前書いたやつ
7/29

徒歩5分ほどの近所に弁当販売店があって、
忙しいときとか疲れたときに利用できると便利なのだけど、
実に困ったことにこのお店はご飯に梅干しを載せてくる。
自分は梅干しとか漬物のたぐいがあまり好きでなく、
というよりむしろ正直なところ苦手な部類に入って、
小鉢に出されてもほぼ確実に箸をつけないで残す。
たとえば核シェルターに避難してそこでの食事が漬物だけだとすれば、
もしかすると餓死するのではないかと、それぐらい苦手だ。

そういうわけで、ご飯に梅干しが載ってるのでそのお店で弁当を買ったことがない。
しかし、商売だというのにわざわざ嫌がらせでやってるはずもなく、
おそらく弁当に梅干しが載ってるほうが多くの人々の支持を得られて、
ひいては売上につながるからあえて載せているはずなのである。
したがって、少数派に所属するとこういう具合に損をする。
同様な理由で、コンビニなどの弁当も選択の幅がきわめて限定されてしまう。

いや、それなら一言「ご飯に梅干しを載せないで」といえば
よいではないかと思う人もいるだろうし、
実際頼めば載せないでくれるような気もするのだけど、
しかし、以前に別のお店で似たような状況になったときに、
「載せないで」と頼んだのにしれっと載せられたことがあり、
それ以来、どうしても弁当のご飯の付け合わせを信じることができずにいる。

もちろん、単純に従業員が依頼をわすれていただけかもしれない。
けど、「作業には流れがあるのでそんな個別の指示なんかやってられるか」と、
こちら側の無理難題をあえて黙殺した可能性もある。
となると、いちいち梅干しを載せないでと頼むのも気が引けるし、
いわゆるモンスターなんちゃらに分類されるおそれもあり、
お店の場所が自分が現在住んでいるところの近くだけに、
ややもすると隣近所にまでよくない噂を立てられるかもわからない。
それぐらいならもうはじめから弁当など買おうとしないほうが互いにとってしあわせだ。

「あんなことをいっているが、本当は載せて欲しいのだ」と、
こちらの意図を完全に誤解してしまっている可能性もなくはない。
弁当に梅干しを載せるかどうかなど、照れたり恥ずかしがることでもなく、
本心を隠してあえて載せないで欲しいと依頼するなど考えにくいのだけど、
しかし世の中には善意でそういうとらえかたをする人もいるようなので困る。
たとえば、理髪店にはよく『ゴルゴ13』が置いてあるのだけど、
順番待ちでこれをあまりにも熱心に読んでるところを店主に認められたならば、
いざ自分の番になってから「もみ上げは切ってください」と頼んでも、

「この客はこんなことをいってるが、
 さっきあれほどゴルゴを熱心に読んでいたではないか。
 であれば、ゴルゴの熱烈なファンであるにちがいない。
 本当はゴルゴみたいなもみ上げにして欲しいのだが、
 年甲斐もなく創作の登場人物をまねるのが恥ずかしくて、
 本心に反してもみ上げを切って欲しいなどといってるのだな」

などと、こちらの想像を絶する解釈にもとづいて、
もみ上げには手をつけずに短くなった頭髪とは不釣合いに
長いままで終わってしまうかもしれない。
しかも、これを嫌がらせなどではなく、よかれと思って、
親切心からやってくるというのだからやるせない。

よかれと思ってしたことがうまくいかなかった有名な話に賢者の贈り物というのがあって、
あれはたしか時計をつるす鎖と髪をとくくしを、互いに相手に悟られぬよう秘密裏に買ったら、
時計は質に入れられていて、髪も短く切って売られていたとか話だったと思う。
この話から学ぶことはいろいろとあるけど、よく指摘されるのは報告や相談の重要性である。
「今度あなたのためにくしを買おうと思ってるんだけど」といえば、
相手も「ああそうか」と髪を切ってお金にすることはやめていたはずだし、
「これに合う鎖をプレゼントするわ」と伝えておけば、
「じゃあほかの物品を質入れするか」という話になっていたはずである。

しかし、相手をびっくりさせるために内緒で事を進めるという心情は理解できるし、
いちいち善意を口にするのも恩着せがましくてなんとなくいやらしい。無粋である。
だいたい、よく考えてみれば髪なんてものは時間が経てば伸びるものであるし、
ふつうくしは日持ちするものであるから、髪が長くなってから使えば特に不都合はない。
では時計はどうか。時計も売却したわけではなく質に入れただけのようなので、
質流れするまでにお金を用意すれば鎖がむだになることはない。
また、安い時計を代わりに用意するという手も考えられなくもない。

つまり、この話から真に読み取るべきこととは、
暗黙の善意を行うにあたっては、その原状回復が容易であるかどうか、代替案は可能か、
不可逆的な変化を伴っているかどうかを肝に銘ずるべしということではなかろうか。
たとえば、髪ではなくて腎臓を売っていたらどうだろう。
髪は伸びるが、ふつう腎臓というのは生えてこない。
時計ではなくて女房子供を人身売買にかけていたらどうだろう。
そりゃまあ身柄はお金を貯めれば後になって取り戻せるかもしれないけど、
将来にわたる不可逆的な大きな心の傷を与えてしまうことは否めない。

そういうわけで、もみ上げを勝手に残す善意というのは、
もみ上げを勝手に切り落とす善意よりははるかに良質である。
なんとなれば、たとえこちらの意に反してもみ上げを残されたとしても、
一言「もみ上げ切って」と伝えて切ってもらえばなんら支障はないからである。
逆に、切って欲しくなかったのに善意で切られていた場合は取り返しがつかない。
理髪店店主の真に高等な善意に敬服の念を抱かざるを得ない。

考えてみれば、「しない」善行と「する」善行との間にはかなりの差があって、
なんとなれば、しないことに誤解や不都合があるのならば、
時間の遅れこそあれ、後で改めて行えばそれだけで済む話だが、
独断や思い込みに従って誤った善行を犯してしまった場合、
ややもすると取り返しのつかない一大事を引き起こしてしまうおそれがある。

わたしたちはもっと「しない」善行を評価すべきなのではないだろうか。
「する」善行というのは、なるほどわかりやすくて華々しく、
人々の目にとまりやすいので何かともてはやされやすいが、
その栄光はありがた迷惑で暗黙のうちに犠牲となった、
あまたの人々のしかばねで成り立っていたのである。

いまこの瞬間ですら、わたしたち多くの善良な人々は、
放火、強盗、殺人、振り込め詐欺、外患誘致、国家転覆をしないという、
偉大な善行を毎秒単位どとうの勢いで積み重ね続けているのだ。
やる気だとか改革だとか夏休みの宿題だとかが求められるいまだからこそ、
あえてしないことのすばらしさを再評価するときなのかもしれない。


7/10

地球温暖化の対策として二酸化炭素の排出を抑えようという話があって、
温暖化に二酸化炭素は関係がないという説も聞いたりするけど、
とにかく減らせ減らせとうるさくいう人がいることはたしかであるし、
それにいちいち反論するほどの元気も知識も資料もないので、
無理のない範囲で二酸化炭素を減らそうという姿勢を見せるに越したことはないだろう。
心意気が大事なのであって、もはや根性論、精神論で議論してもいいと思う。

地球温暖化の問題というのはいわゆる環境問題というやつで、
生態系が崩れてどうだとか、資源が枯渇してこうだとか、
そういった話とも密接なかかわりを持つようである。
最近の話題としてバイオエタノール燃料というのがあって、
あの動機とか名分いうのは、石油燃料が枯渇すると困るからだとか、
地球上の二酸化炭素の量を減らすためだとか、そういうものらしい。

化石燃料の代わりにバイオエタノール燃料を用いるというのは、
とりもなおさず代替物を用いるという発想を意味している。
環境問題に対する解決方法として代替物を用意するというのはよくある手段で、
化石燃料の代わりに電気を使おうとか、パンの代わりに米を食べようとか、
使い捨てのビニール袋の代わりに何度も使える袋を使おうとか、枚挙にいとまがない。
環境にやさしくない仕様、物品の代替案、代替物として、
おなじ目的を達成できるより環境にやさしいものを用いるという、
実に明快、万人が直ちに首肯できる解決策というわけである。

また、最近ではむかしの生活様式を見直して現在に導入することによって、
環境への負担を減少させようという取組みも試みられはじめているらしい。
使い捨てのビニール袋を使わないようにしようというのもその一環で、
ほかにも、打ち水をしたり簾をかけたりとかでエアコンの使用を抑えようとしたり、
極端な例としては自動車の使用をやめて馬を導入した人までいるそうである。

以上より、二酸化炭素の排出量を削減するために、
ひとつの方法としては代替物を用いることが考えられる。
つまり、二酸化炭素を排出するのがよくないのであれば、
代わりにそれ以外の何かを発生させればいいのではないかという、
実にわかりやすく、だれもが納得できる発想というわけである。

では、二酸化炭素の代わりに何を発生させるのかと考えると、
たとえば一酸化炭素を発生させればいいのではないだろうか。
二酸化炭素は炭素化合物を燃焼させることで発生することが知られているが、
この際、酸素の量が十分でないと一酸化炭素が生成されるそうである。

加えて、むかしながらの生活様式を見直して現在に適用すべく、
たとえば七輪などを用いた炭火焼などがいいのではないだろうか。
やや時代遅れとなったとはいえ、ごく最近まで練炭は広く使われていたものであるから、
環境問題が深刻化するいまこそ、改めてその効用を見直すときなのではないのだろうか。
炭火で焼いたほうが肉や魚はおいしく調理できるという話もあるので、
これならば、ご飯はおいしい上に二酸化炭素の発生まで抑えられるという、
人にやさしく地球にやさしく、実にいいことづくめ、みな大満足であろう。

しかしながら、二酸化炭素の代替物として
一酸化炭素を利用することに全く問題がないわけでもなく、
具体的には一酸化炭素は酸素の約250倍も
血液中のヘモグロビンと結合しやすいとかなんとか、
端的にいえば死んでしまうそうである。
いくら環境のため地球のためとはいえ、さすがにそこまでの覚悟はない。
したがって、もう少しちがった観点から二酸化炭素の排出を抑える努力を試みる。

二酸化炭素の化学式はCO2であるから、これを無理に開けばCOOとすることができる。
そして、COOといえば直ちに『遠い海から来たCOO』を連想せざるを得ず、
更にいえば、この作品の作者である景山民夫氏は趣味である模型作成中、
溶剤が火気に引火、一酸化炭素中毒で死亡したということまで思い出さずにはいられない。

もちろん、景山民夫氏の死因にはいくつかの疑問が指摘されているのもまた事実である。
しかしながら、ここで重要なことは話がまた一酸化炭素に戻ってしまったということであり、
そして、一酸化炭素で命を落としてしまうということを露呈してしまったということである。
いくらなんでも地球環境のために命を差し出すほどの覚悟も妄信もないのであるから、
もう少しだけ話を展開、連想させなければならない。

『遠い海から来たCOO』がどんな話であるか、正直なところほとんど知らないので、
字面が似ている上に響きが同一である「QOO」で話を進めることにしよう。
そして、「QOO」といえば直ちに「子供だってうまいんだもん」を思い出さざるを得ず、
更にいえば、「飲んだらこういっちゃうよ」とまで進行するのはやむをえないことである。
その後、最終的にどうなるかといえば、もはやなすすべもなく「クー」というわけであるが、
しかし、虚心坦懐、無欲恬淡、具眼と慧眼でもって冷静に事態を見つめれば、
クーをQOOたらしめるまさしくこの動作こそ、
紛れもなく二酸化炭素排出そのものであることに気づくはずだ。

通常、わたしたちは液体を飲んだあとに、
思わずぷはっと息を吐いてしまうものである。
とりわけ、炭酸飲料を飲んだ場合はその傾向は更に顕著であり、
非常にしばしばわたしたちは炭酸飲料摂取後に、
図らずもげふっとげっぷをしてしまうものである。
しかし、これがいけなかったのである。
自己のつかのまの快楽のために、どれだけ地球を犠牲にしてきたことか、
どれほどの量の二酸化炭素を垂れ流しにしてきたというのだろうか。
人類の罪深さに戦慄し、嘆息、慟哭しそうになるが、
それすら不必要な二酸化炭素の排出につながるのであるから、
わたしたちに許されたこととは、涙をのみ、息をのみ、
二酸化炭素をのみ、ただ耐え忍ぶことだけなのだ。

これからの暑い季節、冷たい麦茶やコーラ、ビールなどを飲むと、
ぷはっと二酸化炭素を漏らしたり、げふっと二酸化炭素を吐き出したりしがちだが、
わたしたちのかけがえのない地球を守るために、ぐっとこらえて、
しかし、二酸化炭素ってヒトの体内でほかの物質に変化するんだろうか。
光合成でもしない限り、無理なような気がしてならない。
もっと深刻なことに、息を吸うだけじゃなく吐かないと人間は死ぬ。


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