奄美フォレストポリスの中にあります。ここは昔大和村と宇検村の中間地点として旅人等の休憩地・宿場として栄えた所で、20数戸の人家があったようです。その福元集落の跡(石垣等)が現在でも残っています。
龍郷町の「浦の干拓」で知られる田畑佐文仁翁が藩政期福元盆地の新田開発のため開削した用水路跡が現在でも山の中に残っており、隧道は2ヵ所ありますが、画像のようにとても280年も前のものとは思えない程しっかりした形で残っています。
翁は43歳の時にこの福元盆地の開墾に着手し、まず通水用の水路及び隧道を構築したが、水路の高さが新開田地より低かったため失敗に終わったようである。この失敗を教訓にして、この福元用水路に着手したが、その成否は定かではないとのこと。
用水路は延長500m、水路幅1mでその中に約15mと20mの二つの隧道があり、ノミで削った跡などが残っており、江戸時代中期(8代将軍吉宗の頃)水路勾配千分の一という緻密な測量技能は当時の土木技能を知る貴重な遺産となっている。
|
|