリツ・エオリパック・アイヌ/太田武二/高橋道郎/佐藤秋男/吉田宗弘/大盛 力/山口 優/村山友子/真喜志好一/大村 博/安仁屋真孝/海勢頭 豊/西尾市郎/崎原盛秀/比嘉康文/高里鈴代/豊見山雅裕/平良識子/浦島悦子/ダグラス・ラミス/大田次郎

【呼びかけ文】
我ったぁは今、5・15をどのような思いで迎えるのであろうか。
38年前の「復帰」の内実は返還費用の米国負担を日本が肩がわりする「密約」であり、核つき基地の固定化であり、「本土並み」と称する自衛隊とヤマト資本の上陸であり、まさに日本国による「琉球再併合」であった。そして辺野古陸上と勝連沖と徳之島等の「琉球弧内移設」押し付けは現代の「琉球処分」である。
401年前の薩摩侵略、明治の琉球処分、そして沖縄戦から続く在沖米軍基地と自衛隊基地の強化の現実(加害と被害)は我ったぁ沖縄・琉球人にとってはにじていんにじららん。
一昨年10月30日、国連人権委員会の「琉球民族もアイヌ民族同様、日本の先住民族として文化芸能だけではなく土地の権利も認められるべきである」との歴史的勧告を日本政府は無視しているが、沖縄県そして我ったぁ沖縄・琉球人自身はどのような思いで受け止めているのであろうか。
今こそ、日本の天皇を頂点とする「ヤマト単一民族戦争国家」化の動きを阻止し、日本列島に生きる大和民族・アイヌ民族・琉球民族・在日朝鮮民族らが日本国民として対等に共生し、アジア太平洋の人々から信頼され、米国に従属しない日本の真の独立と沖縄(琉球)の自立を実現するためにも、米軍の「思いやり予算」を止め、日米安保条約を破棄するためにも、反戦・反基地・改憲阻止の闘いに琉球民族とアイヌ民族の自決権確立の闘いが合流する時である。
さらに、かつてヤマト(日本)に侵略された国々の人々が連帯し、基地も戦争も差別も自然破壊もない21世紀の非武装平和のアジア太平洋地域を創造するために自分のことは自分で決める自決権確立をめざす集会(シンポ&コンサート)を開催しようではありませんか。
【連絡先】 080-1768-4823(5・15を問う沖縄行動)   098-886-5050(金城・大田)
FAX 098-876-1352(アイヌ民族と連帯する沖縄の会)
   -------------------------------------------------------
●5・15を問う国際通り道じゅねー
日時:5 月15 日(土)AM11:00~12:00(牧志⇒県庁)
前段集会(牧志公園 AM10:30~11:00)

――――――――――――――――――
【5月沖縄行動スケジュール】

《5月14日(金)》
○浦添新軍港建設予定地フィールドワーク
  午後1時~1時30分(主催/軍港反対!浦添行動委)
○軍港反対!キャンプキンザー包囲デモ(国立劇場→泉公園)
  午後2時30分~4時30分(主催/軍港反対!浦添行動委)
○「日本復帰」38年を問う5・14沖縄集会
  午後6時~9時30分・浦添市社会福祉センター3Fホール
  (主催/5・15を問う沖縄行動実行委員会)

《5月15日(土)》
○5・15 を問う国際通り道ジュネー(主催/5・15を問う沖縄行動)
  午前11時~12時  牧志公園→沖縄県庁
  前段集会:牧志公園、午前10時30分
○生命と暮らしを守る県民大会(平和運動センター)
  午後3時~5時・宜野湾海浜公園野外ステージ
○アジアから基地をなくそう!国際連帯集会
  午後6時~9時・宜野湾市民会館大ホール

《5月16 日(日)》
○南と北を結ぶイチャルパ(主催:アイヌ民族と連帯する沖縄の会)
午前9時~11時・糸満市真栄平区「南北の塔」前広場
○普天間基地包囲行動・午後2時~4時

問合せ: 080-1768-4823(5・15を問う沖縄行動)   098-886-5050(金城・大田)




鎮魂譜170
137億61歳?の記憶と記録
2010/4/29(qi=木)旧3/
16



『米軍のグアム統合計画
沖縄の海兵隊はグアムへ行く』
(吉田健正著/高文研/2010、2、20発行)




なんだそういうことか。
普天間の移設先をめぐって、日本人はこれを政局の問題にばかりしている。
が、はたしてそれだけでことはすむのか?
陰でほくそ笑んでるアメリカのねらいは?
太平洋諸島の基地植民地化であり、
そのベスト3がオキナワ&グアム&テニアンだ。


★ 着々と進むグアム基地移転計画

 
 グアムの基地移設計画は、在沖海兵隊の全員移動に対応するために準備されている可能性が高い

 一体、これはどうなっているのか。すでに見た「日米同盟:未来のための変革と再編」合意と日本政府が海兵隊グアム移転を財政負担するというこの「ロードマップ」を付き合わせると、グアムにおける米軍再編・基地整備計画は、ブッシュ大統領と小泉政権が日米同盟の強化のために仕組んだ合同計画ではないかと思えてくる。グアム基地が完成すれば、自衛隊はそこで米軍と共同訓練ができるし、米国は住民の反対という「火種」を抱えて外交問題化しかねない沖縄とは別の太平洋の要所に訓練・前方展開拠点がもてるからだ。

 米軍は、東アジアにもっとも近く、すでにアンダーセン空軍基地や巨大な海軍施設が存在する米領グアムを海兵隊基地として整備する一方で、日本の一部である沖縄を海兵隊基地として保持し続けるーーそう考えているのではないか。このように基地を分散化すれば、海兵隊は沖縄とグアムにまたがって陸上・海上・沿岸・上空の訓練・演習を行うことができるし、また一方で軍事的、政治的問題が生じたり、軍用機墜落などの事故が起きたりすれば、一時的に他方に移転して、米国の米本土安全保障戦略および東アジア安全保障戦略を維持することが可能になるからだ(73ページ)。

要するに、アメリカの植民地グアムと、日本の植民地(北緯30度線以南の)南西諸島、
それぞれの植民地に米国の海兵隊と日本の自衛隊との訓練・前方展開拠点を建設しようというアメリカの戦略なのだ。

 
 在沖海兵隊は、すでに沖縄だけでなく、グアムやその近海に出かけて訓練しているという実績もある。日本、中国、北朝鮮の対米関係の変化により、在沖海兵隊が危険にさらされ、あるいは撤去を迫られれば、米領グアムが軍事機能を代行できる。逆に、グアムが自然災害や軍事的脅威に襲われれば、沖縄が代行機能を果たせる。グアムは猛烈な台風に襲われることがあり、ベトナム戦争時にはB52爆撃機が一時、嘉手納空軍基地に移ったこともあった。在沖海兵隊のグアムには日本政府が巨額の資金を提供することになっている。いずれは、沖縄から撤去を余儀なくされる日に備えて、戦略的要衝にある自国の属領に、他国の資金で安定的な軍事基地をつくることができるわけである。




アメリカが徳之島への分散案をかたくなに拒みつづけ、
あくまで沖縄県内(の辺野古)での基地建設にこだわる理由もこの辺にありそうだ。
徳之島の現状では島民に歓迎されず、海兵隊たちへの娯楽施設などもおぼつかない。

>いずれは、沖縄から撤去を余儀なくされる日に備えて、戦略的要衝にある自国の属領に、他国の資金で安定的な軍事基地をつくることができるわけである。

ここで、南西諸島の吾々被植民地人たちは一致団結しなければいけない。
日本国政府へ米軍基地は断固否!を突き付けること。
そこから、地位協定とともに日米の安全保障条約を俎上にのせること。
そして、グアムで基地拡張に反対しているチャモロ人たちやハワイ人たちと連帯して、
アメリカをアジア・太平洋諸島から米本国へもどらせるアジア・太平洋の運動を起こすこと。

日米のシナリオが見える。
そのシナリオを深く読み解き、
こちらのシナリオを提案しようではないか。




鎮魂譜170
137億61歳?の記憶と記録
2010/4/25(tida=日)旧3/
12


3月7日の慰霊祭



1997年から続けている旧暦3月7日の慰霊の集い。
笠利町・津代、401年目の戦跡地。
今日、午後から静かにとりおこなった。
例年のように少人数。
分かりにくい入り口。
でも、
部落の老人クラブが案内板を一箇所だけ設置してくれていた。
去年2009年の催し(100人)の波?
すこしかわった。

埋葬されている遺骨群の敷地の上に、
サンゴのナバ石を敷き詰め、
酒と線香などあげれるように5箇所、整地した。
手花部(てぃーぶ)集落の人たちが今後フォローしてくれるという。

鹿児島県知事への公開質問状は現在、折衝中。
やはり、逃げ。

その後、「歌掛け保存会」の催しへ。
笠利町、土盛(ともり)の浜で。
ワンのおっかんのシマ。
昔は草競馬などもあったと聞いている。
アダンと白浜での八月踊りは、総勢、4~50人くらい。
太古の時間が泳いでいた。
すがすがしい春三月のシマの浜うり(降れ)に感嘆。
リーフの向こうには喜界島の台形がくっきりと浮かんでいた。
ひょっこりひょうたんじま?



今日の沖縄の県民大会、9万人以上が参加とか。
帰りのラジオで聞く。
テレビでは井上ひさしの追悼番組が。
彼のテーマは、戦争と平和。
生と死と笑い。
笑いで1グラムでも悲しみが軽くなれば、
ふつうのひとびとの。

ワンもあきらめないでふつうにつないでいく、か。
できれば笑いながら。



鎮魂譜169
137億61歳?の記憶と記録
2010/4/23(kani=金) 旧3/
10



ハトヤマ火の元首相が昨夜、記者会見
「普天間の移設先は火星に決定!と電撃発表」
ゆくしぐとぅニュース(2010/4/21)




沖縄FMに「ゆくし(うそ)ちゅく(作)やのニュース23(たーちみーち)」がある。
4/6のニュースは、最近の自民党の離党・新党ブームをやゆって、
「じにん党の結成」,
「りとうフェアの開催」

(^ム^)

これをもじって、「ゆくしぐとぅニュース」が登場した。


 今日(ちゅー)最初ぬニュースや、普天間基地ぬ「移設」問題やいびーん。まーんかい「移設」すーがんでいち大騒動(うふそーどー)しち、とぅぬまーぬーそーたぬ鳩山首相やいびたーしが、昨日(ちぬー)ぬ夜(ゆる)、首相官邸うとーてぃ、鳩山首相どぅーくる記者会見しち、「移設先や火星んかい決定しちゃん」でぃ発表さーびたん。


「ゆくしぐとぅニュース」ぬ全文や、くま
さすがじゃやぁ、俊がなしブログ→「海鳴りの島から」

(^ム^)

^^^^^^^^^^^^^^^^^
また、同じく沖縄の友人、
高良勉ちゃんからは、某MLにこんなメールが今日届いた。


◆私(たち)は4・25県民大会の成功へ向けた
「琉球弧の自己決定権の樹立へ」有志連合(ハブの会)を立ち上げました。
準備は、着々と進んでいます。

私たちのスローガンは

ナラン!日米の軍事植民地  
琉球弧(奄美・沖縄)の分断をゆるすな! 
沖縄への構造的差別をゆるすな! 
米軍基地はヤマトへ! 
日本軍・自衛隊は沖縄からゴーホーム!


沖縄でも、ハブとハトが・・・

^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
さらに、酒井正子さんも別のMLにきのう。

 
酒井正子@八王子です。
本日届いた4月19日付け南海日日新聞をみました。
思い思いに作られたプラカードが、文字通り草の根からの
手作りの集会であることを雄弁に物語っています。
(これは全国版ニュースでも真っ先に伝わりました)。
「”基地移設に反対だからプラカードを逆さまにして”の
声に笑顔を見せる子どもたち」の写真があります
(反対に掲げて見せています)。
オジイ、オバアたちにこんな苦労をまたさせるなんて・・・。
安全保障の問題を日本全体で考えるようにせよ、という
沖縄からの問題提起を、徳之島移設に矮小化してしまっては、
何の解決にもならないではないか、とあらためて思います。
1月末以来、私も「大きな時代の変わり目に琉球弧がざわめく」
という島尾敏雄のメッセージを度々思い起こしていました。
昨年の400年記念行事を念頭に、この数年来様々な運動が
なされてきたのが、今日につながっているのでしょう。
あらためて、この大会が島の輝かしい未来への第一歩になるように
と願わずにはいられません。
それでは。




琉球弧がまたざわめいている。
日本列島弧(国・人)のなにが変わり、
琉球弧(島、ちゅう)のなにが変わらないのか
いままた潮目がやってきた。
1609 、かえ(帰還返換代替孵化)ドキのいま
ビッグウエーブがやってきた。

奄美・沖縄自由連合
天の時?
「日米アンポ」&「1609」!

地球島に存在する日本列島国という本土民たち。
自分たちの暮らしの安心・安全の条件として
マジ、なにを考えているのだろうか?
実は、なんにも考えてなんかいない。
だから、いたくもかゆくもない。
冷戦後は、北朝鮮と中国が仮想敵国?
彼らが日本国を攻めるとでも?
ありえない!

でもホントはどうでもいいのよそんなこと。
戦争でくってるアメリカのためなら。
オキナワ?トクノシマ?
日本国とは関係ないじゃん
サンゴ礁?いやしのしま?
グアム?ハワイ?
アンポ?軍事?
関係ないじゃん
という1億総評論家たちばかりの中の
あなた

内外のマスコミやネットなどのメディアを見る限り、
アンポなど争点とはしていない。
キチ問題の解決策はアンポの見直ししかない、というのに。
象徴天皇制と同じく自明の理になっている。
彼らこそ日本国立動物園で飼育されているようにみえる。

きゃんならん!
(どもならん!How Can We Do!)

もう、そろそろカエろ(よ)うよ
いまがカエどき。
どこへ?
未来の「しまぬゆ」へ
未来の「自分ゆ」へ
未来の「かってゆ」へ

さらに言えば、
「しまぬゆ」というアイデンティティ。
これも、一元的に閉ざされた
「シマ社会、島世界、島宇宙」という観念とともに、
そこからさらに自由なモノノケたちが
つながり、形成している、
コスモロジーとしての「しま宇宙」!
シマ島の時空の彼方へ・・・
吾々自身で等身大の創世親話を・・・

・・・つけすぎ?

(^ム^)



鎮魂譜168
137億61歳?の記憶と記録
2010/4/18(tida=日) 旧3/
5



とぅじがなしのおっかんの容態が悪くなり行けなかったが、
徳之島401年の怨念が大噴火した。
アキツの「戦い」、ボマ「騒動」、インタブ「一揆」、
そして今日、カメツ新漁港で1万5千人。

徳之島からの大噴煙は、奄美・沖縄から日本本土民へ届けた怒りの烽火。
日本の国民がこれをどう受け止めるか、吾々はそれを注視していく。
ルーピン・ハトヤマにではない。
本土の安全地帯、お茶の間や酒場で評論家するだけのアナタ!にだ。
徳之島も、辺野古も、普天間もなくなった。
さぁ、ぜひ、アナタの家の裏庭へ!
基地やダム、原発や産廃、必要とするアナタの家の裏庭へ!
1億%、総NO?
基地依存のミサワならOK?
でも、海兵隊だけはNO?
国内はどこもだめ?
国外(にある太平洋の植民地)ならOK?
とりあえずは、また半世紀、国内植民地で?
お願い?
侵攻カイハツ?

あんた アンポの なんなのさ!



1996年、普天間撤去(移設ではなかった)の日米協定が沖縄県民の頭越しに結ばれた。
その年、日本国の市民グループが、
日米安保条約を終了し、日米平和友好条約を締約するための試案を提案した。
ここに記して、今後の日米関係のあり方を共に考えたい。
この提案の内容については、最後にある注釈や発表趣旨などを参考にされたし。

日本国の憲法を含めて、こういうことを日本の国民が真剣に議論しない限り、
アマミ・オキナワはいつまでも日本人のための動物園や水族館だ。
日本の政党やマスコミ、無党派層とやら、
自分たちが戦前と同じように植民地主義のヤマト帝国(天皇組)、
その立派な構成員であることを少しは自覚したほうがいい。

暖簾に腕押しか。
これも当世しまぬゆでのワンの楽しい死練とするか。



日本国とアメリカ合州国との間の平和友好条約

Treaty of Peace and Friendship Between Japan and the United States of America

 

[前文]
 日本国及びアメリカ合州国は、
 日本国市民およびアメリカ合州国市民の総意に基づき、
 日本国憲法及びアメリカ合州国憲法の理念に立脚し、
 第二次世界大戦後の長期にわたる対立に満ちた国際関係の歴史を再び繰り返してはならないという国際社会の認識を共有し、
 国際連合憲章の諸原則が国際関係及び日米関係において遵守されるべきことを確認し、
 民主主義が各国の政治制度の基調となりつつあることを歓迎するとともに、国際関係を規律する原則としてひろく受入れられるべきであると認め、
 国際社会が多くの課題に直面していることを厳粛に受け止め、
 日米両国及び両国民が以上の国際的原則の尊重及び諸課題の解決に重要な責任を負っていることを自覚しつつ、
 両国間の平和友好関係を新たな基盤の上に発展させるため、
 平和友好条約を締結することを決定し、このため、次のとおりそれぞれ全権委員を任命した。

 日本国     ○○○○
 アメリカ合州国 ○○○○

 これらの全権委員は、互いにその全権委任状を示し、それが良好妥当であると認められた後、次のとおり協定した。


 Japan and the United States of America,
 Acting in accordance with the general will of the citizens of the two countries,
 Based upon the ideas of their Constitutions,
 Sharing the views of in the international society that the history of long-lasting antagonism after the Second World War should never be repeated in the international relations,
 Confirming that the principles of the Charter of the United Nations should be fully abided by in international relations in general and in the relationship between Japan and the United States in particular,
 Noting with pleasure that the idea of democracy has increasingly been accepted as the basic principle of political systems in many countries, and determined that it should be widely accepted as a fundamental rule to regulate the international relations,
 Recognizing seriously that the international society is still facing many problems,
 Realizing the important responsibilities both the two citizens and the two countries assume in respecting above-mentioned international principles and solving those problems,
 In order to develop the relationship of peace and friendship between the two countries on a fresh basis,
 Have resolved to conclude a treaty of peace and friendship and for that purpose have appointed as their plenipotentiaries:

 Japan:
  **********

 The United States of America:
  ***********

 Who, having communicated to each other their full powers found to be in good and due form, have agreed upon the following articles:

 

第1条

  1.  両締約国は、主権及び領土保全の相互尊重、相互不可侵、平等及び互恵並びに平和的共存の基礎の上に、民主主義及び基本的人権の尊重に基づく平和友好関係を発展させる。
  2.  両締約国は、前記及び国際連合憲章の諸原則に基づき、相互の関係及び国際関係におけるすべての紛争および問題を平和的手段により解決するため最大限の努力を行なうことを誓約する。
  3.  前記の目標を実現するため、日本国とアメリカ合州国との間の相互協力及び安全保障条約は、この条約が発効する日に終了する。

 Article I

  1.  The contracting parties shall develop relations of perpetual peace and friendship between the two countries on the basis of the principles of mutual respect for sovereignty and territorial integrity, mutual nonaggression, noninterference in each other's internal affairs, equality and mutual benefit, peaceful coexistence, democracy and respect for the fundamental human rights.
  2.  The contracting parties pledge that, in conformity with the foregoing principles and the principles of the Charter of the United Nations, they shall in their mutual relations and in the international relations do their best in order to settle all disputes and problems by peaceful means.
  3.  The Treaty of Mutual Cooperation and Security Between Japan and the United States of America signed at the city of Washington on January 19, 1960, shall expire upon the entering into force of this Treaty.

 

第2条

  1.  両締約国は、アジア・太平洋地域その他いずれの地域においても覇権を求める意図はなく、また、覇権を確立しようとする他のいかなる国による試みにも反対する。
  2.  両締約国は、国際紛争の多くは、経済的、社会的、文化的、歴史的その他様々な 原因に基づいて起こることを直視し、これら の紛争が軍事的衝突を引き起こす前に解決されることが重要と認める。
     そのため両締約国は、これらの紛争の平和的解決及びその解決に伴う復興のための国際的努力に積極的に貢献することを約束する。

  Article II

  1.  The contracting parties shall not seek hegemony in the Asia-Pacific region or in any other region and each shall be opposed to efforts by any other country or group of countries to establish such hegemony.
  2.  The contracting parties, facing squarely the reality that most international disputes have resulted from economic, social, cultural, historical, and other various factors, recognize that it is vitally important to solve such disputes before they lead to military confrontation.
     The contracting parties, for these purposes, promise that they shall actively contribute to the international efforts for the peaceful solution of these disputes and for the work of restoration accompanied by them.

 

第3条

  1.  両締約国は、国際的相互依存の深まりの中で、国家間の民主的な関係の発展及び国際の平和及び安全の真の確立のために、日米両国が重大な責任を負っていることを認識し、両国間の経済関係を両国国民を含む国際社会全体の福祉に合致するよう規律することを約束する。
  2.  両締約国は、国際経済関係の健全な発展にとって、先進諸国と途上諸国との間の経済関係が今後ますます重要性を増すことを認識する。
     そのため両締約国は、国際貿易機関、国際通貨基金、国際復興開発銀行など世界銀行グループ、国際連合の関係機関をはじめとする国際的取組みの根本的検討を含む一層の改善が緊要であると認め、そのための国際的な努力にそれぞれの立場から積極的に貢献する。

  Article III

  1.  The contracting parties, recognizing that the two countries bear an important responsibilities to develop democratic relations and to establish international peace and security in the midst of increasing international mutual dependence, promise that they regulate their economic relations in accordance with the welfare of the whole international society including the peoples of the two countries.
  2.  The contracting parties recognize that the economic relations between advanced countries and developing ones will be more and more important for the sound development of the international economic relations.
     From this standpoint, the contracting parties take cognizance of urgent necessity to reform the systems such as their fundamental reexamination, of existing international institutions including the World Trade Organization, the International Monetary Fund, the World Bank Group including the International Bank for Reconstruction and Development, as well as the related institutions of the United Nations, and shall positively contribute to international efforts toward this end from their respective positions.

 

第4条

  •  この条約は、第三国との関係に関する各締約国の立場に影響を及ぼすものではない。  

  Article IV

  •  The present treaty shall not affect the position of either contracting party regarding its relationship with third countries.

 

第5条

  1.  この条約は、批准されるものとし、○○○で行なわれる批准書の交換の日に効力を生ずる。この条約は、十年間効力を有するものとし、その後は、2の規定に定めるところによって終了するまで効力を存続する。
  2.  いずれか一方の締約国も、一年前に他方の締約国に対して文書による予告を与えることにより、最初の十年間の期間の満了の際又はその後いつでもこの条約を終了させることができる。

  Article V

  1.  The present treaty shall be ratified and shall enter into force on the date of the exchange of instruments of ratification which shall take place at *******. The present treaty shall remain in force for ten years and thereafter shall continue to be in force until terminated in accordance with the provisions of Paragraph 2.
  2.  Either contracting party may, by giving one year's written notice to the other contracting party, terminate the present treaty at the end of the initial ten-year period or at any time thereafter.

 

 以上の証拠として、各全権委員は、この条約に署名調印した。

 199X年○月○日に○○○○で、ひとしく正文である日本語および英語により本書二通を作成した。

 日本国のために
    ○○○○○

 アメリカ合州国のために
    ○○◯◯

 IN WITNESS WHEREOF, the respective plenipotentiaries have signed the presents treaty and have affixed thereto their seals.

 DONE in duplicate in the Japanese and English languages both texts being equally authentic, at ******, this **th day of ****** 19**.

 FOR JAPAN:
  ***************

 FOR THE UNITED STATES OF AMERICA:
  ***************


 英文は吉川勇一による非公式訳。

 The English text is an unofficial translation by Yuichi Yoshikawa.





鎮魂譜167
137億61歳?の記憶と記録
2010/4/12(tiki=月) 旧2/
28


ヒトは動物、
ヒト世界も動物園

日本人のHuman zoo




太平洋に浮かぶ二つの大島(パン・アメリカ)と島嶼の歴史。
西洋人の「発見」以来、人間動物園の歴史である、
西太平洋諸島は、戦前、ドイツから日本帝国の委任統治領となった。
戦前の日本は、海外の植民地経営のため、
「拓務省」とか「大東亜省」を置き、「南洋諸島」は「南洋庁」が経営していた。
「奄美諸島」を経営している鹿児島県の「大島支庁」のようなものだろう。

太平洋諸島は、戦後、アメリカの信託統治をへて、
独立的な連邦や自治領や準州に移行はしたが、
島々の陸海空権はすべてアメリカの手中にある。
島々には「動物園政策」(ズーセオリー)が布かれていて、
自給自足できない経済システムがあるからだ。
基地と観光に特化した補助金依存経済だ。

米軍占領時代、アマミ・オキナワでも「食糧配給券」の時代があった。
ワンも「日本」復帰までの3年間、アメリカのエサで飼いならされたわけだ。
三つ子の魂、メリケン子?

(^ム^)

それぞれの復帰後には、「振興開発」というシャブが待っていた。
コレが切れるとお手上げだ。
植民地政策のマニュマルだから。
吾々は動物園の中のシマザルだ。
動物園で暮らしていくための担保として、
管理人である飼い主たちに、島の陸海空の使用権を提供しなければならない。
シマザルたちのエサは、飼い主のニホンザルが毎年度、運んでくる。
飼い主が変わって、今年度からエサが減らされたと大騒ぎ。
しかし、飼い主のエサが島に届くまで、
日本のトリマキザルたちが8割ほどもピンハネしてしまう。
だから、シマザルたちが暮らす動物園への差し入れはわずかしかない。

おまえら、檻から出てみろ、干乾しだぜ!
檻の中には酒にパチンコ、ITにBS、コンビニに大型ショップ、
何から何までたんまりあるやんけ。
おまえらシマザルの歴史とか文化とか自然?
そんなん知ったこっちゃねぇ 
こちとら困るこたぁねぇしよぉ。。
ちと、シマを貸してくれるだけでいいからさぁ。
ショバ代?たんまり用意してあるぜ。
しばらくはしのげるってことよ。
なぁに、日本猿語と西洋猿語がカタコトできれば、上等上等!
調教済みじゃん。



当初は、イギリスの植民地だったヨーロッパ移民たちのUSA。
南北アメリカと南北太平洋の歴史。
1492年を契機として、
植民地(侵略)主義と人種差別の歴史が連綿と続いている。
これについては、近くおさらいしてみたい。

「フィリピン海」と「東シナ海」の境界線上に連なり、
北緯30度以南にある吾々の「南西諸島」。
1609年を契機として、
今では太平洋の諸島たちと同じ、軍事動物園の中にある。
アメリカの海兵隊がオキナワからグアム・サイパン(テニアン)へ?
それとも、トクノシマやマゲジマへ?

アジア太平洋の要(かなめ)石だろうが、捨石だろうが、
島々にゆかりの吾々にはにはどうでもいいことだ。
それぞれの「しまぬゆ」=しま世界=しま宇宙=要島である。
それぞれの要の島で、要の命たちをふつうにつないでいく。
それが本来のふつうの宿命なんだから。

Yankee&Japは言う。
世界の安定と平和のためには、ここいらはとても重要な島々なんだ、と。
しかし、やつらの本音はこうだ。
日米双方の「本(皇)土防衛!」のため。
太平洋の島々は、両国の利益が絡み重なる戦争ゲームのための石でしかない。
トリデの中のシマザルの世界など二の次の問題だ。
戦前となんら変わらぬ自己(本土)防衛ゲーム。

やれやれのオキナワ島・トクノ島・マゲ島・・・と連なる南西諸島・・・から太平洋の島々
またまた、まだまだ、動物園ぐらしが続くのだ
動物園の経営者と入園者は、日米の「国民」たちばかり
あった(彼ら)を癒すため、しまの自然と文化と人情と・・・・・・
あったの本宅をガードするため、裏庭に増築され続ける前線基地!

あっ、東太平洋のハワイもね
ここも「アメリカ本土」ではない植民石
ハワイ語」の話者は、今やわずか1000~2000人しかいない。
移転候補地グアムなどの「チャモロ語」も、消滅危機言語だ。
日本では、「アイヌ語」「奄美語」「沖縄語」「八丈語」・・・など、
「日本国内」に囲われている少数民族たちが動物園にひっそりと生息している。
風前のともし火だが。

^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^




 そして、太平洋戦争後、国連信託統治の名の下に行われたアメリカのミクロネシア支配は
ズーセオリー(動物園理論)として国際世論から非難されたとおり、ミクロネシアに様々な無
償援助をする代わりにミクロネシア全域を前線基地化するというものだった。
これによって、日本統治時代に育成されていた産業の継続を断たれたミクロネシア連邦は、
政治的には独立を宣言したものの、経済的な自立への道はまだまだ遠いものとなっている。

「ミクロネシア、ヤップ島」
拓海広志「旅の心」(2009年6月25日)


動物園理論?


 動物園で飼育する動物のように住民を扱う、米国の「動物園政策(ズー・シオリー)」の後遺症である。
米国は核実験の見返りにマーシャル住民に多額の保証金支払いや食糧援助を行ってきた。
だが、それは、住民たちのそれまでの自給自足に近い生活を壊す結果を招いた。
かつての「海の民」は、海での漁労活動をやめ、米国から与えられるフード・スタンプ(食糧配給券)で魚の缶詰などを買って飲食する生活になった。

島にはこれといった産業も職場もなく、将来に希望を持てない青少年の中には、アルコール中毒に陥ったり、自殺する者も少なくない。

「マーシャル諸島」(200p)
『観光コースでないグアム・サイパン』(大野俊著、高文研)から。


「フードスタンプ」と「アルコール中毒」?


サイパンを中心とする北マリアナ諸島は「北マリアナ自治領」で独立国ではない。
自治権は有するが、防衛権や外交権は米国にゆだねる米国の自治領である。
英語では「コモンウエルス」といい、西インド諸島のプエルト・リコと同じ政治的地位にある。

現在、アメリカ海兵隊の誘致に手をあげているテニアン島。
広島、長崎へ原爆を投下したB-29の発進地だが、
現在は外国資本によるカジノが唯一の外貨獲得産業で、
台湾人、韓国人、日本人の日帰りツアーが多いそうだ。
しかし、香港資本の経営で、従業員は中国人とフィリピン人ばかりである。

「サイパン・テニアン」


「カジノが唯一の外貨獲得産業」?
その代償は?
米国本土内の植民地、ネイティブ・インディアンたちの「保(居)留地」と同じ政策だ。

                     
保留地の現在

  • 保留地には、BIA直轄の「部族評議会」が組織されている。ほとんどの部族評議会は腐敗しており、白人の傀儡である。「イロコイ連邦」が自主独立を保てているのは、「部族評議会」を持っていないからであるといわれる。
  • ほとんどすべての保留地は産業を持てず、貧困にあえいでいる。失業率は過半数を超え、アルコール依存症率は高く、「現代のバッファロー」とも称されるインディアン・カジノで成功した保留地もあるが(※ネバダ州とニュージャージー州以外はカジノが実質禁止だが、居留地には州法で禁止されなければ認められるため)、州法によってギャンブルを禁止され、身動きできない部族も多い。
  • この貧困に白人の付け入るところとなり、アメリカにおいては、「核廃棄物最終処分場」、「核実験場」、「地下核実験場」、「ダム建設地」、「化学廃棄物最終処分場」などといったものは、たいていインディアンの保留地にある。(wiki)




結局はどこもかしこも「基地と経済の植民地」=「動物園政策」なのだ。
新植民地主義のグローバル化=南西諸島=琉球列島=琉球弧の前線基地化。

アメリカのインディアン政策(保留地)=太平洋諸島の動物園政策。
同じように、民族の絶滅政策を踏襲させられているのが、
日本・アイヌの「北海道旧土人保護法」、
豪州・アボリジニーの保護政策、
南アフリカのアパルトヘイトなどなどだ。

そして、フィリピン海(太平洋の縁海)の北緯30度線以南、
南西諸島にゆかりの吾々シマンチュたち・・・・・・
植民地の先住民たちは、先祖の土地ではくえないようにしくまれている。
恒久にかこわれつづけるために。

そのための、基地?
観光と軍隊のセット基地?
キチの外は?
精神病?

鹿児島県は精神病患者病床数では人口当たり日本一!
九州や四国が上位を占めるのだが、なぜか沖縄県ではそうでもない。
鹿児島県、長崎県、宮崎県、徳島県、佐賀県の順だが、ぬがかい?
九州地方がダントツのトップ集団とは・・・
夏型の気圧配置の南高北低だが、これの因果関係をご存知の方はご連絡ください。

いやいや、東北や北海道、日本海側も第3のグループにいるようだ。
冬型の西高東低?
圧倒的に低いのは、日本列島の中枢地帯のようだ。
縄文と弥生の差異?
人口密度?
所得格差?
安全&安心度?

自殺率はこう
これもやはり、日本列島の周縁部(東北・日本海側・九州)が高い。
そして、沖縄県が鹿児島県よりも高い。
因数分解をどう解くか?

わきゃ奄美の場合、全国的にはどうなんだろう?
所得率、生活保護世帯率、精神患者率、アルコール依存症率、自殺者率・・・
誰か、調べていませんか?
できれば、島別に。

^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
-18大都市・中核市(再掲)別にみた病床数及び人口10万対病床数(平成19年)
精神病床はここ

下は、平成13年度の県別地図

(^ム^)



鎮魂譜166
137億61歳?の記憶と記録
2010/4/8(qi=木) 旧2/
24


徳之島と沖縄から鳩山の腹案をたたきつぶそう!
そうなれば、「追い込まれた米国はオキナワ(&日本)から撤退する!

とアメリカ自身が言っている。

来週の18日は徳之島へ(気持ちを)!
安保条約を見直すための心の準備を!


アメリカの元米政府代表のインタビュー
(朝日)

 
――それでも鳩山政権が辺野古案以外の案を提示したら米国はどうしますか。

 普天間飛行場は、安全や騒音の問題を抱えているから継続使用となっても長続きしない。最終的には海兵隊は撤退しなければならなくなる。

――佐世保を母港とする海軍の強襲揚陸艦、岩国飛行場に駐留する戦闘攻撃機部隊なども撤退するということですか。

 沖縄の海兵隊が撤退することになれば、(それを運ぶ)強襲揚陸艦や、(海兵隊の)戦闘攻撃機部隊を(日本に)置いておく必要もなくなる。

――どこに行くのでしょう。

 一部はグアムに移駐するかも知れないし、ハワイあるいは米本土西海岸に移る部隊もあるかも知れない。

――もし海兵隊が日本から撤退することになった場合、日本の抑止力に与える影響は。

 その信頼性に非常に大きなダメージを与えることになるだろう。日本が日米安保条約6条に規定されている、基地の提供義務を果たせない、果たすつもりがないというのであれば、米国も5条に定められている日本防衛義務を再検討しなければならなくなる。要はそういうことだ。

――しかし米国としても、日本から撤退するわけにはいかないのでは。

 米国の立場からすれば、撤退するわけにはいかない。しかし、そうするしかない状況に追い込まれれば撤退する。そうなって最も影響を受けるのは日本なのに、日本にはそれが分かっていないように思える。すでに現状がそれに非常に近づいていることも理解していないようだ。




宜野湾市の伊波市長は、普天間の代替施設を提供する必要などさらさらない。
アメリカの本音は、「オキナワの海兵隊」を司令部だけではなく、
その主要部隊をグアムに移設する計画だからだ、と主張している。
日本国の政治家やマスコミはそれをあまり指摘しない。
ミザルイワザルキカザルのサムライニッポン。

伊波市長の主張をを裏づける今日の記事
オバマは、オキナワ海兵隊のグアム移設に伴う港湾整備の予算を通した。
しかし、当のグアムでは土地収容問題、
インフラや環境の問題
などでゆれている。
これも3猿日本、あまり報道されない。

グアム議会の決議を見なさい

情報戦!
「アメリカ人よ、早く自分のおうちにお帰りなさい!」
日本人よ、言うべきことはきちんと言いいなさい
敗戦後も日本国内の植民地、
アマミ・オキナワ・アイヌの地と海と空・・・・・・・

日本国民よ、
ことの本質は、日本国から国外植民地に持っていけばいいというハナシでもないのよ。
南西諸島や北海道の植民地などと同じ問題なの。
グアム(17万人)の人々の声にも耳をすませなさい!
米国の市民権は有するが、大統領選挙で投票券はない。
米連邦下院にはグアム代表を1名だけ送り込んではいるが、議決権はない。
チャモル人(37%)の民族分断、核被爆等々、反民主主義国家・アメリカの実態・・・・・
グアム政庁には、知事を委員長とする「脱植民地委員会」もある。
自決と独立!を目ざしている。

このままでは、持続不可能なヒト世界
しかし、
地球島!のあらゆるイノチたちは、みんなしまんちゅだ
それぞれの未来へ、ひとつのしまぬゆへ!
はて、さて、いま、なにを?
吾々にできることは?
1億総評論家!?
国民主権?



鎮魂譜165
137億61歳?の記憶と記録
2010/4/7(muzi=水) 旧2/
23



きのう(4/6)の奄美新聞、社会面で大きく記事にしてくれた。
おぼこり!



祝!
美祝子(みのりこ)
末娘が今日から高校に入学
イジメ・登校拒否をクリアしての進学
トゥジガナシ39歳、ワンが45歳での子宝だ

ワンは35歳で結婚して、3女1男の子宝に恵まれた
♀♂♀♀
ワンのアンマとジュウもワンと同じ年代に4人を育んだ
♀♂♀♀
ジュウは、♀♀♀♂♀
なんか似ている、♂が一匹
遺伝子の転写や翻訳?
フラクタル!?

(^ム^)



鎮魂譜164
137億61歳?の記憶と記録
2010/4/5(tiki=日) 旧2/
21


近く1万人反対集会
首相の徳之島指示に3町長憤慨
普天間問題


南海日日新聞4/5




【徳之島総局】 米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の移設候補地をめぐる問題で4日、一部報道で鳩山由紀夫首相が普天間ヘリ部隊の大部分を徳之島に移すことを目指し、調整を指示したと報じられたことが、再び地元に波紋を広げている。大久幸助町長(天城町)、大久保明町長(伊仙町)、高岡秀規町長(徳之島)らは憤りを隠さない。これを受けて3町では、近く1万人規模の反対集会を開催する。

^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^

徳之島では3月28日に「米軍基地、訓練基地移設反対郡民大会」(同実行委員会主催)を開催。島内外から役4200人(主催者発表)が集まり、徳之島移設反対の抗議集会と大会決議スローガンを採択したばかりだ。

これまで同問題の報道で、徳之島が浮上するたびに「基地移設には断固反対」と強く訴えてきた大久町長は、今回の一部報道を受けて「徳之島の住民は反対が大勢を占めている。政府は間違った情報を与えられている」と憤慨する。高岡町長も「政府からは何の打診もない。米国が納得するとも思えない。現実味がない。反対するだけだ」と話した。これまでも政府の対応に不信感を示してきた大久保町長は「闘いだ、闘いに勝つだけだ」と語気を強めた。

4日に徳之島3町で国政報告会を行った地元選出の徳田毅代議士は「振興策があっても徳之島に基地は要らない。徹底的に闘う。宝の島を皆の力で守っていこう」などと呼び掛けた。

3町では協議を重ねた上で、近く1万人反対集会の日程を調整して決めたいとしている。日程が決まり次第、3町長が会見を行う予定。

なお、「米軍基地、訓練基地移設反対郡民大会実行委員会」メンバーらは3日、NHKが1日に放送したテレビ番組に偏りがあったとして、来島した制作責任者に抗議した。大久町長は「政府も間違っているが、NHKも間違った情報を流した。厳重に抗議した」と語った。




きょう、沖縄県内11の市長会が県内移設への反対を決議した。
奄美の全市町村議会でも、徳之島への基地移設(新設)計画に反対を決議している。
種子島の隣の無人島、馬毛島(西之表市)も反対。
鹿屋市も自衛隊基地との訓練共用計画に反対。
鹿児島県議会も県知事もオール反対だ。
沖縄県と鹿児島県の総意が完全に合致している。
こんなことめったにないことだ。

奄美でも早急に12の市町村長会の臨時総会を開き、
反対決議をした上で、
外務省や防衛庁などに意思表示をするべきだ、徳之島の3町長とともに。
民主党や自民党の米軍基地政策を窮地に追い込むチャンスである。

奄美と沖縄だけでなく、トカラをはじめ幾重にも分断されている琉球弧。
ここにきて、島々が県境や郡境や海域をこえて横断していく糸口が現れた。
まずは、米軍基地の無条件撤去を南西諸島から要求する潮流をつくっていこう。
2,009年に締結された「沖縄・鹿児島連携交流事業」だが、
その第1弾。
「沖縄・鹿児島の両県内に米軍基地を移設する計画に反対する連携交流事業」!
これにしたらどうだろうか。

これで連携しないで、なにでするのだ。
まずは「No More 米軍基地!」で、両県がしっかりと手を結ぶ。
両県が相互に抱えている「世界自然遺産プロジェク」トや「離島振興策」なども、
そのあとならうまくいくだろう。

日米の安保改定から50年。
安保や地位協定などの見直しを国民的に議論する好機がやっと到来したのだ。
ここで一番の問題は、やはり、
「離島⇔本土意識」に染まりきっている「日本本土民たち」の「植民地⇔本国意識」だ。

グアム・サイパン・ハワイなどの太平洋諸島の植民地がある。
そこは、オキナワと同様、米・日による軍事基地と観光をセットにした植民地だ。
オキナワから日本国外にある植民地へのたらい回し?
もちろんNO!
軍縮への抜本的な解決策を提案しようではないか!
吾々の琉球弧=南西諸島から。

ヒトや地球の歴史に、はたして明るい未来はあるのだろうか?
吾々の歴史は未来からやってくる。
そして、吾々の未来は今、吾々自身がつくっている。
それぞれの未来へ!

(^ム^)



鎮魂譜163
137億61歳?の記憶と記録
2010/4/4(tida=日) 旧2/
20


普天間移設問題
「反対1万人集会」へ
徳之島で18日
NHK「偏向報道」批判も

2009年4月4日
奄美新聞1面トップ




日本国営放送、戦後も、やっぱ大本営発表なんだよねぇ。
みなさん、もう情報操作が始まってますよ。
マスコミの洗脳と誘導にご用心を!
奄美は戦時体制に突入してます。


【徳之島】米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の徳之島移設に反対している徳之島3町や住民グループの代表は3日、日本放送協会(NHK)が1日放送した「クローズアップ現代『決まるか普天間移設案』」の制作責任者に、「あたかも賛成が多いと誤解を与える内容だ」と抗議。「偏向報道」による既成事実化を懸念、「4.18米軍基地徳之島移設断固反対1万人集会(仮称)」を18日に開くことを決めた。

^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^

 番組内容で、町長ら関係者が指摘しているのは、移設反対を訴える住民の声は一切反映されず、普天間代替施設の同島移設に全面的に賛成する島民3人や、同島移設を町長らに初打診した民主党牧野修衆院議員(静岡2区)らの声のみをクローズアップした点。約4200人の移設反対郡民集会(先月28日)の模様でも壇上の自民党大物政治家をクローズアップ。移設問題は「自民対民主の構図に意図的に持っていこうとする考えがある」などの点。NHK側には一般島民や本土在住者からも抗議が相次いだもよう。

 大久保明伊仙町長の電話による抗議に対し、NHK報道番組センター(東京)のチーフディレクター(41)が来島。天城町役場会議室で、3町長や移設反対の住民グループ「徳之島の自然と平和を考える会」代表などを交え同放送の内容を再検証した。

 住民側は「県知事や県議会、地元首長もすべて反対しているのに、そこは報道されていない」「島民のほとんどが反対しているのに、あたかも賛成派が多いという内容」「純粋に反対している人たちは打ちひしがれている。もし首相が(徳之島移設を)決めたら我々は泥沼の10年の闘いをしなければならない」「長寿・子宝・癒しの島の視点からも紹介するべき」などと要望。同ディレクターは「細心の注意でやっているつもりだが、心配をおかけした。普天間問題は今後も続く。事実だけではなく真実を伝えていきます」などと陳謝した。

 「4・18米軍基地徳之島移設断固反対1万人集会(仮称)」は3町長を会長に実行委員が主催、18日午前11時から徳之島町亀津新漁港広場で計画。各種団体で島民を動員するほか、児童生徒にも参加を呼びかける。中学校単位で米軍基地の実態など学習会もスタートさせる方針だ。

 3町長は、オバマ大統領に対し、基地建設反対メッセージも送ることにしている。




再来週(18日)は1万人集会だ。
あなたも徳之島へ!

徳之島3町の全人口は2.6万人。
「非日本人」時代は5万人もいたが、フッキやアマシンで半減した。

全国の出生率では、トップ3をなんと徳之島の3町が独占!
長寿世界1を2人も輩出!
環境は世界自然遺産候補!
農業と闘牛と歴史と文化が豊かな宝の島!
心は熱いスットゴレ(なにくそ)!スピリッツ。
さぁ、くるならきてみよ、台風誘致のハト族たちよ!

※ 日本の鳩は、
神使として(八幡さまのハトといわれるように)いにしえより親しまれてきたが、
八幡神は戦の神様(皇室&武家、わけても源氏系))で、
かならずしも平和とは直接結びつかなかった(wiki)。



アマミ・オキナワ~琉球弧~の興廃、徳之島にあり!
ハブとハトとの闘いだ。
401年前、大島と徳之島で敗北はしたが、
21世紀、ハト軍団の台風上陸は断固阻止!
徳之島で一点突破!
琉球弧へ全面展開!

日米安保条約を、フィリッピン方式で日米友好条約に!
アメリカ合衆国軍隊よ、琉球弧と地球上から即時無条件撤去を!
世界各国の軍縮と核廃絶を!

No More!
Yankee&Jap
 Go Home!




鎮魂譜16
137億61歳?の記憶と記録
2010/4/1(qi=木) 旧2/
17


台風の上陸or通過?




2年ほど前、「しまぬゆとは何か」をテーマに「シマ&島」について調べていた。
そのとき、日本人の「台風上陸」に対する認識が本土民中心主義であることを知った。
同時に、古事記のおおやしま(大八州)時代より狭小な日本人の世界観にも驚いた。
おそらく、これは、海外の植民地侵略に猛進してきた明治以降の軍事用語かもしれない。
「本土防衛」という概念と相通じるからだ。
本土(意識)⇔離島=橋頭堡=海外=植民地(意識)

日本の気象庁の定義によれば、台風の「上陸」とは、
台風の目(中心)が「本土」の海岸に達することをいうそうだ。
「本土」とは、どこか。
それは、北海道、本州、四国、九州の4島である。
台風の目が「本土」以外の島々の海岸に至っても上陸とは言わない。
だから、沖縄県や薩南諸島や五島列島、小笠原諸島や伊豆諸島、
その他の島々に台風が上陸することはないのだそうだ。
おいおい。

台風の中心が、小さい島や本土の半島などを横切って、
短時間で再び海上に出ることは、台風の「通過」と呼ばれるそうだ。
台風銀座の南西諸島。
奄美の島々にも台風はしばしば「上陸」するが、それは「通過」でしかない。
「日本国」の中で、唯一、島嶼だけで成り立っている沖縄県は?
過去に、台風がなんと1度も上陸したことがない「日本国」で唯一の県だそうだ。
これ、ほんと。

(^ム^)

ちなみに、台風の上陸回数が「日本国」で一番多い県は鹿児島県。
実はここからが、「日本国本土への上陸」になるからだ。
大隅半島の佐多岬には、「日本最南端」という標識があった。

鹿児島県の台風上陸の数には、
アマミ・トカラやタネ・ヤクの島々への上陸回数はもちろん含まれない。
九州の海岸から外の離島は「本土」ではないからだ。
たとえ「本土」近くの島々や半島などに「上陸」したとしても、
「本土」自体への被害は少ないからだろう、「本土人」にとっては「通過」でしかない。



毎年、赤道方面からやってくる大風(てーふ、うふかじ)。
吾々南島人は、台風の来島を本土人ほどには恐れたり嫌がったりはしない。
招かれざる客というより、むしろ、季節ごとの来訪神だ。
勢力(精力?)が強いほど血さわぎ、心たかぶり、
通過後の清浄感は格別な安らぎを覚える。
最近、大型の台風がこなくなり、ものたりない。
雨乞いのように台風を待ち望む炎天下の農家も多い。
サンゴの白化現象は、台風による海の攪拌効果が少なくなったせいだという説もある。
きっと、吾々のDNAたちは、大風の恵みを自然神として体得してきたのだろう。

雪国の人々が暖冬や少ない積雪に抱くさびしい感覚と似ているのかもしれない。
毎年、直撃してくる台風やドカ雪だが、その地域では避けては暮らせない。
いやむしろ、母なる自然が恵んでくれる風や雪を感謝とともに受容してきたのだ。

台風には「上陸」と「通過」の」ほか、「接近」という用語の定義もあるが、また次に。



軍隊にも「上陸」「通過」「接近」という用語の定義があるのだろう。
地球上の台風の目である、産軍複合体国家のアメリカ合衆国軍隊。
その中でも最大の台風の目、なぐりこみ部隊のアメリカ海兵隊。
自らしかけた世界中の紛争地にオキナワから飛び立って行く。
戦後、合衆国軍隊がオキナワに「上陸」して65年。
それを、沖縄県民の負担軽減をおもいやるという名目(ガス抜き)で、
島境の徳之島へ「上陸」させようとしている日本国政府。
「最低でも県外移設!」発言によって、崖っぷちにいる徳之島の現実。
実は、奄美大島の空港周辺も、名瀬湾の港湾設備も、瀬戸内海峡周辺も、
「有事」のさいの軍事基地としてセットになっている。

吾々は、未来へのいのちをつないでいくのか、
一時的なシャブ(振興)予算におぼれるのか。
いったいなんでこんなことになったのか?
400年間、ヤマトの植民地だからだ。



日本本土の国民にとっては、「米軍の基地問題」と「台風」は同じなのだろう。
基地被害も台風被害も、本土の海岸にさえ達しなければ安心、安全というもの。
オキナワやアマミに「上陸」しようが、こっち(ヤマト)には「通過という情報」でしかない。
今は反対している徳之島やアマミの住民たちも、そのうち「おもいやり予算」でなんとかなるさ。

オキナワと同様、今後、隣のアマミにアメリカ軍がいくら上陸しようが、
日本国の敗戦後、米軍政府がアマミ・オキナワを統治しようが、
明治以前まで、アマミ・オキナワが「日本国本土」の領土ではなかろうが、
そんなこと、イマドキ、カンケーネーじゃん!
チョーセンと同じ、おらっちヤマトのモンだったじゃん!
もちろん、アイヌの北海道もよ~。
だって、世の中は進化論、弱肉強食でしょっ?
絶滅したって仕方ないじゃん!
自己責任!
本土防衛!



人間界は、戦争の20世紀から、さらなる戦争の21世紀へと拡大しつつある。

沖縄県民が求めてやまない基地の「整理・縮小・撤去」。
これを、「整理・縮小・統合」として、統合という言葉をすべりこませる日本政府。
そして米軍は、「統合・強化・新鋭化」と性格をすりかえた。

吾々、被植民地諸島の先住民たちにだけ「米軍上陸」をおしつけ続けて、
ぬくぬくと基地を「通過」させ、
ぬくぬくと平和ボケしている卑劣なヤマト民族たちよ。
それほどアメリカ軍の「本土上陸」が嫌ならば、
今年で改訂50年目の日米安保条約、
ヤマト民族の自己責任で破棄すべきではないか!
日本国の全政党は、今年の参院選挙では「安保と憲法」を争点とすべきだ!
日本本土にそんな政治家がたった一人もいないのはなぜか?!
アメリカ合衆国の国民と同じ、日本国民のほとんどが植民地主義者だからだ。
「日米本国」の「本土(メインランド)」の「防衛(安心・安全)」のことだけ、
それだけで思考停止状態だからだ。

吾々島人は、自身の自治のために民族自決するしかない!
さよなら、ニッポン!
またきて、しまぬゆ!



鎮魂譜16
137億61歳?の記憶と記録
2010/3/29(tiki=月) 旧2/
13


 きのう(3/28)は、日帰りで徳之島に行ってきた

徳之島で郡民大会
4200人が抗議決議





たまがった。
今朝の南海日日新聞のリキの入れまくりかた。
1面と2面の全スペースとコラム、
社説と「談論」に加えて、社会第1面も半分以上を割いていた。
関係者によると、今後、連載企画もあるという。

この調子で1609年問題にも取り組んでほしかった。
ふつうの島民の目線で。
でも、まだ遅くない。
コレは現在進行形だから。

迷走台風だ。
奄美の島々にも上陸!?の鳩山連立政権。
皮肉をこめて感謝?しよう。
反戦!平和!安保!粉砕!非武装!中立!
護憲こそ錦の御旗として叫んでいたあの社民党も含めて、
ジャパニーズたちの本音をあぶりだしてくれたのだから。
健全?な日本共産党も、「日本」という「国民国家」からは脱皮できてない。
ノンジャパニーズには国家を横断してそれが視える。

下のコラムンチュ、ワンの親戚?
「1609年から400年!」の波がここにまでおしよせてきた。
潮流はだれにもとめられない。
「奄美の分県運動」
さてどこへ?

(^ム^)


 北緯27度線。与論島と沖縄本島の間に引かれた、沖縄と鹿児島を分ける人為の県境。薩摩藩時代に引かれた。
▼奄美群島が「琉球の一員」だった先の大戦後の一時期と琉球王国時代は消滅していたが、明治の廃藩置県と奄美の日本復帰後に復活した。
▼米軍普天間飛行場の移設問題に関し、鳩山首相は「極力、(沖縄)県外に移設させる道筋を考えていきたい」と強調。徳之島などに分散移転させる案が有力視されている。
▼首相は県境を一歩でも越えれば目的達成と考えているのか。首相の「県外論」に従えば、仮に奄美群島が「沖縄県」だったとしたら徳之島は対象外ということになる。政府与党が、徳之島移設を強行するなら、反対している地元は「奄美の分県運動」で対抗したらどうだろうか。
▼沖縄と奄美は共に亜熱帯圏。自然、歴史、文化とも共通点が多い。沖縄県の硫黄鳥島は徳之島のわずか60キロ余。徳之島は沖縄との県境でもある。徳之島は県外というより「県境」への移設にほかならない。
▼とにかく、首相をはじめ新政権は一体、何をしようとしているのか。沖縄、国民、米国の理解を得ると、威勢のいい言葉は出るが、実際は地図の描かれた碁盤の上で碁を打つように、ここだ、あそこだと候補地を挙げ、不安と混迷の火の粉を拡散させている。
▼支持率の急落に見られるように、国民は普天間移設どころか「政権移設」をも考え出しているのではないか。

                       南海日日新聞、3月29日(月)/「南海天地」




想えば、とても不思議なご縁だった。
大島から船で渡った進修男とワン。
バスの予定だったが、ホントにたまたまのご縁で、
徳之島町亀徳港から天城町総合運動公園野球場まで、
往復お世話になった温厚な磯川さん。
喜界島早町出身で徳之島医療生協の職員さん。
助手席には、もの静かな中学生の男子がいた。
おぼらだれん!

この日の郡民大会。
「開会宣言」「意見表明(地元)」「来賓挨拶(議員)」「大会決議表明」「ガンバロウ三唱」
と続き、各界代表の17人が登壇した。
13時半から15時まで、マスコミの取材もすごかった。

「成田闘争以上に徹底して抵抗し、今まで以上の混乱をもたらすに違いない」
地元選出の徳田毅衆院議員(自民党)がアジった。
薗博明さんは、沖縄の問題は奄美全体の問題として訴えた。

わけても、ワンが一番、感銘したのは「子育て中のお母さん代表」。
帰りの車内で知ったのだが、助手席の中学生は彼女の息子さんだった。
お母さん代表の磯川真理枝さんは、屋久島出身のシマンチュとのこと。
南西諸島の島ぬ世連合at徳之島大会?

(^ム^)


島民の声 受け止めるべき

地域住民を代表し、政府に移設ノーを突き付けた磯川真理枝さん(39)=徳之島町の意見表明。

「なぜ、この島に米軍基地を造らなければいけないのでしょうか。なぜ、アメリカのために子どもたちは犠牲にならなければならないのでしょうか。日本は、小さな島に住む人々なら犠牲にしてもよいという国なのでしょうか」

「子どもたちを島で伸び伸びと育てたいという母親の願いは、わがままな願いなのでしょうか。徳之島の先人が守ってきた、この豊かな徳之島を後世に残したいという願いは、私たちが子どもたちへ渡していかなければならない大切なバトンです」

中学生と小学生の二人の子どもを育てる磯川さんの怒りは、こう続いた。

「仮にどんな利があるとしても、子どものために、未来のために、それを選択しない大人であることを、子どもを前にきっぱりと宣言します。」

「命の尊さ、未来への希望、日本政府は、こんな当たり前のことさえ認めないのか」―。母親の率直な言葉に参加者の多くが涙を流した。

活火山のように怒りのドグマが噴き出した3・28郡民総決起大会。普天間飛行場移設をめぐり、迷走する鳩山内閣は、奄美群島民が大切にする自然や文化、風土、先人の教え、郷土愛などの真意を読み誤ることがないよう、郡島民の声をしっかりと受け止めるべきだ。

    (南海日日新聞/米軍基地問題取材班)




大会決議表明は、幸多勝弘さん(鹿児島県教職員奄美支部代表)。
幸多さんは、昨年、徳之島の2009年シンポジウムのパネラー。
地元徳之島にとっての1609年問題と、島津家の徳之島来島を批判していた。

また、11/18、鹿児島県知事へ提出した
「沖縄・鹿児島連携交流事業」における「交流拡大宣言」の中止を要求する要請書、
作成時には幸多さんの草稿も下敷きとなった。
だから言えるのだが、この決議文は彼の文体だ。


大会決議文から(抜粋)

私たちは、昨年の薩摩侵攻400年を節目として、このような苦難の歴史であってもたくましく生き抜いてきた先祖を誇りに、島興しを決意しました。

このように未来への夢を決意した矢先での米軍基地移設問題は、沖縄県民の整理・縮小・撤去の意見に反するもので、文化を共有する沖縄県民と奄美の人々を愚弄する、基地のたらい回しにほかなりません。




※ 「奄美の人々も沖縄県民と共に、基地の整理、縮小・撤去を求めています」
この宣言文では、そういうふうには謳っていない。
超党派の郡民大会。
それも小池百合子元防衛大臣など自民党関係の来賓が中心だ。
このような表現でしか盛り込めなかったのだろう。
文章の見直し作業があったと聞いている。

「薩摩侵攻400年」に当たって、「島興しを決意しました」というのは嬉しい決議文だ。

※ さらに嬉しかったこと。

地元から意見表明した高岡秀規徳之島町長と、
大会最後の「ガンバロウ三唱」で音頭をとった伊仙町の大久保明町長。
それに、松崎真琴・日本共産党・鹿児島県議会議員。
この三人だけは、
「徳之島にも沖縄にも米軍基地はいりません!」と表明してくれた。
新聞等では報道されていないので、ここで記しておく。

※ 
日米合意の辺野古海上案こそがベスト!
として、民主党を批判するだけに終始していた、
自民党関係の議員先生がたよ。
この地元の町長たちの声こそが米軍基地に向けての奄美の「島民の声」!
と、しっかりと受け止めて、「それぞれの日本本土」へ帰るべきだ。
本土民にいらないものなど、非本土民にはなおさらいらない。

※ 最後に本音を言おう。

地球は銀河系に浮かぶ一個の水の島。
大陸も大きな島だ。
みんな地球の島々でつながりながら多様なイノチをつないできた。

地球上のイノチ(島民)たちが切望していること。
それは、沖縄県の内外?南西諸島の内外?日本国の内外?などというレベルで、,
アメリカの戦争犯罪と環境破壊を営々とたらい回していくことではない。
島それぞれのイノチをつないでいくことだ。

あなたがた与野党すべての政治家たちは、
日本国民と鹿児島県民の代表者たちだ。
日本の国民や他府県民たちが選択する植民地主義的な手法。
吾々はそういう生き方とはもう決別したいのだ。
まずは、米軍基地をすべて、アメリカ合衆国内へ撤去すること。
つぎに、日本を含めた地球的規模での軍縮と核兵器を廃絶していくことだ。

吾々の南西諸島と連なるフィリピン海や太平洋上の無数の植民地諸島
グアム、サイパン、ハワイその他の島々でもNo!と叫んでいる。

格差&開発
振興&侵攻
観光&基地

吾々には島々の思いが見える、言える、聞こえる
数百年前の津波のうねり・・・・・・
1492年と1609年に東西で発生した大津波
これが地球上の島々(島人)をグローバルに呑みつくしているのを

No More!
Yankee&Jap
 Go Home!


(^ム^)



鎮魂譜160
137億61歳?の記憶と記録
2010/3/27(kani=金) 旧2/
11


前回(鎮魂譜159)の「日本海」問題について。
若干の訂正が必要のようだ。
日本海名称の無表記」は撤回され、IHOでは解決されてはいないようだから。


日本海呼称問題における国際水路機関の白紙化

「大洋と海の境界」の現行版(1953年版)における日本海は「Japan Sea」である。また韓国1957年にIHO加盟)も1986年の時点では公式に「日本海」の名称に同意していたが、1997年の第15回IHO総会において突然、「日本海」の名称は日本帝国主義の残滓であるとし、韓国が使用する「東海(トンへ)」への名称を変更するように要求した。

 日本政府代表団は直ちに日本海の正当性を伝えるとともに、韓国側の主張する「東海」には理論的、また歴史的にも根拠がない名称である事などを理由に挙げて反対したが、2002年8月、IHO理事会 (IHB) は、突然、日本海の名称について、高度な政治性を有し、日韓両国の調整がつかないとして、日本海部分を含まない形での改訂版最終稿を加盟国に配布し、同最終稿への賛否の投票を求めた。

 日本政府はIHO理事会に対して直ちに反論するとともに、IHO参加国に対して日本海が国際的に広く認知されている事実とともに、韓国の主張の矛盾点を詳細に報告、国際名称として既に確立された名称を安易な形で変更する事は、今後の悪しき前例になると主張した。

また日本国内でもごく一部の人が知るのみだった日本海呼称問題が、このショッキングなニュースによって多くの人々に理解される結果となった。

 2002年9月にIHO理事会の理事国がギリシャアメリカチリに変わると、理事会は「加盟国から改訂版最終稿の内容に根本的な影響を及ぼすコメントを受領し、また、加盟国が投票することの意味合いについて、説明を要する多くの質問が寄せられた。加えて、理事会は、IHOの技術的目的を越える問題に直面している。」との談話を発表し、同改訂版最終稿を撤回した。


日本海呼称問題


日本海呼称問題(にほんかいこしょうもんだい)とは、現在に至るまで国際的な慣習として「日本海」ないしその同義語で呼ばれてきた海域の呼称を、韓国北朝鮮国際水路機関 (IHO:The International Hydrographic Organisation) での「大洋と海の境界 (S-23)」の改訂や国連地名標準化会議の場において、「東海」または「韓国海」、「朝鮮海」ないしそれらの訳語へと変更しようとしたことに端を発する呼称問題である。

日本では日本海名称問題、韓国側では東海呼称問題 (?? ?? ??) などと言う。

  • 日本海 - 英語:Sea of Japan / Japan Sea
  • 東海 - 英語:East Sea - 朝鮮語??(Donghae、トンヘ)
  • 韓国海 - 英語:Sea of Korea / Korean Sea - 朝鮮語??? (Hangookhae、ハングクヘ)


^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^


あす(3月28日)、徳之島で普天間基地移設の反対集会がある。
小池百合子元防衛大臣なども来るという。
自民党挙げての反対運動ということなのだが、その真意が知りたい。
日帰りの船で行こうか。
それとも、これに連帯して、あす催される、
大島(名瀬)での緊急集会に参加しようか。
目下、思案橋。
あさっては、末娘の卒業祝いの予定もある。

「日米地位協定」

これは、日米安保条約の第三条に基くもの。
その第六条の二項は、こうだ。


2 合衆国軍隊が使用している施設及び区域並びにそれらに隣接し又はそれらの近傍の領水に置
かれ、又は設置される燈火その他の航行補助施設及び航空保安施設は、日本国で使用されている様式に合致しなければならない。これらの施設を設置した日本国及び合衆国の当局は、その位置及び特徴を相互に通告しなければならず、かつ、それらの施設を変更し、又は新たに設置する前に予告をしなければならない。


現在は、「それらを予告しなければならない」最終段階ということだ。

オキナワだけではなく、全国各地から上がり続ける断固反対の烽火(のろし)!
四面楚歌の情況にもなんのその、「暖簾に腕押し」の民主党政権。
基地移設よりも政権移設の方が先だ。

しかし、宗主国・アメリカのご意向に120%追随するだけ、
辺野古の海を埋め立てる案しかなく、
単に次の選挙戦略だけ
で、死に体・傀儡政党の自民党でもだめ。

では、「日本国内」の横暴な米軍基地を日本国民はいったいどうしたいのか?
旧琉球国の版図、植民地・南西諸島方面、
現植民地だけに押し付ければ安心、安全?
奄美はオキナワの県外ではあるが、あらゆる意味で圏内だ。
逆に言えば、「日本国民」からは「圏外」ということ。

台風の「上陸」と「接近」みたいなもの。
基地や戦争などの被害も、「本土人」には「上陸」してほしくないだけ。
「台風」や「基地」が、植民地(人)に「上陸」していても、
それは「本土人」にとっては「接近」にしかすぎないのだ。
(これについては、次回コメントしよう)

こうなったら、
新党・「安保と憲法を見直す党」でも立ち上げて、参院選に臨みたい。

①日米安保条約を破棄して、合衆国と友好条約を結ぶ(フィリピン方式)。
②憲法第九条を破棄して、自衛隊を専守防衛隊として認める。
③憲法第一条を破棄して、真の国民主権国家とする。

そのうえで、最終的に、
④「南西諸党」の綱領である「民族自決権」を獲得する

(^ム^)



鎮魂譜159
137億61歳?の記憶と記録
2010/3/20(micha=土) 旧2/
5


太平洋、実はフィリピン海!

日本国はIHOの決定を「日本地図」等で公表していない、
1952年から。




東シナ海の境界。
「タラソ奄美の竜宮」と「奄美海上保安部」のつながりで、やっと知ることができた。

(^ム^)

ところが、今度は太平洋。
伊豆半島以南の本州・四国・九州の日本列島から琉球諸島。
ここの陸地や島々と接する東方の海は、実は「太平洋」ではないのだ。
みなさん、ごぞんじだろうか?



地図上の「東シナ海」と「太平洋」間にある菱形のライン(海域)に注目してほしい。
このラインは、日本国だけの地図にこそ記載されていないが,
どこの国の世界地図(上図は仏版)にもここは「太平洋」などではなく、
公式に「フィリピン海」と記載されている、そうだ。
なぜなら、この呼称は、戦後まもなく(1952年)、国際水路機構(IHO)で公認されたからだ。

その経緯と日本国の見解はこうだ。
日本語の解説では今のところこれしか見当たらない、吾々タミのレヴェルでは。

日本国はIHOの決定を「日本地図」等では公表していない。
フィリピン海の北端はどこか
太平洋学会専務理事 中島洋



 それまで北太平洋の一部とされていた海がフィリピン海ということになると、海図や水路誌はもとより、すべての教科書、地理学書などの内容を改訂しなければならないし、それには莫大な費用もかかることでもあり、フィリピン海の呼称を与えないで、従来通 り、北太平洋の一部としておいて欲しいとの回答を送った。

日本国政府は、印刷物等の経費の問題などとしているが、ホンネはそうではない。
誇り高き「皇国の皇民」たる「大和民族」としては、
「フィリピン?!」などという南洋(のマレイ族)の海水などに、
禊、浴したくはないのだろう。
「大東亜共栄圏」は、八紘一宇の大日本帝国こそが統べるべき「領土、領海」なのだから。

「太平洋」は、憧れの~航路につながる。
その向こうには、「大和帝国」が目ざすべき欧米の先進国が待っている。
脱亜入欧の明治精神は戦後も一秒すら途切れていないのだ。
近代以降の植民地主義と度重なる侵略戦争。
その前哨戦には、近世、薩摩による奄美・沖縄侵略と、植民地支配があった。
 1609年。

戦後の日本の国策と精神は、戦前と一歩も変わっていない。
だから、われわれ「日本国民」は、
1952年、「太平洋からフィリピン海へ!」
「日本国民」にとってきわめて重大な名称変更のことは知らされていないのだ。

子曰、民可使由之、不可使知之、
子曰わく、民は之これ)に由(よ)らしむべし。之れを知らしむべからず

大本営の重要な仕事は、オクニの大切な情報は隠(機密)して民衆を支配する事。
目から鱗ではヤバイから、、目隠しである。
薩摩支配を隠してきた奄美諸島の400年みたいなものだ。


 そこで、日本の関係者はどう対応したかというと、水路部は現在に至るまで、その制作する海図に一貫してフィリピン海の名称を用いないこととし、また、地球物理学や地理学の学者たちも、地図会社などが国際水路局の『大洋と海洋の境界』に基づいてフィリピン海の名称を用いることに、反対してきた。

 したがって、日本では学校教育でもフィリピン海を教わることもなく、海外の地図を見てはじめてフィリピン海の存在を知ることになっている。そして、たとえば百科事典などでフィリピン海を引いても、「太平洋西部、フィリピン諸島の東縁に沿って広がる海域」(『ブリタニカ国際大百科事典』)などと、極めて漠然とした定義しかしていない。


吾々「琉球弧」と「日本弧」の島々の東側は、
「フィリピン海」と「北太平洋」の波に洗われている。

まずは、それを知ること。
そして、知る権利を要求することだ。

加えて、「日本海」というネーミングも今、世界の地図上からは消されている。
「竹島」をめぐって韓国や北朝鮮が主張する「東海」と折り合いがつかないからだ。
このことも、「国民の常識」?。

^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^


2010年。
タイムリミットが迫るオキナワの普天間基地の移設モンダイ。
どうやら、アマミの徳之島にもってこられる公算が強い。
なぜか?
答えはシンプル、ヤマトの植民地だから。

あさって3月23日(火)、重大方針がトーキョーの大本営から発表されるだろう。
政府関係者やマスコミがアマミの島々で動めいている。
徳之島では土地が買いしめられている。
1609年からのヤマトとアマミ・オキナワの関係は、現在進行形である。

「日本国」の経済と平和防衛のため、
これ以上の犠牲はノー!
オキナワとともに、みんなが言えばいいだけだ。
歴史の蓄積、400年。
401年目に意思表示の時がきた。
「日本国」と「アメリカ合衆国」へ、
「太平洋」(?)のキーストーン、「南西諸島」から
否!



鎮魂譜158
137億61歳?の記憶と記録
2010/3/17(mizi=水) 旧2/
2



きのうの、
>国際水路機関(在モナコ)が発刊している、『大洋と海の境界』(1953年版)。







日本語版はなぜだか?ない!そうだ。
「英語版なら、HP上で」
奄美海上保安部の大田部長さん、
昨夜、わざわざ印刷してあまみ庵まで持参してくれた。
最近タラソに通えていないから。
おぼこり(大謝)!
この情報は、アマミ近辺の島々にはビッグプレゼントだ。


50.-東シナ海(東海)

  南面(境)。
 南シナ海(49)の北境界、そこから台湾の北東点(サンチョー?)と与那国島の西点から波照間島(北緯24°03′,東経123°47′))を結ぶ。

  東面(境)。
 波照間島から宮古列島と宮古島の東点を含む線と、沖縄島の南端(オキナン カク?)、この島からアダコ島=安田ヶ島(離れ島)と喜界島の東点(北緯28°20′)から種子島(北緯30°30′)の北点を通って、それから九州の火崎=大隅半島、内之浦湾(北緯31°17′)へ。

  北面(境)。
 九州の野母崎(北緯32°35′=薩摩半島)から福江島(五島列島)の南点、大瀬崎(五島岬))から済州島(クエルパート?)の南のフナンカン(?)へ、この島を通ってその西端から北緯33°17′へと大陸に平行に沿っていく。

  西面(境)。
 中国本土。




急ぎ、ワンなりにざっと訳してみた。
アマミと共にあるトカラ・ヤク・タネ・・・など薩南諸島の島々。
ここも全部、「東シナ海上」に浮かんでいることが確認できた。
(喜界島と種子島の東端だけをのぞいて)
すっげ~!

吾々の「太平洋」はどこか?!
シマ島の東海岸の汀やリーフ?
いやいや、
天がける、あまみぞ(水平線)のそのまた彼方(あま)の海(あま)だった。
知らぬはシマンチュばかりなり?
目から鱗!どころのハナシではない。
吾々シマンチュたちには、大変な事実。

たかがウミ?
たかが名前?
たかがヒト、だけ、の境界?
たかが、海の中、土の下、空の上・・・

ぬがかい?
領分、領土、領海、領空・・・?
西洋から押し寄せてきた「アメリカ大陸」と「太平洋」。
アジアの離岸提のひとつ、「東シナ海」の「南西諸島」。
誰にとっての、キーストーン?
「琉球弧」のほとんどの海浜は「太平洋」からは遮断されているのだ。

何か・・・?
アフリカ大陸や太平洋諸島などと同じ、
宗主国たちの都合?
単なる線引き?
いつ、だれが、どのような理由で?

あちこちの海の境界を調べてみよう。
ヨロンとオキナワのようにヒトによるウミの線引きがある。
海もヒトもクニの領土・領民だ。
いったいいつから?

次のテーマだ。



鎮魂譜157
137億61歳?の記憶と記録
2010/3/15(ciki=月) 旧1/
30



何、これぇ!?
数年前から疑問に思っていたことのひとつ。
しかし、その境界がわからなかった。

♪ 「めぐるさんご礁 どんと打ち超えて
磯に砕ける波しぶき 東シナ海 太平洋を 
前と後ろの徳之島 ハーレ徳之島・・・」♪
(徳之島小唄)

誰もが「太平洋」だと思っている奄美の島々の東海岸。
実は、奄美諸島のリーフや海洋はすべて東シナ海に包囲されている。
(喜界島の東側だけは違うが)
日いずる「太平洋」は、水平線(4.5km)のはるか彼方の海洋のことだ。

ぬっ、ぬがよぉ~
だっ、誰が、いつ、決めたのか?
国際水路機関(在モナコ)というのがある。
「大洋と海の境界」は、そこで取り決められているらしい。
人為的な線引きのその理由は?
トカラやタネ・ヤクなどは?

お分かりの方いらっしゃいましたら、ぜひ、ご一報を!
その前に、このこと自体を知っている方もあまりいない、だろう。

このサイトを教えてくれたのは、奄美海上保安部の部長さん。
組織トップの彼(海上保安大学卒)ですら知らなかった、
大変な海の線引きの事実。
タラソメイトなので先日、尋ねてみたのだが。
今日、電話をいただいた、しだい。

海の相談


海の相談2

質 問 事 項

    回    答

 備  考

沖縄本島で、北太平洋と東シナ海との境はどこですか。

 北部は、国頭村の安田ヶ島から、鹿児島県の喜界が島に引いた線で、南部は、糸満市の荒埼から宮古島の平安名埼に引いた線が境界となります。

 


※ 以前見た海図に、喜界島と笠利・龍郷の間が「東シナ海」と記入されていたのに驚き、
「ぬがかい?」と思ったことがある。

今日、第11管区のHPに質問メールをだした。



鎮魂譜156
137億61歳?の記憶と記録
2010/3/13(micha=土) 旧1/
28

※ 

はや 一週間
今日は中潮
  こんな感じでやってます



(2010/3/13 奄美新聞)

※ メールその他での問い合わせも歓迎!
古書は一点ものが多いです。



鎮魂譜155
137億61歳?の記憶と記録
2010/3/6(micha=土) 旧1/
21

※ みなさま、長い間、大変おせわになりました。

とっ、突然ですがぁ
「あまみ庵」、閉店セールのお知らせだりょん。





実は、1階をたたんで、4~5月に2階に縮小移転する計画。
家賃、水光熱、人件費が追いつかない。
都市計画の工事もこの夏から始まりそう。
「あまみ庵」の寿命もそう長くはないだろう。
喜ぶ人たちの顔もみえるが、次の一手を思案橋。

それにしても!
今日からの閉店セール、なぜか、客がみえない。
博物館と図書館をのぞいては。
新聞広告が目立たなかった?
いやいや、これが「あまみ庵とワン」の実像だ。
終わりよければすべて良し!
じゃぁ、すべて悪し?

(^ム^)

あす(日)は、徳之島の「普天間飛行場徳之島移設反対集会」に参加する予定。
行きたい。
夜の集会なので明朝5時から、あさっての夜9時まで、船での移動。
突然の閉店セールのため、その余裕がない。

去年は、2,009年のイベントが目白押しだった。
おかげで、徳之島、沖永良部島、鹿児島などへ流れ着いた。
今年も徳之島から始まるのか、と思いきや、
う~ かなわない。

でも、2010年03月05日(朝日新聞・鹿児島)
奄美の歴史子どもたちに/副読本を制作へ」

ここに辿り着くこと!
それが、ワンに与えれた奄美での仕事のひとつ、だったのかも、やぁ
郷土誌の蒐集と発信を始めて22年目
まずは、マンガでいいから奄美のシマ島の本を!
とっ、モサクしてきての今がある。

まっ、ここいらで、カンレキの一円(ヒトマル)。
一件落着!おつかれさん!
としよう

(^ム^)

奄美にゆかりの
吾々(なきゃとぅわきゃ)、ごくごく普通の人たちよ!

それぞれの歴史認識(DNAや宇宙観)を深めることがなければ、
鹿児島県(ヤマト)ごときにギを言え!ない。
次の一手を打て!ない。
内外の政治家や役人や御用学者たちのなすがままだ、ぜ。
うりしぃ いっちゃりょん にゃぁ?

400年

植民地

書を捨てよ

シマに出よう!

しまぬゆ(シマ島の世)へ!



鎮魂譜154
137億61歳?の記憶と記録
2010/3/4(xi=木) 旧1/
19

徳之島の基地問題.。
メディアに接している限りでは一見、反対ムードが強そうだが、
ワンは予断を許さない状況と見ている。



普天間移設で徳之島3町長
平野官房長に反対要望書
徳田衆院議員 きょう予算質問へ

2010/3/1 奄美新聞

【徳之島】 米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)移設先の一つに徳之島が浮上している問題で、同島の3町長は28日、平野官房長官らに対し、いかなる施設の移設も「断固反対」する旨の要望書を地元選出の徳田毅衆院議員に託した。同議員はきょう1日午前の衆院予算委員会分科会で、政府与党にただすことにしている。

 高岡秀視徳之島町長、大久幸助天城町長、大久保明伊仙町長の3人が伊仙町ほーらい館での「長寿・子宝シンポジウム」出席の合間をぬって、官房長官のほか、福島みずほ社民党党首にも託した。また、同島移設に反対する住民組織「徳之島の自然と平和を考える会」の椛山幸栄会長(54)も同日、徳田衆院議員と阿部知子衆院議員に直接反対要望書を提出した。

 徳田議員は町長らとともに会見し、「訓練施設も100%あり得ない、徹底抗戦していく」。民主党・牧野衆院議員の3町長打診説きに「内閣官房長長官も同行しており非公式とは言えない。3町長も明確に『断固反対』の立場を示している」と指摘。「外交安全保障は国の問題だが、地元の賛同は不可欠。現に徳之島では多くの人が反対している。これ以上、不安や動揺を広げないためにも予算委分科会で平野官房長官に直接、事実関係をただしたい」とした。


※ 最近、久保和ニさんから電話をよくいただく。
奥様の墓参りに2カ月ごとにご来島、親しくさせていただいている。
ワンは、県知事にラブレターを提出していたので、先月は会えなかった。

2010/02/27 「代替案『容認やむなしか』 復帰の付属書に明記」
(「与論島クオリア」から

久保さんとの話の内容は、以下のこと



(1)奄美群島に関する日米協定、交換公文書

1953年12月24日(奄美の復帰前日)

①アメリカ合衆国特命全権大使から外務大臣にあてた書簡

 書簡をもって啓上いたします。本使は、本日署名された奄美群島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定に言及し、且つ、次のとおり述べる光栄を有します。

 奄美群島及びそ領水は、日本本土と南西諸島のその他の島におけるアメリカ合衆国の軍事施設との双方に近接しているため、極東の防衛及び安全と特異の関係を有する。日本国政府は、この特異の関係を認め、南西諸島のその他の島の防衛を保全し、強化し、及び容易にするためアメリカ合衆国が必要と認める要求を考慮に入れるものと了解される

 本使は以上を申し進めるに際し、ここに重ねて閣下に向かって敬意を表します。

1953年12月24日
ジョン・M・アリソン(署名)
日本国外務大臣 岡崎勝男閣下

^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^

②外務大臣からアメリカ合衆国特命全権大使にあてた書簡

 書簡を持って啓上いたします。本大臣は、閣下が次の通り本大臣に通報された本日付の閣下の書簡を受領したことを確認する光栄を有します。

(米側公文省略)

 本大臣は、更に、閣下が述べられたことを記録にとどめ、且つ、前期に掲げる了解が日本国政府の了解でもあることを閣下に対し通報する光栄を有します。
 
本大臣は、以上を申し進めるに際し、ここに重ねて閣下に向かって敬意を表します。

1953年12月24日
外務大臣 岡崎勝男(署名)
日本国駐在アメリカ合衆国特命全権大使 ジョン・M・アリソン閣下


上の往復書簡(261頁)は、次の「付属文書」(215頁)の内容確認とその了解のこと。
今も、


(2)奄美復帰時の日米協定の付属文書。


 ロバートソンは、ダレスが二日前に同意してサインした命令書に基づいて、すぐにアリソンに打電し、「奄美の返還交渉を行う」権限も与えることを伝えた。そして、国務省と国防省の困難な議論を反映して、「国防省は同意したが、これから送る電報の文書の立場を、受け入れられる最低条件と考えている」と伝えた。
 3日後の24日の午後、アリソンは外務省に対して、交渉を始めたいと伝え、協定の米国案とその他の付属文書を手渡した。

 その中には、問題であった軍事的権利も含まれており、既に述べた通り「非公開議事録」の形をとっていた。

一、行政協定第二条第一項は、日本と米国の防衛と安全保障に対する、奄美群島の特殊な関係に基づき、更なる施設が必要になった場合、米国はその施設・区域(電波やレーダーの完全な稼動域を保証するために必要な航空支援施設、装置、航空警戒管制施設を含む)が与えられるとことを必要とする、ということを認めているものと解される。

二、行政協定第二条第一項は、領空の自由を奄美群島全域及びその領海まで拡大するものと解される。

三、行政協定第二条第一項は、米国が安全保障条約を遂行するにあたって、奄美群島のすべての領海を利用できるものと解される。

四、行政協定第二条第一項は、米国の責任者が、将来必要になった場合に、更なる施設のための区域を選定するにあたって日本国政府に通知した上で、奄美群島で実地調査を行うことを許可するものと解される。

五、第二条と第三条は、米国軍隊及び施設の適切な活動を妨げるような、電気妨害装置等の敵対的、妨害的装置を撤去したり、破壊したりするために、米国軍隊が奄美群島の陸上、領空、領海に入ることを許可するものと解される。

六、第三条第一項は、日本が将来、奄美群島に防衛施設を設置しようとした場合、日本と米国との間で協議することを認めているものと解される。

七、1951年9月8日に国務長官と内閣総理大臣が交わした交換公文は奄美大島群島(?注ワン)に適用されるものと解される。

いずれにせよ、「返還交渉」の第一ラウンドは、これらの文書を日本側に提示することで終わった。


ロバート・D・エルドリッヂ著
『奄美返還と日米関係(戦後アメリカの奄美・沖縄戦略とアジア戦略)』
(南方新社発行、2003年、3,780円)

伝家の宝刀?



鎮魂譜153
137億61歳?の記憶と記録
2010/2/28(teada=日) 旧1/15


基地「考える会」が解散
徳之島




南海日日新聞2月27日  【徳之島総局】

 「徳之島の基地問題を考える会」(谷岡一会長、6人)の森五十次事務局長は25日、記者会見し、「基地移設に関し、会長とスタンスの違いが生じた」などと述べ同会を解散することを発表した。

 森事務局長は解散理由の一つとして「会長が徳之島町議選に立候補したこともあり、解散することを決めた」などと話した。一方、26日にあった徳之島町議選立候補予定者説明会に出席した谷岡会長は「徳之島3町長に要望書も提出し、当初の目的は達成した」と同会の解散を明らかにした。

 同会は基地移設に肯定的な立場で始動。政府との対話を求める内容の要望書を3町に提出するなどの活動を行ってきた。




おっとぉ~
なんかあやしい
ウラがありそう

今日、阿部知子(社民党)と、徳田毅(自民党)が、徳之島に入っている。

地元の関係者と電話で話したが、
徳之島への誘致には、昨年9月ごろ某元代議士が背後にいたとの事。



鎮魂譜152
137億61歳?の記憶と記録
2010/2/27(micja=土) 旧1/14

南海日日新聞2月28日付

「持続的な林業を」「伐採やめて
森林管理作業部会・奄美市
国立公園化で意見交換



 ▼ 世界自然遺産への登録を視野に入れた環境省の「奄美地域の国立公園指定および管理する検討会」(座長・鈴木英治鹿児島大学理学部教授)は26日、森林管理に関するワーキンググループ(作業部会)を奄美市内で開いた。同会委員と地元関係機関や自然保護団体の代表ら約30人が出席。意見交換会では「保水力などの機能を失う森林の伐採はやめるべき」との問題提起や「50年、100年先を見据え、持続的利用が可能で自然に配慮した林業を考えるべ」といった提言があった。

  環境省の委託で、①伐採後の森林の再生や残地林への影響緩和に有効な伐採手法の検討②森林伐採後の再生過程の把握ーなどの調査を進めている民間研究所がその概要を説明。同検討委員会の久保田康裕琉球大学理学部准教授は「森林の利用と保全では、生態圏系への影響を踏まえてどの程度まで伐採可能かなどリスク評価をすべき」と語った。

  地元からは「人々は自然を守るだけでなく、利用して生きてきた。国立公園化で自然を賢く利用する方法を見出してほしい」との声があった一方、自然保護関係者は、「森林の伐採は保水力を持つ森の機能を失い、赤土の海への流出でサンゴやその周辺の生物の生息にも影響する」「自然に負荷の掛からない伐採方法があるのか」などと問題点を指摘。「加計呂麻島での大規模な森林伐採計画も、観光による経済効果の損失を考えてやめさせるべき」と訴えた。

  それらの意見に対し久保田准教授は森林の利用と保全のあり方について「科学的調査をして自然などへの価値観を除外して議論することが望ましい。生物多様性を考慮した木材生産は高く評価されるべきで、そのためにも根拠となる科学的調査が求められれる。100年先を見据えて持続的な林業を考えていくことが大切」などと語った。

  環境省の奥田直久那覇自然環境事務所長は「日本人は自然と共生して生きてきた。守るべき場所は守り、地域の生活や産業も尊重していこうというのが国立公園化の趣旨。新しい形の林業ができないのか、他の産業と合わせて考えていきたい」と理解を求めた。



この会に出席した友人の感想。
「行政の考え・やり方では、島の生態系は山から海まで徹底的に崩されてしまう。」
「国立公園→世界自然遺産によってゾーニング(保護区分)されると、
保護区林以外の山林は、「林業振興」のお墨付きがつくので禿山になる。」

確かに、「世界自然遺産」の事業主体は、鹿児島県と環境省。
大島支庁と共に、「シゼンイサン」を率先して推進母体となっているのは奄美の土建業の組合である。
なぜか?

「林業振興」の名目で、「林道、作業道」の予算獲得にはずみがつく。
来年度から、奄振の農業整備のための「土地改良事業費」が半減した。
そこで、削られた分、自由に使える「交付金」を、
「林道・作業道」など「林野事業」の公共事業で穴埋めできる。
という、国家戦略だとワンは見ている。
林野事業も林業のためというより、
それに付随する公共事業のためなのだ。

「絶滅にある生物の種の多様性のため」、
とか言っているアマミのシマ島の自然は元も子もなくなる。

「改めて、林業と自然保護問題を考える」
林野事業における、特別会計とは何か?
官僚たちにやられないためには、素人なりの勉強が必要だ。
これは、シマンチュたちの緊急な課題である。

国有林野事業特別会計法、
道路整備特別会計法、
治水特別会計法、
港湾整備特別会計法、
都市開発資金融通特別会計
及び空港整備特別会計...

アマシンの本質がこの特別会計にあるからだ。



鎮魂譜151
137億61歳?の記憶と記録
2010/2/25(xi=木) 旧1/13


南海日日新聞2月25日(社会第1面)

久里砂防ダム計画見直し
コンクリート白紙に
事業着手から10年
奄美市名瀬

 
 ▼ 奄美市名瀬久里町の久里川総合流域防災事業について、県は24日までに、コンクリートダム方式の現行計画を白紙に戻し、工法を練り直す方針を固めた。2000年度の事業着手から10年目。地域住民から計画見直しの声が上がり事実上ストップしていた事業は、住民要望を反映する形で再スタートする見通しとなった。

 計画地は奄美小奥の久里川上流の県砂防指定地。県は高さ14.5㍍、幅80㍍砂防えん提(砂防ダム)などを建設する計画だった。総事業費7億円。未着工だが、施設用地の山林や宅地など6200平方㍍は取得済みで、事業費ベースの進ちょく率は43%。

 県大島支庁や地元住民によると、今月18日、支庁で事業説明会があり、現地視察も行って両者で意見交換した。説明会は昨年11月の県事業評価監視委員会で「継続が妥当」と判断されたものの、同時に「住民の同意を得るための念入りな説明を」との意見が付されたため。席上、住民側の要望に県が応じる形で計画見直しの方向になったという。

 住民側の計画見直しを求める動きは事業着手後に本格化した。運動の中心はダム予定地の隣接地で長年生活する住民ら。過去に大きな災害はなく、ダム壁は逆に風水害を招く危険性があり、生活景観も損なわれるなどと指摘。土砂災害の危険性を前提に計画推進を目指す県とのやりとりは平行線が続いていた。

 県の計画見直しの動きを受けて「砂防ダムに反対する久里町住民の会」の川畑春廣代表(70)は「ほっとしている。今後は計画地に植林などしてもらう形に事業手法を変えてくれるよう要望していきたい」と話した。支庁建設課の岡積登課長は「住民の意向をくむ形で話し合いを進める」と話した。




日本とアジアのタビから奄美大島に還ってきたのは1980年の3月だった。
ちょうど、30年前、30歳。

宇検村枝手久島の石油備蓄基地計画。
徳之島の核燃料再処理工場計画。
1970年代にもちあがったこの二つの反対運動の終息期だった。
石油備蓄基地計画は、鹿児島県の志布志湾へ、
核燃料再処理工場計画は、青森県の六ヶ所村へと変更された。
このとき、奄美の島民たちは、超党派で計画反対の行動に出た。

今年は徳之島への基地移設計画と加計呂麻島の伐採計画だ。
いつまで、続くか植民地の問題。
植民地の原住民たちは、基地と観光では食えないようになっている。
オキナワ、グアム、ハワイ、その他の基地と観光地の失業率がそれを証明している。
食えるのは経済振興(侵攻)してくる連中だけだ。

基地問題は、県外や国外移設ではなく、安保条約の基本的な見直しへ!
伐採計画も、広大な鹿児島県本土でやればいいのだ。
稲田の減反政策も鹿児島県は、糖価保障を担保して、
減反率を奄美地区に押し付けた。
シマンチュたちは忘れてはならない。
これは、奄美諸島の住民にも知らされていないことだ。
ちなみに、日本一早場米の種子島では現在も増反なのだ。
アマミとオキナワの稲作が壊滅したから、「日本一」。
わざわざ、屋久島、加計呂麻島、徳之島という世界的な自然遺産の立地に、
伐採や基地をもってくること自体が、
戦後日本の本土防衛であり、植民地政策の延長でしかない。

※ 1980年、ワンは大島紬の販売組合の職員となり、ネクタイ暮らしがはじまった。
1970年代に闘われてきた韓国紬の輸入阻止や鹿児島県営検査の反対運動。
このことを職場で聞かされてきた。
韓国紬は日韓の貿易摩擦を解消する協定により敗北、現在の大島紬衰退の引き金となった。
鹿児島県との共同検査(共通印)は阻止されたが、衰退の歯止めとはならなかった。
原因は、和装需要と工賃システムによるものだ。

※ 1985年、組合を退職、結婚、「結工房」を旗揚げ、孤軍奮闘したが続かず。
1989年、「奄美古書センター」を始めた年、
宇検村の枝手久島の利権がらみで、右翼・「松魂塾」が「無我利道場」を襲撃した。
襲撃された日、ワンは無我利道場のグループと共に湯湾嶽の観察会で登頂していた。
このグループは、日本のヒッピー系の本流で、
ヤマハのボイコット運動のあと、
枝手久島と徳之島のモンダイに反対するためトカラから入植。
その後も半農半漁で共同生活を営んでいた。
瘋癲系のワンとも親しい間柄だった。
(新婚旅行は無我利道場と海外の枝手久島&加計呂麻島だった)

(^ム^)

さっそく、有志で「奄美を考える会」を発足し、彼等を支援した。
薗博明、西村富明ら。
1990年、全国集会ではあの松下竜一が基調講演で奄美をおとづれた。
これが、ワンの遅い運動会のスタートとなり、もう40歳になっていた。

「奄美を考える会」では、講師を呼んで2カ月ごとに例会を開いてきた。
しかし、奄美の開発問題がその主要なテーマとなり、
考えてばかりいても「しま」の環境破壊は何も変わらない、ということで、
1991年、行動する「奄美の海辺を守る会」を、薗博明らと結成。
大島のビーチやリーフを埋め尽くしていた護岸提や離岸提問題に取りくんでてきた。

やがて、日本国のリゾート法により奄美大島で二つのゴルフ場計画が浮上した。
龍郷町の市理原と、住用村(当時)の市崎一帯。
ここの森林地帯は、奄美でも有数の固有生物たちの宝庫ゾーン。
屋久島が世界自然遺産に認定されたのが1993年。
当時の奄美諸島には、「セカイシゼンイサン?」という概念など全くなかったころだ。
鹿児島県も奄美の市町村もアマシンに浸かって海も山も自然破壊のやり放題。
コレに反対するグループなどまったくなかった。
加計呂麻島の伐採問題もあのころだったら、
住民は騒がず、行政も何事もなく許可していただろう。
そういう意味では、「セカイシゼンイサン」の効用は大きい。

シマの自然を必要に応じて有効に活用させてもらうこと。
自然(母)に保護され、やさしく生かさせているのはヒト(子)であること。
奄美の自然は将来、かならずや宝の山になる、という共通認識から、
1994年、薗博明、常田守らと「環境ネットワーク・奄美」を立ち上げ、
鹿児島県知事を被告人にして、「奄美自然の権利訴訟」に突入する。
長びいた裁判は、「原告不適格」で敗訴(2001年)したが、
事実上、二つのゴルフ場計画は中止となり、森林は残った。
「環境ネットワーク・奄美」は、現在も各シマの環境問題と取り組んでいる。
今、こわいのは、山林伐採のための「林道」建設だ。
加計呂麻島のモンダイだけではない、
奄美大島の各地の森林が狙われている。
そこまで、見ないとやられてしまう。

1997年、薩摩の奄美・沖縄侵略の初戦地、「津代」の裏山で遺骨群を確認。
「三七(みな)の会」を結成。
薗博明、新元博文、藤井勇夫、義 富弘ら。
毎年、旧暦3月7日ごろに、顕彰のための慰霊祭を実施している。

1999年、「ライ予防法(違憲)国倍訴訟の勝利に向けて共に歩む奄美の会」の結成に参加。
勝訴のあと、2002年、「奄美和光園と共に歩む会」に改称。
現在も和光園の存続に向けて活動中。

2002年、旧名瀬市・都市計画の見直しを求める「まちなみを守る会」を結成。
戸内恭次、進修男ら。
同時に「拝み山トンネルを考える会」(元治雅治ら)。
2003年、「砂防ダムに反対する久里町住民の会」(川畑春廣ら)に飛び火した。
これが、今日の新聞報道となったのだ。

(^ム^)

2003年、がんの手術。

※ 日本やアジアでは、いつもタビビト、その他ひとりにすぎなかった。
学生運動は対岸の火事であり、関心は奄美と自分のことだけだった。
アイヌ、オキナワ、タイワン、チョーセン、トーナンアジア・・・
想えば、日本帝国の植民地めぐりだった。
15歳で宗主国カゴンマに留学した。
そのときに被植民地意識が芽生えたのかもしれない。

15年のタビからシマに戻り、足袋を脱ぎ、足を洗ったからだろうか?
シマ島のその時々の状況とともに動いてこれた。

細かいプログラムやメニューは省いたが、運動会はまずは楽しいものだ。
だれのためでもない、ワン自身のためだからだ。
でも、こうやってワンなりの極私的運動会をふりかえり、
記したのはこれが初めてのこと。

「俺はここでユー(たち)と一緒に行動はできない。
俺は、俺のネイティブランドでやれることをやる。
それをやることで、ユー(たち)とつながりつづけたい」

日本とアジアのあまくまで吐き、別れてきた。
しかし、ワンがやれることなど、たかだか身の丈だけだ。

「三七の会」は、今、「鹿児島県の歴史認識を問う奄美の会」の母体となった。
組織など気にしない。
ひとりでもやれることをやっていくだけだ。

状況が予想外の展開になっていくのを楽しんでいるのかもしれない。
そう、運動会はゲームなのだ。
ゲーム イズ オーヴァー?
いやいや、ゲームは らせん状に 進化する。



鎮魂譜150
137億61歳?の記憶と記録
2010/2/24(miji=水) 旧1/11


現在も生きる、喜界島のマスカナとむちゃ加那
先月の朝日新聞
から
参考文献



喜界島から送ってもらった三井喜偵著、『曙の小野津』コピー版(昭和8年)。
その内容は、鎮魂譜(127と128)で紹介した⑤『喜界島古今物語』とほとんど同じである。
よって、これについては省く。

それから、約80年――。
喜界島図書館の得本拓さんから教えてもらった、先月の朝日新聞の記事から紹介する。
2010年1月16日付、「らうんど九州―エンターテインメント」。
「うたのふるさとーむちゃ加那節」(八板俊輔記者ー福岡)。
ちなみ、八板記者(種子島出身)は友人だが、この記事のことは知らなかった。
同じころ、同じテーマを追っかけていたとは、オドロキ!
去年、加計呂麻島の諸鈍芝居を取材していたので、そのときムチャ加那と出会ったのだろう。
この記事で、ワンがあまくま追っかけている「諸説」をシンプルに整理してくれている。

(^ム^)


歌詞さまざま 伝承も諸説

 むちゃ加那節の歌詞はさまざま、伝説も諸説がある。喜界島では、①小野津に着いた後は「ますかな」の名で暮らした②海に落とされたのは5人の子どものうち次女のむちゃ加那、などとされる。主人公の名を「うらとみ」とする説があり、うらとみは唄い伝えた芸人だとの説も。

 加計呂麻島では、①むちゃ加名は徳之島に逃げるつもりで島を出た②むちゃ加名の母は喜界島を訪ね再会した③家の新築用に木材を喜界島に送ったなど。奄美市住用の青久地区には、むちゃ加那の死体が漂着したと伝説がある。青久漂着は、むちゃ加那の母との説もある。

 喜界町が1992年にムチャ加那公園を造ったのは、奄美大島出身の中野律紀さんが、むちゃ加那節で民謡日本一になったのがきっかけ。



 サトウキビ畑に面したこの場所に公園が造られたのは、海を見下ろす斜面に「ますかな之墓」があるからだ。

 郷土史家の吉塚廣次さんによると、ますかなは、むちゃ加那の母。加計呂麻島生まれで、江戸時代、検地で来た薩摩の役人の妻になるのを拒み、小船で逃れ、喜界島の小野津集落に流れ着いたと伝えられている。

 墓には「紀元二千六百二年」(1942年)の建設と記されている。建設者、大村豊七さんの長女である高岡ハツノさん(85)は当時、一家に病人など災いが出たので、ユタ(民間霊媒師)を呼んだことを覚えている。占いで、ますかなが「喪屋」と呼ばれる洞窟から「出たい」と言っていると、告げられたそうだ。

 喪屋は昔の風葬の名残で、集落の数軒の家の骸骨を納めていた。墓石を鹿児島市の業者に注文して取り寄せ、喪屋の入り口に新たな墓を建てた。

 以来、毎年6月の「命日」に親類縁者が集まり、祭り事をしてきた。一家の屋敷は、ますかなが住んでいたところといわれるが、位牌などもなく、直接の先祖かどうか、定かではないという。

 ハツノさんは「海に突き落とすなんて、小野津の人は悪い人じゃありませんか。何百年もたっているから、口伝えで、聞き違い、解釈違いもある。うそも本当も入ってるんでしょう、アハハハ」とほがらかに話す。

 奄美各地で歌い継がれる多くの歌詞は断片的だ。物語の輪郭はぼやけ、謎めいているが、人々の秘めた思いをしのぶよすがになる。

 川畑さんの祖母マツ子さん(84)も小野津生まれ。幼いころ、夜中に人のいない丘の方から三味線が流れてくるのを聞いた。「何の唄かわからんけど、懐かしいシマ唄だった。じいさん、ばあさんは、マスカナーが歌ってると言っていたよ」

 ますかなの遺言で、墓は故郷の加計呂麻島の見える所に立っている。





鎮魂譜149
137億61歳?の記憶と記録
2010/2/23(umaci=火) 旧1/10


かえってきた、むちゃかな

(^ム^)
参考文献

鎮魂譜128(1月17日)

▼ 文久の頃(1860年代)原木は枯死してそのままであったが、明治3年(1870年)の頃、実徳が、慶 カネに手伝わせ、肥料や赤土を入れて植えかえたのが成長して、二代目のトバヤ・ガジュマルを継承していたと昭和16,7年頃までその面影は偲ばれていたが、今は、姿を消したばかりか、小岩さへ取り払われて道路となっている。(本稿は、拙著「曙の小野津」を参照した。都 豊生、同豊厚妻外数歌人の話を総合してまとめた)。(143p)


※ 『曙の小野津』のコピーが喜界町図書館にあるという。
先日問い合わせたら、行方不明になっていた。
「幻の書」のままだ。

^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
※なんと、喜界町図書館の得本さんから、『曙の小野津』コピー版のコピーが先日送られてきた。
うふくんでーる!
読みづらいが、三井さんの直筆で達筆なガリ版刷り。

117~130頁に、「2.ヒガンマシュカナ」として、長文が掲載されている。
「ムチャカナはマシュカナの次女」説の原本だ。
、『曙の小野津』は1932年(昭和8年)ごろ出版とのこと。
昭和8年といえば、「ムチャカナはウラトミの娘」の物語を後世に定説化した
③『奄美民謡大観』(文英吉)が発刊された年だ。

同じ年、加計呂麻島ではウラトミ、
喜界島ではマシュカナという美人の母親伝承と悲話が存在していたことになる。
娘は両島ともに「ムチャカナ」である。
藩政時代に薩摩役人たちの島アンゴ(妾)になることを拒否した女性たちが存在していた。
このウタの伝承はそれを証明していると思える。
「今女」や「かんつめ」は、「ゆかりっちゅ」たちの迫害によって死に至った「やんちゅ」たちの伝承だった。

「しまうた」にこめられたしまんちゅたちの情念がくみとれる。



鎮魂譜148
137億61歳?の記憶と記録
2010/2/22(ciki=月) 旧1/9

真正月からはや9日
タラソがよいがまた始まった
帰りのバス待ちの昨夜9時ごろ、大浜でひとり寝そべった
これ、習慣
星、月、雲、海、山、カゼ、シマ
いつか、どっかで、眺めた夜空だ

礼文島の香深(カフカ)、波照間島・ニシ浜の南十字星、
慶州の瞻星台、台湾の澎湖島、
タイ・ラオス・ビルマのゴールデントライアングル、マレーシアのマラッカ、
バリ・キンタマニのバトゥール湖、スマトラのトバ湖、
インドのダージリン、ネパールのポカラ、インドのバナラシ、
フィリッピンのカガヤン・バレー・・・・・・

想えば、漢民族の周辺ばかりを泳いできたのだった

遠心力?

それぞれのシマの夜空が風や波ととも大浜にも降ってきた

空の世もワンと同じく泳いでいる

一度として同じ景色はない

だから、楽ちば



鎮魂譜148
137億61歳?の記憶と記録
2010/2/20(micha=土) 旧1/7


※ きのうの公開質問状の記者会見、地元紙ではこんなふうだ。
見出しや本文など、両紙のちがいも、このさい、とくと、ごろうじあれ。

^^^^^^^^^^^^^^^^^^


(1) 南海日日新聞(2月20日、10面ー第2社会面)

  
 「宣言」で知事に公開質問
    「事業の中身示して」
  歴史認識を問う奄美の会


 鹿児島県の歴史認識を問う奄美の会(奄美代表・薗博明さん)は19日、伊藤祐一郎知事にたいして、「交流拡大宣言」に関する公開質問状を提出した。昨年11月の沖縄・鹿児島交流拡大宣言が住民の頭ごなしに行われたことを問題視した上で交流事業の内容などを質問、鹿児島県側の歴史認識についても回答を求めた。

 公開質問は県大島支庁を通じて提出した。質問は①「沖縄・鹿児島交流事業」と「交流拡大宣言」②「鹿児島県の歴史認識」③鹿児島県知事との話し合いーの3点。

 交流拡大宣言については「県当局は奄美で準備を進めながら開催日ぎりぎりまで告知しなかったのはなぜか」「宣言には『鹿児島県の過去400年の出来事や成果を踏まえ』とあるが、それを明らかにしてほしい」「交流事業の中身を示してほしい」と質問。

 歴史認識については近世から現代まで奄美の民衆が経験した事例を踏まえて質問。「鹿児島県と奄美の将来を考えていくため」県知事との話し合いを求めた。公開質問は回答期限を3月31日と指定した。

 「問う会」は昨年発足した「交流拡大宣言の中止を求める会」を改称した。この日、大島支庁記者クラブで会見した薗博明さんは「島津の侵略400年の時間的区切りは終わったが、提起された課題は何も解決されていない」と指摘した。鹿児島側(山田隆宣代表)とも連携しながら問題に取り組んでいく方針を示した。



^^^^^^^^^^^^^^


(2) 奄美新聞(2月20日、11面ー第1社会面)


     
    歴史認識の明示を
 鹿児島侵攻400年 知事に質問状提出
      歴史認識を問う会


 「鹿児島県の歴史認識を問う会」(薗博明奄美代表、仙田隆宣鹿児島代表)は19日、09年11月に締結した「沖縄・鹿児島交流拡大宣言」に関連する公開質問状を伊藤祐一郎知事に提出した。薩摩侵攻400年から現在に至るまでの歴史認識を明示し、直接意見交換する場を設定するよう求めた。

 質問状では、同月に奄美市笠利町・県奄美パークであった「沖縄・鹿児島連携交流事業について、開催直前まで奄美群島住民に告知されなかったことを批判し、開催までの経過報告を要望。「交流拡大宣言」に記された過去400年間の「出来事や成果」が示す歴史的事実を明らかにするよう要望した。

 また同会は、1609年以降の奄美の歴史について①薩摩藩支配から現在まで、奄美の民衆がこうむってきた物心両面からの疲弊はおびただしい②薩摩藩の財政は奄美からの黒糖収入によるものが大きく藩産業収入として最大③現在までの400年間「奄美は鹿児島県の植民地だ」という認識と言説があるなどー6項目の見解を示し、県としての歴史認識を示すよう要求。県知事と直接対話できる機会を設けるよう要請した。

 薗代表は「島津侵攻400年の区切りは昨年終えたが、引き続き奄美の歴史を正しく位置づけていかなければならない。交流事業を否定するのではなく、人としての気持ち、思いを率直に出してほしいだけ。鹿児島県と奄美が歴史認識を確認するスタートとしたい」と話した。

 同会は「沖縄・鹿児島連携交流事業」に合わせて組織された「『交流拡大宣言の中止を要求する奄美の会』のほか、賛同団体を統合し、名称を変更。奄美市笠利町手花部・津代古戦場跡の顕彰を続ける「三七(みな)の会」が母体となって構成する。質問状では今年度中の回答を求めた。




吾々は奄美諸島(の歴史と現在と将来)をこんな形で問い、開くしかないのだろうか
せつないねぇ
他人の苦痛など無頓着、知らんぷりの鹿児島県(民)がパートナーでは・・・
これからも、根深い植民地主義者たちとのタタカイになるのだろう
それは、アマミの内外でも「見えかくれ」してきたこと
それぞれのホンネが現われた1年だった
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
そう、2009年はアマミを照らす
カイキ日食だったのだ
くもにおおわれ
・・・・・・・・
ここまで
きた







鎮魂譜147
137億61歳?の記憶と記録
2010/2/19(qugani=金) 旧1/6

 ※ 今日も鹿児島県の出先(支店)である大島支庁(総務企画課長対応)もうで。

鹿児島県知事(本店社長)へ株主の一人として公開質問状を提出してきた。
奄美市会議員の戸内恭次と蘇(いける)嘉瑞人(かずと)、
奄美平和センター(事務局長)の上原義光が同行。
あと、薗博明とワンの計5名。

2009年は1609年をめぐるイベントが数多くあった。
それらに対するワンなりのまとめをしたつもり。

奄美大島にうまれてから烈しい迷走とゆるやかな助走があった。
2009年は軽いホップとジャブだった。
2010年、少しステップするための第2弾、というところか。

だれの?
なんのため?
着地点は?

それぞれの!
いまの、しまぬゆ!
あすの、しまぬゆ!

^^^^^^^^^^^^^^^

「交流拡大宣言」に関連する公開質問状

2010219

鹿児島県知事 伊藤祐一郎様

                      鹿児島県の歴史認識を問う奄美の会

奄美代表 薗 博明

鹿児島代表 仙田隆宜

【趣旨】

20091121日、「沖縄・鹿児島連携交流事業」が奄美市で開催されました。

当該事業に対して、私たちは「『交流拡大宣言』の中止を要求する奄美の会」を組織し、中止を要求(資料1しました。ところが、鹿児島県は一顧だにせず、これを強行、私たちは「交流拡大宣言」(資料2に至る経緯と内容に大きな怒りを感じ続けています。

「島津藩による奄美・琉球侵略400年」の昨年、県内外で多彩なイベント(資料3が催されましたが、提起されたさまざまな課題はなにも解消されていません。奄美と鹿児島県にかかわる私たちは、現在から将来への課題として「1609年」を反芻するべく、この会を「鹿児島県の歴史認識を問う奄美の会」と改称しました。

このたび、私たちが疑問に感じていることを、「公開質問状」として提出いたします。

20103月末日までに、誠意をもって明確にご回答くださるよう要求いたします。

【質問項目】

1.20091121日開催の「沖縄・鹿児島連携交流事業」と「交流拡大宣言」について

1) 当該事業の計画内容を鹿児島県が広報したのは、開催4日前の1118日でした。沖縄県はいち早く報道しており、私たちはこのことを沖縄県のメディアから知った次第です。

県当局は奄美で事前の準備を進めながら、開催日ぎりぎりまで告知しなかったのはなぜでしょうか。しかも、なぜ、奄美で開催したのでしょうか。その理由をお示しください。

(2)       交流拡大宣言には、「薩摩による琉球出兵・侵攻400年という節目を迎えたこの年、過去の出来事や成果をしっかり踏まえつつ」という表現があります。

  「薩摩による琉球出兵・侵攻400年」の結果、直接影響を受け続けている私たちは、鹿児島県の過去400年間の「出来事や成果」がどんな歴史的事実を指しているのか、知る権利があります。県には説明責任がありますので、具体的に明らかにしていただきたい。

3) また宣言は、「今後、両県は、あらゆる分野・世代でより一層の交流を推進し、相互の繁栄を目指して協力することを、ここ奄美の地において宣言し、両県知事が署名する」と締めくくっています。

   私たちは奄美と共に両県が交流を深め、相互に繁栄していくことを望んでやみません。
 ただ、その一方で、当該事業は奄美と鹿児島県との400年間の歴史を検証、確認しないまま、奄美の頭ごなしに幕を引くためのセレモニーだったという認識を私たちは持っています。そうでないとしたら、ご回答ください。
 また、計画している「交流事業」の来年度の事業予算(内訳)と中身などをお示しください。

2.鹿児島県の歴史認識(「過去の出来事や成果」)について

私たちは、1609年以降、奄美の民衆がたどってきた歴史について、次のような事実を特徴的なものとしてとらえています。

1) 1609年、島津軍団による奄美・琉球への「侵略」がありました。

このことについて鹿児島県の歴史書では、「征琉の役(原口虎雄)」「琉球征服(原口泉)」をはじめ、「琉球出兵」「琉球征伐」「琉球の役」等々、バラバラに記載されています。鹿児島県としてはこの400年目の機会に統一見解を示すべきであると考えます。

2) 1609年から幕末までの約260年間、薩摩藩は奄美において、多くの餓死や一揆を招いた黒砂糖の収奪をはじめ、極めて過酷な経営を行ってきました。このことにより、奄美の民衆が被ってきた物心両面からの疲弊は夥しいものがあり、それは現在も継続している課題です。

3) 幕末から明治期に活躍することができた薩摩藩の財政基盤は、奄美からの黒糖収入によるものが大きく、その比重は藩の産業収益として最大であったと認識しています。

4) 明治期から戦前まで、「大島商社「県令39号」「大島の独立経済」等々の第2の奄美差別といわれる奄美政策が継続され、推移してきました。これらの史実についても鹿児島県(民)は認識していません。

5) さらに、奄美の戦後は沖縄と共に「アメリカ世」になりました。

1953年に日本・鹿児島県へ復帰して今年で57年、2兆円以上もの「奄美群島振興開発事業(現)」が奄美の島々に投入され、産業振興の名目で大型の基盤整備事業が続いています。これによって、鹿児島県は事務費をはじめ、県本土と県外の受注業者は多大な利益を確保しています。しかし、地元の奄美には歩留まりが低く、肝心の産業は振るわず、人口は半分になり、世界自然遺産候補の貴重な自然は破壊され続けています。奄美の郡民所得は平成19年度では、鹿児島県の84%、国の67%に留まり、公共事業の果実は郡民の暮らし向きにはそれほど還元されていません。

6) 上記の「出来事」をとおして、「1609年から現在までの400年間、奄美は薩摩藩から鹿児島県の植民地だ」という認識と言説があります。経済とアイデンティティの両面から、「植民地」という歴史認識を持たざるを得ないほど複雑な奄美と鹿児島県との歴史について、鹿児島県はこの400年を機に史実を検証のうえ、相互の関係史を私たち県民と国民に明らかにすべきであると考えます。

  

   以上、私たちが特徴的にとらえる「過去の出来事」に対して、鹿児島県としてはどのような認識をもたれているのでしょうか、「成果」も含めて、各項目についてご回答ください。

3.鹿児島県知事との話し合いについて

1) 2008年、国連の市民的および政治的権利に対する条約(B規約)人権委員会は、「琉球民族(含む奄美諸島)は、アイヌ民族と共に日本国内の先住民族として認定し、文化遺産や伝統生活様式の保護促進を講ずること」と勧告する審査報告書を発表しました。

さらに、2009年、ユネスコは、「奄美語は単なる方言ではなく、消滅の危険にある世界の中の独立語として保全するよう」認定し、勧告しました。

私たちは、これらのことも踏まえ、昨年、「郷土教育に関する陳情書」(資料4や「奄美の自然・文化・歴史等の広報・教育に関する陳情書」(資料5を奄美の全市町村と鹿児島県に提出しました。奄美群島広域事務組合においては、奄美の自然・文化・歴史に関する副読本づくりがスムーズに採択されました。

しかし、遺憾ながら、鹿児島県においては継続審議となっています。鹿児島県は、奄美や沖縄との400年間の「出来事や成果」を県民に広報・周知していく責任があると考えますが、どのようにお考えでしょうか。ご回答ください。

2) 最後に、このことも含め、鹿児島県と奄美の将来を共に考えていくため、県知事と私たちが直接話し合う時間をもうけるよう要請いたします。この機会にぜひ実現してくださいますよう希望いたします。あわせて、ご回答ください。

以上

連絡先:鹿児島県奄美市名瀬佐大熊町1112

894-0005 /0997(53)5681

森本眞一郎





鎮魂譜146
137億61歳?の記憶と記録
2010/2/18(xi=木) 旧1/4

 ※ 午前10時から、鹿児島県大島支庁(建設課河川港湾係)。
県庁本店から幹部が出向してきた。

奄美市名瀬久里町の久里川上流に10年前に計画された「砂防ダム」の説明会。
「砂防ダム」という名称が、「えん提工:高さ14.5m,長さ80.0m」と変っていた。
「ダム」ではやりづらくなったのだろう。

わずか2m幅の小川にコンクリートの塊を建設するというのだ。
ここは、昔からユタ神さまたちが水神に祈る聖地。
予算7億円(うち用地費1.29億円)
まったく事業のための事業でしかない。
詳しいことは省く。

7年前、「砂防ダムに反対する久里町居住者の会」が工事中止を求める要望書を提出した。
この会は、「拝み山トンネルを考える会」と連動、
また、吾々「まちなみを守る会」とも共に行動してきた。

「拝み山トンネル」の方は昨年暮れに「一時凍結」になった。
そして、今日の説明会で、この砂防ダムも「白紙撤回」に追い込み、言質を取った。
これで、向こう5年間は手付かずになり、事実上の「中止」だ。

あとは、奄美市の都市計画だ。
住民主権だぜ、憲法は。


鎮魂譜145
137億61歳?の記憶と記録
2010/2/16(umachi=火) 旧1/3

※ 今日の地元両紙の見出し。

                       
 【奄美新聞】

1・市税1億6千万円減収/市議会22日召集「例年にない大幅減」
2.19日にも地権者供覧/「末広・港の換地案」
3.旧正月に「節田マンカイ」/歌掛けと手踊りで祝う(1面)
ーーーーーーーーーーーーーーーー
4.三献や唄遊び楽しむ/笠利LC恒例の旧正月
5.旧正月2日「インバンの祝い」/名瀬大熊、ノロの辞令書、年に一度公開(8面)
ーーーーーーーーーーーーーーーー
6.徳之島3町長「断固反対」決議/普天間の徳之島移設/覚書で共同歩調アピール
7.2回目の反対署名提出へ/加計呂麻・森林伐採計画で会合(9面)



 【南海日日新聞】

8.徳之島3町長が決議書/普天間基地「移設に断固反対」
9.奄美の65歳以上29.3%/9町村が30%超/09年齢別推計人口
10.換地設計案で審議/末広・港区画整理事業(1面)
ーーーーーーーーーーーーーーーー
11.いにしえの正月楽しむ/男女が掛け唄で手舞い/節田マンカイ
12.島暮らしのこつ学ぶ/関東や関西などから16人/UIOターン移住体験ツアー/奄
美大島・加計呂麻島(8面)
ーーーーーーーーーーーーーーーー
13.天然記念物のオオジロワシ保護/喜界町、餌与え回復の兆し
14.出発ロビーに侵入者想定/奄美空港で対応訓練(9面)


両紙に共通する記事は、
2と10::奄美市の都市計画、
3と11:節田マンカイ、
6と8:徳之島の基地移設

※ 「奄美市の都市計画」は、あまみ庵も立ち退きせざるをえないので深刻な問題だ。
2,002年から「まちなみを守る会」で「見直し」を主張してきたが、とうとうここまできた。
この夏期から、アイアイ広場の街区で工事にはいるようだ。
事業費100億円に群がる政官業の推進派のみなさん、ご苦労様です。
なにひとつビジョンのない廃墟のまちづくり。
どうぞ死ぬまで、ムダなシャブを打ち続けてくださいね。
旧態依然の公共工事なんかではもう手遅れなんですよ。
アマシンで2兆円以上、基盤整備ばっか、結局、産業は振興しなかったでしょうが。
人口は半減、借金は屋上屋。
あなたがただけ、シャブシャブ三昧のマイホーム。

1・市税1億6千万円減収/市議会22日召集「例年にない大幅減」

なにがあってもビクともしない政官業!
スクラップ&ビルドの時代は20世紀で終わり、リサイクルの世紀というのに。
こんなに、ケーキが悪い土俵上での消耗戦。

税金組のなきゃやぁ、ぬん しわすらんてぃ いっちゃりょんかなやぁ
わきゃやぁ 兵糧攻め じっきぃ 首吊りまいじゃが
これが、奄美市民度? 
なきゃとぅ わきゃとぅぬ 島民力?!

^^^^^^^^^^^^^^^
※ アマミの島々に降ってわいた、「徳之島への基地移設」と「加計呂麻島への森林伐採」。
ワンは、これを、アモリウナグ(天から降りてきた女)からの慈雨としたい。
ここで、島民力がまたためされるからだ。

戦後日本の繁栄は、「アメリカの傘」のもとで保障されている(?)。
しかし、傘でぬれないのは「日本国民」だけだ。
具体的には、南西諸島をアメリカの施政権下に置くことで、
「日米安全保障条約」を締結することができた。
昭和天皇は、「日本」のためには、アメリカが「南島」を50年以上は統治してくれ!
と命の恩人であるマッカーサー元帥に要請した。
トカラ・アマミは、沖縄(基地拡大)、対ソ(北方領土返還)、自衛隊(創設)、
その他の戦略上から早期に返還された。
「オキナワ」は日本に復帰しても「日米のための基地」はそのまま存続した。
ハワイやグアムと同じ、基地と観光のための植民地という構図だ。

アメリカの軍事戦略。

軍用空港として、一番安全(?)な立地場所はリーフ上の海上空港である。
辺野古や石垣の白保空港などは、アメリカは戦後すぐから描いていた。
そのモデルとなったのが、隣接する徳之島と奄美大島のリーフ空港である。
他の洋上空港よりはるかに「安全」という。
これ、ほんと(雑誌『丸』から)。

なぜ、安全か?
それは、天災に強いから。
地震、津波、台風時には、リーフという天然の要塞が外洋から基地を守ってくれる。
それに、遮蔽物がないのでクリアゾーンが確保される。
奄美リーフ空港は、米軍機の発着数では長崎、福岡についで3番目に多い。
そういう意味では、今回の徳之島空港への移設問題もその延長線上にある。

^^^^^^^^^^^^^^^^
アメリカ海兵隊という世界No1のならず者企業を徳之島に誘致して、
経済的に得の島となれるの?
ノン!
オキナワのコザやキンやヘノコなどの社交街。
敗戦後、奄美からもかなりのウナリたちが散らされた
アメリカのキチガイに依存していた商店街なども今やオールシャッター通りだ。

経済効果はただひとつ。
日本本国から侵攻するゼネコンがインフラ事業で潤うだけだ。
地元の業者はその残飯あさり。
アマシンの延長→戦争(基地ではない)誘致だ。
島民の安全や自然破壊(含む演習場)など二の次だ。
イクサこそ最大の人権侵害&環境破壊である。

コワイハナシをゆうべ(2月15日)耳にした。

「メリットとデメリットをよく判断すべきだ」
「町長たちが独断で結論をだすようなモンダイではない」
「早く、住民投票で問うべきだと思う」

耳を疑ったが、事実。
ある議員秘書との対話からだ。

奄美は飯の食い方を真剣に考えるときにきている。
いつまでもアマシンに頼っているからこんなことになるのだ。
カゴンマだけではない、
ナントーはジャパンの植民地であることも念頭に入れたい。
1609年から。

あるネット情報では、一連の動きは日米双方がしくんでいる「ヤラセ」という。
「対米従属」というコジキのような神話がある。
吾々は、コレによって官僚とマスコミたちに支配されている、らしい。
実際に、そう思う。



鎮魂譜144
137億61歳?の記憶と記録
2010/2/14(tida=日) 旧1/1


あけまして、おめでとう!
今日は、真正月


(^ム^)



新魂る今年の初(曙)光を!
朝まだき、笠利のあやまる岬にでかけた
母ジマ・ともり(土盛)の隣
まんまる(円)のあまみぞ(水平線)とリーフはまるで広角レンズ
わが親子3人以外は人の影なし
てぃだがなし(オテントさま)は雲の奥

末娘がこの春、受験
その他ゆかりのかりゆし(軽石?嘉例吉?)を祈ってきた

帰り道
シマジマの墓参りにいそしむ、とぅしかた(年方=年配)のうなり(女性)たち
月たちと月こもりの嵩祖祭

先々週、わずかに分咲きだったサクラを観に本茶峠
今日は、鮮やかな緑の葉ザクラに
それでも、三割ほどは緋色の花弁

そこで、しょうぐゎちぬ、三献(サケ&サカナ&シル)!

(^ム^)

すがすがしい気分で父ジマ・さでくま(佐大熊)にもどってきた

ことしもよろしく!

^^^^^^^^^^^^^^^^^^

237 正月歌(しょうぐゎちぃうた)

徳之島,、天城町、浅間 1982.12.27
玉江三家(1932生)・二木マツ子(1913生)

∮♪♪♪∮

1.ソラヨイヨイ
   そらよいよい
   きゅぬ ふくらしや いちぃゆりむ まさり
    今日の 誇らしさは 何時よりも 勝る
   いちぃむ きゅーぬ ごとぅに アレ あらち たぼりぃ ヨンノ
    何時も 今日の 如く アレ あらせて ください ヨンノ

2. くんとぅぬち はんされぇ かほなちゅどぅ やしが

     この殿地(格の高い屋敷)の 奥様は 果報な〔生まれをした〕人 ですが
    くみぃぐらや めぇなちぃ とぅくや くしゃてゐ ヨンノ
    米蔵を 前にして 床に 腰を当てて〔いることだ〕 ヨンノ
    くみぃぐらや めぇなちぃ とぅくや くしゃてゐ ヨンノ
     米蔵を 前にして 床に 腰を当てて〔いることだ〕 ヨンノ

3. ろくじゅういち にぃごてゐ しぃちぃじゅうさんや にぃごてゐ
     六十一を 願って 七十三を 願って
   はちじゅーはちぃ にごてゐ ハレ くんじゅ くまーで
     八十八を 願って ハレ 九十九まで〔長生きして欲しい〕 ヨンノ

6. かいゆしぃが ふにぃや かいゆしぃや ぬしぃてゐ
     嘉例吉の 船が 嘉例吉を 乗せて
    たびぬ いきむどぅい いとぬ ゐぃから
     旅の 行き戻りは 糸〔が張るように凪(な)いだ海〕の 上から

7. うめぇぐゎ はらでゐか しぃましょろてゐ まちゅり
     思い子を 妊娠したら しま(集落)〔の人たちが〕そろって 待つ
    わんちゅりぐゎどぅ まちゅん わ たまくがにぃ
     
わたし一人でも 待つ わたしの 玉黄金(恋人、子どもなど大切な人をいう)

10.ゆるはゆる ふにぃや かくりじぃどぅ かたき
     夜走る 船には 隠れた瀬が 仇
    むじょまちゅる ゆるや どぅしぃどぅ かたき
     恋人を待つ 夜は 〔同じ人を思う〕友達が 仇

11. きばりぃ きばりぃ くとぅしぃ やーにぐゎ きばりぃ

     気張れ(頑張れ) 気張れ 今年 来年は 気張れ
    やーにぃさき なりぃば ぼんさんが あまどぅ
     来年の先に なれば 坊やちゃんの お母さんだ

15. わかしょがちぃ とぅりぃば わんや わかぎぃゆい
    若正月を とれば わたしは 若返っていく
    としゆゆる うやね くとぅどぅ おもゆ
     年をとる 親の ことが 思われる

16. はちじゅうなゆん うやや とぅくぬめぇーなんてぃ いしぃてゐ
     八十になる 親を 床の前に 座らせ
    はちぃのくゎや うとてゐ うまぐゎ おどり
     初の子は 歌って 孫は 踊る

奇数節を甲、偶数節を乙が歌っている。
第6節以降はハヤシ詞を省略、偶数節の歌詞反復も省略した。

正月のほか各種祝いにも歌う。
その際は「今日のほこらしゃ・・・」を最初に歌い、
誕生祝いには第7節の「思い子はらでか・・・」をもってくる。
後は自由に掛け合ってゆく。

『日本民謡大観ー奄美諸島編』から
(日本放送協会編/平成5年)


^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
※ 奄美の島唄に関する一般書には、共通の歌詞がいくつか見えるが
徳之島の正月歌
特に、611の節は大島のワンにはむずぃら(珍)しゃぁ
ありがたく、いただいた

父は今日、後生のシマで101歳
浮世仮シマでは、母はめでたく96、ワンもなんとか61に
次は、踊るワンの初孫を!

(^ム^)



鎮魂譜143
137億61歳?の記憶と記録
2010/2/13(micha=土) 旧12/30



☆「わらべうた」、
「ムチャ加那」とのつながりが!


『日本民謡大観ー奄美諸島編』から
(日本放送協会編/平成5年)


アマミの「わらべうた」を3曲。

(1)唱え歌 「鳩プープー」
(恵原義盛、1905年生、名瀬市根瀬部)

ぷとぅ プープー 

鳩 プープー 
やまとぅ いきゅんち とぅじば ひんぎゃしてぃ
大和に 行くといって 妻を逃がして
みすん かんまで ましゅん かんまで
 味噌も 食べれず 塩も 食べれず
ぷとぅ プープー
鳩 プープ

唱え歌。きじ鳩に歌いかける歌。土地の人はこの鳩の事を唐(から)鳩と呼ぶ

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(2)まりつき歌 「だーちが 行もゆる さおじん主」
(満永アグリ、95歳、住用村役勝)

だーちが 行もゆる さおじんしゅ

どこに 行かれる さおじん主
うゆきが はかじ はないきぎゃ
お雪の 墓へ 花活けに
にぎりぬ てぃーしゃ はな いけてぃ
右の 手では 花 活けて
ひじゃりぬ てぃーしや なだぬがてぃ
左の 手では 涙をふいて
あったら うゆきかな もりしみてぃ
惜しいことには お雪加那を 亡くして

まりつき歌。演唱者によれば、「さおじん主」とは住用を開いた人である。

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(3)まりつき歌、「一に談合談合」
(恵原義盛、1905年生、名瀬市根瀬部)

いちに だんごだんご にに だんご
一に談合談合、二に談合
いとま にり かえって いもらんな さだじろう
暇 二厘 帰ってこないか 貞次郎
やくみぃ にり しんそ しんそぬ かねくゎや
兄貴は 二厘 先祖 先祖の 金っこは
いらんか にり さだきくば いーきん ふてぃ もーろそ
いらんか 二厘 貞菊姉(人名) 一斤送って 貰わそ
うぐらぬ くみ ぬしぃでぃ とぅゆざねしゅんにん しられて

御蔵の 米 盗んで 豊実主(人名)に 告げて
えーむにしゅんに しられてぃ やまとかち じょー むたしぃ
恵宗主に 告げて 大和の方に 状を 持たして
ぐしくぬ なんどかち いちやらしぃ
城の 納戸に 入れてやろ
うやんきゃや よいよい なかしぃ
親たちは よよと 泣かせて
くゎんきゃや よいよい なかしぃ
子らは よよと泣かせて
やまんぼかな
山の坊加那(人名)
いや じゅや じゅーや だち もーしぃもしぃ
お前の 父は 父は どこに 行かれた行かれた
わ じゅや じゅーや やまとかち けんぶしが もーしぃもしぃ
わたしの 父は 父は 大和に 見物に 行かれた
わんや くぬしまなんてぃ ぐんじゅばな さこー さこー

私は この 島で 五十花を 咲かそう 咲かそう


まりつき歌。演唱者によれば、その昔、実際にあった事件を題材として次のような内容を歌ったものである。ある男が砂糖を一斤送ってもらったが足りず、米を盗んだために捕らわれの身となり、鹿児島に送られて牢に入れられた。この父親のことを聞かれた子どもは、「お父さんは見物に行っている」と答えた。

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『日本民謡大観ー奄美諸島編』(日本放送協会編、平成5年、33,000円)から。
これは、すごいホンだ。
全400曲、オール歌詞、解説、楽譜つきの豪華、稀少版である。
奄美諸島の島唄を研究するさいの金字塔、まちがいなし!
執筆者たちもなつかしい方々が。
>酒井さん、久万田さん、寺内さん、内田のあっちゃんたち。
また、解説の>小川さんと田畑さん。
おぼこりありょうたぁ!
今、やっと、引きあわせぬありょうたっと。
なきゃぬ うかぎ
また 拝みょうろう

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さて、本書に掲載されている奄美諸島の「わらべうた」、
76曲中、36曲が「まりつき歌」で圧倒的に多い。
シマの子どもたちがつないできたウタとコトバ。
ふしぎな、というかワンの時代には大和のわらべうたしかなかったから、
ひと時代前のシマの子どもたちがこんな世界を泳いでいたとは知らなかった。

それぞれの曲は実話が背景にあるようだから、さらに意味が深い。

(1):大和に 行くといって 妻を逃がして 味噌も 食べれず 塩も 食べれず、
夫が鳩に嘆いている。
あわれだ。
夫は、なぜ大和に行こうとしたのだろうか?
時代は?職業は?

(2):さおじん主は、お雪の 墓へ 泣きながら 花を活けに。 
お雪はどうして惜しくも死んだのだろう?
お雪とさおじん主の関係は?
主がつくのは、役人層だが・・・

(3):兄姉から送ってもらった一斤の黒砂糖でも足りず、
米を盗み、大和へ牢送りとなった貞次郎
その子、山の坊かなは、五十になるまでシマで生きるしかない。

米を盗んで大和送りにまで?
大和の父はどうなったのだろうか?

^^^^^^

なんとも、切実で、キム苦しいわらべ唄だ。
「逃亡」と「死」と「犯罪」と・・・

シマの子どもたちは、大人世界のウワサやカタリを
このようなウタアシビをとおして伝えてきたのだ。
「本当は●●い、おとぎばなし&グリム童話」の世界である。

「むちゃ加那&うらとみ」の霊に曳かされ続けてどこへやら?
あすは、旧正月だ。
いつのまにか、「シマのわらべうた」の世界にまで連れられてきた。
まさか、シマのわらぶぇたちが、こんなすさまじいウタを唄っていたとは。
魂枯りどぉ!

「ムチャ加那」のナガレ唄や八月踊りなどもこのようにして、
子どもたちの世界でもうたいつがれてきたのだろう。
見てきたように、ムチャ加那のナガレの中には鳩や牛や亀や魚たち、
子どもや親族や老人たちがあちこちの地域で登場していたからだ。
島唄以前か、平行してか、
このような「となえ」や「わらべウタ」や「むんがたり」などの口承によってつないできたのだろう。

なにやら、「ムチャ加那」のアブシ枕になってきた。

どこまでつづく~ぬかるみぞ~!

(^ム^)



鎮魂譜143
137億61歳?の記憶と記録
2010/2/12(kani=金) 旧12/29


☆差別も収奪も今のこと!
歴史は吾々が創るもの

「薩摩侵攻401年」展望
えらぶ郷土研究会例会



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▼南海日日新聞(2009/2/12)―【沖永良部総局】―

 えらぶ郷土研究会(先田光演会長)の第7回例会は11日、和泊町の和泊字公民会であった。町内外の3氏が発表し、会員ら約30人が参加。野鳥の生息に適した環境保全の重要性や「薩摩の琉球侵攻401年」の展望などを考えた。

 南海日日新聞の久岡記者は取材者の視点で薩摩侵攻400年を語った。研究者への取材や琉球新報との連載企画を回顧。奄美内外で約40回開かれた関連行事の意義に触れ、「島の人々は差別体験から歴史を語りがちだが、圧政や搾取だけでは語れない歴史がある。奄美にとって400年問題は過去のものではなく、今を考える問題。401年目の今年は近現代の問題を取り上げ、未来への指針としたい」とまとめた。

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※ いまさらのことだが、やれやれである。
この一年間は、記者にとってなんだったのか。
あいかわらず、そんなまとめかたしかできないの?

「島の人々は差別体験から歴史を語りがち」?
「圧政や搾取だけでは語れない歴史がある」?
具体的には、どういうこと?
「記者の歴史観」を具体的に問わねばならない。

吾々はねぇ、
いつだってアマミの現在の場所から、
鹿児島県との400年間を反芻しているのよ。

1609年からのモノ・コトは、現実のアマミが背負っているシマ島モンダイの原点でしょ?
吾々は、藩政時代の「圧政や搾取だけ」を語っているとでも思ってんの?
とんでもない、思い違いだぜ。
いつも、アマミの現在のモンダイに向き合い続けているではないか。

「差別体験、圧政や搾取」は近代の『奄美史談』から始まる?
「明治の知識人」たちが近代の差別をもとにして藩政時代の差別史観をあおった?
じゃぁ、差別はなかったの?
それを言いはじめているのは、「平成の知識人」たち。
一般のシマンチュは、そんな世界とは無縁なの。
再度問おう、、藩政から今までに差別や収奪はなかったの?

現在進行形だよ、すべての歴史は。
1609年以前も含めてね。
「圧政や搾取だけでは語れない歴史?」、その「歴史」を語ってよ。
誰かの借り物ではない、自分のセリフで!

アマシン、世界自然遺産、シマ島の文化遺産、
2009年に対する相互の歴史認識・・・・・・のすりあわせ。
それらを、具体的に400年の副産物として問うべきなんだよ。
そしたら、1609年まで遡行せざるをえないでしょ?
あなたがたは、鹿児島県とアマミがかかえている現在の矛盾点をもっと追及してよ。
なにやってんだよ!アマミのマスコミたちは。
アマミの現状をどう認識してんの?
立ち位置と軸足はいったいどちら側なの?
と、思わざるをえないのよ。

ったく、何をかいわんや!



鎮魂譜142
137億61歳?の記憶と記録
2010/2/9(umachi=火) 旧12/25

 ムチャカナは「トナエ」?
参考文献


※ 前回、口承文芸における日本民俗学の分類を見た。

(1)神口(叙情性)として、
「ウタ(歌謡、民謡)」、
「トナエ(唱え言、童詞、呪い言葉)」
「コトワザ(命名、諺、ナゾとき)」。

(2)神語り(叙事性)として、
「カタリ(文化叙事伝説、本格昔話、語り物)」、
「ヨミ(祝詞、神降ろし、祭文)」、
「ハナシ(笑話、鳥獣草木譚、自然説明伝承、世間話)」。

南島文学(歌謡)では、叙事性(神語り)が叙情性(神口)に先行するという定説があり、
小川学夫(奄美から)の反論ものぞいた。
しかし、よくわからない。

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⑤前回(141)の⑤三井版「トバヤ、ムチャカナ」は、どう解したらいいのだろうか。
叙情(ウタ)性?叙事(カタリ)性?
奄美民謡で分類している「ナガレ歌」だから、叙事性と思った。
が。

「ナガレ歌について」
(⑨:池野無風/『奄美島唄集成』をまとめた西 忠成の解説から)

▼ 普通「ナカレ(ママ)」とう言っているようである。ナガレというのは、物事の由来や筋道を説く歌という意味であるといわれ、山々の尾根のように続く歌と考え「ナガネ」という人もある。

 ナガレは内容から、古いナガレと新しいナガレの二つの種類に分けられる。古いナガレは詩形が自在で一定の型がない。巫女(ゆた)などが神事で神の出自を語り、島の始まりを説くような荘厳厳粛なものがあり、叙事的である。新しいナガレは八八八六の琉歌調がその基調で、現在の八月踊りなどでも歌われ、男女の情愛を歌った叙情性豊かなものがあり、叙情的である。本来は男女が交互に歌ったのであろうが、文献記録がないので伝承が忠実に伝えれているか、寄せ集められたものか、はっきりしない。

池野無風氏の遺稿は、殆んどが新ナガレ歌に属すると思われる。

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※ ⑤三井版「トバヤ、ムチャカナ」は、琉歌調ではないので、「古いナガレ」=叙事的=語り物である。
哀話(カタリ)をウタってはいるのだが、途中にいろんなモノ・コトが挿入されている。
もしかすると、これは中韻律的な「トナエ(唱え言、わらべことば、呪い言)」ではないか。
そう想い始めたのは、あちこちの地域の動物や子どもが登場することからだ。

また、次回。

(^ム^)



鎮魂譜141
137億61歳?の記憶と記録
2010/2/6(micha=土) 旧12/23

※ 2日間のサボり。
でも、これくらいがほどよいワンぺース。
前回の記述を読み直して、翌日には加筆修正するクセがあるから。

☆ 流れウタ
⑤:三井喜禎/『喜界島古今物語』/昭和40(1965)年/
土俗を物語る島の民謡ートバヤ、ムチャカナ/130~145p
参考文献

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トバヤ・ヤー・ムチャカナ
ちちゃ(喜界)や やー うぬとぅ(小野津)ぬ
トバヤぬ やー ムチャカナ
おささぬり(青海苔) は(剥)にんにゃ
う(行)もらむぃ ぃヤー ムチャカナ

あんま(母)に たん(尋)ねぃてみち
い(行)かばむ やー居らばむ

あんま(母)に たん(尋)ねぃて みちゃりば
たてぬち(縦横)バシャ(芭蕉) う(紡)むち い(言)ちゃん

あじゃしゅ(父主)に たんねぃて みちゃりば
ヰーダー(藺田)ん水汲むぃち いちゃん

やっき(兄)に たんねぃて みちゃりば
あちゃ(明日)ん まひんま(真午間)に
いかばむ 居らばむ うもゆい

行きや行きじゃが ゆくいい(横入) だむしるな
ゆくいいしると わらび(童)ぬ むぬい(言)ゆい

わらびぬ むぬいゆと
口にあつがい(熱粥) ひさりんどう(詰めこむぞ)

中里 むどぅ(戻)ちゃそう
ヤー ふりむんぬ ゆむぃた(言葉)ぬ
ゆわり(為) やたんどう

山ぬ木ぬ がば(たくさん)あてむ
ぐやね木(杖)や みたてぐるしや
をなぐ(女) がば しゅてむ
や、とじ(妻))や みたてぐるしや

山ぬ木やか(枯)りて
あささ(蝉)ぬ にゃ(もう) 里う(下)りて
鳴かずに にゃ むどぅらりむぃ

ぐすく(城久) をどりっくゎや
いきゃ(如何)さぬ をどぅりっくゎ
ににあし(右足) さじ(先)えて
ひじゃい(左)や むむ(股)たち

ちちゃ(喜界)や やー 小野津ぬ
三原さとぅ(里) やど(宿)り
にゃ(もう) ゆらゆらしゅい
こぅち(東風)吹きば ふぇー(南)かち
にゃ ゆらゆら

あがれさきばる(東先原)に 
はみゆる(はびこる)糸(根なし)かずら
うて たぐいたぐい(たぐりたぐりとってきて)
かな(愛人)が たすき しらんばやあ(しましょうね)

トバヤ ガジマルぬ
ゆだむちや(枝ぶりは)
いらいら(ゆらゆら)と ちゅ(美)らさ
すば(側)ぬ ジログジー(次郎小父さん)ぬ
目まゆぬ いらいらと ちゅ(美)らさ


^^^^^^^^^^^


さて、喜界島は小野津の流れウタ。
その後の「うらとみ」や「ムチャカナ」の元になったウタであろう。
この流れウタ、いつごろのウタかは判然としない。
②坂井版「浦富」は、「享保の検地(第一次砂糖総買い入れ制)のころ」。
③文版「うらとみ」は、調所の「天保の改革(第二次砂糖総買い入れ制)のころ」だった。
アバウト「200年ほど前」というところか。

⑤三井版では、
「トバヤ、ムチャカナ」で始まり、
ジログジー(次郎小父さん)」で閉じられる。
ムチャカナが海に突き落とされたことは語られない。
それぞれのシマ共同体(人)の暗黙の了解として、唄い踊られている。
これは、諸詞に共通していた。

見てきた四つの「うらとみ&ムチャカナ」ウタ。
そこには、歌われるその土地土地固有の地名や人物名が挿入されていた。

①「茂野版/ムチャカナ」の固有性(太字にて)

蒲葵屋(クバヤ)ムチャ加那は見ませんでしたか?
海岸に赤牛黒牛がゐるから、それに訊ねてみなさい。」

「赤牛黒牛に訊ねたら、
青鳩親鳩は居るからそれに訊ねて見なさいと云った
親鳩にたずねてみたら、潮尻へ引き込まれたといった。」

「蒲葵の綺麗に立ち並んでゐる処は、與路島の池の上
松の立ち並んで美しいところは、於済の寺(お宮)の上
それが片枝には青鳩が止まってゐる
峰や森には、青鳩親鳩が止まってゐる、
蒲葵屋ムチャ加那を見なかったか何処へいったか知りませんか。」

^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
②「坂井版/ムチャカナ節の由来」の固有性(太字にて)

「うらとみや 浦富 むどぅらめや 浦富
浦富 戻すしや 島ぬふれむん」

チチヤ山(喜界?) 小野津ヌ、 トハヤー
青さヌリ(苔) ハ(剥)ニンニヤ、イ(行)モランナ」

^^^^^^^^^^^^^^^

⑤「三井版/トバヤ、ムチャカナ」の固有性(太字にて)

中里 むどぅ(戻)ちゃそう」

「 ぐすく(城久) をどりっくゎや
いきゃ(如何)さぬ をどぅりっくゎ
ににあし(右足) さじ(先)えて
ひじゃい(左)や むむ(股)たち

三原さとぅ(里) やど(宿)り

あがれさきばる(東先原)

「すば(側)ぬ ジログジー(次郎小父さん)
目まゆぬ いらいらと ちゅ(美)らさ」

^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
⑨「池野版/八月踊り歌ー浦富踊り歌」の固有性(太字にて)

うすく(宇宿)をぅど(踊)りくゎや
いきゃ(如何)しがをぅど(踊)りゅる
   ひじゃり(左)はぎ(脛)さど(先にし)て
右りむむ(股)立てて」

かさん(笠利)はぎジマや/ぎぃま木ぶす三ぶす
   かさん鶴松ぬ/くぅぎ(陰毛)や三筋


用村きょ(美)らジマや/だ(何処)ぬしまと変わて」

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①「与路島の池」「於済のテラ」(瀬戸内での茂野版)
②「小野津ヌトハヤー」(喜界での坂井版)
⑤「中里」「城久踊り」「三原里宿り」「東先原」「ジログジー(次郎小父さん)」(喜界での三井版)
⑨「宇宿踊り」「かさん(笠利)禿げシマ」「笠利鶴松」「用村きょらじま」(笠利での池野版)

 これを整理してみる。
①②⑤は「流れウタ」で、⑨は「八月踊りウタ」。
①と②にはその地域の地名はあるが、主人公以外の人名はない。
⑤と⑨には、その地域の地名のほか、
主人公以外の○○踊り、地名、物語と直接は関係ない人物名までがリアルに登場する。

単純に前後関係を推理してみる。
加計呂麻島にもともとあった①「ムチャカナ」物語。
喜界島にも同時期にあった②「浦富&むちゃかな」物語。
喜界島で、②に加えて伝承されてきた⑤「ましゅ加那&ムチャカナ」物語。
笠利町に島唄や八月踊りとして伝わってきた⑨「うらとみ&ムチャ加那」物語。
やはり、この順番でシマ島を流れたウタではなかろうか。

そろそろこの「ムチャカナ紀行」、終盤に近づいてきたのかもしれない。
思いもかけなかった「ムチャカナ」にひと月も引っ張られてきた。
生間(加計呂間島)→小野津(喜界島)→青久(大島)→生間へ。
実地に詣でて、参拝しよう。
生きてる間に。

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『日本民俗学』(弘文堂、昭和59年、1300円)をのぞいてみた。
「第6章、言語伝承」は,、奄美にもゆかりの福田 晃が執筆している。

短詞章としての「ウタ」と、長詞章としての「カタリ」。

「ウタ」⇔「トナエ」⇔「コトワザ」
「カタリ」⇔「ヨミ」⇔「ハナシ」

「ウタ」⇔「カタリ」
「トナエ」⇔「ヨミ」
「コトワザ」⇔「ハナシ」

韻律を伴う「ウタ世界」は、「歌謡や民謡」として、
中韻律的な「トナエ」は、「唱え言、童詞、呪い言葉」として、
非韻律的な「コトワザ」は、「命名、謎、謎とき」として、継承されてきた。

韻律を伴う「カタリ世界」は、「文化叙事伝説、本格昔話、語り物」として、
中韻律的な「ヨミ」は、「祝詞、神降ろし、祭文」として、
非韻律的な「ハナシ」は、「笑話、鳥獣草木譚、自然説明伝承、世間話」として、継承されてきた。

^^^^^^^^^^^^^^^
『奄美民謡誌』(小川学夫、1979年、法政大学出版局)にもあたってみた。
こういう機会(テーマ)がないとなかなか読め(ま)ない。

南島歌謡(文学)の発生論をめぐる決着はまだついていない。
叙事詞と抒情詞はどちらが先か?という鶏卵の論争だ。
リング上には、小川学夫(奄美)vs外間守善(沖縄)&小野十朗(鹿児島)。

小川は、奄美の歌掛け(島唄や八月踊り)を論拠にして、
叙事世界と叙情世界とは不可分であり、
両者の境界(時代)の説明はつかないとする同時発生論者。

外間&小野チームは 「おもろさうし」と「琉球王権」を論拠に、
呪祷歌謡(文学)→叙事歌謡(文学)→叙情歌謡(文学)→劇歌謡(文学)とする変遷論者。

まぁ、「日本」民俗学者たちの敷居の高い「学的」世界である。
素人のワンなどにはほとんど無縁の論争だが、
奄美の流れ歌や歌掛け(八月踊りやシマ唄)を軸にすることで、
学会の大向こうたちと大論争を続けている小川学夫に分がありそうに思える(思いたい)。
(谷川健一&山下欣一vs外間守善などの「ユタとノロの発生論」も同じ土俵にありそうだ。)

そういうバトルも必要だろう。、
が、モンダイなのは、現在、存亡の危機に瀕している、
「アマミの自然」と共に、
しまぐち、しまうた、しまをぅりなどの「しまの世文化」だ。
数々の消え行く無形文化財であるシマ島の宝たち。
これらをどう継承していくか、現実の具体策の方がワンには早急な課題だ。



鎮魂譜140
137億61歳?の記憶と記録
2010/2/3(mizi=water) 旧12/20

☆ イキな別れ!
八月踊り

⑨:池野無風/『奄美島唄集成』
1983年/八月踊り歌ー浦富踊り歌/174~176p
参考文献

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『奄美島唄集成』(1983年、道の島社
池野無風、明治33年、笠利町用生まれ
あのスゴイ!伊集院リキさんは無風さんの娘さん。

「うらとみ&むちゃかな」の物語ウタは、
大島のシマジマの八月踊りにも広く定着している。
いつごろからか?
それを少したどってみたい。

今日は、笠利町の用村の「浦富踊り歌」を掲載する。
これは、「踊り歌」であって「遊び(三味線)唄」ではない。
うたわれているシマグチは、カサン(笠利)のユウ(用)グチ。
ワンのアンマァ(母)は、笠利は宇宿(うすく)の土盛(ともり/供利/艫/泊/=港)ジマ。
歌詞の大半は理解できるが、読みやすいように原文にはない漢字を加えた。
それでも分からない単語がいくつかある。
ありがたい、宿題としよう。

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① 浦富や浦富/戻らむぃや浦富
   浦富や戻すしゅすぃや/島ぬふ(触)れむん(者)ど

② きゃぁ(喜界)や小野津ぬ/トバヤぬムチャ加那 
   おうさぬり(青海苔)はぎに/行もらむぃやムチャ加那

③ あんま(母)に尋ねれば/縦横芭蕉う(紡)みしゅり
   じゅう(父)に尋ねれば/行きゃばもをぅ(居)らばまも

④ あごせ(伯母)ゆく(欲)どれむん(者)や/さんがすぃ(?)掛けろち言うり
   さんがすぃ掛けときぃば/たてぬき(縦貫)しょすぃち言うり

⑤ 縦貫しょしう(置)きば/捲きしょし行きち言うり
   巻きしょしうきば/う(織)りしょし行きち言うり

⑥ うりしょしうきば/う(織)りき(切)ち行きち言うり
   うりきちうしゅいきば/縫いしょし行きち言うり

⑦ ぬいしょしうきば/う(其)れ着ち行きち言うり
   うり着ち行けば/側入り横入りするな

⑧ 側入り横入りすぃれば/わらぶぇ(童)ぬ見し語りゅん
   わらぶぇぬむん(物)言うんむんな/熱(あつ)湯しよごし取らそ

⑨ てぃだん(太陽)やさんとぅき(申時=16時))下がり/ムチャ加那やむど(戻)らぬ
   あわれムチャ加那や/なん(波)に引きゃされて

⑩ 浦々崎々に/青鳩や黒鳩
   青鳩や黒鳩/のきょしょすぃ離しゅすぃや

⑪ 山ぬ木ぬ枯れて/あしゃしゃ(蝉)ぬ里う(降)りて
   あしゃしゃぬ里うりて/鳴かなだやむどりゅむぃ

⑫ うすく(宇宿)をぅど(踊)りくゎや/いきゃ(如何)しがをぅど(踊)りゅる
   ひじゃり(左)はぎ(脛)さど(先にし)て/右りむむ(股)立てて

⑬ うすくはぎぃ(禿)じま(島)や/ぎぃまぎぃ(木)ぶす三ぶす
   吾きゃがきょらジマや/真照りや照りゅり

⑭ かさん(笠利)はぎジマや/あや(綾)てだん(太陽)ぬ照りゅり
   ○○きょらじまや/ま照り照りゅり 

⑮ かさんはぎジマや/ぎぃま木ぶす三ぶす
   かさん鶴松ぬ/くぅぎ(陰毛)や三筋

⑯ 山くぅぎやあても/や(家)倉葺かれゆむぃ
   加那が肝休み/あればよたか

⑰ 用村きょ(美)らジマや/だ(何処)ぬしまと変わて 
   いじ(出)立ちゅるまぎり/荒さきょらさ

⑱ をなぐ(女)が身まぁ(生)れとて/シマぬあられょむぃ
   里(=つれあい)がをぅ(居)るシマど/わ(吾)シマなりゅり

⑲ をぅすじ(尾筋)は(走)るむずぃ(水)や/さくと(求)むぃて止まろ
   わ(吾)ぬや加那とむぃて/泊まろ

⑳ 朝しゅ(潮)満ちゃ上がりや/かむ(亀)ぬ首い(出)じゃし
   よ(夜)ねしゅ満ちゃがりや/はんぎぇ(動き)いじゃし

(21) 朝しゅ満ちゃ上がりや/かむぬゆう(魚)ぬしゅとぅき(潮時)
   よねしゅ満ちゃ上がりや/わきゃ(吾等)がしゅとぅき


^^^^^^^^^^^^^^^^



大島紬の産地、笠利地方ならではの句がはいる。
芭蕉の紡ぎ方から織って、着て、外出するまでの流れうた。

子どもは横からモノを言うな!
熱い湯を飲ませるぞ。

かわいそうにムチャ加那は波にのまれて。

青鳩や黒鳩も残らずに離れてしまった。
里に下りた蝉は、鳴かないから戻ってこない

また、藩役人を懲らしめたという有名な笠利鶴松の陰毛のハナシも。

最後の⑳(21)は、朝の満ち潮になり、「亀が首を出してきたよ」だ。

(^ム^)

お互いの行き先の潮時をを告げ、イキな別れ!
明るく、深く、つないでいく。
ムチャ加那の魂を鎮めながら、
おおらかに歌い踊りこんでゆくしまぬゆだ。

各シマの老若男女が、夜を徹して7日7夜、朝まで歌い踊った八月をぅどり。
ワンはこの八月をぅどりこそが「しまぬゆ」の「ウムイ」の原点であると確信している。

また、この「うらとみ」八月ウタのナガレの根は「むちゃかな」からのようだ。
⑤:三井喜禎/『喜界島古今物語』の流れウタがそれを物語っている。
この句を基にして、シマジマではそれぞれのシマ名を中に入れて組み立てている
誰が?どうやって?

次回はそのモトウタを。



鎮魂譜139
137億61歳?の記憶と記録
2010/2/1(ciki=moon) 旧12/18

☆ 謎めき!
「うらとみ&むちゃかな」

参考文献

※ 

「うらとみ&ましゅ加那」は、
実は「ムチャ加那物語」の伝道者(遊女?)という説が⑧と⑪で出てきた。
とすると、大胆な消去法でいけば、
実在した(?)悲劇のヒロインは、ただひとり。
喜界島の小野津のリーフに沈められた「ムチャ加那」だけになる。
新話(うわさ)と真話がモザイクになっているのだろう。

ワンのこの「ムチャカナ紀行」の最後には、一覧表を作成する予定だが、
今しばらくは、「ムチャ加那」を主人公にしたウタ(流れ歌や八月踊り歌)を見てみたい。

1992年、中野律紀が15歳で日本民謡大賞を受賞した。
受賞曲は、「むちゃ加那節」。
その歌詞は、これまでにも出てきたが再録する。
「シマウタ」の場合、これ以外の歌詞で唄うウタシャはいない、と思う。

^^^^^^^^^^^^^^^

(1)ききゃ(喜界)や小野津の とばや(十柱)むちゃ加那
あお(青)さ ぬり(海苔)は(剥)ぎが いもらめや むちゃ加奈
(「むちゃ加那」)

(2)うらとみやうらとみヨイ むどぅ(戻)らめやィ うらとみ(ソラノヨーイヨーイ)
(アレむどぅヨーらめィやィ うらとみ)
うらとみむどぅすしゅ(人)やアレ しまぬヨーふりむんどぅ(スラーノヨーイヨーイ)
アレしまぬヨーふりむんどぅ
(「うらとみ」)


^^^^^^^^^


諸説入り乱れて、ワンも、まちぶっ(混乱し)てきた。
古い文献からおさらいしてみよう。

①:茂野幽考の『奄美大島民族誌』は昭和2(1927)年。
「うらとみ」は登場しない。
下の歌は加計呂麻島は生間の森實和志翁からの採録。
「ムチャ加那と親族」だけである。
②:坂井友直著『喜界島史』は①から4年後の昭和6(1931)年。
喜界島での聞き取りで、生間の「浦富」が小野津で「ムチャ加那」を生んだと伝えている。
とすると、「ウラトミ」は、やはり喜界島で「創出」された伝説かもしれない。
「ましゅ加奈」もそうだった。

上の歌詞(1)は、長い流れ歌の打ち出しの歌詞でもある。
シマジマの八月踊りに見られる「うらとみ」も、ほとんどがこの歌詞を基調としている。
気持ち長いので、茂野の「解釈」だけ掲載する。
「ムチャ加那流れ」の初出である。(茂野ー290p)

^^^^^^^^^^^^^^^^^^

喜界小野津の蒲葵屋ムチャ加那
青海苔を採りにいきませんか
行きたいけれども母さんに聞いてみます。

母さんは行ってもいいと云った
伯母さんは行ってはいけないと云った
姉さんは家で仕事をしなさいと云った
そして、行ってはいいが、あっちこち歩き廻るとあとでひどい目にあはせると云った。

蒲葵屋ムチャ加那は見ませんでしたか?
海岸に赤牛黒牛がゐるから、それに訊ねてみなさい。

赤牛黒牛に訊ねたら、
青鳩親鳩は居るからそれに訊ねて見なさいと云った
親鳩にたずねてみたら、潮尻へ引き込まれたといった。

蒲葵の綺麗に立ち並んでゐる処は、與路島の池の上
松の立ち並んで美しいところは、於済の寺(お宮)の上
それが片枝には青鳩が止まってゐる
峰や森には、青鳩親鳩が止まってゐる、
蒲葵屋ムチャ加那を見なかったか何処へいったか知りませんか。

潮の満ちあがった時
太陽が西へ落ちてゆく夕まぐれ
蒲葵屋ムチャ加那は、潮の流れに引き込まれて死んだ。

^^^^^^^^^^^^^^^^

次に上記(2)の「うらとみ」の歌詞が文献で現われるのは、
②『喜界島史』の坂井友直を嚆矢とする。(坂井ー313~314p)

【浦富(ムチャカナ)】

うらとみや 浦富 むどぅらめや 浦富
浦富 戻すしや 島ぬふれむん

【トハヤームチャカナ】 

チチヤ山(喜界?) 小野津ヌ、 トハヤー、
青さヌリ(苔) ハ(剥)ニンニヤ、イ(行)モランナ 
 
アンマ(母)ニ尋ネテ行カバン、居ラバン
アンマ イ(行)チュシムンヌ、
タテヌチ(縦横)バショウ(芭蕉) ウ(績)ミチ ユ(言)リ、
アジヤス(父)ニ尋ネテ 行カバン、居ラバン
アジヤス イ(行)チュシムンヌ、
田ノ水 シ(汲)ミチ イ(言)ユリ


^^^^^^^^^^^^^^^^^^^


※ ③文英吉の『奄美民謡大観』(昭和8年、1932年)は、この①茂野と②坂井のミックス版といえる。
③文英吉の創作(?)を引き継いだ④昇曙夢の『大奄美史』によって、
「うらとみ&むちゃかな」が定着していったのだろう、か?
(どうもそうではなさそうだが)
それら以前からシマ島に広く定着していた物語ウタだったのだろう、か?
また、これらの物語が、シマ島の八月踊り歌にいつごろ組み込まれていったのだろうか?
八月踊りの歴史は、さらに闇の中だが、その流れ方なども関連して探索してみたくなった。
(藩政時代には禁止になったりしている)

①茂野と②坂井は、昭和の初期に、現地で古老たちから聞き取りをしている。
 ③文英吉の著書も昭和8年だ。
古老たちは、江戸末期から明治初期の生まれだろう。
昭和の初期に、これだけあちこちで諸説があったということは、それ以前、
古老たちの父母や祖父母たちの時代のムンガタイ(物語)だったのだろう。

「ムチャ加那紀行」の出口はまだまだ先のようだ。
いや、入り口に着いたばかりだろう。
さて、その先は?
急がばまわれ!

(^ム^)



鎮魂譜138
137億61歳?の記憶と記録
2010/1/31(θeda=sun) 旧12/17


☆ 「ましゅ加那」や「ウラトミ」は、回りゾレ(遊女)?!

⑧:小川学夫/『奄美の島唄』/1981年
奄美大島・喜界島の歌/うらとみ節(一名「むちゃ加那節」)/48~51p
参考文献

▼ 「うらとみ節」「むちゃかな節」二様の呼び名があるが、
「うらとみ節」という所が圧倒的に多いようである。

この歌にまつわる伝説は色々とあって、どれが真相だとはいい切れないが、
最も良く知られているのは文英吉著『奄美民謡大観』にあるものである。
(後略、③文英吉版とあらましは同じ)(小川・48p)

^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^

 小川さんは奄美の島歌研究の第一人者である。
北海道から徳之島・大島に移り住み、
誰よりも多くの場数を踏み、文献などを渉猟してきた方だ。

その彼が、
「この歌にまつわる伝説は色々とあって、どれが真相だとはいい切れない」
とする意味は大きい。
それほど、この歌には諸説があり、結局、真相は闇の中ということである。

^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^

▼ なお、喜界島に伝わる話によると、この「うらとみ」は「ましゅ加那」ともいわれ、
歌と三味線の上手な女であったという。
小野津の人々が、彼女が流れ着いたのに気付いたのは、
舟の中から、すばらしい歌が聞こえてきたからだといわれる。
(④三井喜禎著『喜界島古今物語』)

どうもできすぎた話で、そのまま信ずるには抵抗があるが、想像の輪を広げるならば、
この人物はこの伝説の主人公というより、伝説を流布した人のように思われてならない。

全国に義経伝説や小野小町伝説が山ほどあるのは、多く旅の芸人が物語を伝えるうちに、
それを聞く人々が、その人を物語の主人公と錯覚してしまった結果だといわれる。
「うらとみ」と「ましゅ加那」の場合もちょうどそんな関係だというのは、いいすぎであろうか。(小川・50p)

^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
※ ⑪:籾芳晴/『奄美 島唄ひと紀行』
では、
加計呂麻の吉川実さんの調査を、次のように紹介している。

うらとみはムチャ加那の哀話を歌って門付けをした回りゾレ
(春をひさぐ女。黒糖収奪が厳しくなるにつれて貧富の差が大きくなり、
ゾレに身を落として露命をつなぐ女性が増え、明治初期まで存在した。)(
籾・32p)


つまり、「うらとみ」は、「ムチャ加那哀話」を歌い伝えた遊女だった、という。

小川さんは、旅芸人の「ましゅ加那」が、「うらとみ物語」を伝えたのではないか、とする。

この二人には、ウタやカタリの媒介者である「旅回りの遊女」という視点が共通している。
大和では、旅の宗教家・芸人・職人・商人・修検者たちが担っていたのだろう。

^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^

▼ かつては流れ歌のように、むちゃ加那が友達に誘われて海に行き、
うらとみがそれを追って入水するまでの経過が、めんめんとうたわれていた。
今では八月踊り歌として、それを残している地域があるようである。(小川・50p)


^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
 あすは、その流れ歌を八月踊り歌としている地域に流れてみる。



鎮魂譜137
137億61歳?の記憶と記録
2010/1/30(micya=土) 旧12/1
6


青久<住用<大島のムチャカナ墓地

⑦:籾 芳晴/『碑のある風景』
昭和55(1980)年/鬼哭啾々ームチャカナの碑/226p
参考文献

※ あまくま道草をくいながらのウタ紀行、はかど(捗)らんやぁ。
いつまで続くぬかるみぞ~
12冊選んだ参考文献もやっと折り返し点、アクセル吹かすか。
それとも、ゴーイング 吾ん ウエイで・・・

籾(もみ)さんは、南海日日新聞社の報道部長時代、
100回にわたって、『碑のある風景』(¥2415)を連載した。
今から30年前のすばらしいお仕事の果実を、
ワンは今でも享受させていただいている。
2003年、65 歳でお亡くなりになった。
『山桜、散る朝~ある新聞記者のがん闘病記~』にくわしい。
(籾とし子著/2004年/¥1500)

「笠利町津代の戦跡」(『碑の―』172p)を調べていた1997年ごろ、
生前の籾さんといささか議論したことがある。
「西郷隆盛に関する記述だけは手ぬるいですね。
あんなに薩摩を批判している籾さんなのに」
「家内の身内が西郷に従軍して戦死したんで、書きにくいんだよ」
ということだった。

^^^^^^^^^^^^^^^^

▼ ウラトミ、ムチャカナ親子を主人公にした歌もあり、各地にいろんな伝承があるが、
住用村青久には、流れて来たムチャ加那の遺体を葬ったという墓があり、
同村教育委員会が案内板を建てた。(227p)

▼ 喜界島の伝承では、
ムチャカナの母を、これも大島から流されたマシュカナという三味線の名手だという説や、
結婚相手についてもいくつかの異説がある。
春の海に消えた母娘の秘話は「ウラトミ節」、「ムチャカナ節」として残る。
ムチャカナの墓地は喜界にも説があるが、青久のそれは小川で村と仕切られ、小高い丘にある。
あたりは原始の静けさを保ち、玉石を洗う川の流れと打ち寄せる波。
それに盛夏の訪れを告げるセミの音だけが流れる。(228p)


^^^^^^^^^^^^^^

※ 大島は住用村(現住用町)の青久に佇むムチャ加奈の墓地がここにきて初登場。
また、ウラトミ=マシュカナ説も新聞で広く紹介された。
マシュカナ説は⑤三井喜禎が『喜界島古今物語』で初めて採りあげたのだった。
しかし、籾のストーリー全体は③文英吉の『奄美民謡大観』を基調にしている。

ここにきて、あらかたの異説が出そろった感がする。
と、思いきや、籾の遺作となった⑪『奄美 島唄ひと紀行』(2001年)では、
ムチャカナの母親は「アハバ(アハ)加那」だったという新説が登場してくる。
また、同時期の⑫義 富弘の『しまがたれ6・7号』で、「アカバカナ(生間)→うらとみ(小野津)」だ。
アハ(カ)バカナ?

※ アマミ・ウワサ歌のまさに真骨頂!
今から200年前の伝承世界のこと?
まるで去年のスキャンダルのよう。
固有の墓地・祠・人物などが、際限なく登場してくる。
「ウラトミとカンツメ」母娘の怨念ムンガタイ(モノ語り)。
アマミの北3島ではこうやって現在も生きのびている。

たかだか一編のカタレゴト、ひと節のウタ。
「唄って、囃して、ひと踊り!」などとあなどってはいけない。
そこには、かぎりなくまつわる霊たちが浮遊していて、
自分たちのことを唄い、語り、踊る者たちをまぶ(目守)っているのかもしれない。
「マコトを伝えろ!」
シマ島の「しまぬゆ」を最底辺から支えてきた「シマガタレ」、「シマウタ」、「シマヲゥドリ」・・・・・・
鎮魂と再生と循環と・・・・・・


鎮魂譜136
137億61歳?の記憶と記録
2010/1/28(tree=木) 旧12/14



☆ 島尾ミホの「うらとみ」

⑥:島尾ミホ(他)/『奄美の伝説』/
昭和52(1977)年/うらとみ/254~282p
参考文献


▼ ムカシ シマ ヌ ナファンユ ハラ ヤマトユ ナタットゥ、
 ヤマト ハラ ダイクヮンサマ ヌ クダティ ウモチ、
 シマヌ サバクリ シュングトゥンシ ナタム チ。

(昔 大島が 沖縄の世 から 薩摩の世(に) なったら、 
薩摩 から 代官様 が 下って いらして、
 島の 支配(を) するようになった。)

ウン ダイクヮンサマ ヌ クゥトゥ バ シマ ヌ チュンキャ ヤ 
ヤマトトゥノガナシ チ シリャレティ 
ジーキ ウヤグモサ ウトゥルシャ シュータム チ。

(その 代官様 の こと を シマ の 人たち は 
大和殿加那志 と 申し上げて 
とても あがめて おそれて いた。)
(254p)

^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^


⑥島尾ミホ版の「うらとみ」。

出身地の加計呂麻島は旧鎮西村押角(おしかく)のシマグチで27頁、語(綴)られている。
話のあらすじは、これまで登場した③文英吉版④昇曙夢版と似通っている。
おそらく、島尾敏雄がこれを基に下敷きを書いたのだろう。
記録とは、げにおそろしい。
「うらとみ(節)」や「とばやむちゃかな(八月踊り)」の物語。
これを吾々後世に定着させた感がある。
ところが、地元の瀬戸内、喜界、住用の各シマ島では、
これらのハナシ以外にも多様な広がりと深みで根づいている。

^^^^^^^^^^^

(1)場所は、加計呂麻島、渡連間切の「イキンマ」(生間)
(2)ヒロインは、「うらとみ(18歳)」
(3)「うらとみ」は「百姓娘」
(4)時代は、「今から200年前」
(5)「うらとみ」をアンゴ(島妻)にできなかった男は、「薩摩の代官様(大和殿加那志)」
(6)代官にアンゴを差し出す役職は、「シュドンのシュータ」(諸鈍の役人)
(7)代官の仕返しは、「親兄弟とその親類縁者たちへの年貢増」や、「生間集落へのしめつけ」
(8)「うらとみ」が漂着した場所は、喜界島、小野津の「とばやの浜」
(9)「うらとみ」を介抱したのは、男やもめの百姓。
(10)生まれた子どもは、「ムチャカナ」
(11)「ムチャカナ(16,7歳)」を嫉妬し水死させたのは、村の年ごろの娘たち
(12)「うらとみ」は、「頭が大きくなって」、「海の中にはいっていった」
(12)「ムチャカナ」は、三日後に小野津の浜に上がる。
(13)父は、「ムチャカナ」の遺体を「泊の上のとばや」に埋める
(14)父は、墓の印にガジマルの木の枝をさかさまに立てて置いた。
(15)ガジマルの枝葉は、「30何間」もの巨樹に育ち、名高くなっている(現在形)
(16)「うらとみ」の水死体は、上がってこない。

^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
※ それから200年後。

島尾敏雄が、大和を守るため奄美の加計呂麻島に進軍してきた。
大平ミホは、駐屯した特攻隊長さまと相思相愛となる。
隊長さまがいざや出陣の折には、ミホも岩場からあとを追い自決する覚悟だった。
なんとも大時代なお話ではあるが、実話だ。
エリート・トシオの出発(死)はついに訪れず、
晴れて、ミホはトシオの妻となる。

彼女は、どんなウムイで「うらとみ・ムチャカナ」の悲話と哀歌を消化していたのだろうか。

「うらとみ・ムチャカナ」の出自を貧農民とするカタレ(伝承)と、
親は琉球からの与人や島役人で、祝女(ノロ)スジだったとのカタレがある。
ミホも琉球系のゆかりっちゅ(支配階級)で、祝女の後継者だった。
愛(まな)娘ムチャカナを海に追い、果てたウラトミ。
トシオをお慕い続け、87歳まで喪に服し生きぬいたミホ。

※ ときは現代。

ウラトミは、小野津(喜界島)の墓地。
ムチャカナは、青久(大島)の墓地と生間(加計呂麻島)の祠に。
ミホとトシオと愛娘のマヤは、念願の呑之浦(加計呂麻島)の墓地で共に眠る。
それぞれの海辺の生と死、その明暗を想う。

^^^^^^^^^^^^^^^

※ あす(1月30日)は、島尾伸三の講演がある。
所は、奄美図書館。
演題は、「奄美と琉球―その魅力」

「琉球弧(奄美と沖縄)」の提唱者であるお父さん、さぞやお喜びのことだろう。

 また、同会場ではひきついで、沖縄からの講演会もある。
タイトルは、「道州制論議・沖縄では今!~沖縄道州制懇話会からの報告~」

「徳之島への普天間移設」「トカラ列島」などと、「道州制」の中身が論議されて欲しいものだ。
「トカラの1609」を射程に入れている人がこの世にいるだろうか。
宇宙でも数名かも。



鎮魂譜135
137億61歳?の記憶と記録
2010/1/27(water=水) 旧12/13

☆ 勝者の記録、敗者の記憶

義さんから追伸があった。

^^^^^^^^^^^^^^

▼ 瀬戸内町のウラトミ節は長い叙事詩、流れ歌になっています。
大奄美史にその歌詞(ネンゴ)が載っていませんですか。
その始まりは
 
「蒲葵(コバ)の立ち美(きょ)らさや
 真与路の池の上の蒲葵
 松の立ち美らさや
 於済(ウセ)の寺の上の松」です。
 
残念ながら私はウタシャでないので全部を覚えていません。

^^^^^^^^^^^^^^^
※ 

「瀬戸内町のウラトミ節は長い叙事詩、流れ歌になっています。」

『大奄美史』には歌詞が7節のっている(368~340p、復刻版、¥9,200)。

文字を持たない島人たちの口承世界

勝者の記録(書)、敗者の記憶(唄や語り)

記録の陰影をあぶりだし、記憶のカケラをつないでいく

ウタとカタレ(伝承)はこうして漂流し、根付いていくのだろう

たむぃだむぃ(民々=それぞれ)ぬ 「しまぬゆ」とぅ まーじん(ともに)・・・・・・



鎮魂譜134
137億61歳?の記憶と記録
2010/1/25(ciki=月) 旧12/11

☆ 週刊文春の1月28日号(63p)

きのうの与論島クオリア(1/24)
向いの楠田書店で早速立ち読み、いや買ってきた。
なんと、あの福岡サン、全国版であまみ庵の宣伝マンに・・・
大量のご購入だったので、「カッパ・ブックス」はオマケした、そのお返し?

(^ム^)

『週刊文春』のホームページ
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^

『週刊文春』2010/1/28号「福岡ハカセのパラレルターン」
~やわらかなサイクル~(63p)

 ▼ こんな町なら住んでみたいなと思う場所がある。
奄美大島名瀬。
通りを歩くと生暖かい風とほどよい湿り気を感じる。
アーケードの商店街とそこに通じる街並は懐かしい匂いがする。
なんだか日本ではなくてアジアの小都市にいるようだ。

 福岡ハカセが特別すばらしいと思うのは、とある街角にある「あまみ庵」。
蕎麦屋のような名前だが、れっきとした本屋さんである。
それも独自の哲学を持った。

 店内は少々雑然としているが、その品揃えがすごい。
奄美の歴史や風土に関する数多くの専門書や資料。
地域の小出版社が出しているものもそろえられている。
島唄コーナーには、CDやテープ、DVD、そしてなによりも一般書が楽しい。
新しい本もあるけど、ああそういえば昔、これはやったなあ、でもちっとも分からなかった、というような本が並んでいるのである。
つまりあまみ庵の本棚には、本好きの「読書歴」の時間がそのまま流れている。
 
 店主、森本眞一郎さんが、自分で読んで面白かった本をたんに並べているだけかもしれない。
でもそれがなかなかの目利きぶりなのだ。
こんな本屋さんどこにもない。
そして必ず発見がある。
思わず加藤周一の『読書術』を手に取る。
そう、加藤さんはカッパ・ブックスも書いていたのだ。

 小さな町なのに、素敵な本屋さんの他、映画館もあるし、ラジオ局(あまみエフエム77・7MHz)まである。
ここでとっておきのイベントがあることを聞きつけ、福岡ハカセもおっとり刀で駆けつけたのだった。
奄美が生んだ歌姫、元ちとせさんのライブ。(後略)


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



このあと、アシビでの元ちとせのライブ評が続く。
このライブと打ち上げ、ワンも福岡サンと同席。
レアなドイッチェ・ワインでディープに酔った。
そのときの、勿忘草は「鎮魂譜101」(2009/11/12)にメモった。

おかげで、今日のネタ拾いがすんだ。
まにゅがなし、とうとがなし!
PS:県知事ドンへのラブレター、そのうち発信の予定です。



鎮魂譜133
137億61歳?の記憶と記録
2010/1/24(micha=土) 旧12/10

☆  私の棺は大地だ

美しい緑の棺だ
その棺のふたは大空である
私の棺のまわりにかざる宝石はいらぬ
それは、太陽の光、星の光、月の光だ
行列のかわりに自然のすべてをもってするのだ

これほど、荘厳なものはない
これ以上のものをお前たちは私にあたえることはできないだろう

(荘子)


^^^^^^^^^^^^^^^^^^

☆ 義(よし)さんの「ウラトミ哀歌」を読んだ。



これは、義版、中篇の傑作小説だ。
聞き取りと史実と創作の花が開き、実を結び、一気に読まされた。
添付ファイルがAdobeのため、ワンではリンクをはりきれないのが残念だ。

イケンマから漂着した「アカバカナ!」が、喜界島で改名してウラトミになる。
長女のムチャカナが海で殺され、ウラトミはあとをおう。
ウラトミは喜界島の小野津に、
ムチャカナが大島のアオク(住用)の墓地と、
加計呂麻島のイケンマの祠に祀られている。
その間のストリーはリアルでふかい。
義さんの『奄美夜話』(南方新社刊/¥1575)もソソられる作品だが、
できればこのに「ウラトミ哀歌」も入れてほしかった。

ウラトミ・ムチャカナ(たち)のタマをしずめるための祈りは、
ウタやオドリとなって、今も3島の八月踊りに息づいている。
1609からの「やまとぬ世」は現在形だ。



鎮魂譜132
137億61歳?の記憶と記録
2010/1/22(xani=金) 旧12/8

☆ 逆さのガジュマルとタケ?!(3)

どぅし(友人)から、メールをいただいた。
関連するので、紹介します。
 義 富弘がなし、うぶくりどぉ!

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 逆さ竹から根が芽吹いたのを実際に見たことありますよ。

キンデェヘ(キンチク、ホウライチク)を苗代田の鳥よけに挿していたんだけどそれが逆に刺さっていたので、引っこ抜いたら土中にあった節のところから白いひげ根が出ていたので驚いたことがある。

母に報告するとえらく怒られたものですよ。

浦富の生家のあった生間にはムチャカナの遺品を祀った祠があり、ムチャカナの流れ着いた青久にはムチャカナの墓があり、その墓を守っていたのは私の知人の嫁さんの家系です。どのようにしてその墓を祀るようになったかも聞きました。

なお、その墓から寛永通宝壱文銭を私は拾っています。銭の通用が禁止された天保の砂糖総買い入れの前に葬られた水死者だったのは間違いないです。生間の人々はそれがムチャカナの墓だと信じています。

瀬戸内町の人々はそれが現実にあった話として語っています。

 海上保安庁の調査やヒギャの人々の経験でも、夏時分には大島海峡の東の口から潮に乗って一晩の内に小野津に着いたといい、冬時分には小野津から流出したものが歪潮(海流と反対の流れ)に乗って青久付近に流れ着くのが分かっています。

 私は瀬戸内町の伝承を元に浦富哀歌を「しまがたれ」に書きました。

 浦富の婚家は瀬戸内の山中から切り出した材木を両親が送って建てられたといい、相当に大きな家だったらしく、ウラトミの死後柱や桁などは分割されて別の人が買って最近まで残っていたという。喜界島の英さんから聞いたお話です。彼はその家を見ているという。

では 義

^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
※ 『しまがたれ』6号と7号の連載らしいが、在庫がなくなった。
図書館から借りてくるか。
義(よし)さんは、「三七の会」の仲間で、『しまぬゆ1』(2007年/¥2010)の著者です。



鎮魂譜131
137億61歳?の記憶と記録
2010/1/21(ki=tree) 旧12/7

☆ 逆さのガジュマルとタケ?!(2)

※ さがせばいくらでもありそうだが・・・
とりあえず、以下の「さかさ木」があった。
アマミのシマ島の伝承やウタ。
それなりに実証できる背景がある!ということだろう。

逆さ竹(新潟市・西方寺)ー親鸞
さかさ竹(仙台市)-鬼屋敷
逆さ竹(甲府市・金桜神社)ー日蓮
逆さ竹(長野県)ー相木森之助

逆さ銀杏(東京・善福寺と光福寺)ー親鸞(1232年)
逆さイチョウ(さいたま市・真福寺)ー船をつなぐ杭
逆さ公孫樹(宮城県)-源義家
逆槐(さかさえんじゅ)(長野・八幡社)ー武田信玄(1561年)
逆さ(送り杉)(舞鶴市)
さかさ杉(富士市)
逆さ木・ツタカエデ(秋田県・八幡宮)ー源義家
逆さ水松(北海道・上ノ国町)ー蠣崎広継(1548年)
逆さカシワ(岩手県勝源院)ー源頼義・義家父子




鎮魂譜130
137億61歳?の記憶と記録
2010/1/20(mizi=water) 旧12/6

☆ 逆さのガジュマルとタケ?!(1)

※ おととい、秋名の密林を通ったとき、ふ~っと、降りてきた想いがある。
娘を殺されたムチャカナの父親は、ガジュマルを逆さに挿して卒塔婆(墓標)にした。
それが、巨大に育って「トバヤ(十柱?クバヤ?)ガジマル」になったという。
そんなこと、ありうるのか?

^^^^^^^^^^^^^^^
瀬戸内町の「今女(いまじょ)」伝

▼ 今女という美人のヤンチュ(家人)が、主家のネンゴロ(妾)にされた。
本妻の嫉妬に会い、責め殺されてしまった。

ここまでは、アマミの悲歌ではベスト1の「かんてぃめ(あごぐゎ)」とそっくりだ。
違いは、シマウタにされなかったこと、と、後日談があること。
ただ最近、坪山豊さんが、鎮魂のため「今女」に節をつけた。
はたして、地元の人々に膾炙していくのだろうか、見マブリたい。
「かんてぃめ」(たち)の怨念と同じで、未だに失ウタ、失語の情況だと推うのだが。

^^^^^^^^^
死後、今女の死体を盗み出し、ふるさとの小名瀬に埋葬した今女の身内は・・・

^^^^^^^^^^

▼ 「墓の上に根無し竹を逆さに突き立てて恨みをこめたという。
すると不思議なことにその竹に根がついて、ぐんぐんと育ちはじめたのだ。
それを見た身内の者たちは、墓参りのたびに、その竹をゆすぶっては、
「かたきを取れ、かたきを取れ」と呪っていたという。

一方、嘉鉄村のユカリッチュの家では、今女が死んでからというもの、おかしな事件が絶え間なかった。
持ち舟が沈んで大損害を蒙ったことを手始めとして、家族の中に、気が狂ったり、自殺をする者が次々とあらわれ、やがてその血筋の者はひとりもいなくなって血統が絶えた。
あやしいことに、それでも今女のたたりは終焉せず、やがては今女の身内の方でも不審な死に方をする者が出はじめ、そちらの方の血統もあらかたは途絶えてしまったという。
(略)
ところで今女は今でも瀬戸内町のあちこちで時々見かけることがあるという。」


(⑥『奄美の伝説』(昭和52年、角川書房、228p~230p、島尾敏雄執筆分から)

^^^^^^^^^^^^

 奄美にはサカウタやサカグチという呪いの習俗がある。
(コレについてもワンなりの一言はあるが、いずれ)
さらに、植物たちを逆さに植えて呪う風習などもあったのか。
根を逆さにして、はたして樹木が育つのか。
その成果は・・・

調べてみたら、知らぬは井の中のワンだけだった。
その例は、日本列島(たぶん世界中)の各地にゴマンとありそうだ。
それらの事例が、呪いなどとの因果(物語)にあるのか、わ、まだ調べてない。
ただ、そのほとんどが、日本列島では神社やお寺の境内にある。
現象世界、無限の因縁、「き」のせいか?
き・き・かい・かい、だ。
アマミの「ケンムン」も「きのもの」という。

「き(ki)」?

き、キ、木、樹、気、喜、記、貴、奇、機、来、季、鬼、基、飢、生、忌、帰、寄、器、棄、稀、希、姫・・・・・・



鎮魂譜129
137億61歳?の記憶と記録
2010/1/18(ciki=moon) 旧12/4

※ きのうは、陽気さに誘われて午後から店を閉じた。
トゥジ(刀自=戸主)がなしと龍郷方面へドライブ。
数本をのぞき、期待のサクラは1分から3分咲き。
本茶峠から長雲峠の奄美自然観察の森へ。
と、途中、路を間違えてアギナ(秋名)道に。
ここは初めて入る旧道だった。
初めてのミチは未知に満ちあふれている。
いつも、道引かれるままに流れて今がある。

深山の陰で、苔むした石組みの擁壁が珍しかった。
観察の森の宇都宮さんに今日、電話でうかがった。
「昔、倭寇から逃げるため山中で暮らしていたときの構築物でしょう」
「グスクもたくさんありましたから」
中世からのたたずまいを深呼吸してきた。

おかげで、鬱蒼とした密林と峡谷を堪能できた。
全線、未舗装。
「イノシシワナに注意!」
これが唯一の人工物。
ミチらしいミチを歩き、カワらしいカワに接した。
しかし、昨今の山や集落では「水のない川」が多くなった。
アマミズは変わってないのに。
その理由はヒトの手による生態系の変容だろう。
「林道」、「伐採(バリカン刈)」、「砂防ダム」、「三面コンクリの川」・・・
かくして、シマ島は「水のない島(地球)」になりつつある。
われわれ(山川草木・鳥獣魚介)はみんな「水の子」だ。
このまま「水の力」をあなどっていると・・・
砂漠になった「島(水)の世」に生き物は育たない。

秋名川の上流から里におりた。
昔の稲田が「ターマン(田芋)」の田袋に変わりつつあった。
生きる力が湧いてくる。
これも、水のおかげだ。
吾々は水に生かされている。
水商売?
めぐるアマミズこそがい・の・ちの母だ。
これを、アマミズム!という。
アマミズム=アニミズム!?

(^ム^)

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※ 夜は、母を看に「虹の丘」へ。
足がかなわなくなってお世話になっている。
洗濯物を1週間平均で取り替えてくれているトゥジがなし。
もう何年めだろうか、頭がさがる。
産湯らが 死に水取りゅんがり とぅじゅとぅ(めおと)水入らじ あらちたぼれ。

大正5年から1世紀弱の風水を泳いでいる母の心根。
そのどれだけをワンは自分の想いのウチに感受してきただろうか。
還暦の61年、流れ廻る旅の世で。
オッカンに土下座して深謝しているワンが見える。
うぶくりありょうりぃ!
いちがりん(とわに) いちがりん



鎮魂譜128
137億61歳?の記憶と記録
2010/1/17(θeda=sun) 旧12/3


☆ 大島から来たムチャ加那、実はマシュカナ?

⑤:三井喜禎/『喜界島古今物語』/昭和40(1965)年/
土俗を物語る島の民謡ートバヤ、ムチャカナ(130~145p)。
参考文献


※ すこし、疲れてきた。
いっとき、息抜きを
(^ム^)

「日本で一番早い沖縄県名護のサクラまつり」のニュースが流れている。
すでに咲き誇っている(?)大島の龍郷のサクラたち。
これから、それを観に行ってくる。
台湾原種の南のヒカンサクラたちは北から南へと咲いていく。

⑤:三井喜禎/『喜界島古今物語』より

 ムコンジ(向地)と呼ばれていたカケロマのイケンマ。
そこから舟に揺られ、なんと唄いながらやってきたという「マシュカナ」。
そこで、男との出会いがあり、小屋で暮らすことになる。
そのために入り婿であった小野津の与人(有力者)は妻から追い出された。
これも、次に出てくる5人の子どもたちなど、新説が続々だ。
離縁して(されてになる)、マシュカナとの間に5人の子女をもうけた。
長女の名は母とおなじ「マシュカナ」で、次女が「ムチャカナ」だった。
ムチャカナの許嫁に思いを寄せていた島の娘たちによって、
ムチャカナは海で殺される。

▼ 海岸に着いて娘の変わり果てた姿を一眼見た父は、怒り心頭に発し、娘の骸(むくろ)を荒縄でくくりつけて、磯伝いに泊(地名)まで引き廻してきた。泊の小岩の上に穴を掘らせ、ムチャカナの死体を藁筵に包んで埋め、杖にしていたガジマルの枝を、卒塔婆かわりに逆さに挿して、その冥福を祈った。

然るに、塚に立てられたガジマルが、枝をふき枝を伸ばして、いつしか大樹となり、所々に、木根を下ろしては幹になり、後には、50余メートルにも伸びて、世に、偉名をとどろかせた「トバヤガジュマル」は、こうした哀話をひそかに物語っていたのであろう。

文久の頃(1860年代)原木は枯死してそのままであったが、明治3年(1870年)の頃、実徳が、慶 カネに手伝わせ、肥料や赤土を入れて植えかえたのが成長して、二代目のトバヤ・ガジュマルを継承していたと昭和16,7年頃までその面影は偲ばれていたが、今は、姿を消したばかりか、小岩さへ取り払われて道路となっている。(本稿は、拙著「曙の小野津」を参照した。都 豊生、同豊厚妻外数歌人の話を総合してまとめた)。(143p)


※ 『曙の小野津』のコピーが喜界町図書館にあるという。
先日問い合わせたら、行方不明になっていた。
「幻の書」のままだ。



鎮魂譜127
137億61歳?の記憶と記録
2010/1/16(micja=つち) 旧12/2 


☆ 大島から来たムチャ加那、実はマシュカナ?Ⅱ

⑤:三井喜禎/『喜界島古今物語』/昭和40(1965)年/
土俗を物語る島の民謡ートバヤ、ムチャカナ(130~145p)。
参考文献


⑤:三井喜禎/『喜界島古今物語』より

 ▼  「マシュカナ(浦富とみともいう?)俗に、ヒガン・マシュカナと呼んでいる。ヒガは東でンは語韻がついたのである。大島本島の古仁屋方面を、通例、東(ヒガ)といっているが、此処では、ムコンジ即ち、加計呂麻島をさしている。その、諸鈍の近くに、生馬(いけんま)という小さな部落がある。マシュカナは、その生馬の与人の家柄に生まれた。世にも珍しい美人であったという。古今東西を問わず、美人につきまとうローマンスは数多いといわれているが、マシュカナにも哀話は秘められていた。」(130p))―

 三井版では、時代背景は①茂野版と同じ。
「時は、丁度、琉球国を征服した頃の事で、奄美の島々も薩藩の治下に治められたのであった―始め、鳥島が其の治下にあったが、後で与論島と交換したのである。」という風に、昭和5年、伊波普猷が『南島史考』の序(南島人の精神分析)で( )内に小さく記した、モンダイの「鳥島と与論島の交換説」までが添えられている。ワンにとっては、奄美の類書では見たことがないので驚いた。

 三井の「ヒガン・マシュカナ」は、先行する①茂野の「ムチャカナ」、②坂井の「浦富」、③文の「うらとみ」と大同小異だが、大きな違いは、地名や先祖・子孫の固有名詞などがいくらでも登場すること。
伝説どころかマシュカナ渡来が史実として物語られている。

たとえば、ヒガン・マシュカナは、「ウツワ舟」で、なんと「三味線を弾きながら、声高らかに歌いながら」小野津の渚に寄せてきた。
当時、喜界島でも薩摩が検地のために竿入りをしていた。
そこで、マシュカナは島役人の1人と懇意になる。
マシュカナと二世を契ったその役人は小野津の与人の某(それがし、都 福常祖)で、長男は、俊徳加那という間切横目の要職をもつだけに成長していた家の主人であった。(133p)

喜界の男が②「与人」、③「有力者」であったという設定は同じ。
でも、⑤三井版では二人の間に生まれ育ってきた複数の子孫たちの証言がある。
②「浦富」③「うらとみ」の一人娘であるはずの②と③の「むちゃかな」とは違い次女である。

▼ (拙著「曙の小野津」より、都 豊生、恒 良徳外歌人数氏談)マシュカナは、子運にも恵まれ、左記の子女をあげている。
1、マシュカナ(長女)、文薗 彰の祖先に嫁す。
2、トバヤ・ムチャッカナ=慶 広信(港 武栄孫)の祖先と許嫁であったが、遭難して嫁がず早世、民謡の女主人公。
3、アーカナ=小野喜元の祖先に嫁す、浜上謙翠祖にもあたる。
4、ジロカナ=求(もとめ)義応、当代文雄の祖に嫁す。(求は前金久)

5、今1人は、野島豊七、12代の祖にあたり、本家を相続したようであるが、位牌が焼かれたらしく、父の名と共に姓名不詳。(134p)

 「12代目の祖にあた」るというヒト(たち)が実存している。
海彼からのマレビト伝承。
小野津という集落では、マシュカナを介してかけろま・喜界島の与人びきのつながりに収斂されている。

次に三井は、①茂野版「ムチャカナ」と②坂井版「浦富」と⑤自分の「ヒガン・マシュカナ」を比較論評している。
ということは、③文版「うらとみ」はまだ出版されていない、ことになる。
となると、③文の「お通夜舟」や「水葬」、④昇の「うつろ舟」、⑤三井版「ウツワ舟」などの前後関係が気になる。
だれが、だれから、引用したのだろうか。
同時性とは思われないから。

また、奄美の島々に「お通夜舟」や「うつろ舟」などの伝説が実際にあったのだろうか。
「水葬」や「舟葬」なども未聞だ。
しかし、「葬制」としてはあったのかもしれない。
「フナタビ」は送る側からは、「舟送り」で「舟葬」と同義だったろう。
「ある秋の月の夜、お通夜舟に約一ヶ月間の食糧としてつきたての餅や副食物などを積み込み、晴れ着を着せ果てなき大海原めがけて突き流し我が子うらとみを生きながらの水葬に付した。」(③文版「うらとみ」)
だから、伝承はおもしろい。

 著者は、▼ 「曙の小野津」」収録にあたって、小野津の現実と伝説を中心に調査した結果、ヒガン・マシュカナの哀話をものにすることに成功したのである。マシュカナは5人の子女の母親であり、その子孫も小野津に栄えていることは前記の通りである。而も、死にあたって「ヒガ(生地・東)の見ゆる場所に葬るようー」にと遺言されたとか。その墓所は、今も、ヒガの見える丘の間近な傾斜した所に定められている。明治初年頃まで、愛用の遺品である三味線は墓のある岩室内に吊りさげられてあったが、他びとが来て盗んで行ったと伝えられている。生馬の生家から送られた家のヒトツバ材の柱は、神宮(かみや)の朝 富輔宅の柱(都 豊生談)として残っていたが、20年の空襲で灰燼に帰してしまった。(136p)



鎮魂譜126
137億61歳?の記憶と記録
2010/1/15(xani=金) 旧12/1
 


☆ 大島から来たムチャ加那、実は、ましゅ加那?

④:昇曙夢/『大奄美史』/昭和24(1949)年/
薩藩治下における歌謡ー長歌(ウラトミ節・鶉の歌)/復刊366~370p

参考文献

  ⑪:籾芳晴が『奄美 島唄ひと紀行』(2001年)の中で吉川実さんの報告で紹介した古典は3冊あった。

「ムチャ加那の伝説は、①茂野幽考著『奄美大島民族誌』(昭和2年)によって初めて一般に紹介された。③文潮光(英吉)氏が『奄美民謡大観』(昭和8年)で「うらとみ」に解説を付けられた。④昇曙夢氏の『大奄美史』(昭和24年)に紹介されて現在に至っているが、これらの著者によって「ムチャ加那」「うらとみ」に定説ができあがった(31pー数字はワン)。」

しかし籾の本には、「浦富」を初めて世に出した②坂井友直の『喜界島史』が抜けていた。
③文の「うらとみ」は、②坂井の「浦富」を下敷きにして、創作されているのを見てきた。
次なる、④昇曙夢の「うらとみ節」の解説はそのほとんどが③文からの焼き直しである。
ところが、、前3者の記述にはない「喜界島の伝承」が④昇には2点ほど登場する。

(1) 「喜界島の伝承では、大島からましゅ加那といふ歌と三味線の上手な美しい娘がうつぼ舟で流されて来て、島の与人と夫婦になり、その間にむちゃ加那ができたと伝えられてゐる。(367p)」

(2) 「むちゃ加那の死んだ3日目の夕方になって、父親が山の上から、海岸に打ち上げられてゐる娘の姿を見つけて、泊の上のトバヤに穴を掘って埋め、墓標の変わりにがじまるの樹を逆さに差立てておいたのが、後に芽を吹き出し、成長してあたりに枝を広げ広げて30余間にもなったと。これが有名なトバヤ・ガジマルの由来である。この物語を或る無名の歌人が歌にしたのが「うらとみ節」である。(368p)」


昇はこのエピソードをいつ、どこで、だれから入手したのだろうか?

▼ 「その意味で手記を読んでいちばん気になったのは、昇の帰省の回数だ。年譜や手記に頼ると、昇は父の他界を虫の知らせでわかったように帰省した明治44年と、大正12年と昭和11年の、計3回しか奄美大島へ行った形跡がない。たった3回である。一回ごとの帰省はいまのように世知辛くはなく、3回目は40日間、奄美の各島を巡ったようだが、それにしても、16歳で加計呂麻島を離れて以来、たった3回しか故郷の島の土を踏めなかったのだろうか。そして、記述の範囲内では、妻の藤子は一度も大島を訪れていない。」(喜山荘一ブログ「与論島クオリア」/2009/11/04『昇曙夢とその時代』3)

※ 40日間の島巡りをした昭和11年の帰省のときだろうか?
文英吉が『奄美民謡大観』を上梓したのが、昭和8(1932)年8月。
同じ、昭和8年の8月以降に『曙の小野津』(三井喜禎)がガリ刷りで出されている(南海日々新聞、2008/11/02)。
おそらく、昇はこれを「内地」で読んだか、昭和11年に喜界島で三井から受け取ったか……。
三井は、昭和2(1926))年から昭和9(1933)年まで小野津小学校に、その後は早(そう)中と喜界1中に勤務している。
昇が奄美の各島を巡った昭和11年、三井は早中学校に勤務していただろう。

⑤:三井喜禎/『喜界島古今物語』/昭和40(1965)年/土俗を物語る島の民謡ートバヤ、ムチャカナ
ここには、昇が『大奄美史』で紹介した(1)と(2)の新説がそのまま詳細に出てくる。



鎮魂譜125
137億61歳?の記憶と記録
2010/1/14(xi=木) 旧11/30
 



☆ 恨富は無茶かな?Ⅳ

③ 文(かざり)潮光(英吉)『奄美民謡大観』から
昭和8年/民謡起源伝説編ーうらとみ節/97~101p
参考文献


 ▼ そのうち仲に立つ人があり、労労うらとみも独身でいることの不可なるを悟り、妻を亡くした正直な一農夫の人と結婚して家庭をもった。いつとはなしうらとみの郷里にこの消息が風の便りで伝った。多くの材木が送り届けられて立派な家ができた。夫婦仲もよくうらとみは幸福に過ごした。やがて女の子が産まれた。名を「むちゃ加那」と呼び成長するにつれ之が又母親にまさる美貌の持主で、美人の少ないこの地に於いては特に目立って輝いた。ところが解決してあった筈の部落民の嫉妬本能がポツポツ潜在意識の中から頭をもたげ出して、露骨に、行動に現われるようになった。外来者の親子二代続いて美神として此の世に君臨することが、なにか侮辱されているような気持ちになり、平和攪乱者であるかの如き感じが復活してきたのである。

 若きむちゃかなの生命は幾度か彼自身の知らない中に脅かされた。いろんな奸計が間断なくたくまれた。
 ある日、父は田圃の水汲みに出かけ、母は芭蕉のを(緒)糸を糸繰りに一生懸命であった。そのとき悪友たちから誘い出されて海に青海苔採りに行った。神ならぬ身の知る由もなかったのである。むちゃかなは岩を伝って苔摘みに無心であった。と突然後方から突き落とされて海水に呑まれた。内では夕飯時になってもむちゃかなが帰らぬので、両親は狂気の如くになって探し回ったが皆目分からない。どの友達にきいても知らぬ存ぜぬの一点張りであった。

 母親のうらとみは半狂人になり、むちゃかなむちゃかなを連呼し乍ら海岸や山の中を駈け廻った。このところは別に「とばやむちゃかな」という八月踊りの歌で次の如く歌われている。

 ☆ とばやむちゃかなや 見らんたみ 親ばと
 さく々浦々なんにゃ 赤ぶしゃ黒ぶしゃに たづねたっと 
青ばと親ばとぬ居すが うりんにたづねてんに
 親ばとたづねたと 潮じりに引きやさったんちいやむ
 潮や満ちあがて てだや 申時(さんとき)さがりゅり
 とばやむちゃかなや 潮尻かち引ききゃさたむ

 意訳すれば★ とばやむちゃかなは見なかったか親鳩、
谷々浦々を廻れば赤ぶしゃ黒ぶしゃ(赤牛黒牛)が居るから、それに聞けば分かるだろう、
赤ぶしゃ黒ぶしゃに尋ねたら、青鳩親鳩が居るからそれにきいたら分かる筈だ、
親鳩に尋ねたら、潮尻に引かされたよと云った、
潮は満ち上って夕陽の落ちる頃、
とばやむちゃかなは哀れ潮尻にひかされたとのことである

 うらとみは遂にむちゃかなの後を追うて入水自殺を遂げ、その数奇な運命の幕を閉じたのであった。時代は130年程前のこと。十柱がじまるもうらとみの住んでいた屋敷跡も残っていて神屋敷と称している。但しがじまるは大東亜戦の戦火でなくなった。(100~101p)

^^^^^^^^^^^^^^^^^^

※  ③文版「うらとみ」に時代背景はなかった。
しかし、終盤にきて「時代は130年程前のこと」と設定される。
文の初版は昭和8(1933)年、130年前だと1803年ごろ。
その時代、奄美の3島ではすでに砂糖地獄の絵巻が始まっていた。
奄美海風荘さんの年表」から以下の表を引用させていただく。


1777  安永6 大島、喜界、徳之島砂糖総買い入れ(第一次砂糖総買い入れ制=租税糖以外の余計糖の他への売買を禁じ、すべて藩で買い上げ、その代価として百姓の日常必需品はを藩から支給する二重搾取)実施)。
砂糖不作、大飢饉 大津波 笠利間切で、たばこ栽培、他にも広まる。
御徒(かち)目付得能佐平次大島へ着く(島状視察)、その著書『丁酉(ひのととり)大島紀行』に、農村の「家々の労(つかれ)言うもさらなり。腰打ちかけて足を休むる家なく、渇きさえ忍び兼ねるほどなり』

でも、「がじまるは大東亜戦の戦火でなくなった」のだから、改訂増補版・『奄美民謡大観』(昭和41年)から130年前、1836年ごろとしよう。
②坂井版の「享保の検地(1723年)のころ」とは100年も違うようだ。
1836年前後、第二次の地獄絵が燃え盛っている時代だ。


1816(文化13)赤木名儀志直乱心、娘のバアカナ放火犯で処刑。  
   徳之島母間(ぼま)騒動g
   前年からの疱瘡流行で死者多数、収穫激減。出米賦課についての異議を申したて囚人となってしまった掟役を奪還するため村民630人余が代官所を襲撃、藩庁へ直訴(薩摩藩最大の一揆)。
1819 沖永良部島にはじめて砂糖キビ植える
1827(文政10)調所広郷(ずしょひろさとw)財政改革命じられる。「御改革第一の根本は砂糖政策」
1830(天保1)第二次砂糖総買い入れ制施行 
1831 大島人口3万6千375人 徳之島1万8千963人 喜界9千272 沖永良部9千598 与論3千180 (計77,388人)

※ 物語後段の検証

①茂野版「ムチャ加那」:

(家族とともに)喜界に行ったムチャ加那は、また先方の男の心を狂わした。喜界の女性は大島から来た娘に自分たちの男を奪われる心配から、嫉妬のあげく、ムチャ加那を海岸に誘い出して、潮流へ突き落としたムチャ加那の母は、ムチャ加那の帰りが遅いので、海岸へ探しに行く

※ 嫉妬した喜界の女性に殺されたのは、カケロマからきたムチャ加那。
カケロマから一緒にきたムチャ加那の母は探しにいく。

②坂井版「浦富」

「彼女(浦富)は惜別の涙を濺(そそ)ぎて代官を送り、与人へ預けの身となりぬ。
然るに与人は、(略)遂に本妻を離縁して彼女と契りを結び、1女を生み称してムチャカナと云えり。」
ムチャカナは友達に誘われ、(略)哀れ先妻の毒手に罹りて海底の藻屑と消え失せぬ。」
 「かくとは露知らぬ浦富、(略)愛子のあとを追うて彼の世へと逝きたりと

※ 与人の先妻によって殺されたのは、喜界で生まれたムチャカナ。
カケロマからきた浦富は、後を追って死ぬ。

③文版「うらとみ」

「やがて女の子が産まれた。名を『むちゃ加那』
悪友たちから誘い出されて(略)海水に呑まれた。」
 「うらとみは遂にむちゃかなの後を追うて入水自殺を遂げ、その数奇な運命の幕を閉じたのであった。」

①は、地元瀬戸内出身の茂野が、地元カケロマの古老から聞きとった。
②は、徳之島出身の坂井が、地元喜界島の古老から聞きとった。
③は、大島(大熊)出身の文が、「炉辺雑話」として創作した。

どれも、伝説、物語である。
ワンが筋立てとして一番おもしろいのは②坂井版だ。
「享保の検地」(1726年)のころと断定している。

1728 享保13 大島規模帳、物定帳、用夫改規模帳、郡奉行物定規模帳発布

「浦富」をモノにできなかった「郡奉行」。
任期交代の申し送りによって、「喜界島の代官」が「カケロマの浦富」を「貰い受ける」。
代官は鹿児島に帰るにあたり、「喜界島の与人」に「浦富」を預ける。
与人は妻を離縁して「浦富」と契りを結ぶ。
生まれてきた「ムチャカナ」は、先妻によって殺される。
「浦富」も後を追う。

どのハナシも砂糖地獄のことには直接ふれていない。
しかし、美女たちを「玩具物(妾)」にする鹿児島役人。
恩恵を受ける「アンゴ」の一族たち
サツマの「歓心」を得るるため、美女狩りの手先となる島役人たち。
喜界島では与人の先妻や島の女たちの嫉妬が燃え上がる。
女たちは子どもたちを使って子どもを殺す。
母親は愛子のあとを追う。

その背景をたどってきた。
①茂野版「ムチャ加那」は、「慶長14年、島津氏の琉球征伐後まもな」い「薩摩の検地」から始まった。
②坂井版「浦富」は、「享保の検地のころ」(第一次砂糖総買い入れ制)。
③文版「うらとみ」は、調所の「天保の改革」(第二次砂糖総買い入れ制)のころで終わる。

「竿入奉行」の命にそむく島人(むちゃ加那やうらとみ)たちがいた
過酷極まる重税」や、「その他凡ゆる圧迫」や「弾圧」などがあった。
家族ぐるみの「逃亡」「一家共死」「お通夜舟」「水葬」などの地獄絵も描かれた。

「むちゃかな」と「うらとみ」。
島の人たちは自分たち身辺の関連ごととして、うたいついできたのではないか。
現在でも各シマの秋の月夜の八月踊りでは、「とばやむちゃかな」がうたわれ、おどられる。
シマ島で明滅したそれぞれの「うらとみ&むちゃかなたち」の魂を鎮めるために。
2010年、サツマぬ世。
たましずめのうたとおどりは、今ぬ世もつづいている。
しまぬ世へ!



鎮魂譜124
137億61歳?の記憶と記録
2010/1/13(むじぃ=水) 旧11/29
 



☆ 恨富は無茶かな?Ⅲ

③ 文(かざり)潮光(英吉)『奄美民謡大観』から
昭和8年/民謡起源伝説編ーうらとみ節/97~101p
参考文献


※ うらとみが「待網(置網)」を考案したというハナシが続くが、略す。
為朝や平家伝説の類だから。

^^^^^^^^^^^^^^^

 ▼ さて、それはそれとして、背に腹は替えられず、うらとみ一家は益々募る弾圧に耐えかねて、心を鬼にしてうらとみを生きながらにしてこの世から葬ることに決意した。親の身になっては真に忍び難き措置だったのである。ある秋の月の夜、お通夜舟に約一ヶ月間の食糧としてつきたての餅や副食物などを積み込み、晴れ着を着せ果てなき大海原めがけて突き流し我が子うらとみを生きながらの水葬に付した。

 命運があれば何とか生きる道もあろう。神ようらとみの身の上を守れかし―両親は慟哭しながらも斯ういった祈りを捧げつつ月影に遠ざかり行くうらとみの姿を見送った。風と潮流の間にまに幾日かの漂流を続けたのち、うらとみの舟は幸いにもとある島影に辿り着いた。見れば海岸に大きな榕樹が魔のような枝を張りひげを垂れ、その周囲に多くの人がたかって居た。喜界島小野津の海岸有名な十柱がじまるの附近であった。

 人々は先ずいわれありそうな年若き漂流美人に対して等しく好奇の眼を瞠ったが兎に角皆して丁寧に介抱してその中の一有力者が身柄を引取って面倒見ることになった。うらとみの身上や漂流の経緯などが漸く人々に知れ亘るにつれ、うらとみは島人の話題の中心になり又その美貌に惚れて言い寄る人も少なくなかった。同情する人、拒まれて恨む人、嫉妬する女等等複雑な空気にうらとみは包まれた。結局は代官様にそむき親を苦しめた人間外れの女、土地の平和の攪乱者である、郷里に突っ返せ―の声が高まり排斥運動が表面化しかけた。その時村の一長老が「汝等は皆心得違いをしている。此女を追放するとは何事だ、斯の如き貞女こそが島の模範ではないか、之を大島に帰せという奴は自らの恥を晒しているのだ、それこそ本当の馬鹿ということだ……」と彼等を強くたしなめた。
 前掲の歌の根拠である。(99p)


^^^^^^^^^^^^

※ 物語中段の検証


①茂野版「ムチャ加那」:

ムチャ加那一家は毎年の租税のため堪えられなくなって喜界へ逃げていった。


②坂井版「浦富」

「彼(郡奉行)と入れ代わりに喜界島へ派遣されて渡島の途につくべき代官某へ浦富の話をなせしに、某は船を喜界へは入れず、先ず生馬港へ寄せ、島役人を動かして見事に浦富を貰い受けたり。」

※ 喜界島代官所(うだ=御座)が設けられたのは元禄6年(1693年)である。
代官(1人)、横目(2人)、目付(2人)は、藩庁から3年交替で派遣された。
「島役人」は、書役数人、与人(ゆっちゅ)6人、間切横目(まにゅうみ)6人、黍横目(きびゅうみ)58人、田地横目(たじゅうみ)、筆子(てつぐ)12人、掟(うっち)32人、締(しめえ)、津口横目6人、島横目(しまえゆうみ)、締(しまえ)、黍見廻(きびみめし)、功才(こうせ)などがあるが以下略す。
唐通事:一に通信方ともいった。琉球時代からの役目であって、島内に6人居たが、その棟領土は与人格であった。
与人以下の役人は家柄で世襲であったが、唐通事だけは、琉球または鹿児島に遊学して任官したものだと(恒良徳氏直話)。三井貞喜著/『喜界島古今物語』より引用/昭和40年)/32~34p)。

③文版「うらとみ」

「ある秋の月の夜、お通夜舟に約一ヶ月間の食糧としてつきたての餅や副食物などを積み込み、晴れ着を着せ果てなき大海原めがけて突き流し我が子うらとみを生きながらの水葬に付した。」

これこそが、アマミのムンガタイ、シマウタの本質だ。
歌詞は同じ。

(^ム^)

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文 英吉(かざり えいきち)プロフィール

1890(明治23)年、奄美大島生まれ。
大島税務署、大島島庁職員などを経て、「大島朝日新聞」編集長。
奄美博物館主事。
奄美図書館長。
奄美大島復帰協議会副議長。
奄美日米文化会館長を歴任。
この間、雑誌「南島」を創刊。
無産運動の奄美新興同士会結成、委員長に就任。
著書に、『奄美民謡大観』(昭和8年)。
『奄美民謡曲集』(長男紀雄との共著、昭和29年)。
『奄美大島物語』(昭和32年)。
改訂増補版『奄美民謡大観』(昭和41年)など。
1957(昭和32)年逝去。



鎮魂譜123
137億61歳?の記憶と記録
2010/1/12(ぅまっち=火) 旧11/28
 


☆ 恨富は無茶かな?Ⅱ

③ 文(かざり)潮光(英吉)『奄美民謡大観』から
昭和8年/民謡起源伝説編ーうらとみ節/97~101p
参考文献


※ 『奄美大島物語』など著作の多い文(かざり)英吉がなし。
名前のとおり、筆がたつ。
①茂野と②坂井の酵母(黒麹)を数倍に膨らませ、文風「うらとみパン」を焼き上げている。
伝説や物語、ウワサなどは、こうして生まれ、育ち、次の世へと巣立っていくのだろう。
どこまで真実か?という問いはヤボだ。
それぞれがカタル泉から、それぞれが自由に背後霊を汲み取ればいい。
味わいもそれぞれに。

『奄美大島物語』の自序を記す。
③『奄美民謡大観』中の「うらとみ節」にもあい通じると思うから。

▼ もともと物語であって、系統立った研究発表でもなければ、郷土読本式のものでもない。いわば肩の凝らない炉辺夜話といった種類のものである。それだけまた四角張らずに、自由な立場で私なりに郷土奄美の一端を語り、興味ある話題の若干を提供したつもりである。(略)若い世代の人々の郷土に対する認識と愛情を深むる機縁とならば、私のよろこびこれに過ぎるものはない。(2008年、復刻版、21p)

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文版  「うらとみ節」 (2)

 ▼ 茲に鎮西村生間の一農夫の娘に名を「うらとみ」と呼ぶ芳紀18歳の美人があった。その評判は早くも島中にとよんでいたので、某代官は着任早々眼を「うらとみ」に注ぎ早速下役人をして交渉にあたらせた。たかが一百姓の娘、よろこんでその命に従うものと思ったら以外にもうらとみは一言の下に之を拒絶した。島役人や代官の面目丸潰れという形である。生殺与奪の権を振っていた代官、一百姓娘によって尊厳を蹂躙されたとあっては正に天下の一大事、その失望と、憤激の程想像に余りあるものがある。その後、手をかえ品をかえての懐柔や威圧によって目的を達せんと努めたが悉く失敗に帰し、うらとみの意志は益々強化するのみであった。

 さすがの代官も断念して、うらとみ一家に対して課するに過酷極まる重税を以ってし、その他凡ゆる圧迫を加えて復仇した。うらとみの両親は弾圧に耐え兼ね一時は一家共死を以てうらとみの立場を守ろうと決意したことさえあった。またうらとみさえ首を縦に振って呉れれば―と念願したこともあったが、それは到底うらとみの承諾するところではなくひたすら現実の苦しみに悲嘆するだけだった。

 そういった親の苦悩をうらとみは百も承知であったが、それを知れば知る程うらとみは強権と邪恋とを呪い、そして反抗し続けた。将を射らんとすれば馬を射よのたとえの通り、何かうらとみの背後に、伏在するものがありはしないか、親にも秘した意中の男が、あるのではないか、若しあればそれを片付けるのが先決問題であるとして色々探索してみたがそれらしいものも全然なかった。(98p)


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※ 物語前段の検証

①茂野版「ムチャ加那」:
「琉球征伐後まもなく」、薩摩の「下役」が、「竿入奉行」に「注進」した。

②坂井版「浦富」:
「享保の頃」、「島役人等を介して」、「郡奉行」が申し入れた。

③文版「うらとみ」:
時代背景はなく、「下役人」「島役人」が、「某代官」に代わって「交渉」した。

※ 3者の共通項。

(1) 「竿入・郡奉行」「代官某」のため、「下役(人)」「島役人」が手先として動いていること。
これは、2010年、現在の奄美の役人たちやトリマキ連の状況となんら変わらない。
自分たちのこと(利益誘導)ばかり。

(2) 強権を拒否された支配者が、対抗措置として一家に「重税を課した」こと。
これも21世紀の今日、選挙後の報復人事、業者の指名外しなどと通底する報復行為だ。
「片付ける」?

※ 課題

藩政時代の刑罰の実態を調べる必要がある。
「くるざた(黒糖)の隠匿、舐めても死罪」という「史料」を否定する言説が最近出はじめた。
「余計糖」や「家人」などの検証だ。
都合の悪い史料は隠匿される。
自決命令、南京虐殺、ホロコーストなどなかった?
アマミにはあった。
うらみつらみなどではない。
現実からの検証だ。



鎮魂譜123
137億61歳?の記憶と記録
2010/1/11(てぃき=月) 旧11/27
 


☆ 恨富は無茶かな?Ⅰ

③ 文(かざり)潮光(英吉)『奄美民謡大観』から
昭和8年/民謡起源伝説編ーうらとみ節/97~101p
参考文献


文版 「うらとみ節」(1)

☆ うらとみやうらとみ むどらめやうらとみ
うらとみむどしゅしや 島ぬふれむん(11)


※ ②坂井友直&⑪籾芳晴の歌詞などと全く同じ。
「うらとみ」の初出(本)は、喜界島で採録した徳之島出身の②坂井友直(昭和6年)ということになる。
三上絢子さんのご尊父に深謝!
(^ム^)

★ らとみよ帰りなさい郷里に帰りなさい、
否否うらとみに帰れというのは島の馬鹿者である。
排斥すべき女ではないぞ


 これだけでは何のことかさっぱり分からないが、この「うらとみ節」には若く美しい島の一百姓娘が強権に抗して死を以ってその処女を守ったため、極端な圧迫を受け、更にその美貌がたたって数奇な運命に血涙を絞ったという哀話が蔵されているので、以下、それを物語ることによって歌の真意を理解して貰うことにしよう。

 そもそも島に於ける昔の代官の権威は、大したものであって、特にその女色に対しては、横暴の限りを極めたようである。彼等は新しく大島に着任すると、先ず島役人に命じて島中の美人を物色させた。そして選ばれた美人は、それが未婚の処女であろうと、人妻であろうと構うことはない、3年乃至4年の任期間その玩具物として奉仕させられたのである。この妾妻のことを「アンゴ」と呼んだ。無論相当な碌がつき、一族も何彼の恩恵に浴した。

「うんにゃだる節」

☆ うんにゃだるや ふれむんぢゃ 
乳これ子ば はんなげて 殿のとじなりが(12)

★ 「うんにゃだる」(女の名)は愚かな女だ。
乳呑児を放っちらして代官の妾になりに走ったぞ

 この場合島の人々は愛児や夫を捨てて代官のもとに走った彼女の不貞不徳を責めていて決して之を名誉として考えていなかった。ところが習慣の力といふのはおそるべきもので、斯ういったことが続けられていくうちに愛妻を奪われた夫も、娘を根引きにされた親達も何等の屈辱を感ぜず寧ろ一種の光栄として喜び世間もまた羨望の眼でみるようになった(97p)


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 薩摩のドル箱アマミのやるせないシマ社会。
夫や親たちは妻や娘の売春を「名誉!」&「光栄!」?
「世間もまた羨望!」?

おぞましい奴隷界
ええじゃないか?
しかたやねんどぉ~?
それでも、したたかに・・・?
歴史観の見直しを?!?

2010!
401年目の奄美社会
鹿児島の為の植民地
21世紀の日本と世界
地球島の生き物たち
デアイ系の女・男たち
その子と孫たち・・・

自給自足の崩壊?
資本主義の末期?
近代国家の終焉?
支配と被支配?
帝国主義?
共産社会?
植民地主義?
国民の国家?
国家の境界?
境界の喜界?
東アジア圏?
海域社会?
ポスト…?

あまぬ世?
くまぬ世?
しまぬ世?
うみぬ世?
産ぶぬ世?
うぶすな?
ふるさと?
ねっこ?

コスモス?
マクロ?
ミクロ?
輪廻?

ビッグバン?






しまぬ世へ!

(^ム^)




137億61歳!の記憶と記録
鎮魂譜122
2010/1/10(てぃだ=日) 旧11/26
(金の兄 申) こ(子)読み


 「ムチャ加那」のデヴュー(カケロマから)

①:茂野幽考『奄美大島民族誌』/昭和2(1927)年/「大島民謡ムチャ加那の死」
(昭和53年復刻版、288~296p)
参考文献

▼ 慶長14年、島津氏の琉球征伐後まもなく薩藩では竿入奉行14人、下役68人を琉球へ派遣して、検地帳270余冊を調整して税源の予調とした。当時大島も竿入奉行の竿入に関わったのである。

島の人は竿入奉行を、そうちどん(竿入殿)と云った。その竿入奉行が加計呂麻島を竿入して、渡連方諸勝村まで来た。諸勝村の次に生間と云う小さな村がある。その頃、生間にムチャ加那と云う絶世の美女がゐた。之を発見した下役は、早速竿入奉行に注進に及んだ。

竿入奉行は非常に喜んで、生間のムチャ加那の家を訪れた。ムチャ加那は生まれて初めていかめしい内地の武士を見て、驚いて裏の山へ逃げた。竿入奉行はムチャ加那の両親にムチャ加那を妾に呉れと申込んだ。ムチャ加那は竿入奉行をひどくきらって、なかなか承知しなかった。

如何に竿入奉行の権力をしても、ムチャ加那の身体は大島を琉球から奪ったようなわけにはいかなかった。竿入奉行は失恋の応讐として、ムチャ加那一家に多額の租税を課して苦しめた。ムチャ加那一家は毎年の租税のため堪えられなくなって喜界へ逃げていった。

喜界に行ったムチャ加那は、また先方の男の心を狂わした。喜界の女性は大島から来た娘に自分たちの男を奪われる心配から、嫉妬のあげく、ムチャ加那を海岸に誘い出して、潮流へ突き落とした。ムチャ加那の母は、ムチャ加那の帰りが遅いので、海岸へ探しに行くというその情景を謳った歌で、大島の民謡の中で、カンツメの死に比する名歌である。

☆ 喜界小野津の 蒲葵屋(くばや)ムチャ加那

青さ海苔はぎが うもらめ 蒲葵屋 ムチャ加那(10)

加計呂麻島生間、森 實和志翁口述)
原本には10番まで、解説はなし。

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☆ 「浦富」が登上!(4年後のキカイから)

②:坂井友直著『喜界島史』/昭和6(1931)年/「ムチャカナ節の由来」/復刻選集版314~315p

参考文献


第24節 民謡
当島における民謡としては特筆すべきものを調べ得ざるを遺憾とす。
然し折田村長の蒐集せるもの並びに年寄り連より聞くがままの少しばかりを記して完璧を他日に期さん。

「浦富(ムチャカナ)」

☆ うらとみや 浦富 浦富戻すしや 島ぬふれむん(11)

▼ 往昔、享保の頃、奄美大島諸島において御検地のために初めて郡奉行を設置されたりしたが、当時は官尊民卑の弊が極めて著しき時代になるが上に郡奉行と云えば殆ど飛ぶ鳥をも落とす程の大権勢を振い、従って草昧無智なる土民においては彼を生神様かとばかり畏れかつ拝み、常に命これ従い、身命を賭しても彼の歓心を買うに汲々たる状態にありき。

 恰もその頃のこと。所は日本の絶景たる瀬戸内海の縮図とも讃えられる、山紫水明の地生馬(イケマ)の貧農家の一人娘に芳紀17,8と見ゆる、それこそ絶世の美女あり。名を浦富と称し、島中に其の名高かりしを、件の郡奉行、彼女に思いをかけ、島役人等を介して意中を申し入れしも応ぜざれば大いに憤り、課するに重税を以って恨みを済らせりと、しこうして任期満ちて帰藩の際、彼と入れ代わりに喜界島へ派遣されて渡島の途につくべき代官某へ浦富の話をなせしに、某は船を喜界へは入れず、先ず生馬港へ寄せ、島役人を動かして見事に浦富を貰い受けたり。先に郡奉行に対して諾せざりし浦富が今代官へ快諾を与えしは重税の前轍を恐れしものか、また他に理由ありしが余これを判ぜず。

 さて、喜界島へ連れ来り和気藹々裡に同居すること1期間3ヵ年は束の間に過ぎ去り、代官は満期帰鹿に当り、浦富を当時の与人へ生馬の里へ送り返すべく託せり。彼女は惜別の涙を濺(そそ)ぎて代官を送り、与人へ預けの身となりぬ。然るに与人は何時しか彼女浦富に対する燃ゆる恋愛おさえ難く、遂に本妻を離縁して彼女と契りを結び、1女を生み称してムチャカナと云えり。

 ムチャカナまた母の娘だけに末頼母しき美形の所有者なり。ここにおいて先妻は女にありがちの悋気の心、極度に燃え上がり、浦富母子を殺害せんと企て居ることを悟りし与人家にてはこれが警戒怠りなかりしが、或日のことムチャカナは友達に誘われ親の目を忍びて小野津海岸へ青さ海苔摘みへと出掛け、哀れ先妻の毒手に罹りて海底の藻屑と消え失せぬ。

 かくとは露知らぬ浦富、それより海よ山よと捜しても居る筈のあるべき。明き暮れムチャカナ~ムチャカナ~と泣き暮らし居りしが程絶たず愛子のあとを追うて彼の世へと逝きたりとの伝説がある。(諸鈍の民謡に有名なる一老人の直語)

附記
 茂野幽考氏著「奄美民俗誌(ママ)」には、ムチャカナが郡奉行の求めに応ぜず重税を課されしにより、一家を挙げて喜界へ移住せしに、喜界婦人等のムチャカナの美貌を嫉み、彼女が当島にありては男
を邪魔される恐れありと海中へ投げ込みしが如く見ゆ。(了)

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※ ①:1927年に出版した茂野幽考は、加計呂麻島生間、森 實和志翁口述から。
②:4年後の1931年に出版した坂井友直は、「諸鈍の民謡に有名なる一老人の直語」(喜界島)から

茂野(1896~1987)は瀬戸内、坂井(1875~1940))は徳之島の出身。
昭和の初期、この二人の著作によって、「ムチャカナ」と「浦富」の固有名詞が初めて記された。
彼らの著作以前にシマ島には似たような伝説とウタが存在していたのだろう。

^^^^^^^^^

 ①と②の相違点

(1) 地元の生間(カケロマ)では、「絶世の美女」は「ムチャカナ」で、「その家族」とともに喜界島へ逃亡した。
喜界島では、「絶世の美女」は「浦富」で、喜界島で与人の後妻になり、その娘が「ムチャカナ」だった。

(2)カケロマ談では、「喜界島の女性」によって、「ムチャカナ」は「潮流につき落とされた」。
喜界島談では、「先妻の毒手」によって、「ムチャカナ」は「海底の藻屑と消え失せた」。

(3) カケロマ談では、「ムチャカナの母親」は、「探しにいく」が「死」は語られない。
喜界島談では、「母親・浦富」も、「愛子(ムチャカナ)」の「あとを追うて彼の世へと逝」く。

(4) カケロマ談では、「ムチャカナを」、薩摩の「下役」が、「竿入り奉行」に注進した。
喜界島談では、「浦富」を、「島役人」が「郡奉行」に仲介した。

(5) カケロマ談では、「竿入り奉行」は自分自身で求愛したが拒否される。
喜界島談では、「郡奉行」は「島役人を介して」、また、上司の「喜界島代官某」も「島役人等を介して」、「貰い受けたり」。

(6) カケロマ談では、1609年の「琉球征伐後まもなく」というアバウトな時代設定と、具体的な役人数や検地帳の冊数。
喜界島談では、「享保の頃」(享保の検地)という具体的な時代背景。

このちがいはどこからか?

※ ①と②の共通点。

(1) 薩摩の「検地」で派遣してきたヤマト役人が、島の「絶世の美女」をにするという設定
(2)他島から渡ってきた「絶世の美女」に敵対する、シマ在来の「喜界島の女性」や「先妻」の嫉妬心。

^^^^^^^^^^^^^^^^
その2年後の、③:文潮光(英吉)/『奄美民謡大観』/昭和8(1932)年)/民謡起源伝説編ーうらとみ節。

ここから、物語は意外な展開をみせる。



137億61歳!の記憶と記録
鎮魂譜121
2010/1/9(にちゃ=土) 旧11/25
(土の弟 未) こ(子)読み

☆ハレーきゅらさ うまりりば ハレー どぅし(ソラヨイヨーイ)に にくまりてゐ イ
(ソラヨイヨーイ) どぅしに にくまりてゐ イ (どぅしに にくまりてゐ)
ハレー きむちゃげぬ むちゃかな ヤレ

しゅな (ヨイサノヨイヨーイ) みに ひきゃさりてぃ
(ヨイスラヨイヨーイ)しゅなみに ひきゃさりてぃ(9)

^^^^^^^^^^^^^
 ★ 
美しく生まれれば (ハヤシ) 友人に (ハヤシ) 憎まれて
(ハヤシ) 友人に 憎まれて (友人に憎まれて)
(ハヤシ) 可哀想な むちゃ加那

潮の (ハヤシ) 波に引かれて(溺死した)
(ハヤシ潮の 波に引かれて(溺死した)

^^^^^^^^^^^^^
▼ 「別名<むちゃ加那>ともいい、次のような伝説がある。
薩摩の役人に言い寄られた加計呂麻島生間の「うらとみ」という美女は、その男から逃れるために喜界島に渡り、喜界の男と結婚して「むちゃ加那」という女の子を生む。「むちゃ加那」は長じて美女となったが、女友達にねたまれ、海につき落とされて死ぬ。「うらとみ」も「むちゃ加那」を追って、海で死ぬ。喜界島では「うらとみ」は「ますかな(ましゅ加那)」という。」

『日本民謡大観(奄美・沖縄)-奄美諸島編』(日本放送出版協会/1994年/小川学夫執筆)
(「うらとみ節」/1966録音、宇検村湯湾、中村音女唄/542p)

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☆ 「うらとみ」や「むちゃ加那」は実在した母娘だったのか?

▼ 「なぜか、この歌(むちゃ加那節)には「うらとみ」(という母)の名は出てこない。
むちゃ加那が蹴落とされたとも歌われていない。
ただ「むちゃ加那」という名の娘が出てくるばかりなのだ。
この譚歌(物語歌)も加え、シマジマにあった無数の母子の話が複合して、今のうらとみ、むちゃかな伝説が成立したと思われる。」

小川学夫著『奄美シマウタへの招待』(1999年、185p)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

※ 「うらとみ&むちゃ加那」にまつわる物語ウタの発生と展開(解説)を調べてみた。
このウタに関する12冊ほどだが、ほぼおさえているとは思う。
もし、不可欠の文献などありましたらご教示ください。

茂野(1927年)から籾(2001年)までの間に島唄を書いてきシマンチュたちはみんな故人となってしまった。
北海道から1960年にやってきた小川学夫という異人の存在が奄美の島唄の世界には大きい。
「うらとみ&むちゃ加那」の深層も小川の見解にはうなずける。
しかし、ホライゾンのシンポに寄せられたた小川からのメッセージはいただけなかった。
ワンの反発以外にも、数人から不評を聞いた。
なんかの機会にUPする。

島唄の深みを通して少しずつ具体的に「しまぬ世」への想いがふくらむ。
できれば、いつか、まとめてみたい。
数編の関連ウタとともに。
あすからも、「しまうた」の実相を探ってみたい。
まずは、ミチのシマ島に存在した、無数、無名(無明)の母娘たちへ。
その墓標としての「うらとみ&むちゃ加那」たちへ、
哀悼のとぉとぉがなし!



①:茂野幽考『奄美大島民族誌』/昭和2(1927)年/「大島民謡ムチャ加那の死」/288~296p
②:坂井友直著『喜界島史』/昭和6(1931)年/「ムチャカナ節の由来」/復刻選集版314~315p
③:文潮光(英吉)/『奄美民謡大観』/昭和8(1932)年)/民謡起源伝説編ーうらとみ節/97~101p
④:昇曙夢/『大奄美史』/昭和24(1949)年/薩藩治下における歌謡ー長歌(ウラトミ節・鶉の歌)/366~370p
⑤:三井喜禎/『喜界島古今物語』/昭和40(1965)年/土俗を物語る島の民謡ートバヤ、ムチャカナ/130~145p
⑥:島尾ミホ他/『奄美の伝説』/昭和52(1977)年/うらとみ/254~282p
⑦:籾芳晴/『碑のある風景』/昭和55(1980)年/鬼哭啾々ームチャカナの碑/226p
⑧:小川学夫/『奄美の島唄』/1981年/奄美大島・喜界島の歌/うらとみ節(一名「むちゃ加那節」)/48~51p
⑨:池野無風/『奄美島唄集成』/1983年/八月踊り歌ー浦富踊り歌/174~176p
⑩:小川学夫/『奄美シマウタへの招待』/1999年/歌われた神話・伝説・うわさ話ー「うらとみ」「むちゃ加那」/185p
⑪:籾芳晴/『奄美 島唄ひと紀行』/2001年/悲劇を演出した代官たちー新説「うらとみ」「ムチャ加那」27~36p
⑫:義 富弘/『しまがたれ6・7号』」/2002年/ウラトミ哀歌(1~4)




137億61歳!の記憶と記録
鎮魂譜121
2010/1/8(くがに=金) 旧11/24
(土の兄 午) こ(子)読み

うらとみや うらとみ むどらめや うらとみ
うらとみ むどしゅしや 島ぬ ふれむん
(7)

(うらとみ節)

★ 
うらとみは他島の者なのに、喜界島でも評判の高い青年と結婚した。
生まれ島に帰ってはどうか。
村の長老が、うらとみのような感心な娘を帰すのは島のふれむん(馬鹿者)のすることだ、と諌めてい
る。

☆ しゅや満ちあがて てぃだや さんとき(申時)下がりゅり
とばや ムチャ加那や 海路かち引きゃさったむ
(8)

(とばやムチャ加那節)

 ★ 潮が満ちかけた、午後4時ごろになった時分、
ムチャ加那は潮路に引かれてしまった。


これは、『奄美 島唄ひと紀行』(籾 芳晴著、2001年)から。

ー奄美に残る女性史の多くは悲恋物語である。その点、ムチャ加那物語は、当時の世情からは想像もできない抵抗史である。
話の舞台も瀬戸内町生間(いけんま)から喜界町小野津、住用村青久(あおく)という広がりを持ち、それぞれの地で伝説が残っている。
ムチャ加那の伝説は、茂野幽考著『奄美大島民族誌』(昭和2年)によって初めて一般に紹介され、さらに文潮光(英吉)氏が『奄美民謡大観』(昭和8年)で「うらとみ」に解説を付けられた。昇曙夢氏の『大奄美史』(昭和24年)に紹介されて現在に至っているが、これらの著者によって「ムチャ加那」「うらとみ」に定説ができあがった(31p)。

^^^^^^^^^^^^^
※ 奄美の民謡から奄美の歴史や民俗をのぞいてみよう。
そのつもりで、『奄美民謡大観』の章立て「薩藩治下の民謡」から今年はスタートした。
今日は「うらとみ節」をUPする予定だったが、歌詞や物語がいくつもあることを知った。
上記の古典3冊のほか、いくつかの文献に当たってみた。

ヒトが織りなしてきた(いる)詞曲や踊りなどはその土地土地の受容のされかたでさまざまに変容していく。
まるで、奄美の歴史と同じである。
いや、ヒトそれぞれが生きこし行く末の現実、その後の物語などと同じだ。
事実、事物、文献、伝承などの記録と記憶。
それぞれの織物のアヤをどうほぐしていくのか。
井の中の節穴から天の高さを知る。



137億61歳!の記憶と記録
鎮魂譜120
2010/1/7(き=木) 旧11/23
(火の弟 巳) こ(子)読み

☆ やまとんちゅと 縁結ぶなよ
本帆まきあげれば かちめとろ ねんどねんど(5)

★ 薩摩の人と縁を結んではならないぞ、
本帆を巻きあげたらそれまでで、つかまえどころはない

数々貞操をもてあそばれ身持ちになったりして、一生を台なしにした女が多かったので、それを戒めた歌である。
かくて、薩藩時代の生活の苦しさから島の人びとは、生きる望みをさえ失って次の民謡をうとうまでに悲劇の民となったのであった。(49p)


☆ あだぬ世の中に ながらえておれば
朝夕血の涙 そでどしぼる
(6


 さらに、島津はその支配の必要から、この地の各家庭の系図や旧記類を悉く取り上げて灰にした。祝女にも弾圧を加えあらゆる生活の自由を奪った。それは島民を過去の歴史から絶って自尊心を喪失せしめ奴隷化の徹底を図らんがためであった。

 だが、いくら強権をもってしても遂に民族の魂の所産である民謡を奪うことはできなかった。この世界においてはいささかも薩摩化されることなくしてよく自らの個性と伝統を守り抜いた一面もあった。民謡こそは圧政へのレジスタンスであったのである。代官の不法な要求を断固一蹴して、死を以ってその処女性を固守した美人うらとみは奄美女性の誇るべき代表として忽ち「うらとみ節」の名曲となって一世を風靡した(4
9p)

※ あしゃ(明日)やぁ、「うらとみ節」。
系図の「差し上げ」と「差し出し」については、最近の弓削政巳の研究があるが、ワンとしては、同時期に創設された琉球王府の「系図座」との関係(分離)で見ることが必要だと思う。



137億61歳!の記憶と記録
鎮魂譜119
2010/1/6(むずぃ=火) 旧11/22
(火のアニ 辰) こ(子)読み

☆ うしく がじまるや いしだきゃに ほでる
おきて きびめや しまだきゃに ほでる
(3)

★ 宇宿のガジマルは、石を抱いて成長するが、
島の掟、黍見回り(サトウキビ畑の監視役)は、島を抱いて即ち島民を搾取して太っていく。」(48p)

※ 「うしく」やぁ 笠利町ぬぅ部落ぬぅ 「宇宿(うすく)」ぬくとぅやあらん ちゅんくとぅが わかりょうたぁ
「宇宿貝塚」しぃ 有名な くまやぁ ワンあんまぁ(母)とぅ とぅじ(妻)ぬ シマだりょんちょ
うがしあんば(しかし)
徳之島なんてぃやぁ 「アコウぬ木」(ガジマルと共にケンムンぬ宿りゅん絞め殺しぬ木) ちゅんくとぅ ばぁ
 こねだ(この間) 伊仙町ぬ議長ぬ上木勲がなしぬ ゆ(諭)してぃ くりりょうたぁ
むずらさりょんかな 調ぶてぃにょうたっとう 八重山なんてぃやぁ
まさに「うすくがじまる」=「あこうの木」 なとぅりょうたぁ
(^ム^)
シマウタぬ解説(定説)だか かししぃ(このように) よ~りよ~り か~(変)てぃ いきゅんむん だりょんやぁ

^^^^^^^^^^^^^^

☆ なきゃ 与人ぬ くゎんきゃや ちりめんきび ひきまわち
わきゃ 百姓ぬ くゎんきゃや わらきび ひきまわち
4)

★ あなたがたは、与人様の御子で、縮緬の帯を締めまわしているが、
吾々は百姓の子で藁帯を締めている。
与人や横目の中には忠実な藩の手先となって、而も虎の威をかって島民に君臨し、
生活も豪勢を極めたものが少なくなかった。
そういう消息をうたった歌である。(48p)


※ なま(現今)ぬ しきん(世相)とぅ てぃっちん(ひとつも) か~(変)らぬ 401年目ぬ 「しまぬゆ」ぬ



137億61歳!の記憶と記録
鎮魂譜118
2010/1/5(ぅまてぃ=火) 旧11/21
(木の弟 卯) こ(子)読み

☆ かしゅてぃ しゃんてぃ たがため なゅんか
やまと いちょぎりゃぬ ためどなゅる
(1)

こうして血の汗を絞って働いたところで、誰のためになるんだ。
すべては大和いちょぎりゃ(薩摩=日本の美しい絹の衣をまとった奴共)のためにしかならないのだ。

^^^^^^^^^^^^^^^^^^
☆ きょらまれ をなご しまぬため なゆめ
やまと いちょぎりゃぬ ためどなゆる
(2)

 美しく生まれた女は、お互い島の人びとのためにはならない。
やまといちょぎりゃのためにしかならないのだ。
当時、美人と言う美人は、娘であろうと人妻であろうと、権力づくですべて彼らの餌食にされたので、それを憤ってうたった歌である


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詞とぅ解説やぁ、文(かざり)英吉がなし
明治23年大島郡三方村大熊生まれ
『奄美民謡大観』―昭和8年初版、昭和41年の改訂増補版らが(から)ー(48p)

※ いっとぅきやぁ、英吉がなしぬ シマぬ うった(ウタ)え!

2010年!

南蛮(島)・倭らが、カラ(韓・唐)・天竺(インド)がで(まで)
むずぃ(水)ぬ ぶりぶし(群星)
しま(シマ/島)ぬゆ(世)やぁ 401年 ぬん(なにも) か~(変)らぬ 
でぃ(さぁ)! うった(ウタ)え!
れっつ! しんぐ あ そんぐ!
だんす!だんす!だんす!
をぅどぅらなば しまやぁ ヤマなりゅんどぉ!


137億61歳!の記憶と記録
鎮魂譜117
2010/1/1(くがに=金) 旧11/17
(金の弟 戌) こ(子)読み

 みぃどぅし(新年)ぬぅ あらたま(新魂)りょうてぃ 
な(汝)きゃぬぅ かほ(果報)ばぁ ゆわ(祝)てぃおしょろぉ


くず(去年)やぁ 1609年ぬぅ 400年モンダイなんてぃ あけくれしょうたぁ
くんとぅし(今年)だかぁ う(其)りやぁ かわりょうらん
まずぃやぁ 伊藤祐一郎知事がなしがり ただ(質)しふみばぁ いじゃしまいじゃが
あんかり(みんな)しぃ
うんあとぅやぁ 旧暦3月7日ぬ慰霊ぬぅ さばく(捌)りぐとぅ
いち(何時)でん なま(今)がどぅ ぬんけん(何事)ぬぅ始むぃ

なきゃぬぅ ゐ(良)っちゃん かんげ(考)ばぁ くんとぅしだかぁ ゆ(諭))してくりんしょれぃ
たん(頼)びょっとぉ!
どうかどうか…・・・


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