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No.280

ポケモンYをケロマツではじめた。
フィールドや戦闘シーンがかっこよくなってておどろいた。

最初の森で虫ポケモンとか三色サルとか出てきて一応捕まえたけど、
こいつら進化してもなぁ……、と思うとあまり育てる気になれない。
ルリリはフェアリーがついてるので育てておくといいことがあるんだろうか。

ポップン、フライングキャッチの進捗があまりにもわるいので、
jubeatもちょこちょこプレイすることにした。

音ゲーをはじめたばかりのころにやきもきしたこととして、
譜面は見えてるのに対応するボタンを押せないということがあった。
だから、譜面の位置と押す位置が物理的に一致している
jubeatやRbのシステムを考えた人はえらいと思う。
宇宙戦争も進捗がかんばしくないのでRbもプレイするべきか。

テレビで『アルマゲドン』をやってたので見るでもなく見ていて、
あれは最終的にはいろいろあったけれども巨大隕石の直撃は回避している。
しかし、実際に地球がぶっ壊れるほどの隕石がやってくることがわかっていて、
なおかつ、それをどうやっても回避できなければどうするか。

もちろん、そういうテーマで書かれた小説や映画は既にたくさんあることだろう。
人類のすばらしさを称えながらとか、あきらめたりとか、やけくそになったりとか、
ともかく様々な終末の光景がこれまでにあまた描かれてきている。

だがわたしが思うに、といってもこういう話も既にあるんだろうけど、
どうせ死ぬのなら人間としての尊厳を保ちながらも楽に死にたい、
そういう気持ちが強くはたらくと思うのである。

親しい人たちとの最期の静穏なひと時もへったくれもなく、
隕石がぶつかった衝撃が五体が木っ端微塵に粉砕されるとか、
土砂に埋もれて窒息死するとか、炎に包まれて焼死するとか、
そんな死ぬほど苦しい思いをしながら死ぬ、というのはできれば避けたい。

しかしまたその一方で、人類最期の光景を名残惜しく目に入れたという気持ちもあるし、
もしかしたら隕石がぶつかっても別段たいしたこともなく死なないんじゃないか、
そうなるとみすみす死ぬのももったいなくはないか、という気持ちもある。
心身ともに健康で、個人的な困窮もなく自死する覚悟があるかと問われれば自信はない。

世界的な規模としては、人類の歴史を宇宙に残そうということで、
パイオニアやボイジャーに搭載した金属板を更に高価にしたような、
人類の全身全霊をかけた途方もない遺物が宇宙の彼方へ飛ばされるんじゃないだろうか。

おなじようにして、個人レベルでもタイムカプセルが流行するはずだ。
みんな金に糸目はつけないから、うんと奮発してなるたけ頑丈なものを造る。
したがって、圧倒的な金余り、物不足になるから、
特定の品目で猛烈なインフレが起こりそうな気がする。

そういう半永久的に宇宙に残ってくれるようなタイムカプセルについて、
お金に糸目をつけないとしても、それを製造する企業が最期まで操業してくれるかどうか。
造れば造るほど飛ぶように売れるだろうけど、この際、財産になどなんの意味もない。
しかしおそらく無為に過ごすよりは何かしていた方が気が紛れるとか、
このタイムカプセルこそが我々の生きた証だという誇りでもって、
最期の最期まで一基でも多くのタイムカプセルを提供してくれるのではないか。

日本政府としては何をしてくれるとうれしいだろうか。
国民全員に平等にというわけにはいかないだろうから、
腐食や変質に強い金にみんなの名前を残すというあたりが落としどころか。

2×10ミリメートルのスペースに一人の名前を書くとすると、
日本国民1億3千万人の名前を載せるには約51×51メートルの金の板があればいいようだ。
金の板の厚さを0.1ミリメートルとすると、体積では一辺が64センチメートルの立方体ぐらいの計算になる。

だんだん計算に自信がなくなっているけど、重さでいえば約5トンになるようだ。
日本が備蓄している金の量はなおざりに調べたところによれば700トンはあるようなので、
5トン程度ならかなり余裕をもって使用することができるにちがいない。
かくして、日本国民の墓標は半永久的に宇宙に残すことができるようだ、万歳。

さておき、全体的には概して諦念や達観したふんいきに覆われるような気がする。
突発的かつ刹那的な享楽を求めた凶行は少しは起こるだろうけれども、
金持ちも貧乏人も男も女も元気な人もそうでない人も、ともかくみんな死ぬのだ。
しかたがない。人類史上究極のしかたがないことである。

他人を出し抜いてやろうとか、知識や技術をみがこうとか、金を稼ごうとか、
もはや何もかもがどうでもいいのだ。うらやむことも引け目を感じることもない。
そんでもって、みんなに感謝しましょうというような世相になると思う。
嗚呼、いままでなんという幸運に恵まれていたのだろうか、とかなんとか。
悟りの境地とはこんなものなのだろうか。

しかしわたしは、みんな明日地球が崩壊するつもりで生きようねとは別に思わない。
なんとなれば、明日も明後日も百年後も地球は崩壊しないに決まっているからである。
明日死ぬかもしれないといわれたところで、死なない可能性のほうがずっと高い。


No.279

ノマディックネイション2 Exと、ビーストメタル Exはクリアできたけど、
やっぱりEvans Exは無理くさい。Lv47が100パーセントじゃなくなってもやもやする。
アップデートでLv48に昇格して欲しいところだ。

47都道府県で音ゲーをするということをそれなりにやってきていて、
このあいだ数えたら行ったことのある都道府県が23となっていて、
やっとというかようやくというか折り返し地点になった。

とはいえ、これをやろうと思ってからかれこれ10年ぐらいは過ぎていて、
それでようやく半分で、しかもここから先は行きづらい都道府県ばかりと考えると、
自分が死ぬか興味がなくなるまでに達成できるかやや自信がない。

どこそこ旅行に出かける動機づけにはなっているとは思う。
音ゲーを設置している店舗を探しつつ、観光名所なんかにも行けたら行く。

石川に行ったときは、前日に富山に泊まりつつ駅の近くのゲームセンターに行って、
次の日に兼六園に行きつつも帰りにゲームセンターに行って、
更に石川からの帰りに福井に寄ってゲームセンターに行った。
個人的にこのときの旅程がこれまでで一番効率がよかったケースだったと思う。

10年もやっていると、主要な都道府県の都市には何度か立ち寄る機会がある。
そして10年の間には以前に来たときにはあった店がなくなっているということもよくある。
その店の常連などではないのだけれども、やはり少しさびしい。

たとえば、京都駅の近くにむかしゲームセンターがあったはずだけどいまはないような気がする。
(ほかの場所に移転したか、自分の記憶ちがいかもしれないけど)
店の造りとかはほとんどおぼえていないけど、ポップン7のエキスパートコースを、
それも乙女コースをプレイしたということまで記憶に残っている。

その当時は、乙女コースがクリアできるかできないかというぐらいの腕前だった。
いまだったら鼻歌まじりにクリアできると断言できる。思えば遠くに来たものだ。

福井はどっかのデパートの中のゲームセンターでバスでふらふらと行った。
それなりにいろいろな店をまわったけれども、
デパートの中にあるゲームセンターというのはあまり期待できない。

フロアの一角にきちんと仕切られて設営されていればまだしも、
小さな子供がうろうろしていたり、一般の売り場から丸見えに隣接していたりすると、
おれはゲームセンターに来たくて来たんだ、という人以外の意思が混ざって、
空気やふんいきがあまり好ましいものでなくなる。

福井に行ったときも右か左の青ボタンが効かなくてまいった。
ポップン15のときだったはずで、ネット対戦でぼろ負けだった。
その上、帰りのバスのためにバス停に立っていると、知らないおばさん(当たり前だが)が、
次のバスはいつぐらいでそれはどこに向かうのかということを熱心に尋ねてきて更にまいった。
ほかには、帰りに寄った小さめの書店で、浅田次郎サイン会という貼り紙を見て、
ほうへえふうん、と思ったことをおぼえている。

いまは事前にきちんと調べてから出かけるようにしているのだけど、
むかしは大きな駅前ならゲームセンターのひとつやふたつぐらいあるだろうと、
漠然と考えながら無計画に駅で降りては当てずっぽうで探していた。
ただ、そのころはまあまあ主要な都道府県しかまわっていなかったので、
そんなやり方でもだいたいはゲームセンターを見つけて音ゲーをプレイできていた。

そのやり方に疑問を抱いたのは山口に行ったときで、下関駅でふらっと降りてみて、
そのへんをふらふら歩いたけれどもゲームセンターがいっこうに見つからずに困った。

しかし当時は駅前にはゲームセンターぐらいあるはずだという確固たる自信があったので、
なんの手がかりも当てもなくふらふらと歩き続けた結果、駅ビルの中のデパートの一角に、
あまり大きくないスペースではあるけれどもゲームセンターがあって、
しかもそれがプリクラとかプライズ機だけ設置している形態ではなく、
ネットワークにはつながっていなかったが幸運にもポップン15が置いてあったのである。

やれやれ、とにかくこれで音ゲーをプレイできてよかったとなり、
その帰りに、そういやさっきセガはあったなと思ってなんとなく中をのぞいてみた。
というのも、セガの店には音ゲーが設置してあることが非常にまれであるから、
設置してるはずがないとはじめから決めつけていたからである。

そしたら、ドラムマニアが置いてあった。しかし、すさまじく古いバージョンだ。
更に、ちょっと前のバージョンのポップンの画面が目に入り、
おやと近づいてみたら一般のビデオ筐体で稼動していた。
ボタンももちろんふつうのビデオ筐体で使うやつで、めずらしさで一回だけプレイしたけど、
すさまじい違和感とやりづらさを遺憾なく体感することができた。

あと記憶に残ってるのは奈良に行ったときで、
このときはついでに平城京遷都1300年祭か何かを見ようと考えて、
調べてみると会場のすぐ近くにゲームセンターがあることがわかった。
これ幸いと、会場の最寄り駅から人の流れに乗って歩き、
入口まで来てから自分一人だけ更にぜんぜんちがう方向へ歩き出したのである。

お、なんだあいつはという視線を背中に、流行なんてくそくらえ、
おれはお前らとはちがうんだという無頼感、無法感の体現。悪徳である。
元来、ゲームセンターに行くというのはこういうことなのだ。
なんてことを一人で勝手に孤独に考えながら目当てのゲームセンターに行ってみたところ、
店がつぶれたか改装中か、らしき建物はあれど営業してなかった。
キツネかタヌキにでも化かされた気持ちで、さぞかしアホな顔をしていたことだろう。

しかも、なんやかや口上をたれたけれども、はなから遷都記念祭には寄るつもりだったのである。
したがって、ゲームセンターがあるはずだった場所から引き返して会場に向かう。
すると、さきほどから引き続き駅からの人の流れは続いている。

そんな中に一人だけぜんぜんちがう方向からのこのこやってくるわけであるから、
もちろん実際にはそんなことはないのだろうけれども、
お、なんだあいつはという奇異の視線があるような気がする。
しかも、そんなことは絶対にないのだけれども、
そういやさっき一人だけ変な方向に行ったアホそうな顔をしたやつがいたが、
お、あいつがそうじゃないか、入口でもまちがったのかな、やはりアホだったんだな、
と、世間から思われているような気がして一人恥じ入ったのである。

結局、きょうにいたるまで奈良ではまだ音ゲーをやってない。
後で調べたら奈良駅の近くにゲームセンターがあったようなので、
もう少し準備に念を入れていればと後悔しきりである。


No.278

音ゲー、jubeatをほとんどプレイしない関係でフライングキャッチの進捗がわるく、
このあいだようやくEvansを解禁した。で、Exプレイしたけど無理だった。
同日に解禁したノマディックネイション2 Exのほうがまだクリアに可能性を感じる。

音ゲーをやってると、日によって出来、不出来にかなりの差があることを感じる。
先週逆ボーダーでおしかったという曲がきょうはゲージすっからかん、なんてことは、
音ゲーをやっていればよく発生する事態だ。

もちろん、前日にあまり寝てないとか、ちょっと熱っぽいとか、
そういう明らかに自覚できる体調のちがいがあれば納得できる。
しかし、自分では絶好調とまではいかなくともまあ並か良好な状態と思っている、
にもかかわらず、プレイ内容に差が出るということはめずらしくない。

なぜそこまでパフォーマンスに差が出てしまうのだろうか。
自分では何がちがうのかわかっていないのだから、対策も改善もしようがない。

わたしの場合は単なる遊びでやっていることだから、
できようができまいが、畢竟、どうでもいいことなのだが、
これがスポーツ選手とかなら死活問題だ。

体調は万全のつもりだし、試合前の練習でも体はいつもどおりに動いていた。
しかしなぜだがきょうは球がよく見えないし、バットは思うところに振れない。
たぶん、そういうことはよくあることなのだと思う。

メンタルというか脳の活性の度合いとかそういう話なのだろうか。
なんとなく関係してるような気がしなくもない。
が、じゃあ脳を休ませた状態でのぞむのがいいのか、あるいは反対に、
脳をめいっぱいにはたらかせた状態がいいのか、よくわからないところが困る。

身体の場合は、準備運動のように激しく動かす前に軽く動かしたほうがいいけど、
はたして脳の場合もそうなのかはあまりぴんとこない。
試験直前にかんたんな計算問題を解くといいという話もあるので、
もしかしたら関係している可能性もある。
また、Google Scholarでちょろっと調べてみたところ、
そういう話題はあることはあるようだ。

ただ、もう一方で気になることして、準備運動が大切だとしても、
身体が疲れていればどうしたって体を動かすことがままならないように、
そもそも脳が疲れている場合はどうすればいいのだろうか。
睡眠は一つの重要な因子だとは思うけど、それだけでは説明しきれない感じがする。


No.277

『新世界樹の迷宮』のストーリーモードをクリアした。
難易度はスタンダードで極端に困ることもなく無難に終わる。
オリジナルでプレイしたときは道中でパラディンを育ててなかったせいで、
三竜討伐にやたらと時間がかかったけど、今作では既にいるので楽そうだ。

ところで、最近の『桃太郎』は鬼を武力で制圧せずに、
平和的に話合いで解決する形式のものもあるといわれている。

しかし、わたしは自分の目や耳でそういう『桃太郎』を実際に確かめたことはないので、
ひょっとするとこの話は「円周率が3」と同様な噂が大げさになったものであるかもしれず、
であれば、さも当たり前の事実であるかのようにあげつらうことにはいささかの懸念が残る。

ただ、以前に一度だけ「あれはつまりそういうことなのかな」と思ったことがあるのは、
「桃太郎が鬼と話し合ってなんちゃら」と書かれた劇か何かのポスターを見たときで、
そういう頼りなくごく狭い個人的な実体験にもとづいてもいいのであれば、
主人公が話し合いで物事を解決するという『桃太郎』も世の中には実在すると考えられる。

ブームになったのはもはやけっこうなむかしになるけれども、
今日、人口に膾炙している童話や昔話、御伽噺のたぐいというのは、
そのオリジナルの物語にはオチだとか教訓が込められているわけではなく、
単に残虐なだけという話が少なくないという主張がある。

人々が伝えていく過程で、話のつじつまが整理されていったり、
起承転結がそなわったり、良い精神や美徳を暗に教示したりするようになったというわけである。
であれば、『桃太郎』が問題を暴力ではなく話し合いで解決するように変容しているとしても、
現代の法治国家に生きるわたしたちにとってさほど抵抗のある事態ではないのではないだろうか。

物語は時間の経過に伴って作者によるオリジナルを離れて時代に則した形に変化し得る。
といった事態を鑑みたときに、『走れメロス』がどうなっているかを考えてみよう。

既に承知の事実かもしれないが、『走れメロス』のあらすじとは以下のようなものである。

王の苛烈な圧政を感じたメロスは唐突に王の暗殺を思いつき、
これを試みるも失敗して処刑されそうになる。
しかし、メロスは妹の結婚式に出たいから友人を人質として差し出し、
走ったり山賊を殴ったりあきらめそうになったり、なんやかんやあって丸く収まる。

やはり引っかかるのはメロスが王の暗殺を試みる部分ではないだろうか。
なんともおだやかではない。それはまあ、たしかに現在の社会においても、
地域によってはしばしば革命やクーデターなどで武力によって政権が排除されることはある。

しかし、そのような革命などはある一定の主義や思想を持った人々の集団で行われており、
国家転覆を図るまでに慎重かつ膨大な議論を重ねているはずなのである。

ところがメロスの場合はどうか。ふらっと街にやってきて、ちらっと老人から王様の評判を聞いて、
たったそれだけのわずかな体験から、だれに相談するでもなく独断で王様を殺そうとしているのである。
メロスをテロリストとみなす評もあるが、世のテロリストだって思想や言い分があるはずで、
メロスの場合は何か明確な主義主張があるでもなし、単なる義憤の名を借りた個人的うっぷん晴らしである。

したがって、メロスが取った行動は現在のわたしたちから見れば大変よろしくないといえる。
教育的配慮に欠ける。これをまねする子供が続出しては世の治安は成り立たない。

では、メロスはどうするべきなのだろうか。
やはり正当な手続きで理性的な行動を取るべきだと思うのである。

王のやりたい放題を見るに、おそらくこの国は絶対王政をしいていると思われる。
であれば、選挙などは行われずに基本的には権力は世襲によって交代しているのだろう。

それならば、嫡子に権力の座をゆずってさっさと引退しなさいと王を説得するのが本筋だといえる。
ところが、王は既に側近などの周囲の人間と一緒に世継ぎを殺しているようである。
自分のいままでの所業を省みて、権力を失うと真っ先に復讐されることを恐れたのだろう。
被害妄想と強迫観念に操られた暴君の典型的な哀れな末路である。

王の世継ぎがすぐには見つからないため、権力をゆずらせるのは容易ではなさそうである。
そこで、次なる案として、王に取り入って信頼を獲得していき、
なし崩しに権力を掌握していくつとめて平和的な方法を考える。

近代的な科学が十分に発達する以前の独裁者というのは、
非常にしばしば不老不死ないし不老長寿を熱心に求めている。
というのも、前述のとおり自分が老いて権力の座を降りることは、
すなわち、自分が処刑されることを意味するからである。
独裁者の行き着く果てとは被害妄想、強迫観念、
それから永遠の命の渇求と相場が決まっている。

著名な例としては始皇帝に仕えた徐福を挙げられる。
徐福は始皇帝に「不老不死の霊薬を探す」と訴えて、
大量の人材と大金をせしめて、そのまま姿をくらましたと伝えられている。
実際にはペテンにかけたようなものだが、受けた援助を考えれば、
それだけ徐福は始皇帝からの信頼を得ることに成功していたと推測される。

したがって、メロスが王の暴挙を平和的に止めるためには、
不老不死や不老長寿をちらつかせながら穏便に王に接触し、
しかる後に徐々に王から権力を奪っていき、王を無力化して、
最終的には民に平和が訪れるようになる、というのが道理であったといえよう。

メロスは健康でなければならないし、長生きしなければならない。
それが新しい時代の真に文化的なメロスの正しい姿なのである。

どうすれば長生きできて、ひいてはシラクスの市に平和が訪れるのか。
手始めにメロスは病気で死なないように気をつけることにする。
調べたところによると、心臓病、がん、脳卒中が人間の死亡原因のトップ3のようなので、
これら3つの病気にかかりにくくなることをメロスは目指すわけである。

メロスの調査によれば、くだんの三大疾病の予防のためには、
適度な運動、高血圧にならない、ストレスをためない、といったことが重要であるらしい。

そこでメロスはこう考えるわけである。
ふむ、どうやらおれが走っていたのは適度な運動として最適だったようである。
いままでさんざ走ることを小ばかにされてきたが、
実は走ることこそが王を平和的に除する最良の方法だったのだ。

しかし、そこでメロスはもう少し調べて次のような話にぶちあたる。
ふむ、ジョギング健康法の提唱者はジョギング中に心臓発作を起こしたのか。
たしかに、スポーツ選手というのは案外長生きしないものであるらしい。
過ぎたるは及ばざるがごとし。何事も限度というものがあるのだ。

そうして、ランニングならば一日に30分程度が目安であることをメロスは知るに至る。
メロスが時速10キロメートルで走るとすれば、一日5キロメートルの走行が適度ということになる。
メロスはなるほどと深くうなずく。一日に十里(40キロメートル)はやりすぎだったのだ。

かくして、王の暴挙を止めるべくメロスはシラクスの市から2.5キロメートルの場所に引っ越す。
家から市まで往復すればちょうどいい運動になる。
将来、セリヌンティウスを王に預けて、妹の結婚式に出席したとしても全く無理はない。

更に、メロスは高血圧や強いストレスがよくないと知る。
食生活で塩分や脂質を過剰に摂取しないことも大切だが、
やたらと腹を立てたり頭に血を上らせたりすることもよくないらしい。

だからメロスはあまり怒らないようにすることに決める。
メロスは過去の『走れメロス』を読み返し、ああ、おれはなんて怒りっぽい人間なのだと反省する。
「メロスは激怒した」だって? それでおれが脳卒中にでもなったら虐げられた民はどうなるのか。
人間の世の正義を実現するために、とにかくおれは長生きせねばならぬのだ。

より文化的で正しい『走れメロス』はこうはじまらなければならない。

「メロスは平然としている」

別段、メロスが腹を立てたところですぐにはどうにもならぬ話である。
それならば、事態を冷静沈着に見守るべきではなかろうか。

また、メロスはシラクスの市がひっそりとしていることを不審には感じたが、
周囲の人間にその状況の説明を求めたりはしない。
「好奇心はネコを殺す」というイギリスのことわざを知ったからだ。

かくして、メロスは市の様子がちょっとおかしいなとは感じたが、
しかしまあそういうこともあるだろうととらえて穏便に家に帰る。
したがって、王の暗殺は思いつかないし、友人の命を無断で使ったりもしない。

なおも、メロスは『走れメロス』を読み返す作業を続ける。
セリヌンティウスを預けて結婚式から帰る日の大事な朝、
前日の飲みすぎがたたってか、自分が朝寝坊をするかのような記述を見つける。

一見するとこれはよくないことのようにも感じられるが、
プラス思考が健康にいいらしいと聞きかじったメロスはこう解釈する。
血圧が低い人間というのは朝が弱いそうではないか。
高血圧が長生きの妨げになるというのならば、血圧が低いことによる朝寝坊になんのわるいことがあるか。
それに、そういうことも見越して、おれは王の城から近い場所に引っ越したのではないか。

更にまた、メロスは最後のシーンを見てこういうことも考えたりする。
ふむ、どうもおれは全裸で走る生き物のようだ。
これはいかにも正義を実現する人間としては具合がわるいようにも思えるが、
世の中にはハダカデバネズミという生き物がいて、
おどろくべきことに、このネズミはがんにかからないそうなのである。
それがなぜなのかはおれの頭ではさっぱりわからぬが、
もしかするとハダカというところに何か秘密があるのかもわからぬ。
であれば、がんの予防として裸で走るということがそれほどわるいことでもないように思えてきた。

以上のようにして、メロスはとにかく長生きすることを生きる目標にする。
200歳まで生きたら、王のもとを訪ねて不老長寿の秘訣をほのめかしてもよかろう。
いいや、そのころになればいまの王はもう既に死んでいる可能性は高そうだし、
そうなればあの国の状態も改善されているかもしれぬ。めでたしめでたし。
焦ってはならぬ。短気が健康によくないことも学んだ。気長に待つことだ。
いつか来る正義の平和的な実現のために、メロスはきょうも日課のランニングにいそしむのである。


No.276

天下一将棋会、こちらの先手番。

石田流はひとまず置いといて、最近は四間飛車ばかり指してる。
四間飛車を指すなら対棒銀急戦は避けては通れない道だ。




No.275

新・世界樹の迷宮、ギルド名とか館の名前とか決めろといわれても、
そんなことぜんぜん考えてなかったので考えるのがしんどい。
2Fまで進んでシカを見つけて、軽い気持ちであれに喧嘩を売って、
圧倒的戦力差でボコられたのは何年前になるかなんてしみじみ思う。

天下一将棋会、居飛車でなるべく指すことにしてるカードは登録してないので、
変な負け方とかいい勝ち方をした棋譜を後で検討できないのが残念だ。

居飛車でなるべく指すといいつつ、居飛車の定跡をきちんと把握していないので、
相手が棒銀や右四間飛車で来たときは四間飛車に振ってごまかしてる。

とはいえ、右四間飛車への対抗策がいまだによくわからない。
本などで四間飛車の定跡本をあたっても、
急戦は、棒銀、斜め棒銀、△6五歩早仕掛け、
持久戦は、玉頭位取り、左美濃、居飛車穴熊、のように分類されていることが多く、
右四間飛車に対して書いてある本がなかなか見つからない。

ネットで探せば右四間飛車対策について書いたページはちらほらあることはある。
しかし、腰掛け銀に構えるといいよといってるページがあれば、
腰掛け銀にせずに地下鉄飛車をするべきだといってるページもあり、やはりよくわからない。

よくわからないので、このあいだ右四間飛車をされたときもなんとなく指した。
すると、なんなく端を破られて、なんなくと金を作られて、
なんなく飛車損になって序盤早々にやめたくなってきた。

しかし、本当にどうしようもないときというのは相手に完全に抑え込まれたときぐらいで、
そのときは馬が生きていたし、ついでに香車と桂馬も拾えていたのでまだやることはあった。
というわけで、一見関係なさそうでやはり関係のない筋の歩を突いてみたり、
漠然と桂馬を打ったり、と、いささかうさんくさい手を重ねてみることにした。

わたしもたまには序盤で大優勢になることがあるけれども、
そういうときに考えることは「こっから負けるのはいかにもまぬけである」ということで、
そうなると何が何でも負けられぬと気負ってしまい、その結果、
手が縮こまったり、必要以上に深読みしてしまうことが多々ある。

一方、序盤で早々と大劣勢になった方は、それが命を賭けた輸贏であればいざ知らず、
負けたところで「序盤でやらかしちゃったてへぺろ」といった風情で気楽なものである。
したがって、無理っぽい手やでたらめな手を平気で指すし、
それが通らなくとも、ああやっぱりね、とたいして心的ダメージを受けることもない。

といったメンタルな要素が幸か不幸か噛み合ったのか、
なんだかよくわからないうちに最終的にはなんか勝っていて、
なんともキツネにつままれたような気分になった。


No.274

真・女神転生IV、一周目は攻略情報なしでなんとなく進めたらロウ・ルートになった。
クリア時の仲魔は、シヴァ、ヴィシュヌ、ネルガルで、
とにかくラスタキャンディとランダマイザを重ねて殴った。
ラスボスよりもベルゼブブのほうが強かったよ。
二週目は攻略情報を適度に仕入れてニュートラル・ルートにしてもうすぐクリアしそう。

シヴァ、ヴィシュヌとくれば、もう一枠にはおなじインドの神様である
ブラフマーを入れてもよさそうなところだけど、
メガテンでブラフマーって仲魔にした記憶がない。

そもそもブラフマーがゲームに登場しないことが多かったような気がするし、
おぼえてる限りではメガテン2に魔神でいたような気がするけど、
魔神だから作るのがめんどくさいわりには、レベルもステータスも高くないし、
有用なスキルをおぼえるわけでもなく、どうにも魅力に欠ける仲魔だった。

メガテン2で、シヴァは魔神の最高レベルで文句なしにステータスが高かったし、
ヴィシュヌは魔神の最高レベルではないけどゲームクリアには十分通用するぐらいのレベルで、
メディアラハンをおぼえるというセールスポイントがあった。
それらに比べるとブラフマーの冷遇ぶりがいっそう際立つ。

で、聞くところによると本場のインドでもブラフマーはシヴァやヴィシュヌに比べると人気が低いらしい。
シヴァやヴィシュヌのエピソードはWikipediaなんかを読むといろいろと書いてあるのに対して、
ブラフマーのエピソードというのはあんまり書いてない。

自分が知ってるブラフマーのエピソードを無理に思い出すならば、
手塚治虫の『ブッダ』か何かでブラフマー(ブラフマン、梵天)が登場するときに、
「ボーン!」という効果音を伴っていたということぐらいだろうか。
そのときに既にメガテン2でブラフマーのだめっぷりを知っていたので、
実にしようもない神様であるなぁとつくづく思った。

あと、耳掻きについてることがあるあの白いふわふわしたやつを梵天というそうである。
日本は八百万の神ということでどんなものにも神様がついているのだとしても、
やはりなんというかその、宇宙を創造した神様のわりにはスケールの小ささを否めない。
ひょっとしたら宇宙を創造したっていうのだってはったりなのかもしれない。


No.273

真・女神転生IV、流れでボスにロキが出てくると思ってたら全然そんなことはなかった。

ラクカジャとかラクンダって魔法ダメージにも影響するんだろうか。
なんかそんな気がしなくもない。気のせいかもしれないけど。
しかしそうなるとタルカジャで魔法ダメージも増えたりするんだろうか。
最近のメガテンシリーズをやってなかったから、そのへんの仕様が不明だ。

いま、Lv47だけど、このくらいのレベル帯でも依然として魔法の方が強い。
でも、魔法が得意な仲魔は概してHPが低めなので、
そういう仲魔ばかりそろえているとこちらが先制攻撃してるときは気分がいいけど、
敵に先制攻撃されるといともかんたんに死ねるから困る。

現在のパーティーは、セタンタ、じゃあくフロスト、フロストエースで、
いい加減に世代交代したいけど耐性がいいのでずるずる使い続けてる。
ろくな攻撃スキルがないので、ボス戦ではラクカジャと牙折りぐらいしかすることがない。

NHKの将棋フォーカスを見てたらプロ棋士の名言集みたいなのをやってた。

将棋史に残る名言とかそういうものでランキングをつけるなら、
升田幸三実力制第4代名人の以下のエピソードは外せない。

「この幸三、名人に香車を引いて勝ったら大阪に行く」

升田名人は棋士を志したとき、物差しの裏にこの文言を残して実家を出奔したそうである。

この時代はいまみたいにタイトル戦がいくつもあったわけではないので、
名人は至高の存在であり、その権威はゆるぎないものであった。
名人とはすなわち世の中でだれよりも将棋が強い人間なのである。

で、「香車を引く」とは「香車を落として駒落ちで指す」という意味である。
当時はいまとちがって駒落ちの将棋が常時指されており、
もっとも強い名人はだれに対しても上手であるから、
プロの棋士に対しても角落ちや香落ちの将棋を指すことが常であった。

もし、「名人に香車を引いてもらって勝つ」という文言であれば、
ああ、この人はプロ棋士になって名人と将棋を指したいのだな、
駒落ちで胸を貸してもらって、それでも最後は勝ちたいんだな、
なかなか殊勝な心構えではないですか、となるところである。

後の升田の活躍を置いておけば、そもそもプロ棋士になるのが一苦労であり、
その上、名人と一局指すだけでもごく限られた棋士にだけ許される名誉である。
したがって、名人に香車を引いてもらって勝つという文言でもまずまずの志ではある。

しかし、そんな「まずまず」の志ではわざわざ将棋史には残らない。
升田の大胆不敵、唯我独尊な言動はこういっているわけである。

「名人に香車を引いて勝つ」

名人ではなく、おれが香車を落として勝つよ、そういっている。

名人というのはもっとも将棋が強い人間であるから、名人が駒を落とすことはあっても、
駒を落とされることなど、常識でいえばあり得ない話である。

たとえばプロの棋士の方に指導将棋を受けるときに、
棋士の先生に「手合いはどうしますか?」と尋ねられて、
「わたしが角を落としますので、先生は精々がんばってください」などといえば、
すぐさま係員に囲まれて穏便にその場から叩き出されてもなんらおかしくはない。

名人を相手に駒を落として将棋を指す状況が考えられないし、
ましてや、それで勝つなどと天地がひっくり返ってもあり得ないはずなのである。
ふつうならば、世の中をまだあまりよく知らぬ子供が口にした、
単なるたわごとの一つで終わっていたところである。

ところが、世の中というのは子供でなくとも大人にもまるで読めないものである。

将棋界というのは基本的に新聞社をはじめとする各企業の支援で成り立っている。
娯楽の少なかった当時、将棋は新聞の購読者獲得の有力な手段の一つだったらしく、
毎日新聞が名人戦及び順位戦のスポンサーを戦前から務めていた。

ある年、契約金とか待遇面やらで将棋連盟と毎日新聞がもめていると、
そこに朝日新聞が、じゃあうちでやりませんか、と持ちかけてきた。
戦後の困窮を支えてくれた毎日新聞には重々義理があるが、さりとて、連盟も金はいる。

そうして、最終的に名人戦のスポンサーが毎日新聞から朝日新聞に移ることになった。
しかし、将棋は当時の人気企画であったから、毎日新聞もこのまま指をくわえているだけではすまない。

間もなく、毎日新聞は連盟に対して、うちは名人戦と遜色ない棋戦として王将戦をやる、といってくる。
タイトル戦が増えれば連盟に入ってくるお金は増えるし、
加えて、毎日新聞には名人戦のスポンサーを降ろしたという負い目もある。

したがって、連盟としてはこの毎日新聞の訴えを断る手はないところなのだけれども、
これまでの経緯もあってやや強気な毎日新聞は更にこういう要求も突きつけてきた。

王将戦は3勝差になった時点で、勝ってる方が香車を落とす。

対戦相手の手合いに関係なく、3勝差がついた時点で駒落ちの将棋を指せ、
たとえ名人でも、3勝差をつけられたら駒を落とされろ、そういう話である。

毎日新聞としては人々の関心を集めるために名人戦の権威を越える強いインパクトが必要であった。
名人が駒を落とされる可能性がある──、毎日新聞の目論見どおり、将棋ファンは興味津々となったが、
名人の強さと権威を担保に棋界を運営してきた連盟は、これはとんでもない棋戦になると震え上がった。

当初、棋士の間では慎重論が強かった。
名人が駒を落とされて、ましてや負けてしまってはどうなるのか。
いくらなんでも毎日新聞の要求は無理無体ではないか。
そうはいっても、毎日新聞には名人戦の件で大きな借りがある。

議論はもめにもめたそうだが、最終的には時の名人である木村名人が鶴の一言、
「名人が駒を落とされるはずがない」、かくして、名人が駒を落とされるかもしれないという、
前代未聞、空前絶後の危険な棋戦として王将戦は開催される運びとなる。

意外なことに、升田は子供のころのたわいもない夢が、
これで現実のものとなると発奮したわけではなく、
王将戦に対して消極的だったそうである。
理由として、一つには名人の権威を大変重視していたこと、
もう一つに升田は朝日新聞の嘱託であったため、
毎日新聞をあまりよく思っていなかったことなどが考えられている。

しかしともかく王将戦は開催されて、升田もこれに参加した。
そうして、第1期王将戦、升田の夢への情熱のたまものか心配をよそにか、
升田は木村名人を4勝1敗の駒落ちに追い込むことになった。

名人が駒を落とされる屈辱を許していいものか。
時の名人にして連盟会長でもあった木村名人が、
そんなことは何がなんでもいやだと強情に突っぱねていれば、
くだんの対局はうやむやに指されないということもあったかもしれない。

だが、木村名人は苦悶、煩悶、懊悩の末、名人の権威も大事だが棋界を支えるスポンサーも大事、
信義を守ることも大事、ここで自分が対局を拒否すればよくない前例ができてしまう、
と悩みぬいた挙句に、名人として駒落ちの将棋を指すことを受け入れることにした。

一方の升田はどうか。勝てば棋士を志したときからの宿願を果たせるし、
負けたところで特に何かを失うわけでもない。傍目には気楽そうな一局である。

ところが升田はこの対局をあべこべに拒否してきた。
表向きの理由としては、対局場である陣屋旅館の対応に気分を害したといったが、
そんな理由で対局放棄が通るはずがないのは本人も承知だったはずであろう。
木村名人は顔に泥を塗られる形であるし、毎日新聞のメンツも丸つぶれである。

当然のことながら、これは大問題となった。
将棋史に残る重大事件の一つである「陣屋事件」というやつである。

升田の処遇をどうするべきか、除名も念頭にもめにもめたが、
最終的には当事者かつ会長の木村名人の采配により、一年間の対局禁止の処分で蹴りがついた。
かかる一連の流れで、木村名人の心労はかなりのものだったにちがいない。

では、升田は名人に香車を引いて勝つことはあきらめたのかというとそんなことなく、
第5期王将戦にて、今度は弟弟子である大山名人を相手に駒落ちに追い込んでみせた。

前回同様、やはり名人の権威に傷をつけていいものかと悩んだそうだが、
今度は大山名人に香車を引いて将棋を指すことにして、そして勝ったのである。

長い将棋の歴史の中で、確実な記録として名人に駒を落として勝ったのは升田ただ一人である。
それだけでもとてつもないことであるというのに、これを子供のころに書き残して家出したなど、
まさしく事実は小説よりもなんとやら、すさまじい奇跡のエピソードである。


No.272

真・女神転生IV、事前情報をなんにも仕入れていなかったので、
マップ上で武器を振り回せたので最初は3Dアクションゲームかと思った。

その誤解はすぐに解けたのでともかくとして、
序盤から手加減なしでいともかんたんにすぐ死ぬ。
クリティカルをもらうと死ぬし、先制攻撃されて死ぬ。
先制全体攻撃から4匹のだれかが弱点をつかれて、
あっというまに大惨事になるなんて日常茶飯事だ。

とはいえ、いまのところ死にやすさとしては世界樹の迷宮ぐらいだし、
更にいえばどこでもセーブですぐにやり直せるのであれよりは気楽だ。

弱点をつくことが大事なようで、そうなると魔法に頼らないといけない。
というわけで魔力を重視してステータスを上げてみている。

いま、2匹目のボスまで倒したところで、
この流れだと3匹目以降もそういうボスが出るんだろうか、とか思ったりしてる。

ドラクエでいうはがねのつるぎのような位置づけ、
序盤から中盤へ移行する中での一人前になった感覚や世界の広がりを感じさせる要素、
そういうものがメガテンにもあるかなと考えてみるけどあまりぴんとこない。

一瞬、クーフーリンを思いついたけど、あれはどちらかというと終盤寄りの中盤のイメージが強い。
それに、女神転生2では序盤に登場したりと、いまひとつ活躍時期が一定でない。

シリーズを通して皆勤賞かそれに近いアイテムや仲魔があんまり見当たらないので、
ストーリーのほうに目を移して考えることにすると、
だれかの指示的なものがゆるくなるあたりかなぁと漠然と思う。

上のほうからあれせいこれせいという明示的な指示を受けていると、
なんとなくそれを終わらせるまでは道草や寄り道をしづらい気持ちがある。
そういうわけで、指示や使命がゆるくなると、これでようやく好きなようにできるな、
といった風情で、ゲームがぱっと広がるような感がある。

女神転生1ならミノタウロスを倒したところ、
女神転生2ならパズズとたもとをわかつところ、
真1なら金剛神界を抜けたところ、真2なら地下世界に行くあたり、
というふうに考えたけど、あまり普遍的なものでもないかもしれない。


No.271

メガテンが出て世界樹の迷宮が出てポケモンが出るらしいので忙しくなりそうだ。
その上、音ゲーの隠し曲を解禁させようとして、
将棋の定跡とかおぼえようとしたら大変なことになってきた。

四間飛車には穴熊といわれているけど、
天下一将棋会のC1〜B2ぐらいだと穴熊にされることはあまりなく、
自分の体感的には8割か9割は急戦でくる。

棒銀や斜め棒銀に対しては、まあなんとなくは指し方を本で見てるけど、
右四間飛車でこられたときの対応がいまひとつよくわからない。
どこかでちらっと見たことがあるような気がする話では、
腰掛け銀の形にするといいよ、とかだったと思う。理由は知らない。

プロの将棋で四間飛車への急戦で右四間が採用されることが稀とういことは、
棒銀とか斜め棒銀よりも右四間の方が居飛車側に利が少ないはずなので、
うまく対応すれば右四間にされたときは振り飛車側の方が得するはずである。
したがって、相手が右四間にしてきたらよろこぶべきなのだけど、そうはいってもねぇ。

メガテンは無印1, 2、真1, 2、初代ペルソナはちゃんとクリアまでやった。
辛抱強い手書きマッピングとかしなかったので、攻略本を見ながらだったけど。

無印1はミノタウロス、メデューサ、ロキまでは攻略本なしで倒せて、
そこからマズルカを通って炎の腐海でルースを拾うも効果がよくわからず、
アンフィニの広さに頭がおかしくなりそうになり、
アシュラやゾマを無理に倒して少ない見返りにがっかりして、
おなじところをさまよう日々を重ねて、
無駄に最高レベルまで上がるもやることがわからず詰まった。

これは無理だと放置気味にしていたある日、家から遠くのデパートの中にある
小さめの書店に攻略本がひょっこり売っていて、買ってマップを確認したらすぐにクリアできた。
なにせこちらのパーティーには既にクリシュナ、オーディン、ガネーシャがそろっていたのだから。
クリアしたときに「やれやれ」と、何か呪縛から解かれたような軽い気分になった。

当時のハード性能の制約とかもあるのだろうけど、背景に真っ黒な部分が多く、
それがBGMや敵の雰囲気ともあいまって陰鬱でアングラな感じがよく出ていたと思う。
開発者の中にLSDのたぐいをキメていた人がいたといわれても信じてしまいそうになるほどだ。
ピンクルーパーとかアバオアクーのセンスは常人にはおいそれとは出せない。

いまとなっては慣れてしまったけれども、各種世界の神やら精霊やら悪魔やらを、
ごっちゃに登場させて仲魔にしたりぶちのめしたりするのだから、
この設定からして既におおいにぶっ飛んでいる。
原作は読んだことないけど、作者は思い切ったことをやったと思う。

なにせ登場キャラの壮大な背景が伴っているのである。
攻略本の悪魔の説明を読みながら、

「なるほど、クリシュナというのはわけはわからんがとにかく強いのだ」

などと、悠久の時を越えた設定に高揚感や畏怖の念をおぼえたりした。

ところで、ああいう神話なんかの設定はだれがなんのために考えたのだろうか。
むかしの人はいまほど娯楽もなかったので、ひまつぶしの一環だったのだろうか。

わたしはその筋の専門家ではないので全然まちがったことをいってるかもしれないけど、
憎いあの野郎がせめてあの世では苦しんでくれよ、
というふつうの人々の怨念やら執念のたまものなのか、
あの手の設定というのは負の方向への傾倒が偏執的であるように感じる。

たとえば、地獄の設定というのはえらいことになっている。
地獄に落ちた罪人をあの手この手の方法で苦しめることになっている。
その一方で、極楽の設定というのはいまひとつはっきりとしない。
現実世界でも、不快な事象とか苛烈な拷問の手段はすぐに考えつくけど、
心地よいものや人をもてなす手段というのはあまりぴんとこない。

人間にとって最良の状態を考えなさいという議論はなかなか弾まないけど、
最悪の状態を考えるという議論はおおいに盛り上がり、
参加者らは嬉々としてありとあらゆる責め苦を提案してくれるだろう。

極楽の設定というものをきちんとは知らないのだけど、
仮に、自分が望むものならなんでも手に入る、というものだとする。
しかし、あの世でお金なんかもらってもしかたがないし、
ご飯だってそれほど食べなくてもいいように思う。
勉強してもそれを発揮する機会はあまりなさそうだ。

そういうふうに考えていくと、極楽というのは刺激が少なく、
有り体にいえば、大変にひまなところなのではないだろうか。
そのため、自分が置かれた境遇にさほど幸福を感ずるところなく、
日がな一日、手持ち無沙汰に寝そべって鼻をほじる毎日かもしれない。

そこで、そんな良き人々の無聊を慰めるために、
地獄の阿鼻叫喚を眺めるのが娯楽になっていてもおかしくはない。
わたしはそういう事態になったら、やはり見てしまうと思う。
それを見て、あんな目に遭わないでよかった、と、
自らの不幸ではない状態をしみじみうれしく感じると思う。

それからまた、創作物のような空想の世界においては、
美徳よりも悪徳の方が扱いやすく、ひかれるものがある。

完全無欠、清廉潔白、品行方正、無私無欲な主人公及び周辺人物が、
ひたすら善行を繰り返すという創作物を読みたい人がいるだろうか。

実話なら読んでもわるくはないと思う。そんな世界が実在したのか、
人間も捨てたもんじゃないな、と慰めら、勇気づけられる。

これが創り話ならどうか。道徳の時間でも読みたくない。
善人の主人公が周囲の悪を是正したり成敗したりする話ならまだしも、
登場人物みんなが善人でただひたすら美徳を垂れ流すなんて話、
想像するだけで退屈でしかたがない。嘘くさく、説教くさく、鼻につく。
どうせおれはそんな高邁な人間じゃないよといじけてやさぐれてしまう。

ところが、極悪非道、残虐無道、狡猾、悪辣、私利私欲にまみれた主人公が、
徹頭徹尾に悪行三昧、悪徳の限りを尽くすという話ならばどうだろうか。
あぁんなことや、こぉんなことをやりたい放題にやっちゃうのである。
実にたのしげでおもしろそうな話ではあるまいか。
顔をしかめて、眉をひそめつつも、ついつい見ずに入られない魔力がある。

これが実際の話となればちと勘弁して欲しく、
ましてや、こんな人物が近所にやってくれば死にたくなる。

メガテンもロウルートよりもカオスルートのほうがやっててたのしい。
(メガテンのロウ・カオスは一概に美徳・悪徳を意味しないけど)
真2でフーリーが見つからず、初クリアがロウルートになったのには忸怩たる思いがあった。

しかしながら、もし実際にメガテンの世界に自分が入ったとしたら、
やっぱり悪魔は気持ちがわるいし、弱肉強食の世界はしんどそうであり、
であればカオスルートを選べるはずもなく、
無難かつ穏便に済ませようとロウルートに進んじゃうと思うのである。

人間、人生、世の中の正解が何かというのはだれにも答えられないけれども、
不正解といえる事例ならいくつでもかんたんに挙げることができる。
創作物や空想で悪徳に触れたくなるのは、人生の不正解を確認することで、
消去法的に正解に近づこうとする意味があり、一種の美徳といえるのかもしれない。


No.270

天下一将棋会、こちらの先手番。

相手が棒銀の急戦で来たので、がんばってしのいだ。
うまく指せていたかどうかはちょっとよくわからない。




No.269

4月からのNHKの将棋講座で鈴木大介 八段を講師に振り飛車講座をするようだ。

最初のほうはごくごく基本的な話で、
わたし程度の人間でもまあだいたいは知っている内容であったので、
なおざりに、ほー、なんてのんきに眺めていた。

で、NHKの将棋講座のすぐ後にNHK杯があるのだけど、
奇しくもその戦型が振り飛車(四間飛車ではなかったけど)VS居飛車穴熊という、
振り飛車党にとっては避けては通れない因縁の対決だった。

結果はというと、振り飛車側がうまく駒をさばいたように思えた瞬間もあったけど、
結局は居飛車穴熊側が堅さを生かして勝つという、
振り飛車側にとっては大変悔しい内容となっていた。

うーむ、これで果たして振り飛車を指す人が増えるだろうかと、
しろうとの余計なお世話ながらもいささかの不安を感じてしまった。

ところで、ここからは資料などはろくに確かめないで、
うろおぼえと独断と偏見で書くが、振り飛車はロマンの戦法だと思っている。

ロマンという言葉は夢や理想を指すと同時に、ある種の開き直りや達観も含む。
ゲームなどでしばしば「ロマン戦法」とか「ロマン砲」と呼ばれるものがあって、
これなどは「結果の可否はともかく自分がやりたいことをやる」という意味を暗に含んでいる。

たとえばそれは藤井九段の四間飛車だったり、久保九段の先手石田流+後手ゴキゲン中飛車である。
あるいはまた、鈴木八段の穴熊に組ませて勝つスタイルである。

ある年に、久保九段は短い間にA級陥落+二冠失冠という逆境を味わったが、
そのときも、

「先手石田流と後手ゴキゲン中飛車は自分の中でのエース戦法。
 エースと心中したので悔いはない」

と述べていた。ロマンには悲壮感が付きまとうものなのである。

将棋界の歴史を紐解けば人は必ずやそこに振り飛車の盛衰を見るだろう。
たとえば日本最古の棋譜として知られる以下の一局がある。

日本最古の棋譜

居飛車VS振り飛車の戦型である。
我々はいきなり振り飛車に出会うというわけだ。

が、そこからしばらく振り飛車は世の表舞台から姿を消す。
江戸時代をすっ飛ばして現代の将棋界が始まるころの将棋を見てみると、
タイトル戦などの大きな対局では居飛車対居飛車の将棋が多い。

先手も後手も居飛車と居飛車、互いにおなじ陣形で組む様が、
相撲でがっぷり四つに組む様のようであり、そんな景色が人々に好まれたのかもしれない。
その逆に、振り飛車のような戦い方は、なんとなく奇をてらっているようで潔くない、
消極的だ、というふうに軽んじられていたのである。

現在、先手番で飛車を6筋に振るのを「四間飛車」のように呼ぶのは、
もともと振り飛車が後手番で行うのを前提とした戦法だったからである。
後手番の四間飛車なら飛車を4筋に振るのでつじつまが合う。
後手番のときに仕方なく行うが、自分で形を決められる先手番ではしない、
というのが振り飛車だったのである。

とまれ、当時は居飛車対居飛車の戦型にばかりなったようであり、
大山康晴十五世名人も自戦記かエッセイか何かで、

「また相掛かりかといささか辟易した」

とぼやいていたりする。

さて、将棋界の歴史は名人の歴史ともみなせる。
大山名人の前には木村義雄十四世名人がいる。

木村名人は今日の将棋界の礎を築くために尽力した人で、
戦後の困窮や混乱を解決に導いた大変えらい人である。
いうまでもなく将棋もべらぼうに強かった。

木村名人は基本的には居飛車党の棋士である。
とはいえ、当時はプロ棋士同士の対局でも駒落ちの将棋がふつうに指されており、
香落ちの将棋では上手は振り飛車にした方が指しやすいことから、木村名人も振り飛車を指している。
このときに木村名人が愛用していた囲いが、今日でも「木村美濃」という名前で残っている。

当時、常勝将軍と呼ばれた木村名人だが、栄枯盛衰、やはりいつかは敗れる日が訪れる。
木村名人を倒して名人になった棋士は、まず、塚田正夫第二代実力制名人。
それから、既に名前の挙がっている大山名人。
そして、名人戦では木村名人に惜しくも勝てなかったが、
数々のタイトル戦でしのぎを削った升田幸三第四代実力制名人も外せない。

木村名人が最後に大山名人に敗れたとき、木村名人は「良き後継者を得た」との言葉を残したそうである。
人間的な相性もあったのだろうが、木村名人と升田名人は互いに敵意をむき出しにし合っていたので、
如才なく振る舞う大山名人を高く評価したのには、そういった反動もあったのかもしれない。
ともかく、こうして将棋界は名実ともに大山名人の時代に突入することになる。

このころは大山名人もまだ振り飛車が表芸というわけではなかったようである。
木村名人との最後の名人戦でも、5局中1局しか振り飛車を指していない。
基本的には居飛車党だったのである。

いつごろから大山名人がはっきりと振り飛車党に転向したのかは定かではないが、
棋譜データベースでざっと見た感じでは、1957年以降のように見受けられる。
ちょうど、升田名人に名人などのタイトルを取られたころのようである。

将棋の対局は勝ち抜き戦の都合上、強い棋士ほど対局数が多くなる。
また、タイトル保持者であれば予選を戦う必要はないが、
挑戦者は予選と番勝負があるので対局数は更に増える。

升田名人にタイトルを取られて傷心の上に対局数も増えて疲労困憊の大山名人は、
あるとき兄弟子の大野源一 九段に「最近対局が多くてしんどい」というようなことを相談したらしい。
なお、升田名人も大野九段、大山名人とおなじく木見門下で、大野九段は升田名人の兄弟子でもある。

大野九段は「天下一のさばき」と称えられた振り飛車、とりわけ三間飛車の名手である。
前述のように、そのころの振り飛車戦法は自分からは仕掛けない待ちの戦法だと軽んじられていた。
また、大野九段は小柄で愛嬌のある性格をしており、みなから親しまれていたそうである。
そんな人間が当時プロ棋士の間では軽んじられていた振り飛車戦法をしてくるわけであるから、
相手の棋士は、有り体にいえばなめてかかることもあったのである。

ところが、大野九段の将棋は待ってばかりの消極的な将棋ではなく、
自分から積極的に駒にはたらきかけていく将棋だったのである。
この将棋で長らく将棋界の第一線で勝ち続けたのだからえらい。

将棋はおなじ戦力で戦うので、敵陣を攻めるということは自陣がそれだけ薄くなることになる。
そういう観点において、振り飛車は自陣をまずは美濃囲いの堅陣にしているので、
自分から積極的に動いていっても反動が怖くないというのが大野九段の考えだったのである。

振り飛車は最初はともかく美濃囲いにする。
NHK講座の鈴木八段もいっていたように、振り飛車は序盤はだれが指してもだいたいそうなのである。
居飛車なら、角交換しようかな、横歩を取ろうかな、急戦にしようかな、持久戦にしようかな、と、
それによって考えなければならない分岐が大量に現れるが、振り飛車ならとにかく美濃に囲う、
これさえ外れなければ相手の出方を気にしなくともさほど大きなまちがいは起こらない。

そういうわけで、大野九段は大山名人に対して、
「振り飛車なら序盤は考えんでいいから楽だぞ」と教えたそうである。
これになるほどと膝を打つ大山名人、自分の棋風は受け将棋であるから振り飛車は性に合いそうだ。
それに、最近は序盤に緻密な研究をする棋士も増えてきて、
いちいちそういう研究に付き合って不利をこうむるのもアホらしいし、
相手が何で来ようと動じずいつでもおなじ戦型で迎えるという将棋こそが真の王者ではないか、と考えた。

かくして生きる伝説ともいえる不世出の大名人大山の振り飛車が始まり、
更に、おなじころに升田名人も振り飛車党へと転向している。
こうして振り飛車戦法は数多くのタイトル戦で姿を見せるようになった。

当時の将棋界は大山名人を中心に動いていたので、すなわち、振り飛車が棋界を席捲した時代といえる。
そこで、この四間飛車をなんとかできないものかと多くの棋士が対策に腐心することになり、
その第一人者に36歳の若さで夭折した山田道美 九段がいる。
彼は振り飛車が優秀な戦法であることを認めて、四間飛車対策の急戦の定跡を整備した。

四間飛車に対しては急戦を仕掛けるのがこのころの一つのセオリーだったようである。
理由はよくわからないが、たぶん、振り飛車側に美濃囲い→高美濃囲い→銀冠のように、
陣形を発展されるのを嫌がってなのかもしれない。

しかし、居飛車の急戦時の囲いである舟囲いは美濃囲いに比べると堅さで劣っているため、
無策に振り飛車に急戦を仕掛けると、玉の堅さの違いで競り負けてしまう。

ならば、居飛車は振り飛車の美濃囲いよりももっと玉を堅くすればいいのではないか、
そういう発想のもとで対振り飛車の最終兵器ともいえる居飛車穴熊が生み出されたのである。

それまでにも囲いの一つとして穴熊が採用されることは稀にあったが、
あくまで奇襲的な位置づけであり、本筋の将棋ではないと見られていた。
「あまりにも駒が偏っている」というのが理由らしい。

だが、「序盤のエジソン」と呼ばれた田中寅彦 九段は、
戦法としての居飛車穴熊を再検討して指し方を整備した末に、
これが対振り飛車に非常に有力であることを実践したのである。

この居飛車穴熊に対して棋界の巨人大山はどのような対策を立てたのか。
なんと、少なくともしろうと目には特にこれといった工夫は見せていない。
相手が穴熊に組みたいのなら組ませるままにして、
なんやかんややってるうちに相手の穴熊をつぶして最後は勝つという将棋を見せている。
(もちろん、穴熊の堅さに屈して負けた将棋もあるが)

とはいえ、この「なんやかんや」の部分が常人には無理な芸当であったため、
並みの振り飛車党は居飛車穴熊の前にばったばったとやられていったのである。
あまりにも振り飛車で勝てなくなっために、居飛車党へ転向した棋士も少なくなかったといわれている。

時を前後して、中原誠十六世名人が現れて長い大山名人の時代も終わりが来た。
中原名人は振り飛車も指すことはあったが、基本的には居飛車を指す棋士である。
中原名人以降、生粋の振り飛車党が名人を取ったことはなく、
大内九段(鈴木八段の師匠)と森安九段がそれぞれ1回ずつ名人挑戦をしたのが精一杯である。

そのうちに、大山名人、升田名人が死去、引退していき、
谷川九段、森内名人、羽生三冠、佐藤九段、丸山九段が現れてくるが、
いずれも生粋の振り飛車党ではなく、いよいよ振り飛車冬の時代となっていた。

そんな時代に、名人戦でこそないが同格のタイトル戦である竜王戦において、
大山名人の棋譜をすべて並べたこともある生粋の振り飛車党である藤井九段が、
振り飛車の天敵たる居飛車穴熊を破る藤井システムを引っさげて竜王を3連覇したのである。
そういう理由もあって、藤井九段は振り飛車党に絶大な人気があるわけなのだ。

かくして現在に至る、で話が終わっていれば振り飛車の未来は安泰なのだけれども、
藤井システムへの対策が進んだり、ゴキゲン中飛車が考案されたりその対策が出てきたり、
角交換四間飛車が考案されたり、と振り飛車の工夫と紆余曲折は続いている。

いつかまた振り飛車が将棋界の歴史にからんでいけばと思う。


No.268

天下一将棋会、こちらの後手番。

相手が振り飛車を見せてきて、なんとなく相振りをする気分じゃなく、
ななめ棒銀からの急戦をしようと思ったら、相手の方が先に決戦を仕掛けてきた。

仮に相手がばっちり美濃に囲ってたら負けてたような気がするので、
やはり玉の堅さというのは大事だなぁと思った。



玉頭銀の定跡ってどうなってんだろうか。


No.267

天下一将棋会、一時期あまり受けてこなかったのだけど、
ここ最近後手番で立て続けに石田流をされた。

以前は石田流への方針が自分の中で確立していなかったので、
3手目に▲7五歩とされるだけでおおいに動揺していたけど、
いまはそれなりには勝ち負けできる将棋にはできるようになってきた。

石田流は対策を知らなければ大変厄介な戦法だ。
飛車角交換をされたり、王手飛車を食らったり、
あるいは、序盤から乱戦模様になったり、といった具合で、
自分のペースを乱されてそのまま圧倒されるというのが一番まずい。

というわけで、『久保の石田流』(久保九段)、
『勝てる石田流』(鈴木八段)を参考に、
最序盤にどういう方針があるかを整理しておく。

まずは▲7六歩 △3四歩 ▲7五歩とした基本図。

ここから後手はどう指していくか。

(1) △4二玉

わたしが指してる天下一将棋会のC2〜B2あたりのレベルなら、
これがもっとも無難でおだやかな展開を望める対応だと思う。
相手(先手)が石田流の定跡本をきちんと読んでいる人であれば、
次に▲6六歩と角道を止めてきていきなりの乱戦は避けられるはずだ。

もしも相手が角道を止めずに▲7八飛と突っ張ってきたらどうするか?
そのときはこちらから角交換を仕掛けた後に、△4五角で馬を作ればいい。

石田流の部分的な定跡として、後手の△4五角には▲7六角で返しなさいというものがある。
しかし、この場合は△4二玉のおかげで、先手の角は4三に成りこむことができないのだ。

(2) △4四歩

石田流の厄介な筋というのは、だいたいにおいて角交換がからんでいる。
じゃあ、その角交換を避ければややこしいこともないんじゃないですか、という手。

プロの棋士が指した棋譜を収めている将棋の棋譜でーたべーすによれば、
ここから先はおそらくすべて相振り飛車の将棋になっているようだ。
すなわち、この後に後手は飛車を振って向かい飛車や四間飛車にして戦う。

なぜ居飛車ではないのかというと、先手に▲6六歩を指させていないため、
先手の飛車が7六に上がったときに、先手の飛車の横の動きが自由なのが不満なためらしい。
何かの拍子で先手の飛車がひょいと右辺に移動してくるとややこしいことが起こる。
それなら、(1)の△4二玉で▲6六歩を強要した方がよほど得ということになる。

(1)で居飛車で戦うのがどうにも嫌だという人にはこの選択肢もあると思う。

(3) △8四歩

へえ、きみ石田流するんだ。いいよ、かかってきなさい、という手。
この後、▲7八飛、△8五歩となれば乱戦はまぬがれない。

以前の日記にも書いたとおり、ここから先は▲7四歩、▲4八玉とかあって、
それに対して後手もどうするかというのがまた悩ましい。

もしあなたが先手番のときに石田流をよく指していて、
この変化は先手の無理筋だという確固たる自信があるのなら、
3手目に△8四歩を選ぶのは非常に有力だろう。

しかし、自分では石田流はあんまり指さないから不気味な変化を知らないし、
ましてや少ない持ち時間で相手の研究になんか付き合ってられないよというのであれば、
よほど乱戦が好きだというのでもない限りはこの手はあまり指さないほうがいいと思う。

(4) △3五歩

先手にばかり歩を伸ばされるのはしゃくだと自分も歩を更に伸ばすとこうなる。
当然、相振り飛車の力戦調の将棋になるので、相手の研究を外せる効果はある。
先後同型で進みやすいので、そういう戦いかたが好きな人にはいいのだろうか。

後手番でも何がなんでも石田流を指したいんだという人は、
この手を選ばないでも2手目△3二飛戦法というのがあるので、
そちらを検討してみるのもいいと思う。


わたしは力戦、乱戦が苦手なので(1)の△4二玉から△6二銀でそなえて、
じっと銀冠を目指す指し方をしている。


No.266

東京の町田のあたりに用があって、のろのろと出かける。

東京に来るたびに思うのは、東京は人が多いということである。
人が多いのでいろいろな店があるしどこそこで催し物をやっている。

それはそれでにぎやかでたのしい毎日なのだろうけど、
一方で、毎日毎日周囲で何かを派手に実行されていると、
自分も何かをしていなければ取り残されるのではないか、損をするのではないか、
というような切迫感や焦燥感を感じてしまうこともあるような気がする。
しかし、これは東京に住んでいない人の単なる負け惜しみのようなものだ。

町田にはかれこれ何度か訪れているので、音ゲーを設置している店舗の場所もおぼえた。
空いた時間にふらふらと店に行ってポップンとGITADORAをプレイする。
最近、自分のよく行くゲームセンターにもGITADORAが新規に導入されて、
叩く場所が増えると旧作で知っている曲でも新鮮な気持ちで遊べてお得な感じがする。

それから、近くの別の店で天下一将棋会もする。
大優勢の局面から、さっさと終わらせないとなぶり殺しにしているようでわるいなと思い、
詰まそうとしたらこれが大失敗で大逆転、大頓死を食らってたいそう気が滅入る。

スカイツリーでも見て帰ろうかと思い、去年のように町田から浅草を目指す。

前回、新宿魔境に陥り辺境にまで連れて行かれたので、今回は乗換えに細心の注意を払う。
携帯電話で経路を調べて、多少時間がかかっても乗換えなしで行けるやつを選び、
路線図をにらみ、ホームの案内掲示をにらみ、社会の末席を汚さない程度にきょろきょろし、
全身全霊、乾坤一擲の乗換えの末、誤ることなく目指す地である浅草橋に着いた。
歳を食うと自分をえらいと思う機会は少なくなるけど、このときはちょっとえらいと思った。

浅草では朝っぱらから飲み屋さんが開いていて、
なおかつ、実際にお客さんも来ているらしいのを見かける。
自分ではやらなくとも、そういう景色を眺めるのもまた一興か。

スカイツリーを間近で見てみた第一感は高いなということぐらいで、
更にもう少し眺めて、支柱は太そうで手がかりがないように見られ、
東京タワーのように外から不法によじ登るのはむずかしそうだとも思った。
とはいえ、高いところに登りたがるというのは古来より無謀者の伝統であるから、
むしろその困難こそを奇貨としてぜひともだれかよじ登って欲しいところである。

スカイツリーへの入場は待ち時間が4時間ぐらいだったためにこれを断念し、
近くだったので二度と行くこともあるまいと思いながら花やしきに行ってみる。

花やしきに実際に入ってみた第一感はせまいなということで、
園内をぐるっと歩くのに一時間もかからないようである。
せっかくだからと目ぼしい乗り物をこなしても二時間で十分すぎた。

しかし、小さな子供などはおおいにはしゃいでいるようであり、
自分が小さいころを過ごした小学校などの施設を大人になってから訪れると、
思いのほか規模が小さかったことにおどろくように、
子供からの目線では全くちがった感じかたがあるのかもしれない。

花やしきと自分自身が過ごした時間への名誉のために述べれば、敷地がせまいとはいえ、
打ち揚げたり、滑走したり、回ったりする各種乗り物はれっきとしたもので、
平時では絶対に遭遇し得ない超現実的な極端な感覚を体験するのは真っ当にたのしいものだった。
しかしながら、それじゃあまた来たいかと問われるとはなはだ答えに窮する。
少なくとも今回とおなじ境遇では行かない方に気持ちが傾くのは否定できない。
だって、そりゃまあ、ねぇ。

帰りがけにスマートボールをやっているお店を見かけて、
どんなものだろうかとやってみてこんなものかという感想を得る。

更にまた帰りに、山手線への乗換えで秋葉原に寄ったので、
どんなものだろうかと駅からそのへんをざっと歩いてみて、
話に聞いて思っていたほど度し難くも猥雑でもなく拍子抜けする。

ネットのおかげでいろいろな情報を仕入れやすくなったこともあり、
事前に過度な想像や期待をしてしまうため、
実際がそれらを凌駕しづらくなって久しいけれども、
花やしきのせまさと古くささはおおむね予想どおりだったのでそこは満足した。


No.265

わたしは全然職業プログラマではないのだけど、
プログラムやその周辺のことを習ったことはあるので、
何も知らない人よりはほんの少しではあるけれどもそういう話を知っている。

プログラマにまつわる話でよく出てくるテーマに、
「突然の仕様変更」、というものがある。
これはむかしからよく見聞きするテーマで、
本気の話でも冗談の話でも俎上に上がる機会が多い。

曰く、

「プログラムを全く知らない人は気軽にいってくれるが、
 場合によっては少しの要求のちがいで全然別の問題になる。
 ということはプログラムもゼロから作りはじめる必要があるのだ」

ということらしい。

いやいや、そんなちょっとの変更で変わることはないでしょ、大げさな、
たとえばですよ、鉛筆を10本買いたいなというのを11本に変更したとしてですよ、
そこまで大事になるとは思えませんな、というわけでここはこれに変えてよろしく、
などと、あくまで軽い気持ちで考える人もいるかもしれない。

しかし、プログラムで解く問題というのは数学の分野に脚を突っ込んでいるものが多く、
そして、数学の世界では問題文がほんのわずかに変わるだけで、
解ける難易度が激変する問題というのはざらである。

「偶数の完全数(約数の総和がその数の2倍になる数)を見つけなさい」という問題ならば、
これは暗算でも「6の約数は1, 2, 3, 6、総和は12」と即座に答えられる。
ところが、「奇数の完全数を見つけなさい」となると難易度は急変する。
かなり大きな数まで調べられているが、現在、奇数の完全数は見つかっていない。
したがって、明日までに奇数の完全数を見つけてこいといわれたら、いってきた相手の正気を疑うか、
若しくは、その場で自分が発狂して奇声とともに相手を殴りのめすのがいいだろう。

「地図のすべての道路を巡って戻ってくる経路があるかどうか調べなさい」という問題は、
いわゆる一筆書きができるかどうかであるからさしてむずかしくはない。
だが、「地図のすべての交差点を巡って戻ってくる経路があるかどうか調べなさい」となると事件発生だ。

「このあいだいってたあれ、辺じゃなくて点だった。でもすぐでしょ、似たようなもんだし」

などといわれた日には、現場に血と汗と涙と胃液が流れることは必至である。

直感的にはどちらもたいしてちがいがない問題のように感じられる。
しかし、後者の点をたどる問題はNP完全問題と呼ばれるやつで、
もしこれを効率的に解く方法を考案できれば、
クレイ数学研究所というところが100万ドルをくれる、
というとてつもない問題なのである。

問題の難易度のレベルとしては、有名な「フェルマーの最終定理」や、
常人には何がわからないのかすらわからない「ポアンカレ予想」とか、
あれと肩を並べるほどの人類の知能の限界に挑む大問題なのである。

したがって、そういう問題をまともに厳密に解こうとするのははなはだしい徒労である。
プログラマは当然この手の問題を現実的な時間で厳密に解けないと知っているので、
現実的な時間でそこそこの解を得られるプログラムを作る。

しかし、世の中の上司と呼ばれる人種の中にはこの手の話を知らない人もいるらしく、

「いや、おれはそうは思わない。ちゃんとしたやつができるはずだ。いいから作れ」

と、何か理論的な考えがあるでもなく強要してくる人が非常にしばしば存在するそうなのである。
数学は世の中の役に立つかという議論に対する一つの解答がここにあるといえる。
世のプログラマの健全な心身を守ってくれるというわけだ。

問題の難易度の話題のほかに、組合せ爆発にまつわる話も重要だ。

以前、どこかで見た話なのだけど、その人は何かのゲーム会社にいたそうである。
最近のゲームには、練成とか合成とかいった感じで、アイテムを組み合わせることで、
新しいアイテムを作成するというシステムが実装されているものがある。

その会社が作っているゲームにもこのシステムをつけようということになった。
ここまでは、はやりのシステムをうちもやってみようという、まあよくある話である。

問題は社長かだれかのとにかくえらい人が抜かしてくれた次のような発言である。

「他社を単にまねるだけじゃおもしろくない。うちはどえらい規模にする。
 そうだな、100種類の合成アイテムを用意して、これを5個組み合わせられるようにしよう」

出てくる数字は100とか5とかさほど大きくないからと気軽にいってくれたものだが、
100個のものから5個を選ぶときの組合せは、75,287,520通りにもなる。
いうまでもなく、それほどのゲームを求めるほどに人類は賢くもなければ長生きもしない。

くだんのゲームとゲーム会社がその後どうなったかは知らないが、
プログラマが不幸であったことはちがいない。

とかく組合せというのは、油断すると数が爆発的に増えるというのは大事な感覚である。
たとえばこういう問題を想定してみる。あなたの目の前に鍵のかかった扉と、
その横にはいかにもなオン・オフを切り替えられるスイッチが4個あるとする。
この4個のスイッチのオン・オフの組合せが正解の組合せと一致したら扉が開くとする。

事前に何度かテストしてみたところ、4個のスイッチではユーザーは1分ぐらいで正解してきた。
あなたはこの問題にもう少し時間を、だいたい10分ぐらいはかかって欲しいなと考えたとする。
さて、スイッチを何個に増やせばかかる時間はだいたい10倍になるだろうか。

この問題は非常に単純化した組合せ問題であり、
スイッチを1個増やすたびにかかる時間は2倍になる。
そのため、正解は3個(2^3=8倍)か4個(2^4=16倍)増やす、である。

かように、「オン・オフ」や「とる・とらない」がかかわる組合せ問題は、
選択肢が一つ増えるたびにかかる時間が2倍になるものが多い。
数が小さなうちは2倍になってもたかが知れているが、
数が大きくなると2倍になったときの増加がべらぼうなことになる。

しかし、そういう感覚を知らないまま、

「スイッチを10倍にすればかかる時間も10倍になるんじゃないの」

なんて素朴に考えるととんでもない事態を招くことになる。
スイッチが4個から40個に増えると、かかる時間は1分*2^36=68,719,476,736分になる。
これはおおよそ13万年に相当する。ホモ・サピエンスが地球に誕生してから今日まで、
世代を超えてスイッチをがちゃがちゃし続ければどうにかこうにか解くことができるようだ。

この問題は、プログラマにっとてはスイッチを36個増やすだけでさしたる労力でもないが、
ユーザーにとっては動物園のお猿さんたちが携帯電話を開発して会話するのを見守るぐらいの難易度である。
こんなものはもはや幸、不幸を超越して神の視点に立たなければ解けない問題ですらある。

数学が世の中の役に立つかどうか明確な答えは持たないが、
少なくともある種の悲劇を避けることはできるとはいえる。


No.264

天下一将棋会で対戦相手が見つからないときはCPU戦になるのだけど、
たまに「プロ棋士の魂が乗り移る」というような演出が入って、
CPUの思考レベルが上がって駒落ち戦になることがある。

これまであまりまじめに駒落ちを勉強したことはなく、
いつも手探りというか場当たり的な手を指していたのだけど、
最近、先崎学 八段が駒落ちの本を出していたので、
それを読んでちょっと勉強した。

駒落ちの定跡でもっとも整備されているのは2枚落ちらしい。
知ってるか知らないかで指しやすさが全然ちがってくる。

というわけで、あまり強くないCPU相手に軽く2枚落ちの将棋を。
2枚落ちの定跡を知ってるとこんなにうまくいくこともあるよという恣意的な例なので、
ほとんどの場合はこんなにはうまくいかない。

ssjのレベル3。
おざなりに指したとはいえだいぶひどい。


続いて、K-Shogiの初級。


こういうふうになるので、上手は△2二銀と△3二金で守らないといけないんだって。


No.263

天下一将棋会、B級2組で後手番。
相手が攻めてこなかったので、後手番だからと無茶は承知で開戦。




No.262

少し前にちまたで「9÷0はいくらになるか」という小学校の算数の問題の話題が出ていた。

わたしの記憶がまちがっていなければ、
わたしたちのころはゼロがかかわる乗算・除算は
小学校三年生で習っていたはずである。

よほど超人的な記憶能力でも有していなければ、
小さいときの記憶というのは断片的なものが多い。
前後の文脈はよくわからぬが、何か印象的な軸となる出来事があって、
それを中心として周辺の事象や光景が思い起こされる。

いまもあるのかもしれないけど、当時「算数ドリル」という縦長の問題集があった。
どういう代物かというと、理論や原理などの説明は一切なく、
なにがしかのテーマに則ったかんたんな問題が羅列してあるというものであった。

1ページごとに冒頭に「次の計算をしましょう」などが一文そっけなく書いてあるだけで、
残りは、

(1) 3×4
(2) 5×8
……

といった具合に、たしか20問ぐらいの問題がしたためられていた。

そんな中、ある1ページのテーマは「ゼロの乗算」であった。
どういう問題だったかというと、

(1) 4×0
(2) 8×0
……
(10) 11×0
(11) 0×2
……
(20) 0×0

といった感じであった。

授業で「ゼロには何をかけてもゼロ」と習っていたので、これはもう楽勝である。
この1ページはボーナスステージだな、などと内心ほくそえみ、
一問ごとにいちいちゼロを書くのもしゃらくさいと、
二段組になっていたページの左段と右段で一問ずつを縦にぶちぬき細長いゼロをでんでんと書いた。

答えを確かめるまでもないがと思いながらも、後ろに掲載してある解答を確かめたところ、
果たして「0」の1文字がずらずらずらっと並んでいた。実にたわいもないことであると感じた。

かくして問題の作り手の律儀さやまじめさを小ばかにしつつもページをめくると、
次なるテーマは「ゼロの除算」で、これはこういう問題だった。

(1) 0÷5
(2) 0÷9
……
(10) 0÷11
(11) 0÷6
……
(20) 0÷0

当時のわたしが素直で何事にもひたむきさと深謀遠慮を失わないつつしみ深い人間であれば、
先ほどのゼロの乗算と今度のゼロの除算の問題を見比べて、
おや、式の構成がちがうな、ははあ、そういうことか、なるほど、
と反省する機会になったのだろうけど、あいにくと当時のわたしは
自分でいうのもなんだがひどいクソガキであり、
揚げ足を取ることと大人をコケにすることに心血を注いでいたため、
算数ドリルの問題を作ったどこかのえらい人の妙なる心遣いに気づくことなく、

「ゼロは何で割ってもゼロ。はは、実にくだらない問題ですよこれは、ははは」

などと鼻高々に先ほどとおなじようにアホ丸出しで不細工なゼロを並べたのである。

そうして解答を確認してみたところ、一目見て異変に気づいた。
ゼロで埋められた中に「(20) 解なし」とか、
何かそういう文字が書いてあったのである。

小学生向けの問題であるから、もうちょっとやわらかく、
「(20) 計算できない」とか「(20) 割れません」という表現だったかもしれないが、
ともかく(20)の答えは「0」ではないイレギュラーな何かだったのである。

まず驚愕した。ゼロの割り算はなんでもゼロではなかったのか。
それから疑った。これはまちがっているのではないかと考えた。
はたまた、おれは何を調子に乗っていたんだ、傍ら痛い、などと慙愧の念を感じた。

かなりの動揺を抱きつつも、担任の先生に「これはどういうことか?」と尋ねると、
詳しい説明はなかったと思うが「それはそういうものだ」との返答であった。

かくして、わたしがゼロによる除算は計算できないものだと学んだかというとそうではなく、
先生がきちんと説明しなかったことからも推測できるように、
おそらく当時の学習要綱ではゼロによる除算についてはあまり力を入れた説明はせずに、
できれば触れて欲しくないといった体であいまいな態度を取る方針だったのではないか。

その当時の教科書などもう手元にないので確認はできないが、
たぶん教科書にもそれほど積極的な記述はなかったと思うのである。

したがって、生粋のクソガキであったわたしはゼロによる除算について正しい知識を習得することもなく、
一週間も経たずにくだんの一件の始終は脳みそから消え去ったのである。
強いていえば深く考えずに「そういうものだ」と思った程度である。

ゼロによる除算と遭遇した次の記憶は、テレビでやっていた何かのクイズ番組の中であった。
前回よりもだいぶ時が過ぎて、中学生か、あるいは既に高校生になっていたかもしれない。

それがどんな雰囲気のクイズ番組だったかいまとなってはおぼえていないが、
○×クイズでこういう問題が出た。

「1÷0の答えはゼロである。○か×か」

数字は定かではないが、ともかく「なんとか÷0はゼロか」という問題だった。

当時、中学生か高校生だったわたしは、やはり小学生のころから引き続き、
こまっしゃくれた夜郎自大で生意気なクソガキであり、上記の問題を耳にして、

「世人どもはかようなくだらぬ問題で余暇を過ごしておるのか、ははは」

などと、テレビの前で根拠のない優越感と自尊心で悦に浸ったわけである。

3人(だったと思う)の解答者のうち、1人は○で2人は×であった。
考えるまでもなく当然「○」と思っていたところで、
目の前の解答者の過半数が「×」を突きつけてきたのである。
断っておくと、これらの解答者はいまでいうところのお馬鹿タレントではなく、
真っ当な能力でもって世の中で生きていく人たちであった。

中身は小学生のころとさして変わらぬとはいえ、
歳を取れば取っただけそれなりではあるが経験も増えている。
いろいろなパターンでいろいろな痛い目にも遭ってきた。

したがって、このときのわたしはさすがに相手がまちがっているとは思わず、
また、過剰に取り乱すこともなく、ふと、前述の小学生のころの記憶も脳裏に飛来しながら、
どうやらこれはおれの知らない問題であるらしい、と徐々に受け止めはじめていた。
謙虚であり進歩である。これこそが人類の進歩と調和の権化ではあるまいか。

問題の答えは「×」であった。「ゼロで割ることはできません」という解説もついてきた。
わたしは「ううむ」とうなった。あのとき「0÷0」が「0」ではなかったことについて、
当時はあまり詳しい話は聞かされなかったが、なんのことはない。単純な話だったのだ。

また、電卓をいじって遊ぶときに、なるべくボタンを押す回数を少なくして、
「0E」という表示を出して動かなくさせるにはどうすればいいかという問題に対して、
初期状態から「÷、=」と2回押すのが一番少ないと思っていてもその意味はよく知らなかったが、
あれは「0÷0」をやらせようとしてエラーが出ていたためなのだなと気づいた。

数字をゼロで割ってはいけない。
何か実体験があったとか、強烈な出来事があったわけでもなく、
単なるクイズ番組の一問で、長い年月がかかったが、
その事実はようやくクソガキであったわたしの脳みそのしわに
はっきりと刻み込まれることになったのである。

それからまたもう少しだけ時は流れて、高校の数学で「lim」とか「0/0」とかが出てきて、
ゼロによる除算がいかにまずいかということをそれなりには学習した。

かように、わたしはゼロによる除算について、
矛盾だとか不条理だとか理不尽さだとか大人の世界の汚さなどをことさらに感じて、
情操にわるい影響を受けたりはしなかったし、
わたしだけでなく周囲にもゼロによる除算が心に闇を作り、
人の道を外したり犯罪者になったという人もいない。

もちろん、世の中にはゼロによる除算について思い悩み、
周囲の大人に尋ねては煙たがられ、幼心に深い傷を負った人もいるかもしれないが、
しかしやはりそういう人間が現れるほうが稀なケースであり、そのため、
文部科学省はゼロによる除算の教育にあまり熱意を向けていないのだと思われる。

ゼロによる除算問題は、学習している当事者たる児童の大多数にとっては、
そもそもテストに出るでもなし、さしたる興味も引かないどうでもいい問題だと思うのである。
この問題に熱烈な興味や関心を抱くのは、高校や大学でそれなりのこと学習した後の人のような気がする。

清水義範氏の作品に『虚構市立不条理中学校』というのがある。
これは学校における様々な不条理や理不尽を誇張した話で、その中に、

「小学校では引かれる数よりも大きな数を引いたらだめと教えるのに、
 中学校では負の数が導入されて平気でそういうことをする。おかしくないか」

というような趣旨の会話があったと思う。

それはまあたしかにそうなのだけれども、
しかし、小学生というのは周囲が思うほどアホな生物ではなく、
天気予報に出てくる気温の表示を大人に尋ねるなどして、
世の中にはゼロよりも小さな数字があるということを体験するものであり、
そのことに何らの不自然さや不条理さをおぼえることなどない。
「13-24」が具体的にどういう数字になるか計算することができなくとも、
何かゼロよりも小さな数になるなぁというのは予感しているのである。

この作品ではゼロによる除算についても触れていて、
やはりゼロによる除算というのはどうも変だ、おかしいと述べていたと思うのだけど、
しかしながら前述のとおり、当事者というのはそこまで深く考えないものなのである。
「ゼロによる除算はできません。無理に定義すると変なことになります」とでもいっておけば、
「あ、そうなんだ」というだけの話である。それ以上の感想を述べるほうがむずかしい。
放課後にはとうにわすれさられている程度のおもしろみのない話だ。

数学はもっと自由なものではないのか、たかがゼロによる除算すら定義できないなどなげかわしい、
などと義憤にかられる人もいるかもしれない。その気持ちもわからなくもない。

数学の専門家ではないのできちんとした話はぜんぜん知らないし調べる元気もないのだけど、
ゼロによる除算を定義していない理由の一つとして、
それを定義したところでさしておもしろい話が出そうにない、ということがあるような気がする。

たとえば数学には虚数というやつがある。これは2乗したら負になる数で、
具体的にどんなものだ、いますぐここに持って来いといわれると困る代物である。

そんな想像上の産物をこねくり回して何がたのしいのかという考え方もできるけれども、
虚数を導入することで数学の世界は革命的に広く自由になったといわれている。

ほかにも、「ゼロによる階乗0!はいくらか」という問に対して、
方便として「0!=1」と定義してはどうかという立場がある。
これにはいろいろな合理的な理由があるのだけれども、実際的な問題として、
n個からm個のものを選ぶときの組合せの数「C(n, m)=n!/( (n-m)! m! )」について、
n=mの場合の計算に例外を設ける必要がなくなるという利点などがある。

もしゼロによる除算を、たとえば「1/0=z」とでも定義して、
このzを用いることで何かの計算がやりやすくなるとか、新たな洞察を与えてくれるとかなら、
世の数学者たちは全く躊躇することもなく、我先にゼロによる除算を定義するだろう。
(いや、おそらくそういうことを考えてみた数学者は既に山ほどいることだろう)

ところがピタゴラスからエルデシュまでのだれもそんなことはしていないか、
あるいは今日に至るまで大々的に発表してきていないということは、
ゼロによる除算の許容を新しい概念として導入することは、
それを定義するために克服しなければならない諸問題を凌駕するほどの
魅力や利益は見込めないものであるということを示唆している。

こういった算数にまつわる疑問というのは不可解なものであるともいえ、
「徳川幕府を開いたのは徳川家康ですよ」とか、
「水は100度で沸騰しますね」という事実を頑として受け入れないという人は、
まあちょっと、なんというかアレな人ですな、ということになりそうだが、
「分数の割り算は割るほうの分子と分母をひっくり返して掛け算するんですよ」
という事実に食ってかかる人の存在はわりと許されるのである。

分数の割り算のやり方やゼロで割ってはいけないというのは、
人為的に決めたやり方やルールだというわけではなく、
強いていえば神様が既に決めた是非もない事実である。

社会の時間に隋、唐、□、□、明、清とくればこれはもう元に宋だとしかいいようがない。
算数の時間にゼロで割れない、これもやはり現にそうなのだとしかいいようがない。


No.261

ピティエが村を出たいといいだしたので、
さもあらばあれとほうっておいたら、
代わってハイドという茶色いワニがやってきた。
ワニは村にいたことがないのでなかなか新鮮な気分だ。

ポップンの新作が出たので週末いそいそとプレイする。

いま住んでるところはゲームセンターがあまり近くないので、
平日の夕方にひょいと気軽にプレイできなく、
週末にゴンズク出して集中的にプレイする必要がある。

土曜日、まずは新曲のEXを出すべく新曲のHを一通りプレイしたところ、
一通りプレイし終わるころには肩のあたりが痛くなって、頭がふらふらしてきた。

そういう状態で高難易度のEX曲をやってもあまりかんばしくない。
ドラムンコアダストEXが初プレイで逆ボーダーだったので、
もうちょいがんばればいけるかと何回か挑戦するも、
やればやるほど腕が動かなくなっていってどんどんBADが増えた。

これはまた今度やろうということで置いといて、
ハッピーハードコアEXをやったらこれもなんかむずかしかった。
しかし、何をどう押してるのか自分でもよくわからないままに、
最後も「あ、これラス殺しだ」と思ってでたらめに押したけど、
なぜかあんまりゲージが減らずになぜかクリアできた。

結局、土曜日のうちにドラムンコアダストEXはクリアできず、
したがってLv47制覇はその日は達成できず、
腕が痛いと思いながら悶々とした気持ちで寝る。

日曜日、雪辱を誓って再びゲームセンターへ向かう。
この土日は暖かくすごしやすくて実によかったと思う。
寒いと最初の数プレイは冷えた腕があまりよく動かない。

疲れる前に初っ端からドラムンコアダストEXをプレイ。
が、初プレイ時の逆ボーダーはなんだったのかというほどの不甲斐ない結果。
ふと、HSがあってないのかなと思い、3.5から4に上げたらけろっとクリアできた。

東海林さだおさんのエッセイでも言及されていたけど、
歳を取ると疲労や体への負荷に対する閾値が低くなるのか、
若いときは感じなかった坂道の傾斜に敏感になったりする。

ポップン12〜15ぐらいのときは13:00から22:00ぐらいまでプレイしてても、
これといった体調等の顕著な変化を感じることはあまりなかった。

しかし、ここ数年は2時間ぐらいプレイしてると如実に状態の劣化を感じる。
手指や腕への疲労の蓄積よりも、頭の疲れの方が影響が大きいような気がする。
というのも、疲れてくると譜面の見え方が全然変わってきて、
HSが速すぎるように感じられたり、複雑な譜面に対処できなくなってくる。

実際、腕はそこまで疲労しているわけではないらしく、
ポップンとかIIDXの高難易度をまともにプレイできない状態でも、
ドラムマニアで単純に刻み続けるということはできたりする。

疲れたら音ゲー以外の何かをプレイして回復を図るといいのだろうか。
でも最近のほかのゲームってどうもにわかに理解できそうにない。
歳のせいか新しいことをはじめるのが億劫になった。
よくないことだと思うのでなんとかしたいとは思ってる。


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