【謝辞】2010年12月7日 於 秋葉屋
 
みなさん、拝みんしょうらん。

 きゅうやぁ ありがっさまりょうりいぃ。

 

オッカンは、一昨日、老衰により天からの命をまっとういたしました。大正5年、ウサギ年生まれ、来年は歳の祝いの予定の96歳でした。

 

母マツ子は笠利町の土盛、佐々原家の末っ子として育ち、こよなく土盛のシマを愛してきました。土盛のみな皆様方には母が生前大変お世話になりました。ありがとうございました。

 

若い頃、母は、姉や兄たちと満州鉄道の関係で暮らしていました。敗戦前に、シマに戻ったことで、幸運にも父・真雄と結ばれ、私たちは幸運にも、こうして生を授かることができました。

戦後は、名瀬で洋裁学校や洋服店をしていましたが、当時の永田橋市場近辺の皆様がた、ありがとうございました。商売を退いたあと、父のシマ・佐大熊の皆様がたにも父母共に生前は大変お世話になりました。この場をかりまして感謝申し上げます。また、「虹の丘」と「医師会病院」の皆様方には母の最期まで御尽力いただきまして、感謝の念で一杯です。

私ども、森本家とのゆかりがあり、今日こうして会場までわざわざお運びいただきました会場の皆様がた、本当にありがとうございます。母に成り代わりまして心より厚く御礼を申し上げます。

 

思えば、旅が好きな母でした。「あまだかいじゃぁ、くまだかいじゃぁ」

テレビを見ながら、いつも嬉しそうに口にしていました。洋服の仕入れと大島紬を売るため、毎年、季節ごとに上っていましたから、その行き来にあまくま見物していたようです。その母の血が私たち子や孫にも流れているようにつくづく思います。

 

「ワンやぁ 一番ぬ 幸せむんどぉ!」これも、母の口癖でした。

母は80歳を過ぎたころから、車椅子での生活になりましたが、家に訪れる方々には、誰彼となく話していました。感謝の人生だったと思います。

 

その母も96年間にわたる長い旅を終え、新しい旅立ちとなりました。父は早く30年前に旅立ちましたが、これからは、2人であの世を巡りながら、母にゆかりがありましたみんなの幸せを祈り、まぶり続けて(見守り続けて)くれることと思います。

 

今日は、お忙しい中、皆さま、母を送るためにお運び頂きまして、ありがとうございました。母亡きあとも変わらぬお付き合いをお願いいたしまして、お礼とさせていただきます。