反戦争、反差別…闘いの人生

藤井勇夫氏を悼む ーーー森本眞一郎

南日本新聞文化部 掲載日04年6月23日(水)

シマウタの言霊が台風四号の風に舞い、
(とうとがな)しゃる藤井勇夫の頬をなでた。
六月十日、勇夫アニが旅たった。
海のかなたのネリヤカナヤ(他界)へ。
膵臓がん。
享年六十一歳。
壮絶な一生だった。

奄美大島の生まれ。
東京では全共闘運動の中心的存在で、
あだ名の「アマミ」は全国版だった。
新宿騒乱の指導者として逮捕、投獄される。
出獄後は
鹿児島市に移り、
九州各地の住民運動と連帯して、
奄美大島の石油基地や、
徳之島の核燃料再処理工場の反対運動を組織し、
勝利に導いた。

一方で、アニは「道の島社」を興し、
名著を生んだ。
『ごまめの歯ぎしり』『わたしにもゆめがあるんですか』などは、
鹿児島県の環境や人権をテーマにした出版活動の先がけとなった。

母親つゆさんのシマ料理の本『シマヌジュウリ』は、
南日本出版文化賞に輝いた。
アニを地域出版の先達と仰ぐ南方新社の向原祥隆さんは、
祭壇に報告した。
「藤井さんのような人はもう出ないでしょう」

『えらぶの古習俗』『奄美の四季と植物考』
『奄美島唄集成』『奄美文化の源流を慕って』……
アニは地域固有の文化を照らしつづけた。

『アダンの画帖』(南日本新聞社編)では、
無名の田中一村にも光をあてた。
しかし、一村の画集出版などに失敗して倒産。
家族は離散し、路頭に迷った。

奄美(シマ)に還り、
「島じゅうり亭」を開業。
過疎ジマの区長として、
Iターン者を歓迎し
奄美を全国に発信した。

アニの今後の仕事は、
トカラとの交流と、
二〇〇九年の「薩摩の奄美併合四百周年」だった。
一六〇九年の薩摩の侵略以降、
奄美は鹿児島の植民地である。
アニは薩摩軍との初戦地、

津代
(つしろ)戦跡の対岸で暮らしながら、
戦没したマブリ(霊魂)たちを弔ってきたが、
五年後の大祭を前に命は尽きた。

見はてぬ夢に倒れたアニの棺から声がする。
「反戦争、反開発、反差別だ。行けー!」
最期まで闘い続けた勇夫アニのマブリに、
トウトガナシ!
ぼくら地球の家族から。

(校了)

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