前書いたやつ
10/21

石段の左右両端、一段に一匹ずつ猫どもが眠っている。朝からずっと眠っているものもいれば、昼の暑気を避けて眠っているもの、ほかにすることがなく眠っているものもいる。空腹を紛らすために眠るのは考えものである。目が覚めたときの倦怠感がひどい。全身が粘っこい液体に包まれたかのように重くなる。しようがなくまたすぐに眠ろうとしてしまいたくなるが、こうしたことを繰り返した末に二度と目を覚まさなくなったものを見たことがある。時々はそれでもよいと思うこともあるが、できればまだ生きていたいという思いの方が強い。そういうわけでほかの猫もそうしているのかは知らないが、クロは眠りにつくときには可能な限り腹に何か入れてからにしている。できれば一日中眠っていたいこともある。あくせく餌を探し回り、快適な寝床を探し、ときどき用を足すところを探し、そうした上でようやく眠ることができるのである。すべては眠りのためなのだろうか。眠っている間の記憶や経験は確かではないが確かに体は眠りを欲しているようであり、また眠ろうと考えて実行することに確かな悦楽を感じる。してみると眠っている間も気づけないだけで多大な悦楽を感じ続けているのかもしれない。よくわからない。つまみスイッチをひねっていくように思考が断片化して混濁していき、クロは眠りに紛れていった。

日が沈むころになると島内には海へと向かう風が吹き始める。びゅうびゅうとした風音を合図にするように、石段で眠っていた猫どもも一匹二匹と立ち上がって、丹念に伸びとあくびをしてから寝起きにしては案外軽快な足取りで散っていく。周囲の猫どもの動きや気温だとかの気配を感じてクロも目が覚めた。神社の境内は薄暗かったが海沿いなどはまだほの明るく、真横から差す光が島中に大げさな陰影を作り出している。風が吹く方向に沿ってクロはとことこと歩き出した。細い路地を抜けて島のへりを囲む大通りに出ると二匹の猫が堤防の上で寄り添う影絵を作っていたがクロはさして興味を向けない。クロが向かった先は海沿いに建てられていた観光客向けの飲食店「伊佐美屋」である。従業員ないし所有者はとっくの昔に管理を放擲してしまっており、いつかの台風で倒されたままの引き戸から猫が出入りするようになっていた。クロが伊佐美屋に来たときには既に十匹は下らない数の猫どもが集まっていた。出入り口のほかに窓も割れてしまって風が吹き抜けるためか、店内は意外に空気がよどまず涼しい。何ゆえこんなところに夜な夜な多くの同輩が集うのかはクロには定かではない。クロ自身、初めてこの場に足を向けたときのことをあまりはっきりとおぼえていない。顔も忘れた母猫に連れられて来ていたころに学習された習性なのかもしれぬが、伊佐美屋がそれほど昔からかように廃墟となっていたのかは定かではない。ほかの猫が来るので来るような気もするが、それとてほかの猫一匹一匹が来る理由を知らねば合点がいかぬ。

伊佐美屋の客席はテーブル席と座敷席が半々ほどになっていたが、ほとんどの猫は座敷に上がりこみ、畳の上で黒目をらんと光らせながら脚を折りたたんで箱座りをしている。めいめい勝手な方向を向いていたが、横になって寝そべっている猫は壁際の数匹と座敷席の卓袱台の上に載った数匹の猫だけである。真っ黒なクロが長い尾を時折くねらせながら店内の暗がりを歩いている姿がほかの猫どもに見えているのかはわからないが、だいたい島の猫どもはわずかな息遣いだとか足音だとかでそいつがどいつであるかを識別することができていた。難しいことのようだがなんのことはない、島の猫にとってせねばならぬことというのは、食べることと眠ること、それからいくばくかのたわむれぐらいであって、ほかの時間に座ったり寝そべったりしているときには感覚の使い道は周囲の気配に向けるぐらいにしかなく、そしてまた島の猫の数もたかがしれたものであるから、よほどのぼんくらでもない限り成猫になるころには微細な感覚への刺激で同輩を識別できるようになる。

テーブル席のコンクリート床より高くこしらえてある座敷にぴょこんと飛び乗ると、クロはいつもの卓袱台の下で陣取った。近くには白地に黒斑のやや太めの猫が既に座っている。この猫はややつり目気味で、鼻の下の黒斑模様がちょび髭のようになっている。黒斑ひげのブチヒゲはクロが近くに腰掛けるとけしゅんけしゅんと口鼻を鳴らした。次に大口を開いてあくびをして、口を閉じるときにまたけしゅんけしゅんと鳴いた。この鳴き方はブチヒゲの癖のようであるらしく、お陰でよほどのぼんくらでもどうにかこうにかブチヒゲだけは正確に識別することができている。ブチヒゲはクロよりも年上のはずであるが、どれほど歳が離れているのかはわからない。クロがはっきりと意識してこの卓袱台の下に陣取るようになったときには既にブチヒゲが今の位置に陣取っていたような記憶があり、やはり今のような鳴き方をしていたような気がする。ブチヒゲに外で会うことはあまりない。たまに水場で姿を見かけるぐらいである。どうやら一日のほとんどを伊佐美屋の座敷席で過ごしているらしい。とはいえ腹は減るはずであるから、どこかほかの猫どもがあまり立ち入らないような餌場に出入りしているのかもしれない。そういう餌場は行き来が不便であったり獲物が危険であったりするのが常である反面、餌を独占することができる道理であるから、なるほど、それならばこの時世においてなおのっそりとした体躯を維持できているのも納得がいく。


10/4

丸島は本島からフェリーで一時間弱ほどのところに位置する島である。主な産業は漁業と観光。島の周囲は約五キロメートルほどで、島を訪れた観光客が一時間強ほどかけてぐるりと散策するのが定番となっていた。最盛期には千人ほどの島民が住んでいたが、若者の島離れから過疎化が進み、本島との連絡便も日に四本から二本、週に四本から二本と減っていき、観光客も途絶え、先月に最後の世帯として住んでいた田中一家が祖母の死去に伴って引っ越すと、島には人っ子一人いなくなった。島を囲むアスファルトの道路はところどころで陥没して、引かれた白線はかすれて見えなくなっていたが、もはやそのことをぼやくものはどこにもいなくなった。

凪いだ海面がきらきらとまばゆいよく晴れた日であった。漁船の船着場に三々五々集まったものたちがじっと海の方へ視線を向けている。島で飼われていた、あるいは半野性となって生活していた猫どもであった。もうずっと前から漁は行われておらず、どころか、人がいなくなった現在ですら、猫らは定時になると船着場に集まっていた。かつてはそうしているだけで売りものにならない獲物を労せずもらうことができ、それだけで一日の食欲を満たすことができていたのだが、今はここには何も来ない。海は沈黙を続けている。猫らは嘆き声を上げるでもなく、歯噛みをするでもなく、ただひたすら水平線までを見つめている。しかし、恨み辛みで腹が膨れるはずもなく、日が高くなるころまでには各々が生きる糧を求めて島内に散っていく。

墨染めのような黒い毛で覆われた猫が、島内の家々の合間を毛細血管のように張り巡らされた狭い道路を肩を落とすようにやや力なく歩いている。うなだれた姿勢は道端の餌を探そうという意図もあるのだろうが、何か活力が決定的に不足しているようである。この黒猫のクロは腹を空かせているのだろうか。いいや、クロは今朝方うまく野鳥を捕食したところであり、それほど腹を空かせてはいない。クロが物憂げに歩いているのは、船着場に集まる猫どもの数が日を重ねるにつれて一匹二匹と少なくなり始めたことに気づいたからだった。無論気まぐれな猫のことである。たまたま朝寝をしただとか気が向かなかったということだってあるだろう。あるいは、今朝のクロのように首尾よく餌にありつけた可能性だってなくはない。しかしそうではないのだろう。姿を見かけなくなったのは専ら虚弱そうな猫や老いぼれた猫ばかりであるから、おそらくは死んでいってしまったのだろう。道路わきの未舗装のところを濃い色をした草葉をかき分けながらクロはとぼとぼと歩いていった。

ふと気配を感じて足を止めると、クロは草むらに身を沈めるように伏せた。蛙かバッタか、いずれにせよ動く食べられそうなものの気配を感じる。蝶を捕まえようとしたこともあるがあれは難しかった。捕らえたつもりでもするりと逃げられてしまう。また、味も悪く、第一腹の足しにならない。徒労ばかりが残った。その点、蛙はいい。あいつらは空中をひらひらとは逃げ回らない。さほど素早いわけでもなく、食べごたえもある。全身を縮めたばねのようにして待機する。クロの眼前に一匹の蛙がぴょこんと飛び出すと、カマイタチのように動いて前脚ではしと押さえた。獲物をくわえると、クロは先ほどよりは少しだけ元気を取り戻したような足取りで溜まり場に向かった。

島にただ一つある神社は漁業の神様を奉り漁の成功と安全とを祈願したものであったらしいが今は見る影もない。境内には雑草が生い茂っており、鳥居も本殿も長らく人の手が入った形跡がなく朽ち始めているようであった。鳥居をくぐる手前に十段ほどの石段があり、間を挟むように植えられたくすのきの葉々がレース模様のような涼しげな影を落としている。実際、石段は疑わしささえ感じるほどひんやりとしていた。階段の左右両端には一段にきっちり一匹ずつの猫が眠っている。ある猫はかしこまって座っており、ある猫は濡れ布のように横たわっており、またある猫は狐の襟巻きのようにしていたが、そのいずれもが体をわずか伸縮起伏させながら眼を閉じている。時々姿勢を変えるものもいたが、やはり基本的には全員申し合わせたように同じ方向に顔を向けている。クロが階段に近づくと一段目でくるまっていた猫が眼は閉じたままながら耳をぱたぱたと震わせた。眠っている猫を踏まないようにしてクロは石段の最上段へと登った。最上段は落ち着かない。もう段がないからである。角にぴたりと体を収めることができない。しかし、石段の中央に陣取るのはもっと落ち着かない。まあよい。クロは石段を登りきると更に少し進んで土の上で姿勢を正して腰を落とすと、ここまでくわえてきた蛙をぽとりと落とした。

すると、雑草の茂みの方からさささと音が立ち、一度だけぴくんと耳を動かしている間にクロの方へ白地に茶色が乗ったような毛模様の猫が小走りに近づいてきた。成猫と仔猫の間ぐらいの体格だが、クロへのじゃれつきようからは随分と幼い印象を受ける。もともと体つきが小さかったことに加えて、生まれて間もなく産みの親猫が行方不明(たぶん死んだのだろう)となって不特定多数の人と猫の世話を受けたためか随分と懐っこい性格に育ち、もう一歳にはなりそうな今でも稚気が抜けていない。クロが地面に這わせた長い尾をくねらせると全身を使ってまとわりついてくる。小さな体のチビは二三転ほどすると急に思い立ったかのようにはたと動きを止めた。クロの前脚に落ちている蛙に気づいたようである。

いかに幼稚さが残るとはいえ、さすがにすぐに食いつきはしない。チビは鼻先を近づけて蛙の様子を伺い、それから上目遣いにクロの様子を伺った。クロはチビへ目を向けるでもなく、すんとも鳴かずに顔を上げたままじっとしている。この態度でもってクロの諾意を察すると、チビは嬉々としたふうに蛙に飛びついた。間もなく食べ終えるとチビは再びじっと顔を上げたが、やはりクロは取り立てて反応を見せずに、素っ気ない様子でチビから少し離れて寝そべった。すぐにチビはクロの近くにとととと駆け寄ったが両目を閉じたままのクロに後脚で退けられると、しばしクロの近くでちょこんと座っていたが、諦めたかのように再び茂みの中へと戻っていった。


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