『つぶて65(冬)号・2009』原稿

 

二〇〇九年のアマミから―一六〇九年の始まりへ

 

〜はじめに〜

 

二〇〇九年、オバマと鳩山が登場した。同時にオキナワでは、衆議院選で民主・社民・国民新党連立政権の与党議員が独占し、戦後六十四年間の基地植民地に対して、日米の合意にノー!というチェンジ!コールがこだましている。アメリカは「日米の関係が空中分解すれば元には戻らない」と、どう喝している。だったら、私たちは日米の安保条約を破棄し、平等互恵の日米友好条約を結べばいい。国民の意思によって、元に戻ったフィリッピンのように。

搾取とは、乳や草木の汁をしぼり取ること。米国は日本から、日本は沖縄から、しぼれるだけの甘い汁、いや血と汗と涙の苦い汁を吸っている。隣の奄美諸島は鹿児島県からしぼられている。日本国・鹿児島県の経済植民地として四百年間支配され続けている奄美だが、このことを知っている日本人と沖縄人は皆無に近い。アマミも元に戻りたい。さて、いかに?

 

▼ 一六〇九年、ヤマトのサツマがリュウキュウを侵略した。やがて、リュウキュウからひそかに分断され、サツマに直接支配されたアマミは、現在でも一木一草に至るまで苦い汁を噛んでいる。四百年目の今年、「薩摩の侵略四百年」の「イベント」が奄美・沖縄と全国各地で多彩にくり広げられた。しかし、参加者たちはそこで何を問い、何をあぶりだし、何を届けることができたのだろうか?奄美のヒトたちに。

この問いを地球レベルに置きかえてみよう。たとえば一四九二年、キリスト教世界の人々が西航路の島に漂着した。やがて、世界の陸海空を支配する。五百十七年目の今年、USAはオバマへとチェンジした。しかし、今なお植民地支配が続いている琉球弧や世界中のネイティブたちにはチェンジの波など何も届いていない。

 ワン(吾)はそれを二〇〇九年の奄美で考えている。

本誌六十三(夏)号の「しまぬ()元年へ―奄美諸島から―」で、ワンは奄美大島、徳之島、沖永良部島で行われた二〇〇九年の「祀りとイベント」を報告した。その後の奄美で、ワン自身がかかわってきたことをたどりながら、ともに考えてみたい。

 

一 奄美初(発)の『奄美郷土読本(歴史編)』発行!

 

▼ 我々「三七の会」は、奄美の「郷土教育に関する陳情書」(1)を鹿児島県と奄美群島十二の全市町村へ提出した。(以下、文中の太字は筆者による。)

 

 

(1)郷土教育に関する陳情書

平成二十一年九月00日

00市町村議会議長 0000様

鹿児島県議会議長 金子万寿夫様

        陳情者 鹿児島県奄美市名瀬長浜町25―5

                                      三七(みな)の会」主宰 薗 博明

1 〔趣旨

二〇〇九年の奄美は、「皆既日食」のおかげで国内外にその名を発信することができました。また、今年は島津藩が奄美・琉球を侵略・侵攻してから四百年を迎えます。

この大きな節目の年を契機として、奄美の過去と現在を確認し、未来への明るい奄美像を描いていきたいものです。

日本と世界に誇れる奄美の輝かしい宝の数々。それらは、それぞれの母なるシマ(集落)が生み育ててくれました。ですから、今後はそれぞれのシマの遺産(自然・文化・歴史など)を学習し、継承、発展させていくことが重要だと思います。そのために、奄美各地の学校教育と社会教育が連携して、それぞれの郷土教育のさらなる充実を図るための取り組みが必要であると考え、ここに陳情いたします。

 

2 〔陳情項目

(1)奄美の環境教育について。

奄美固有の自然、多様な生態系、先人たちとの係わり方などを、わかりやすく住民に教えてください。

(2)   奄美の郷土教育について。

奄美独自の伝統文化の特徴や重要性を、わかりやすく地域の住民に教えてください。

(3)奄美の歴史教育について。

類を見ない奄美の複雑な歴史を、わかりやすく地域の住民に教えてください。

3 〔陳情の理由〕

 

 (1)奄美の環境教育

なぜ、奄美が「世界自然遺産」の候補地となっているのか、また、ユネスコから評価、認定されるためには行政と住民は何をしたらいいのか、してはいけないのか、ということなどが住民には周知されていません。たとえば、ブックレットやDVDなどの教材で具体的に解説し、体験させる必要があると思います。

(2)奄美の郷土教育

奄美のシマ島には重要な無形文化財が数多くあります。これらの伝統文化は継ぎ手がいなくなればやがて滅んでしまいます。実際、ユネスコは二〇〇九年二月二十九日(ママ、※発表は二月二十一日)、「シマ口」は日本語の方言ではなく、国際的な基準では独立した「奄美語」であり、「消滅の危険」にあると発表しました。各地の「シマ口、シマ唄、シマ踊り、シマ行事」などを守るための教育は特に急を要する課題だと思います。奄美の教育界では、戦前から復帰後にもシマ口の使用を禁止してきた責任があるからです。

(3)奄美の歴史教育

奄美群島はなぜ鹿児島県の行政管理化にあるのか、いつからそうなっているのか、その間、奄美ではどのようなことがあったのか、一六〇九年以前の歴史も含めて、奄美の出身者たちは、ほとんど知りません。奄美の歴史教育というものが全くなかったからです。00市町村におかれましては、『00市町村誌』のダイジェスト版(副読本)などを分かりやすく作成して地域住民に広報することも必要と考えるからです。                 

 

 

       これに対して鹿児島県議会は継続審議と先送りした。

それにくらべて、奄美の市町村首長と議員全員で構成する「奄美群島広域事務組合」の教育長会は、十一月二十六日、次のように発行の意義を発表した。

 

 

(2)「薩摩侵攻四百年にあたっての児童・生徒用副読本の必要性について
         平成二十一年十一月二十六日 奄美群島広域事務組合 教育長 徳永昭雄

 過去、旧大島教育事務局を中心に、郷土の先人の顕彰を行うため、「先人に学ぶ」五巻を発行し、その生き方を群島内の児童・生徒に副読本として配布しました。
 名瀬市誌(上)第五章には「島津氏の琉球入りと奄美」の項を設け、薩摩世の状況を記載していますが、迫害・被虐の記述が児童・生徒用には、いささか判りにくい嫌いがあります。
 多くの子どもたちは、高校を卒業すると、一度は島を離れ、都会で暮らします。しかしながら、奄美の子どもたちは親世代から薩摩に虐げられてきたことを教わっても、「奄美の黒糖製造」の歴史が、近世において又、明治維新において、財政的に大きな役割を果たしたことを教えられていません。
 島で生れ育ったアイデンティティの確立と、誇りを奄美地域の歴史を語れる子どもたちの育成を図る上からも、近世において、奄美地域が薩摩藩にそして近代日本発展に果たした役割を、子どもたちに伝えておくことは極めて肝要なことと思量します。

 そのための副読本を作成することは、一地域の歴史と言うことで、鹿児島県当局は作製について消極的と思いますが、薩摩侵攻四百年を契機として、奄美群島広域事務組合で発行することは意義ある事業であると考えます。
 おりしも、民間団体から、子どもたちに奄美の歴史を教えていただきたい旨の陳情書が提出され、県議会においては、継続審議となりましたが、奄美地域の多くの議会において採択されています。
 また、沖縄県教育委員会は、沖縄県の歴史を県内の小・中・高校生に伝えるため、数多くの副読本の提供を行っています。
 各市町村におきましては予算面において、厳しい環境にあることは、承知していますが、奄美の子どもたちが将来において誇りを持って、生きていくうえでの教育資産として副読本の発行を切望するものであります。

 

 

       これは、奄美の自治体連合の取り組みとしては歴史的な大業である。なぜなら、「薩摩

侵攻四百年にあたっての」事業であり、一六〇九年から「奄美八島」という枠組みになったということなどを奄美の子どもたちが認識できる奄美初(発)の「教育資産」となるからだ。

 奄美の一六〇九年問題を問うてきた「三七の会」の当初の目的は達成された。二〇〇九年、最大の成果はやはりこれに尽きる、という達成感。

次の目標は鹿児島県の歴史認識を問う闘いとともに、幾重にも分断されてきた琉球弧の島々を結ぶ「しまぬゆ連合」の結成である。

 

       また、十月三日には、鹿児島市で私たちと志を共にする「奄美の未来を考える集会」が開催された。集会では「奄美の自然・文化・歴史等の広報・教育に関する陳情書」(3)を採択し、十二月の鹿児島県議会に提出した。奄美を離れて暮らしている出身者たちの具体的で切々たる思いが伝わってくる。

 

 

(3)奄美の自然・文化・歴史等の広報・教育に関する陳情書

二〇〇九(平成二十一)年十月三日

鹿児島県議会議長 金子万寿夫様

陳情者 鹿児島市坂元町38―3

「島津藩による奄美・琉球侵略四百年・奄美の未来を考える集会」

実行委員会 (代表) 仙田 隆宜

 

1 陳情趣旨

 

 奄美は、今年は「皆既日食」のことがあり、その奄美の地理的存在のため国内外から多くの注目を浴び、いろいろな情報を発信することができました。奄美にとっては大変うれしいことでありました。

 

 しかし、奄美にとって、二〇〇九年という年はもっと重要な意味を持った年であります。それは、島津藩が奄美・琉球を武力で侵略・侵攻してから四百年目の年であるということです。

 この年から、奄美は琉球王朝の支配下から島津藩の直轄領として苦難の歴史を歩み続けることになりました。島を離れて、鹿児島本土で暮らした人々は、かつてかなり屈折した感情を内包しながら生活を営まなければならなかったといわれています。

 こうした歴史については、四百年目の現在に至っても一部の人々を除いては認識されておらず、歴史の闇の中にひっそりと、さもなかったかのように埋もれております。

 また、奄美の歴史的な分野だけでなく、奄美の固有の自然や文化についても、その重要性について認識されていないことを痛感しています。

 

その一つの典型として、方言があります。二〇〇九年二月二十九日に国連教育科学文化機関(ユネスコ)が、世界で約二千五百の言語が消滅の危機にあると発表しました。そこには驚くべきことに、「奄美語」が上げられていたのです。国連の機関が奄美方言を独立した言語と認め、さらに危機にあると警鐘を鳴らしたのです。ユネスコの担当者は「日本で方言として扱われているのは認識しているが、国際的な基準だと独立の言語と扱うのが妥当と考えた」と発表しています。

 

 私たち、奄美に関心を寄せるものたちは、二〇〇九年の今年、奄美の島々の辿った歴史を見つめ直し、奄美の伝統文化や特異な自然について、その豊かさを改めて認識するため、この「島津藩による奄美・琉球侵略四百年・奄美の未来を考える集会」に集いました。そして、これらの課題を現代に生きる我々はもちろん、後世に引き継いでいく必要性を痛感し、参加者の一人一人がその使命を負うことを誓うと共に、鹿児島県においても同様な認識で、県民への広報や学校教育で取り入れていただくことを切に願い、陳情いたします。

 

2 陳情項目

 

(1)   奄美の島々は、琉球王朝の支配下から一六〇九年以降は薩摩藩の直轄領となり、さ

らに第二次世界大戦後は米軍政下の異民族の支配下におかれ、一九五三(昭和二十八)年に激しい復帰運動を経て、今日に至るという類稀な複雑な歴史を有しており、この歴史ゆえに奄美の民衆は筆舌に尽くしがたい苦しみを負って来ております。こうした奄美の歴史を鹿児島県民及び各学校教育において正しく認識できるようにわかりやすく伝えていただきたい。

 

(2)   奄美の方言(シマグチ)や民謡(シマウタ)など奄美の風土に根ざした伝統文化の重要性は識者には高く評価されているものであります。これらの方言や民謡を将来にわたって継承していけるような手立てと鹿児島県民及び各学校教育においてもその重要性をわかりやすく伝えていただきたい。

 

(3)   奄美の自然や多様な生態系は極めて特異なものであり、希少価値を持つものでありますまた、奄美の先人たちの自然との関わり方も、現代に生きる私たちに多くの示唆を与えてくれます。こうした奄美の貴重な自然、多様な生態系を守り、育てると共に、広く県民や各学校教育において正しく伝えていただきたい。

 

 

二 「共同声明」と「共同宣言」に抗して

 

       私たちの仲間が訴える陳情活動に対して、鹿児島県議会は採択していない。

それどころか、二〇〇九年の問題には完黙していた鹿児島県だが、沖縄県議会との「共同声明」(4)を突然打ちだしてきた。さらに、両県知事による「共同宣言」(6)をわずか半月後に、それも奄美の地で行うと同時に発表したのだ。奄美関係者には寝耳に水、まさに「民は之を知らしむべからず、よらしむべし」そのものであった。

 

 

(4)鹿児島県・沖縄県両議会議長共同声明

 

▼ 本年は、一六〇九年、薩摩藩が琉球王国に侵攻してから四百年の節目に当たる。

侵攻により不幸な歴史があったことは否定できない事実である。しかし、今日、鹿児島県と沖縄県は、海を隔てた隣接県として、また九州の一員として相互に種々交流を深め、共に繁栄を築いてきた。

 

両県議会は、この歴史的節目の年を迎えるに当たり、先人たちが築いてきた友好関係を今後さらに発展させるとともに、とりわけ積極的な取り組みが期待される奄美・琉球諸島の世界自然遺産登録の実現及び離島の振興等共通の課題に関し、連携して調査、政策提言を行うなど、両県の振興発展のために尽力することをここ鹿児島市の地において宣言するものである。

                                       

二〇〇九年十一月四日

鹿児島県議会議長 金子万寿夫 副議長 中村 真

沖縄県 議会議長 高嶺 善伸 副議長 玉城義和 (各人署名)

 

 

       私たちは意表をつくこの「共同声明」(4)に接し、「歴史的節目の年」に鹿児島県と沖縄県が共同(?)して作文した「侵攻により不幸な歴史があったこと」とは何か?それを明らかにしないかぎり、両県知事によるさらなる「共同宣言」などは認めないとの結論に達した。

急ぎ、「奄美の会」を結成、奄美内外の有志に呼びかけ、十一月二十一日の「『沖縄・鹿児島連携交流事業』における『交流拡大宣言』の中止を要求する要請書」(5)を鹿児島県知事に提出して記者会見した。「共同宣言」のわずか三日前のことだ。

この要請書(5)は、徳之島、大島、鹿児島から寄せられた抗議文を一つにしたものである。

 

 

(5)「沖縄・鹿児島連携交流事業」における

「交流拡大宣言」の中止を要求する要請書

二〇〇九年十一月十八日

鹿児島県 伊藤祐一郎知事様

 

                    「交流拡大宣言」の中止を要求する奄美の会

代表 仙田隆宣

鹿児島市坂元町三十八―三

他賛同団体

中止を要求する喜界島の会

中止を要求する大島の会

中止を要求する徳之島の会

中止を要求する沖永良部島の会

中止を要求する与論島の会

中止を要求する鹿児島住民の会

中止を要求する沖縄住民の会

中止を要求する関西住民の会

中止を要求する関東住民の会

中止を要求する琉球弧の先住民族の会

1【項目】

私たちは、「沖縄・鹿児島連携交流事業」における「交流拡大宣言」の中止を断固として要求します。

 

2【理由】

十一月二十一日、鹿児島県知事と沖縄県知事による「沖縄・鹿児島連携交流事業」が行われると聞いています。

しかし、島津軍による武力侵略から四百年の今年、奄美の地でそれがなされることには深い違和感を覚えざるをえません。

 

一六〇九年の琉球侵略に伴い、奄美の島々は琉球国の領土から転じて、薩摩藩の隠された直轄地となりました。明治期に鹿児島県に編入されてからも米軍政下の八年間を除いて現在に至るまで、この奄美が本土統治下に置かれ、差別と収奪の対象にされていたと見ることができます。

 

私たちは、加害者と被害者の立場の違いによって歴史の評価は大きく異なることを学んできました。

 為政者側からの歴史は、徳之島犬田布(一八六四 年)において無実の罪で拷問された「為盛」救出が「騒動」であり、母間(一八一六年)において無実の罪で投獄された「喜久山」救出と薩摩藩直訴もまた「騒動」でしかなかったのです。

 斉彬の近代化政策とは奄美の人々を酷使し、餓死させた政策であり、これを推進した行政改革者調所広郷の改革とは大阪商人からの五百万両の借金踏み倒しと偽金作り、密貿易、奄美諸島の民衆を奴隷と化した黒糖収奪でありました。今の時代なら極刑であります。しかし、斉彬と調所は薩摩のヒーローとして鹿児島の歴史学者は賞賛しています。

 薩摩の奄美・琉球侵略を「不幸な歴史」と精算し、過去の歴史を隠蔽し、蓋をすること、謝罪すべきことを「交流」と称し、奄美を愚弄することを奄美の民衆は許すことはできません。

 

 今、やっと奄美の人々が言葉を発する時代(とき)が来たと、私たちは考えてきました。そこへまたもや亡霊のように薩摩と琉球が立ちはだかるとしたら、我々の先祖は地の底から這い上がり、きっとこう叫ぶでありましょう。

 「武器を持たぬ豊かな恵みの島を襲った島津軍、黒糖地獄、あの苦しみを忘れろと言うのか!餓死した同胞は今も山中に、海岸に骸となってさまよっているのだ!今もなお薩摩代官のごとく島ん人を見下す輩がいるのがみえないのか!哀しいことだ・・・」と。

 薩摩の奄美・沖縄侵略を契機に奄美の人々のアイデンティティは末梢され、「薩摩であって薩摩でない、琉球でなくて琉球の内」として扱われてきました。

 

明治の世、黒糖は自由売買の世になりましたが、鹿児島商人(大島商社等)は専売によって暴利を貪ってきました。そして、自由売買嘆願の一行は投獄され、一部の人々は西南戦争へ従軍。疲弊した奄美は、県議会によって「遥かに遠い絶海の離島で文化も違う」と異端視して切り離され、屈辱的な差別政策である「大島独立経済」を強いられてきました。   

さらに敗戦後、奄美の島々は米軍統治となり、一九五三(昭和二十八)年十二二十五日、やっと我々は薩摩侵略以来の自由を取り戻したかに見えました。

しかし、これも鹿児島の官僚政治で、奄美群島振興開発特別措置法という鹿児島県と本土企業の利権を誘導するための事業と化し、奄美の貴重な自然を食い物にするだけの形を変えた植民地政策となっています。こうしたアメとムチの時代がまたもや奄美を沈黙させているのです。

薩摩と奄美は永遠に「侵略、略奪」する側と「奪われ、生殺与奪の牛馬のごとき」関係でしかないのでしょうか!

 

しかし、奄美の人々は島人(シマンチュ)としての誇りを捨てることはありませんでした。私たちは、長い苦難の時代にあってもシマの生活と文化を守り、誇りを失わずに歩みを止めなかった先祖を尊敬し続けてきました。

それ故、私たちには、絶滅寸前であるといわれている奄美の島々のシマグチやシマウタなどを始め、文化や歴史、自然まるごと奄美のアイデンティティとして継承する義務と責任があります。今、薩摩に同化されることはそれらを失うことになります。

私たちと志を同じくする「三七(みな)の会」は、こうした意志を表明するため、本年9月、鹿児島県議会に「郷土教育に関する陳情書」を提出し、鹿児島県と奄美に係わる歴史教育の必要性を促しましたが、継続審議となりました。

奄美侵略四百年を機に、鹿児島県でも奄美に対する歴史の検証と総括、これからの歴史教育への取り組みを含め、真摯な取り組みが開始されるものと期待していました。

鹿児島県民の中で、奄美と薩摩の過去の歴史を知るものが、果たして何人いるでしょうか。鹿児島県知事は、その歴史を語ることができるでしょうか。

 

鹿児島県及び鹿児島県知事は、二〇〇九年の今回の計画において大きな過ちを重ねようとしています。それは、第一に、鹿児島県民に奄美の歴史を広く知らしめる責にありながら放置していること、第二に、その歴史と現実を「沖縄・鹿児島連携交流事業」という美名で隠蔽しようとしていること、そして、このイベントを今日、現在においてすら奄美の住民に告知せず、開催しようとすることなどであります。

 

奄美と鹿児島県の歴史を語らず、逆に奄美の住民感情を黙殺するに等しい計画に対して、私たちは、四百年前の一六〇九年、島津藩の奄美侵略によって数百名余もの命が奪われた先祖の無念を思うとき、「無神経にも程がある!」「恥知らず!」と耳障りになるような言葉を投げかけるほかないのです。

しかも、こうした歴史に目を閉ざし、それらの歴史的事実がさも無かったかのようにして、この計画を奄美の地で行うなど、言語道断であり、これは時期尚早という以前の問題であります。なぜなら、今日に至るまで奄美と鹿児島県との四百年間の歴史認識(検証と総括)の問題はなに一つ解決されていないからであります。

 

このようなことから、私たちは「沖縄・鹿児島連携交流事業」における「交流拡大宣言」の中止を断固として要求します。

 

 

▼ しかし、私たちの中止要求を無視して、共同宣言(6)は次の内容で調印された。

 

 

(6)沖縄県・鹿児島県交流拡大宣言

 

沖縄県と鹿児島県の両県は、「琉球弧」と呼ばれる広大な南の海洋に連なる島々につながる「黒潮文化圏」の中になり、古来から海の道による文化の交流があった。

海を通じてアジアや世界に開かれたこの二つの県は、周辺地域の文化を吸収しながら、また、多くの激動にさらされながら、それぞれ独自の個性を築いてきた。

さらに、両県は、政治的・経済的な関係にとどまらず、生活文化の面での深い交流を通じてお互いの個性を磨いてきた。

薩摩による琉球出兵・侵攻400年という節目を迎えたこの年、過去の出来事や成果をしっかり踏まえつつ、両県が真の隣人としての関係を新たに構築することが重要である。

このため、今後、両県は、あらゆる分野・世代でより一層の交流を推進し、相互の繁栄を目指して協力することを、ここ奄美の地において宣言し、両県知事が署名する。

 

  二〇〇九年十一月二十一日

 

沖縄県知事  仲井真弘多       

鹿児島県知事 伊藤祐一郎 (両知事署名)

 

 

       私たちは、当日、会場で中止要求の抗議行動(7)を強行した。

両県知事による破廉恥な歴史的犯罪を示す地元紙の記事(7の1と2)を掲載する。なかでも鹿児島県知事のいかにも能天気なコメントは、おおかたの鹿児島県民の歴史認識を代弁しているのだろうか?そうだとしたら、奄美は鹿児島県とは分離するしかない。

 

 

(7の1)抗議行動(南海日日新聞、十一月二十三日。1面トップ)

 

沖縄・鹿児島交流拡大宣言 「奄美搾取の歴史を隠蔽」 住民グループが抗議行動

 

 「奄美が搾取され続けた歴史検証や総括が欠けている」として、沖縄・鹿児島交流拡大宣言に反対、中止を求めていた奄美、鹿児島本土の住民グループは二十一日、奄美市の県奄美パークで開催された「沖縄・鹿児島連携交流事業」記念式典会場前で抗議行動を展開した。(八面に関連記事)

 

支配下の検証・総括不十分

 

 抗議行動をしたのは趣旨に賛同する二十人。式典開始前の午後二時半ごろ、会場の玄関前に集結し、宣言の中止を要求した。グループは「奄美の歴史を隠蔽する交流拡大宣言の中止を求める」との横断幕、プラカードを掲げ、薩摩藩の支配後に島々が受けた困難を連呼した。

 奄美パーク側は事前に「施設内で横断幕、チラシの配布はできない」と掲示していた。制止に入った県職員と住民グループが押し問答になる場面も。抗議は式典直前まで続き、式典中にはやじも飛び出した。

 式典は鹿児島、沖縄両県の交流拡大へ向けた新たなスタートとなった反面、歴史認識に対する奄美側の反発、住民の複雑な感情も浮き彫りにした格好だ。

 

 抗議活動に参加した「交流拡大宣言の中止」要求する奄美の会の仙田隆宣代表は「宣言には『過去の歴史と成果を踏まえて』とある。奄美を犠牲にしたことが成果というのか。一六〇九年以前は琉球の支配下にあり、鹿児島、沖縄が奄美の不幸な歴史を作った反省がどこにも盛り込まれていない」と語気を強めた。

 

 「歴史が検証されていない」との指摘に対して伊藤祐一郎知事は「人によって見方が違う。何が検証され、検証されていないかはお互いの関係が深化していく中で考えていく問題。世界中の国が過去を持ち、未来に向かっている」と述べ、抗議行動を批判した。

 

 

▼ 伊藤祐一郎知事はのたまわった。

「お互い(奄美と鹿児島県?)の関係が深化していく中で考えていく問題」(?)

「世界中の国が過去を持ち、未来に向かっている」(?)。

意味不明なおとぼけばかりだ。

「見方が違う」からこそ、奄美は鹿児島との過去・現在の共通した歴史認識から始めようと問い続けているだけだ。裁判で言えば、四百年間の歴史上の証拠を相互に確認して共に生きていこう、と呼びかけているのだ。

とんでもない、いいがかりだ。こんなさもしい歴史認識では、未来や交流への道は一歩も進めない。ぬすっと猛々しい、悪党どもよ、恥を知れ!恥を!

また、奄美を代表するサルタヒコ役の平田奄美市長の次のコメントも許せない。飼い主へしっぽをふることで、サツマの手先となって四百年。島役人たちが奄美を二重支配していることを実証する弁だ。会場から帰るべきはアナタガタなのだ!

 

 

 

(7の2)抗議活動(大島新聞、十一月二三日)

 

宣言は「時期尚早」 市民団体が中止求める

 

二十一日、沖縄県・鹿児島県連携交流事業があった県奄美パークで、市民グループがプラカードや横断幕で交流拡大宣言の中止を訴えた。

 

集まったのは奄美出身者や在住者らで作る「『交流拡大宣言』の中止を要求する奄美の会」と「中止を要求する大島の会」のメンバー二十人で、両団体は十八、十九日にそれぞれ宣言中止を求める要望書を伊藤祐一郎知事あてに提出していた。

 

市民グループは開会前、同パーク入り口で「奄美の歴史を隠蔽する『交流拡大宣言』の中止を要求する」と書かれた横断幕やプラカードを掲げ、薩摩による圧政の象徴であるサトウキビを手に、歴史検証の必要性を訴えた。

同パーク職員が撤去を求めると、「美の地で開催するのに、奄美の人間が主張すらできないのはおかしい。利用者に迷惑をかける行為ではない」として撤去を拒否。「薩摩藩四百年の歴史検証がなされず、県行政が奄美の歴史を正そうとしていない。交流拡大は時期尚早」と訴えた。

 

現場で市民グループから意見を求められた平田奄美市長は「意見を言う立場ではない。賛成するお客さんもいる。今やっているのは抗議行動。帰ったほうがいい」と答えた

「大島の会」の薗博明さんは「四百年は現実の問題。島津による植民地支配は近代社会でも関連して続いている。自分たちは過去の事実、真実を語り合おうと主張しているだけ。交流拡大して一緒にやっていくには、きちんと歴史を検証・整理する必要がある」と話した。

 

中止要求に対して伊藤知事は「過去の検証はお互いの関係が進むにつれて解決すべきこと。検証だけにとらわれて、今の事業をとめるのは賢いやり方ではない。連携を進めるのは時代の流れであり、中国など生産大国に対する我々の課題。具体的なことは決まっていないが、人的交流を中心にステップ・バイ・ステップで進めていきたい」と話した。

 

 

〜おわりに〜

 

       拝みんしょうらん(拝啓) 伊藤知事どん。

 

琉球弧間の島々の交流事業などは四百年前のように早く進めるべきなんです。鹿児島県が「未来に向かっている」んだったら、奄美との間にある深くて暗い過去・現在のミゾを早く埋めましょうよ。

今年はそれを(はじ)めるせっかくのいい機会だったのに、歴史と現実に対しては驚くほどお粗末な認識しかお持ちじゃなかったんですね。まぁ、それを明らかにしたことが私たちにとっては、二〇〇九年を巡る奄美と鹿児島の唯一の「成果!」かもしれません。これが男女の仲だったらとっくの昔に三行半(みくだりはん)なんですけどね。

 

 でもそのうち、あなたが言う「お互いの関係を深化」させましょうよ。薩摩人が嫌いな「議」を言わず、奄美人が大好きな月の白浜でカゲキ(歌劇)な交流をいたしませんか?。

お互い、「鹿児島の特産品」で高級な「大島紬」を着て、一汁一瓶を持ちこみましょう。「黒豚」や「搗きあげ(薩摩揚げ)」などを肴に、「唐芋(薩摩芋)」で造られた「焼酎」でも交わしましょう。奄美からは、「くるじゃた(黒砂糖)」や「なりみす(蘇鉄の味噌)」、「みきゃみき(三日神酒)」や「ハブ酒」などを献上、いや持参いたします。グラスは名君・斉彬公御用達の「薩摩キりコ」、お盆は仲井真知事から奄美パークでいただいた「琉球漆器」にしてください。歴史的な交流の記念品交換で奄美の首長たちには何もありませんでしたから。

 

そうそう、場所はトカラ列島のガジャ島を指定します。中世までは、日本国と南の島々の境界だった島です。一九五二年に大島郡から鹿児島郡に復帰して、一九七〇年からは無(棄)人島です。ヒト目を気にせず、心おきなく「何が検証され、検証されていないか」、「お互いの関係を深化」させましょうよ。テーマはひとつ。あなたがたが共同宣言した「過去の出来事や成果!」です。そのためにも、私たちの「陳情書」(1と3)と「要請書」(5)くらいは熟読玩味してくださいね。

うがしなれぃばやぁ、ゐゐだっかぬぅ、段取りばぁしぃくれぃしょれぃよぉ。また拝みょうろう!(それでは、良い感じの、段取りをしてくださいねぇ。また会いましょう!)

 

(もりもとしんいちろう)

 

 

2009年、薩摩の琉球侵略400年関連イベント

1.「年表で見る藩政時代の沖永良部島の歴史」

 場所:沖永良部島 和泊町歴史民俗資料館
 時期:2009年、年内
 主催:和泊町歴史民俗資料館

2.「薩摩の琉球侵略400年・琉球処分130年・沖縄再併合37年を問う」

 場所:エルおおさか(大阪)
 時期:3月20日
 主催:「天皇即位20年祝賀」反対大阪行動

3.「薩摩の琉球支配400年を問うシンポジウム・大激論会」

 場所:沖縄島 那覇市
 時期:3月29日
 主催:「薩摩の琉球支配から400年・日本国の琉球処分130年を問う会」

4.「笠利町津代の戦跡を顕彰し、慰霊するゆらい」

 場所:奄美大島
 時期:4月12日
 主催:「道の島400年展」実行委員会

5.「薩摩藩奄美琉球侵攻400年慰霊の神事」

 場所:徳之島 亀徳秋津神社境内
 時期:4月15日
 主催:薩摩藩奄美琉球侵攻400年記念事業実行委員会、沖縄大学地域研究所

6.「さつま(薩摩)の琉球侵攻と今帰仁グスク」(上里隆史)

 場所:沖縄島 今帰仁村コミュニティセンター
 日時:4月22日(水)18:30〜20:00
 主催:今帰仁村文化財資料室

7.「薩摩藩奄美琉球侵攻400年シンポジウム」
  テーマ「未来への道しるべ 薩摩藩奄美琉球侵攻400年を再考する」

 場所:徳之島 徳之島町文化会館
 時期:5月2日
 主催:薩摩藩奄美琉球侵攻400年記念事業実行委員会、沖縄大学地域研究所

8.シンポジウム『薩摩の琉球侵略400年を考える』

 場所:沖縄島 県立博物館
 日時:5月9日(土)
 主催:沖縄県立博物館・美術館
 共催:榕樹書林・首里城友の会・メディアエクスプレス

9.「琉球侵略400年シンポジウム 
  <琉球>から<薩摩>へ 〜400年(1609〜2009)を考える〜」

 場所:沖永良部島
 時期:5月17日
 主催:知名町教育委員会

10.「薩摩の琉球侵攻400年」(紙屋敦之)

 場所:東京 早稲田大学
 時期:5月29日
 主催:早稲田大学 琉球・沖縄研究所

11.「奄美復帰と薩摩侵攻400年を学ぶ講座」(薗 博明)

 場所:大島、名瀬市
 時期:6月13日
 主催:奄美市生涯学習講座「奄美復帰と薩摩侵攻400年に学ぶ」

12.「奄美にとって1609以後の核心とは何か」(喜山荘一)

 場所:鹿児島市
 時期:6月20日
 主催:奄美を語る会

13.「島津氏の琉球出兵400年に考えるその実相と言説

 場所:東京 立教大学
 時期:6月27日
 主催:立教大学文学部史学科

14.「奄美にとってこの400年は何だったのか?

 場所:東京 東京外国語大学
 時期:7月5日
 主催:カルチュラルタイフーン2009実行委員会

15.「考古学からみた薩摩の侵攻400年」

 場所:沖縄県立博物館・美術館
 時期:7月12日
 主催:琉球大学法文学部考古学研究室

16.「薩摩藩島津氏琉球侵攻400年展」

 場所:那覇市歴史博物館
 時期:9月4日〜(「琉球王国と日本・中国」歴史講座も)
 主催:那覇市歴史博物館

17.「奄美の未来を考える集会」

 場所:鹿児島県教育会館
 時期:10月3日
 主催:「島津藩による奄美・琉球侵略400年・奄美の未来を考える集会」実行委員会

18.「薩摩の琉球入り400年」

 場所:宮城女子学院大学
 時期:10月3日
 主催:<共同研究>南島における民俗と宗教

19.「海が繋いだ薩摩−琉球 〔交錯するヒトとモノ〕」

 場所:南さつま市坊津歴史資料センター輝津館
 時期:20091016日(金)〜2010年1月13日(水)
 主催:南さつま市坊津歴史資料センター輝津館

20.「奄美と沖縄をつなぐ」

 場所:新宿区箪笥区民ホール
 時期:11月14日
 主催:奄美と沖縄をつなぐ実行委員会
 
21.「薩摩侵攻400年シンポジウム」

 場所:喜界島
 時期:11月14日
 主催:喜界島郷土研究会

22.「沖縄・鹿児島連携交流事業」

 場所:奄美大島
 時期:11月21日
 主催:沖縄県

23.「徳之島 歴史を超えるうたの力 薩摩侵攻400年 しまうた、七月踊り、シンポジウム」

 場所:神戸市
 時期:11月22日
 主催:徳之島を考える有志の会

24.「アジアの中の琉球・沖縄400年」

 場所:那覇市県立博物館・美術館講堂
 時期:11月27日
 主催:沖縄タイムス社 朝日新聞社

25.「琉球・山川港交流400周年事業」

 場所:鹿児島県山川
 時期:11月28日
 主催:「琉球・山川港交流400周年」事業実行委員会

26.「薩摩侵攻四百年を考える−史学の諸分野と地域−」

 場所:琉球大学
 時期:12月12日
 主催:琉球大学史学会

27.「薩摩侵攻四百年・奄美の歴史の見方考え方」(高梨修)

 場所:名瀬公民館金久分館
 時期:12月12日
 主催:奄美市生涯学習講座「奄美復帰と薩摩侵攻400年に学ぶ」

28.「<無国籍>地帯、奄美諸島〜琉球侵攻400年を振りかえる〜」(前利潔)

 場所:鹿児島県立短期大学
 時期:12月18日
 主催:鹿児島県立短期大学

29.「東アジアの中の琉球−島津氏の琉球侵略400年を考える−」

 場所:沖縄国際大学
 時期:12月19日
 主催:沖縄国際大学総合研究機構南島文化研究所

30. 「見えかくれする薩摩侵攻以前と以後の奄美諸島」これからの奄美諸島史

 場所:奄美サンプラザホテル
 時期:12月20日
 主催:「ホライゾン」創刊15周年記念シンポジウム&祝賀会実行委員会

 

※ この年表は、『奄美自立論』の著者・喜山荘一さんが作成したものです。

2009年のイベントの詳細は、喜山さんのブログ「与論島クオリア」に詳しいです。ぜひ、ぜひ、ご参照ください。

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