喜界島の史跡・文化財・石碑  本文へジャンプ
 

北部

 平家上陸の地  天満宮  七城跡  平家の森  厳島神社(伊実久)  雁股の泉   望郷の碑 

 小野昌雄氏御夫妻胸像
  ムチャ加那公園  ウラトミの墓  小野津小の石碑  文園彰先生胸像

 八幡神社(小野津)  五つカメ  辨財天  芭蕉句碑  志戸桶保食神社  志戸桶ミヤ跡 

 御権現宮  高千穂神社(早町)  涙石 



平家上陸の地
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天満宮
 平家上陸の地、沖名泊の石碑のすぐ近くにある天神の社である。
 この天満宮は、平家が「海上平安にて地を踏ませられ、また御帰参御武運御応護のために神鏡を御神体として」祀ったといい伝えられている。
 




七城跡
 伝説によると、十三世紀初頭、沖名泊から喜界島に上陸した平資盛率いる平家残党は、志戸桶と佐手久の中間にある増毛田の茅畑に居城を構えた。これを七城(ななじょう)と称したが、一説によると七つの門の意ではないかとも言われている。
 この地には、三年いて後大島に渡ったと言われている。
 




平家の森
準備中
 




厳島神社(伊実久)
準備中
 
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雁股の泉
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 小野昌雄氏御夫妻胸像




ムチャ加那公園
 浦富及びむちゃかなの話には様々な説がありますが、次の話が一般的です。
 「加計呂麻の生間集落に浦富という美しい娘がいた。薩摩藩の役人が目を付け妾にと申し入れたが浦富に激しく拒絶されたため、激怒した役人は腹いせに過酷な重税や無理難題を家族に押しつけた。困り果てた両親は彼女を箱船に乗せ夜海に流してしまった。舟は海流に乗り喜界島の小野津に流れ着いた。やがて浦富は小野津の男と結婚し5人の子供に恵まれた。その中の一人がむちゃかなで母にも勝る美人であった。その美しさゆえ村の女達の嫉妬を買い、ある日青苔摘み
 
 ウラトミ(親子)の墓
に出かけた際、海に突き落とされて殺されてしまった。何日かして死体があがったが、父親が埋葬してガジュマルの枝をさしておいたところ大木に成長し「トゥバヤガジュマル」とうたわれるようになったという。(この木は現在はない)
 一説によると、むちゃかなの死体は大島本島の青久海岸に打ち上がり、村人たちにより手厚く葬られたと言われ、青久には「ムチャカナの碑」が建立されている。「むちゃかなの墓」となっていないところをみるとやはり伝説なのであろう。
 いずれにせよ薩摩藩の圧政が招いた悲しい物語である。


望郷の碑
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小野津小の石碑
 




文園彰先生胸像
 




八幡神社(小野津)
 源為朝が、八幡大菩薩を祭って報恩感謝の意を捧げたところで、小野津の氏神として村人達の心のよりどころとなっている。
 





五つカメ
 通称ハミンカーと呼ばれている場所に五つのかめが祭られている。現在では、本物は資料館の方に納められ、ここには模造のかめが置かれている。由来は、昔どこからか五人の子供が、一つずつかめを持って小野津の海岸に流れ着いたが、疲労と空腹のためみんな死んでしまった。村人達がかわいそうに思い葬ったのがこれで、昔は、このかめに夏の間水が溜まっていれば豊年、水が枯れたら凶年ということで年占いをしていたということである。
 




辨財天
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芭蕉句碑
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志戸桶保食神社
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志戸桶ミヤ跡




御権現宮
 




高千穂神社(早町)
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涙石