『飛礫(つぶて)』63号に原稿を送った。
6月の発刊予定だ。
以下、掲載する

^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^


『飛礫63号』前半

「しまぬ()元年へ!」―奄美諸島から―

 

▼ 二〇〇九年七月二十二日、奄美の近辺では二十一世紀最大の「皆既日食」がある。
また、ガリレオ・ガリレイが望遠鏡で宇宙への扉を開いて四百年、今年は「世界天文年」という。

「日本国」で一六〇〇年といえば「関が原の戦い」だが、一六〇九年は?
・・・即答できる「日本人」はあまりいない。
「日本国」の歴史教科書は、「薩摩藩(徳川幕府=日本国)の奄美・琉球国の侵略(征服)」という史実にフタをしてきたからだ。

▼ 一六〇九年の旧暦三月七日、島津軍団三千人が琉球国内のサンゴ礁の島々を侵略した。
火縄銃の火蓋が奄美大島北部の笠利町津代(しちろ)の地で切られたのだ。

「南島人」にはまさに天下分け目の戦いだ。
その時の遺骨群が津代(しちろ)の裏山に今もひっそりと葬られている。
そこで、我々「三七(みな)の会」は一九九七年から毎年、鎮魂の寄合(ゆらい)をしめやかに重ねてきた。
今年は四百年の節目に当たる。
が、我々はことさらなコトはしない。
一六〇九年を軸として日々永劫に「しまぬ()へ!」深化させていくのだ。

それでも、四月十二日の慰霊祭には内外から百人近くが手弁当で駆けつけた。
いつもは二十人前後だ。
笠利町の朝山毅町長も初めて参列し、行政の無策を詫び、今後の対応を約束した。
鎮魂のあと、笠利町の青壮年たちが(うや)先祖(ふじ)(かな)したちへ「八月踊り」を奉納した。
(てぃ)花部(ーぶ)公民館の「津代(しちろ)で四百年を語る会」では熱い議論が飛び交った。

すべて予期せぬ画期的な成果だった。
一六〇九年を軸にすることで、今後は笠利町島人(しまんちゅ)の一人ひとりが「しまぬ()創り」の自治的主体になればいい。
我々が創る歴史は未来からやってくる。

▼ 五月二日は、徳之島で「薩摩藩奄美琉球侵攻四百年記念事業・未来への道しるべ」(事業費百万円)があった。行政主導による、鹿児島(原口泉)、奄美大島(弓削政巳)、徳之島(幸田勝弘)、沖縄島(金城正篤、高良倉吉)から研究者を迎えてのシンポジウムだ。

 (わん)はこの手の歴史解釈的「ガス抜き事業」には興味がない。
一六〇九年を軸として、現在の徳之島(ちゅ)が鹿児島県・日本国・琉球弧との関係にどう向き合い、切り結んでいくのか、それこそが問われるべきだからだ。

 それでも、急きょ、船で参加したのにはわけがあった。

沖縄大学地域研究所の緒方修所長が昨年十一月、(わん)を訪ねてきた。
二〇〇九年の催しを「三七(みな)の会」と共催でやりたい。
ついては、井沢元彦(「新しい歴史教科書をつくる会」メンバー)に基調講演を頼んだ、という。
当然ながら大喧嘩になり、破談。

 その後、彼は徳之島町に琉球国の尚家と薩摩藩の島津家の当主二人を招いて握手させようという、これまたトンデモ企画を持ちこんだのだ。
しかし、尚家が応諾せず、島津家の当主だけお忍びで参加するらしい。

 我々は、抗議の申入れを徳之島町当局へ送った。
その模様を南日本新聞(鹿児島)の「記者の目」(五月十九日付)から引用する。

^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^ 

 シンポは「未来志向の新たな関係を築こう」との意見が相次ぎ、盛況のうちに幕を閉じた。
 その一方でスタッフらは気をもんでいたという。
 当主のあいさつ中止を求めるメールなどが寄せられていたからだ。


 メールの趣旨は「民衆の歴史を旧支配者のあいさつで幕引きされては困る」というもの。
 反対者の一人は「藩政時代の黒砂糖収奪の構造は今も変わっていない。
 四百年の歴史は民衆側から総括すべきだ 」と主張する。

 わだかまりやしこりはない方がいいが、四百年の歴史認識は一筋縄ではいかない。
 県の施策や方向性に反対の立場から見れば、「薩摩(鹿児島)はまた奄美を苦しめている」と考えるのも分かる 。島人の無意識の声を含め、多様な意見に耳を澄ましたい。

^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^

 (わん)は、当日の懇親会場で島津修久氏にサトウキビ八本(奄美の有人八島分)の束と、(わん)からのメッセージ「しまぬ世へ!」と、『しまぬゆ』(義富弘著)、『奄美自立論』(喜山荘一著)を手渡した。
「これらを熟読玩味して、出なおして来い!」という我々からのお土産だ。

    五月十六日は、沖永良部島に上陸した。

「琉球侵略四百年シンポジウム <琉球>から<薩摩>へ 〜四百年

(一六〇九〜二〇〇九)を考える〜」(事業費、七十万円)。

(わん)は、「ゆいまーる琉球の自治イン沖永良部島」に参加して、奄美大島からの報告をした。
交流会のあと「薩摩(大和)の奄美・沖縄植民地支配四百年を問う訴訟」の可能性などについて懇談。
実は、これが沖永良部島行きの真の目的だった。
松島泰勝さん、竹尾茂樹さんたち、また上村英明さんからは適切なアドバイス(メール)をいただいた。
今後、可能性を探っていきたい。

 翌十七日はシンポジウム。
パネラーは、富山和行(沖縄島)、高橋孝代(沖永良部島)、弓削政巳(奄美大島)、原口泉(鹿児島)。
翌日の南海日日新聞(奄美)には、「
歴史観の再構築を」という大見出しが出ていたが、いったい、誰がどのようにして再構築するというのか?!

   今年は沖縄・鹿児島・東京などでも一六〇九年をめぐる催しゴトが続く。
しい限りだ。世紀の皆既日食がある今年を仮に「しまぬ()元年」として、次なる「しまぬ()連合」への新しいは、我々一人ひとりがいて行しかないガリレイのように。

 

三七(みな)の会」事務局・森本眞一郎 

^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^

『飛礫63号』後半

「しまぬ()」へ!

―奄美大島、津代(しちろ)寄合(ゆら)から―

一六〇九年から四百年目に

二〇〇九年四月十二日

鹿児島県奄美市名瀬末広町七の十一

「三七の会」事務局・森本眞一郎

〇九〇・五九四四・二三八四

 

今日、ここ笠利町手花部の津代の湊に、内外から多くの方々がけつけてくれました。関東、関西、鹿児島から、また沖縄からはメッセージや泡盛などもいただきました。

「三七の会」の一人として、心よりオボコリ(感謝)いたします。

私たちはなんのためにここ津代の地で寄合っているのでしょうか?

ヲゥギ(荻)ハギで忙しい季節、ここ津代から何が問われているのでしょうか?

ワン自身は、現在の自分と明日の奄美のありかたを問うためです。

具体的には、四百年前の一六〇九年旧暦三月七日という日を忘れないためです。

なぜならここ「津代の戦い」は単なるイクサの一つではなく、奄美と琉球の島々の歴史上、まさに天下分け目の戦いが始まり、圧倒的な薩摩軍団による火縄銃の火蓋が切られたという歴史的な時と所だからです。

 

私たちは「関が原の合戦」(一六〇〇年)を学んできました。が、それは日本列島が徳川方と豊臣方に分かれた日本人(やまとぅんちゅ)同士の権力闘争であり、私たち亜熱帯のコーラル文化圏の島人(しまんちゅ)とは縁もゆかりもない遠い異国での政権抗争だった、くらいに軽く考えてきました。

ところが政権を取った徳川幕府から奄美・琉球侵略のお墨付きをもらった薩摩の黒船軍団が、一六〇九年三月七日、琉球弧のリーフ内に「侵略」してきて、その後大変なことになった、ということなどは家庭や学校でも全く教えられてきませんでした。自分たち自身の固有の歴史をです。

 

ここでいう「侵略」は、「侵攻」という概念とは中身が全く違います。

「侵攻」とは、アメリカのイラク侵攻のように相手国に攻撃を仕かけてその領土を侵す行為ですが、「侵略」は、自衛でなく一方的に相手国の主権・領土や独立を奪う行為のことです。

奄美の島々は大島各地と徳之島での戦いに敗れ、薩摩が直轄して経営する植民地(領土)となり、現在の日本国鹿児島県民になったのでした。琉球国は明治十二年に日本国に併合(廃国置県)されました。ですから、北海道でシャモ(和人)に抵抗しながらも併合されたアイヌの歴史と同じく、四百年前の琉球弧各地での戦いは、厳密な意味で琉球弧の主権・領土・独立の侵略にあたります。

 

国連の人権委員会は二〇〇八年十月三十日、日本政府に対して「アイヌ民族および琉球民族を国内立法下において先住民と公的に認め、文化遺産や伝統生活様式の保護促進を講ずること」と勧告しました。人種差別・マイノリティーの権利として「琉球民族」が明記されるのは初めてです。勧告では、「彼らの土地の権利を認めるべきだ。アイヌ民族・琉球民族の子どもたちが民族の言語、文化について習得できるよう十分な機会を与え、通常の教育課程の中にアイヌ、琉球・沖縄の文化に関する教育も導入すべきだ」と求めています。

さらに、ユネスコでは今年の二月二十一日、我々が話している「シマグチ」も日本語の「方言」ではなく、独立した「奄美語」であり、しかも絶滅の危険にあると発表したのです。

 

一六〇九年以降、我々の環境と暮らしぶりは、哀れなまでに変わりましたが、薩摩はなぜ奄美・沖縄を侵略したのでしょうか?

その背景は色々あるようですが一点だけあげますと、薩摩藩の財政赤字がありました。赤字の原因も一つだけあげますと、過剰な武士団の存在がありました。全国の士分は平均して人口の〇・五%(千人に五人)でしたが、当時の薩摩藩はなんと四〇%(千人中四百人!)も占めていたのです。

明治維新の前後には島津家の殿様たちや、ヒロイン篤姫・ヒーロー西郷隆盛など数々の物語が生まれました。しかし、所詮は、薩摩藩の超級のドル箱だった奄美での黒砂糖地獄の下支えがあったればこその物語りでした。明治以降、日本の士族たちは官僚や軍部となり、今度は台湾・朝鮮・中国などアジア各地へ侵略していきました。それを可能にしたのも、薩摩藩が奄美・沖縄を一六〇九年に侵略したことで、異国での植民地経営のノウハウを蓄積していたからです。

 

明治から以降も、鹿児島県は奄美にだけは県の予算を回さないという独立経済の差別と支配を続けました。

戦後、米国軍政府から復帰して五十六年目の現在も、「奄美群島振興開発特別措置法」によって、日本国と鹿児島県は、世界でも貴重な奄美の資源を収奪する環境破壊を続けています。

 

しかも、日本の歴史の中で奄美の詳細な歴史や支配の実態などはいまだに封印されたままです。

ここ笠利湾からは、奄美と日本の四百年間の歴史の大河が一望に見わたせます。

これからの我々は、奄美の歴史を一六〇九年を軸にすることで、沖縄、鹿児島、日本などと堂々と渡りあうことが必要ではないでしょうか。

汝きゃ我きゃまーじん(共に)、津代のゆらいを毎年、積み重ねていきましょう。そして、ここから奄美のシマンチュとしての誇りと未来像を内外に発信していこうではありせんか。

 

奄美の歴史を知るために、ぜひ読んでいただきたいテキストを二冊、紹介させていただきます。お二人とも歴史の専門家ではなく、ごく普通の奄美出身のシマンチュです。奄美のシマウタ、八月踊り、暮らしかたなどと同じく、普通のシマンチュの才能はスゴイ!とつくづく思います。

奄美人の一六〇九年から現在にいたる四百年間の歴史とアイデンティティを問うたのが、『奄美自立論』の喜山荘一さんです。薩摩藩の法律(「大島置目之条々」「大島御規模帳」など)によって、奄美は「琉球の仲間ではない、大和の仲間でもない。だが、時と場合で琉球の仲間のふりをしろ、大和の仲間のふりをしろ」と強制されたため、奄美人は無国籍の状態だった。それを解消するにはそれぞれが還るべき場所を確保すべきだと説いています。

『しまぬ()』の(よし) 富弘さんは「三七の会」のメンバーで、古代から薩摩の奄美・琉球侵略までの歴史を克明に記してくれました。

我々はこの二冊によって奄美の歴史を身近に感じることができるようになったのです。ぜひ、手にされてください。それぞれの歴史を忘れたり知らない者は将来、同じ過ちを繰り返すからです。私たちがつくる歴史は未来からやってくるのです。

 

「しまぬ()」とは、「しま(シマ&島)の世」のことで私たちの造語です。

奄美には八つの島に、二百五十あまりの部落(シマ)(故郷・ホーム)があります。

私たちは将来、琉球弧(南西諸島)の島々がお互いに寄合(ゆら)って、「しま世界の自立と連帯」のために、「しまぬ世連合」(「しま連」?)のようなゆるやかな連合体ができればいいなと思っています。

私たちが目ざす「しまぬ世の自立と連帯」とは、それぞれの「しま」が自前の生き方でつながっていくことです。

奄美の二百五十あまりのシマジマは、それぞれの遺伝子を個性的に生きています。

だから、どこの「しま」もユムタ(ことば)や顔がそれぞれに違うのです。

「それは水が違うから」だとウヤフジガナシたちは八月踊りや唄で伝えています。

深い宇宙観に根ざした自然と祖霊への畏敬が「しま」には散りばめられています。

「親先祖拝でぃ、神拝め」ということわざがあります。

「神の上に水がある」とユタ神の阿世地照信さんは唱えました。

「自然ち逆らわんにっし 生きりゅんくとぅかもやぁ」

これは、築地俊三さんに「汝んぬしまぬ世ちば?」とたずねたときの答え。

「忘れぃんしょんなよ〜(いしょ)なかぁあたんてぃむ〜忘れぃんしょんなよ〜しまうた〜しまぐち〜しまをぅどり〜すら〜忘れぃんしょんなよ〜」と即興の詞で唄ってもくれました。

 

シマユムタ(ことば)やシマウタには、(ゆい)の心や太古から「しま」の自然に根を張ってきたしたたかで、しなやかな「しまの力」が秘められています。

私たちは、島宇宙(銀河系)の中の「地球」という一つの「しま」の中で生かされています。これからは、それぞれの「しまぬ世」が多様につながり、四百年向こうの結びの海を渡っていきましょう。

そのためには・・・・・・