川添太鼓踊りと太鼓踊りの歴史  
(郷土誌「つつはの4号・24号・32号」にも掲載)

各項目をクリックするとジャンプします。(ページ内リンク)

①黎明館特別展に吉松の鉦出展 ②鉦に記された歴史 ③道具と装着の保存
④昭和48年・川添太鼓踊りの復活 ⑤明治・大正・昭和の記録 ⑥写真集
➆踊りの構成・所感・楽譜化 ⑧太鼓踊りのルーツ① ⑪平成19年文化祭
平成22年文化祭 ⑨太鼓踊りのルーツ② ⑬平成24年阿波井堰改修を祝う会
⑭平成25年文化祭  ⑩太鼓踊りのルーツ③  ⑮動画 で練習できます
⑯平成28年3月20日
阿波井堰改築事業の完成を祝う会
 平成28年農林商工祭
栗野会場では84年振り
 

   
黎明館特別展に吉松の鉦出展
湧水町吉松地区には、江戸時代終期、明治時代に鋳造された、
そして歴史を刻んだ太鼓踊りの「鉦」「ホロ矢」「矢旗」が、
今でも先祖が残した家宝として旧家に残っています。

この3つの道具は、平成14年2月、鹿児島県歴史資料センター黎明館主催の、
国内とアジア各地に見られる太鼓の多様な形態的特徴やその分布に焦点を当て、
鹿児島の太鼓踊りを紹介する企画特別展「太鼓は語る」に全部展示され、
歴史的遺産として内外の注目を集めました。

 



鹿児島県歴史資料センター黎明館
企画特別展
 左記 左の鉦 文政9年(1826年)

湧水町川西
  
 
 
上記 右の鉦は 天保9年(1838年) ↑

湧水町川西
 
 

先祖代々躍り継がれたホロ矢

 般若寺 柿木政光氏所有




右側にあるのが

川添太鼓踊りの
花笠
古川支区

オバッチョ踊り矢旗

踊り画像(平成17年撮影)

鉦に記された歴史 黎明館企画特別展「太鼓は語る」より抜粋(掲載承諾済み)

 1825 文政八乙酉八月  大隅町

 1826 文政九丙戊年  ●湧水町川西永山 上記写真参照

 1834 天保五甲午年   郡山町

 1836 天保七年七月   鹿児島市

 1838 天保九戊年三月 ●湧水町川西永山 上記写真参照

 1855 安政二年卯七月  入来町

 1857 安政四丁巳年  ●湧水町川添(黎明館)念仏踊り系の鉦

説明 この鉦は竹中次男宅にありましたが、現在は黎明館に提供されています。
    念仏と太鼓踊りの関係を示す貴重な鉦として保存されています。 
 

 1870 明治三年午五月 ●湧水町川西中野

 1870 明治三年午五月 ●湧水町鶴丸  

 1870 明治三年午九月 ●湧水町川西中野      

 1870 明治三年午九月 ●湧水町般若寺 

 1872 明治五年申六月  郡山村

 1872 明治五年申九月 ●湧水町川西永山

 1874 明治七年戊年六月 入来町

 1884 明治十九年旧四月 伊集院町

 1887 明治廿二年八月  郡山町

 1890 明治廿五年七月 ●湧水町川西永山

 1892 明治廿七年六月 ●湧水町

 1893 明治廿八年六月  郡山町  

 1909 明治四十四年六月●湧水町川西中野

 1909 明治四十四年八月●湧水町般若寺

 1909 明治四十四年九月●湧水町般若寺(2)鶴丸川添(2)

これらの鉦・ホロ矢・矢旗みて分かるように
永山・川添・中野・
般若寺・鶴丸には太鼓踊りが、古川にはオバッチョ踊りが
存在していました。現在は四部落の太鼓踊りが無形文化財として毎年南方神社に
奉納されていますが、伝統を確認する古鉦の存在をこの地区で発見したいものです。
川添地区にもたくさん残っていましたが、戦争中に鉄砲弾の原料としてお国に差し出したそうです。


道具と装着の保存

数年毎での伝統芸能の保存は踊り子の継続も大事ですが、踊りに使う道具つくりや
装着の仕方もしっかりと継続していかなければなりません。
録画機器の発達した時代になり、記録が容易くなりましたが、このhp通じて一部でも
後世に残せたら思い画像を投稿しました。

 
「花笠」
鉦と入れ太鼓が被る
「べ」
大太鼓(うでこ)を叩く桴
うんべの蔓を畳表で巻き紐で縛る
「かれこ」
矢旗とホロ矢を立てる
紐結びに特徴がある
鉦の襷 蝶々結びにし、両羽が下がらない
ように糸で留める(写真は右だけ
糸留したところ)
背中から廻した襷を太鼓
ひっかけに結び、高さを調整。
かれこ紐はホロ矢を1回廻し、
太鼓の横紐にひっかけ、耳下
のところで襷と束ねる
4年間のブランク

昭和58年度の写真を良く見たら
襷の掛け方が反対になっています。
平成22年度の太鼓役の背中に
あざができたのはこの装着で
しなかったからでは?

これは間違いでした。
正解は右側です。
間が空くのでしかたがないですね。


カレコであざができたのは
襷の掛け方のせいではありません
でした。森山貴史君の体型がが
スマートすぎるからでした。
阿波井堰改修の着工を祝う会
時には痛いところにタオルを
入れました。(*^_^*)



昭和48年・踊りの復活

川添太鼓踊りは、昭和23年(1948)円乗寺「降誕会(ごうたんえ)法要祭」を
最後に途絶えましたが、昭和48年(
1973)の町政施行20周年の折り、
25年ぶりに復活されました。川添には上班と下班の2つの太鼓踊りがありましたが、
古老(平山道江・宮田良夫・富永良成・福島軍二・竹中次男など、継承略)諸氏が
1つに集大成した踊りです。

「昭和48年町制施行20周年」の踊り子

入太鼓 吉村政志 吉村健一郎
大太鼓 桑原深志 鶴田重弘 福島明刃 田口文雄 鶴田定信 清水信広 福島豊治 藤井義邦 米永三典
堀口忠雄 平山幸光 前田義明 吉岡勇二 桑原千利 吉村一成 馬迫重一 鶴田浅助
富永良文 桑原良行 中園政信 福田千尋 南 照志 宮田憲治 有田洋一 馬迫重一 轟木一守
指導者 平山道江翁
指導者 宮田良夫翁
     (右)

明治・大正・昭和の記録

●明治37年(1904年)「日露戦争凱旋祝い」

●大正 8年(1919年)「電気開通記念祝賀会」の踊り子

上班 桑原武助 永吉喜八郎 桑原可也 富永良成 富永国吉 久木田 時 馬迫 広 吉岡清蔵 米永仲次郎
下班 堀口甚助 鶴崎伊助 高橋巳助 平山清市 南 長次郎 堀口登助 濱之上善吉 森山元吉 福留時吉 平山道江

●大正10年(1921年)4月19日「在郷軍人会表彰記念祝賀会」 場所<公会堂>

米永仲次郎と平山清一が中心となり、川添太鼓踊りの原型とと言われている高麗踊りを奉納する。
高麗踊りはこの日が最後で以後は踊られていません

●昭和 7年 (1932年)4月1日「栗野町制施行祭典」
                  5月3日「吉松橋吊式鉄橋完成」

●昭和12年(1940年)「えびの市白鳥神社戦勝祈願」

上班

入太鼓 竹中次男 宮田良夫
馬迫秋巳 市之瀬武吉 馬迫巳利 川畑喜盛 竹中善光好 富永国吉 竹中清二
大太鼓 田口春吉 富永 秀 桑原可也 宮田辰美 中水 初 宮田可也 中園 亨 米永義徳 児玉藤内 竹中武夫

下班

入太鼓 鶴崎貞清 福島軍二
森山元吉 高橋純哉 南 景之 永野長次 福田 正 鶴田定正 末広清次 渋江清行 荒木栄二
大太鼓 平山政武 福島武二 堀口福男 松本良盛 前田実男 福留清蔵 有水隆吉 桑畑恵二 福留静雄 堀口節成 鶴田正直

●昭和23年(1948年)4月1日「降誕会法要祭」

上班

入太鼓 富永良文 雪松 繁
桑原良行 宮田辰美 中園政信 永吉久雄 久木田信男 竹中富哉 三堂直二 竹中純男 桑原充志
大太鼓 富永 秀 田口春吉 中水正行 渡辺友吉 桑原隆雄 渡辺藤盛 川原民人 桑原深志 田口文夫 三堂良信 富永政二

下班

入太鼓 鶴崎清視 桑畑親光
福島 登 福島睦男 桑畑重春 平山照志 荒川藤盛 細田信長
大太鼓 福元和人 富永鉄夫 板橋茂身 吉井盛人 渋江清行 桑畑 明 高橋照男 末広文雄 永野節夫 福島明刃

写真集

昭和48年
復活
昭和54年
敬老運動会
昭和58年
大薩摩祭り
  
昭和62年
吉松町文化祭

JA吉松落成式

 


平成 7年
総合体育館完成
平成14年  
道具作り風景



踊りの構成・文化的所感・楽譜化

              踊りの流れ 

(12べ)で入場-門がかり-庭入り-やまみち-ひきまわし- 唄 ①「あたらしどの」

②「空ゆく雲」③「様しのぶ」-さおつくり-馬ぜめ-のぜ で退場 

              文化的所感

やまみち吉松には中世の頃から、般若寺(真言宗)・内小野寺(天台宗)の有名なお寺がありました。
    吉松の太鼓踊りは同寺の山伏(やんぶし)・修現者(しゅげんしゃ)が農民に教えたと言われており、
    小太鼓・鉦の服装にその名残が見て取れます。
    やまみちは、くねくねと少し時間をかけて踊るが、これは蛇が進む様をあらわしています。
    昔から蛇は水神としてあがめられており、夏の雨乞い時期、農民たちが太鼓踊りを通じて、
    巨大で元気のいい龍神を形成し、鉦・太鼓のリズミカルな樂と軽やかな足さばきによって、
    ひたすら降雨と稲の成長を祈った言われています。(下野敏見氏)

 

  唄 「あたらし殿」島津義弘は1564年、日向国真幸院を領有し、飯野城(えびの市)に入る。
    1572年の木崎が原の戦いで伊東氏を破り、薩摩・大隅・日向を納めることとなり
    島津氏繁栄の基礎を作った。あたらし殿は
伊作島津家十代忠良(島津日新公=義弘公の祖父)
    のことであり、栄華と五穀豊穣と繁栄を祈
願した歌です。

   ♪ <新し殿の御庭見れば 白銀延べて襷(たすき)を掛けて 黄金(こがね)のますで米(よね)はかる>

    ②「空ゆく雲」 義弘公は文禄元年(1592)栗野松尾城から朝鮮に出陣しました。
            朝鮮から松尾城の夫人に何通か手紙を書いていますのでその名残りの歌です。

           「我々の立派な行いは言うまでもなく子子孫孫の為であり、それぞれ覚悟しているので
            何があっても騒がないで欲しい。そうしてくれることが我々が死んだ後に、
            たとえ一万部のお経を読んで手向けてくれるよりも嬉しいことである。」

            (倭文麻環より)

   
♪ <空行く雲は何処へ行く 日本に行くなら文をやる>


    ③「様しのぶ」は江戸時代の流行歌です。
            

   
♪ <様を偲んで松原行けば 松の露やら涙やら 惚れた惚れん目元で判る 惚れた目元は糸目元>

この3つの唄は、数百年を越えて人から人へと歌い継がれ、鉦を中心に踊り子全員で優雅にリズミカルに踊りあげます。                 

太鼓踊りは、念仏系と盆供養系、諏訪神社系、六月灯系に分けられます。
川添竹中支区T氏宅には<安政四年(1857)「念仏講中」>と刻印のある鉦があります。
この鉦は念仏踊りとつながりを示す貴重な鉦ということで黎明館に所蔵されています。(所崎 平氏)

●川添太鼓踊りには跳躍が多い。跳躍は芸能の基本的な要素・古い要素です。
踏むということは土地の地霊を鎮めるということ。動作に気合が入ります。(下野敏見氏)
喜びの表現でもあります。中世末以降に島津氏の朝鮮出兵と結びついて勇壮に踊られることを
要求されるようになったのでしょう。

●川添地区は竹中池と門前湧水郡から1日14万トンの湧水が出ます。
日照りが続いて稲が枯れたということを聞いたことがありません。
雨乞いのため神社に太鼓踊りを奉納する必要がなく、多くは祝賀会や祈願を目的に踊られました。

<過去の踊り>
●明治37年 日露戦争凱旋祝い     ●大正8年 電気開通記念祝賀会 
●大正10年 在郷軍人会表彰記念祝賀会 ●昭和7年 吉松橋完成&栗野町制施行祭典
●昭和12年 白鳥神社戦勝祈願     ●昭和23年 降誕会法要祭
●昭和48年 吉松町制20周年      ●昭和52年 川添地区敬老運動会
●昭和62年 JA吉松落成式 ●昭和58年 大薩摩祭り
●平成7年の総合体育館完成記念 ●近年3~4年毎 文化祭に出演   
           

                           楽譜化

数年毎の踊り披露なので、新しく踊る人は覚えるのに苦労します。そこで予習復習が自宅でできるように
一連の流れを楽譜化して新人踊り子に配布しております。平成28年度からは現代機器である、スマホ、タブレット
でも視聴できるようににアップロードしてみました。QRコード貼付
慣れない編集のうえ、取り敢えず歌は私自信の歌を挿入しましたので、音痴が写らない様気をつけてください。(^^)/

 
 

太鼓踊りのルーツは ① 所崎 平氏

平成14年1月7日、月曜談話室、題「太鼓踊り」起源は朝鮮の役“戦勝祈願”か―「そこが聞きたい」というテーマで南日本新聞掲載された、鹿児島県民族学会事務局長 つつはの賛助会員でもある 所崎 平氏へのインタビュー形式の記事があったので、ご紹介します。掲載承諾済

所崎 平氏のプロフィール

1936年10月15日生まれ

熊本大学法学部卒、元中学・高校教授、串木野市
文化財保護審議委員長、串木野市郷土誌研究会・
古文書会会長、鹿児島民族学会代表幹事

 

『ルーツ、大半が念仏踊り系』

―県教委の調べによると、「太鼓踊り」と「棒踊り」は鹿児島の二大民族芸能ですね。

 「そうですね。県内の民族芸能数784件のうち、棒踊りが285件、
太鼓踊りは136件の合計で421件もあります。うち太鼓踊りは薩摩半島に
集中しているのが特徴で、実に125件にのぼっています。種子・屋久には6件で
奄美にはゼロ、大隈側には6件しかないのです。大隈地方にはそのかわりに
“8月踊り”といって水神祭りの
法楽(ふらく)という芸能が30件報告されています。
太鼓踊りがさかんな地帯は、手踊りの盆踊りが極端に少ないようです。
せいぜい川内市久見崎の想夫連や三島村のように、ごくわずかしか思い浮かびません。
盆踊りと太鼓踊りは何らかの関連がありそうです。」

―では、太鼓踊りのルーツは盆の供養?
それとも一般にいわれるように朝鮮の役の戦勝祈願ですか?

「1つの分類として太鼓踊りは、念仏系と盆供養系、諏訪神社系、
六月灯系に分けられます。鹿児島の太鼓踊りの朝鮮の役戦勝起源説は
“薩摩風土記”(1821=文政四年)に“朝鮮の役に打勝 
帰国のせつ 近畿24ケ所の百姓 悦の祭りなり”とあり、この記述が
“太鼓踊りは朝鮮出兵の戦勝祈願”のように一般に受け入れられているのでしょう。
しかし、太鼓踊りの起源は、田楽踊りと十三世紀の仏僧・一遍の念仏踊りが交ざった
中央からの農民踊りも流入して法楽などに分かれていった。そこに諏訪神社で
踊られる太鼓踊りも発展して、その起源を島津氏の朝鮮出兵と結びつけるようになったのでしょう」

「白尾国柱“倭文麻環(しずのおだまき)“によると、島津義弘が朝鮮の役で五島氏に食料を融通したお礼に
(五島地方で盆供養の鎮魂の)太鼓踊りを踊った。これを義弘は吉例の踊りだとしてこの踊りを加治木にいれた、
とある。ところが郷土誌では駿河から入れたと書いてある。これは文政年間に、
すでに藩主入部のときに踊られる士踊りと農民の太鼓踊りが混同されていることを物語っている。
おそらく鹿児島の太鼓踊りは、もともと大部分が供養のための念仏踊り系ではなかったか、と思っています」

「熊本・宮崎など鹿児島を一歩出たら、ほとんど盆供養なんです。
初盆の人を囲むように静かに舞っています。元来、供養念仏踊りは鎌倉時代の
一遍から始まっているのです。鹿児島では一遍や彼の一派が浄光明寺(今の南州神社)
を拠点に念仏踊りを教えています。念仏踊りの痕跡は、薩摩町中津川にあった
雨乞いのの大念仏踊りや佐多町にネブッドンという盆に霊をなぐさめる踊りがあったようで、
ところどころ残っています。
吉松町の太鼓踊りの鉦には、安政四年(1857)「念仏講中」と彫りこんであるので、念仏踊り系の鉦です。
(上記「鉦に記された歴史」参照)
念仏踊り系の踊りの共通点は、大浦町の日新祠堂で行う太鼓踊りのように盆に
精霊を慰める静かな踊りです。しかし鹿児島の多くの太鼓踊り踊りはいまも朝鮮出兵と結びついている・・」

―それが朝鮮出兵と結びついて勇壮で華やかになった諏訪神社(南方神社)系の
太鼓踊りになった・・。

 「諏訪神社は、島津氏が早くから軍神として勧請した神社です。
鹿児島では、にぎにぎしくするためにいろいろな芸能が入っています。戦勝の神なので
、特に太鼓踊りは、中世末以降に島津氏の朝鮮出兵と結びついて勇壮に踊られることを
要求されるようになったのでしょう。矢旗・花がさなども工夫をこらして
他地区との踊りとは違うぞ、という自己主張が強く反映していった。
それでより勇壮、華やかさが際立つようになっていった、と思います。
太鼓踊りは太鼓が中心と思っていますが、もともと鉦が中心です。
太鼓踊りは華やかできれいな、飽きさせない民族芸能にかわりありません。

文政4年(1821)「南林寺行図」の太鼓踊(百姓踊)『薩摩風土記』県立図書館蔵より


桜島踊(百姓踊)『倭文麻環(しずのおだまき)より

記事掲載をお願いした折り、所崎氏よりいただいた手紙

前略、太鼓踊りは奥が深く、出発は一遍の念仏踊からともいわれますので、
発祥地では、13世紀頃からあると思われます。鹿児島は中世の中頃から
終わりにかかる頃に入ったのでは、と思っています。「士(さむらい)踊」の調査でも
「五島踊」が入って、「士踊」の原型のようにしています。それは間違いないのですが、
それが太鼓踊の出発点みたいになり、義弘公の朝鮮戦争から、と結びつけ、
戦勝だ、出陣、帰陣の祝いのように言い伝えています。

 本来は加治木の太鼓踊のように、「駿河の念仏踊を取り入れた」というように、
念仏踊系の太鼓踊(鉦踊)が農村に入っていった、と考えた方がよいでしょう。
「太鼓踊」の言い方は、明治後の言い方で、特に、何々という言い方はなく、
「場所名をつけた踊」が多かったかも知れません。
その後「鉦踊」の言い方が県内では広くあって、昭和の遅い頃から「太鼓踊」と
言い方が定着してくるのでは、と考えています。

草々 

  平成16年19月9日 所崎 平     


太鼓踊りのルーツは ②下野敏見氏

 太鼓踊りを研究されているもう一人の先生が下野先生です。
 
 下記に今まで新聞に掲載された記事、
 太鼓踊りフェスタイン加治木(平成4年)での祝辞
 平成5年吉松町制40周年時の講演 を一挙公開しますので、
 今後の太鼓踊りの研究にお役立てください。





 




太鼓踊りのルーツは ③姶良地方の研究(昭和10年)より

― 義弘公朝鮮出兵凱旋記念説 ―加治木の太鼓踊り

 慶長2年正月、豊太閤は再度の討鮮を発し、義弘公も亦薩藩の武将を率いて渡鮮され、同3年9月
「泗川の戦い」に敵の援兵明運を破り、薩摩隼人の名を壇して凱旋された。
然し、同年8月16日に太閤は伏見城に薨去し、続いて翌年大忠臣前田利家も薨ずるに及び、
同5年関ヶ原の戦いを最後に天下の実権は家康に帰し、諸侯之に服して江戸に伺候するに至った。
 当時江戸では疫病コレラが蔓延して、市民のあらゆる防疫修法も効なき有様であった。
その挙句、苦しい時の神だのみとかで、太鼓踊りで神に祈願をこめたところ、不思議にも猛威を振るっていた
悪疫が、目に見えて下火になり終息していった。
 ここに義弘公はこの踊りの偉大さに驚嘆され、且つ自己の朝鮮凱旋記念にもと思われ、是非とも藩内に
広めようと決心された。そして家臣の中より、山田郷の池田氏、岩原の牧之瀬氏が選ばれた。
両氏は公の命により、自ら鉦、太鼓の打ち方の練習をし、帰国したが牧之瀬氏は公命を果たさぬ中死去された。
公は帰国後池田氏を呼び山田村に躍らせた

― 義弘公の弔踊 ―

加治木町の本誓寺には義弘公の御像が安置され、長年寺、柁城の館、能仁寺には御位牌が祭られていた。
加治木島津家では、先祖崇拝の範を藩民に示されるために、毎年旧歴7月16日、17日の両日、由緒ある太鼓踊りを
奉納して公の御精霊を御慰め申し上げられた。
 此の栄ある奉仕に選ばれているのが反土、木田、小山田、日木山、西別府、山田等の太鼓踊りであった。
毎年、初庭は長年寺であり、両日の中、1日が反土、日木山の順で、1日が西別府、山田等の順で年毎に
交代するのである。此の弔踊は明治8年ごろまで行われたがずっと以前参加した山田は何時からともなく
絶えてしまった。

その日、どんな雷鳴が轟き雷雨があってもこの行事だけは中止にはならなかった。観衆は勿論、踊り子も傘1つ
持つことが出来ぬ厳格さであった。殊に陀城の館では公の御位牌を祭壇に安置されると、太守・北の方家老・
家臣達が立派にしつらへた桟敷に居並んで歓楽された。
長年寺での初庭が済むと道太鼓で日野邸の下に集まり、打ち上げと言って仮屋馬場の西の右門から道太鼓で
上の広場に上り此処で熱誠を捧げ御遺徳を頌歌(しょうか)して、公の御精霊を慰め奉ったのである。
 各�字の踊りが済むと馬締めが始まった。鉦打や鼓手の全部が馬場の両側に立ち並ぶと馬上豊に
跨(またが)った武士が、館の門から靜々と駒を進め馬場の西側に蹄を休ませ、東に鼻向するのである。
その瞬間立ち並んだ幾十人もの鉦打や鼓手が一斉にどっと、ヂャヂャ ドンドン ヂャヂャ ドンドン と
百雷が一時に落ちかかるように乱打して駒を追い立てる。勇み立った駒は太鼓の音に追われて馬場を東へと
猛進して勢い余って吉原邊まで跳んだ。
 踊りが済むと踊り子たちは晝食(ひるめし)をとり、終れば列を正し勇ましい道太鼓に足並み揃えて
町を下り能仁寺に向かふ。此処で踊が済むと悠々終わりの庭、本誓寺へと向かふ。


平成19年文化祭記録

平成19年11月18日文化祭

教育主事「牧野田」氏 
も特別参加(中央)
今回の頭太鼓(重責を果たした満足の顔です) また4年後遭いましょう
絆吏くんも踊ろうね たのもしい後継者(練習がんばったね) 川添グランドで地区民に披露


平成22年文化祭記録

平成22年11月21日文化祭

支度揃え(自分で糸とおし)(ーー;) 支度揃え(彼女がお手伝い)(*^_^*)
支度揃え(太鼓装着時は世話役大忙し) 終了後の跡片付け(全員でしました)
初挑戦した福吉桂太君とお父さん さあ本番だ(次回もがんばってね)
今回の頭太鼓(かしたでこ)元気がよかったよ 初挑戦の宮田兄弟(がんばりました)
家族で記念撮影(じいちゃん・ばあちゃんも応援) 又、4年後遭いましょう(337拍子で散会)

発表会前の説明文
 
湧水町吉松地区には、今から185年前、江戸時代の後期にあたる、文政9年(西暦1826年)を筆頭に、天保、明治の年号が刻印された、
太鼓踊りの鉦が、数多く残っており島津氏封建時代から、当地区で太鼓踊りが盛大に踊られていた、歴史的事実があります。

これからご披露いたします川添太鼓踊りにも、これらの鉦が数個使われており、先人達から受け継いだ、すばらしい鉦の音色と
、踊り子の所作の中に、歴史を感じていただけたら、幸いです。

川添太鼓踊りは、古くは「明治37年の日露戦争凱旋祝い」「大正8年の電気開通記念祝賀会」「昭和7年の吉松橋完成」等の祝賀会に
踊られました。昭和23年「降誕会(ごうたんえ)法要祭」を最後に途絶えましたが、昭和48年、吉松町政、施行20周年の折り、
25年ぶりに復活され、4年に1回、本日の文化祭に出演しております。

隊列-円陣-隊列と変化する所作の中に、民衆を引き寄せる、力強さと、荘厳さがあるのが、川添太鼓踊りの特徴です。               
少子高齢化の中、郷土芸能の継続には幾多の困難もありますが、川添公民館・保存会役員・踊り子のチームワークの元、
先祖が残した宝、川添太鼓踊りを、これからも大事に継承していきたいと思います。

本日は大太鼓(てこ)12名 入れ太鼓(てこ)3名 鉦7名 計22名で躍ります。特に今回は、大人3名と、
吉松小学校6年・福吉桂太君が、この太鼓踊りに初挑戦いたします。
仕事の合間の練習の為、全員参加の練習ができず、所作そのものはまだ十分とは言えませんが、
一生懸命演技いたしますので、ご声援のほどよろしく御願い申し上げます。


平成24年11月27日 阿波井堰改築事業を祝う会に招待を受ける



下記画像(川内川河川事務所WEBマガジン せせらぎ119-2 より)


川添太鼓踊りが祝着工と安全祈願のため参加することになりました。




太鼓蓮の草鞋(わらじ)を保存会で作りました。
初めての体験でしたが
日を重ねるごとにりっぱな草鞋ができました。
ご協力いただいた皆様に感謝申し上げます。

   

発案は役場勤務 酒瀬川 博 氏
わらすき・縄網・インターネットによる編み方の取得
下準備ご苦労様でした。
古老の手ほどきを受けながら試行錯誤の1ヶ月
なんとか踊り子分のわらじが完成しました。
ピシャット覚えたな?これからもよろしく。

わらじつくり協力者(敬称略)
渋江公雄・竹中 浩・石本実行
酒瀬川 博・新村修三
馬迫重一・永吉重夫・森山健一
久保健一・その若干名
 

吉松には太鼓踊りの鉦が16個、各民家に家宝として残されています。
今回は最古を含むその内の4個が参加します。

  1826 文政九丙戊年  ●湧水町川西永山  
  1838 天保九戊年三月 ●湧水町川西永山  
  1870 明治三年午九月 ●湧水町川西中野
  1909 明治四十四年六月●湧水町川西中野
 


前夜の支度揃え終了後の茶話会の様子

農繁期と仕事の合間での練習のため苦労しましたが
吉村一成会長を初め、石本実行副会長・その他世話係皆様のおかげで
どうにか24名の踊り子を確保でき、27日の本番に行けそうです。


平成24年10月27日 当日の様子
 
集合      竹中池駐車場午前8時集合
反省会     午後5時より竹中池ソーメン流し

支度揃いは全員で  天気が良くて良かった
 

愛甲宮司により身を清めてもらう
 
初めて草鞋を装着しました
 
 
イザ !! 大舞台へ
 


奉納終了 ご苦労様でした 


 (上)吉村一成 藤井義邦 

  高橋浩治 宮田慎二 宮田隆太 宮田直道 
                     
                富永 彰  森山貴史 富永英昭 吉村慎一 
                                
                               柳原一郎 桑畑順一 森山壮智  竹中 浩 渋江公雄


 (下)竹中 清  馬迫重一  吉岡勇二  渡辺克己  宮田克也  三堂誠一郎  馬迫智介
               
         石本実行  南 祐作     高城 章   福吉圭太  福吉康祐  森山健一  鶴田重弘 清水信広









 今回の頭太鼓

 富永 彰 富永英昭 吉村慎一 森山貴史
 
着替えが済んだら全員で後始末です 
   
 反省会は竹中池ソーメンでした

会計 酒瀬川 博氏 

会長 吉村一成氏 

今回 初舞台の柳原一郎君 次もたのんもんで 

今回のイベントを取り仕切った親分衆
(左)会長 (中)会計 (右)副会長 石本実行氏 

練習に頑張った中学生の福吉圭太君(右) 

反省会終了 次回もがんばろう 

祝う会セレモニーの様子
  

 
旧道阿波線 石本鉄工所の下
森山純信氏の田んぼが会場となった
 


本日は地元湧水町より「川添太鼓踊り保存会」の皆様に起こしいただいております。
これより披露いたします川添太鼓踊りは、江戸時代、島津氏封建時代から、当川添地区に
伝承されてきた芸能です。隊列-円陣-隊列と変化する所作の中に、
 民衆を引き寄せる、力強さと、荘厳(そうごん)さがあるのが、川添太鼓踊りの特徴だそうです。

近年においては「明治37年の日露戦争凱旋祝い」「大正8年の電気開通記念祝賀会」
 「昭和7年の吉松橋完成」「昭和12年白鳥神社戦勝祈願」等の祝賀会や戦勝祈願に踊られました。

からくも当地区には、これらの歴史を物語る証(あかし)として、今から186年前、
 江戸時代の後期にあたる、文政9年(西暦1826年)を筆頭に、天保・安政・明治の年号が刻印された、
 太鼓踊りの鉦が、数多く残っているそうです。

本日は、時を超えて、このうちの鉦4個が、本日の着工式に特別参加しております。
 ご来場の皆様方には、太鼓蓮のみごとな跳躍とバチの所作はもちろん、
 先人達から受け継いだ、この時を越えた鉦の音色にも、歴史を感じていただけたら幸いです。

それでは、地元住民の悲願であった阿波井堰改修事業の 着工のお祝い と、
 平成27年の完成まで従事されます 関係者皆様の安全 を祈願した、
 「川添太鼓踊り踊り保存会」の皆様によります演舞をご覧ください。
 

  


25年11月17日(日)文化祭

 9月28日 「合同会議」  10月 8日から毎週火・木・土を練習日とする
                  時間 午後7時30分~9時00分まで
                  場所 竹中池公園グランド 雨の日は中止
                  世話役は道具つくりする
                  お茶沸かしは踊り子と世話役の家族にお願いする





訂正 右側から3番目 桑原剛太郎 → 桑畑剛太郎

<初参加の人>
入れ太鼓(吉村駿太郎君) 反省会コメント 「楽しかったです。次回は大太鼓に挑戦したい」
大 太鼓(桑畑剛太朗君)     〃  「楽しかったです。この次はもっと上手に太鼓を打ちたい」
大 太鼓(永野龍司さん)         「楽しかったです。踊りに声をかけてもらって感謝しています」

<踊り変更の人>
太鼓 → 鉦 (有田健太郎)   〃  「唄(あたらしどの)が難しかったので、アーアーとウメキ声しか出せなかった
                         自信がなかったところは打つ真似をしました。頭(かした)鉦の福吉さんゴメン」
<OB参加者>
60歳(森山健一師匠)       〃  「もっと若者(わけし)が踊りに参加するよう声かけしたい」
65歳(渋江公雄師匠)       〃  「4年後は69歳じゃっどん、踊ってもよかど」

涙が出るような意見が      〃  「見物者(見いて)が少なかったどん、そげなた関係なか。
                          沢山の地区民の応援がある以上、我々は先祖の残した大事な
                          川添太鼓踊りを、これからも一生懸命お踊り、引き継いで行こう」

<総論>会長 吉村一成氏・ 副会長 石本実行氏・書記会計 酒瀬川 博氏
      その他役員・世話役・踊り子の方々、長期の練習と道具作りに
      ダイヤメもせずご苦労様でした。おかげさまで今回も良か踊いできました。
      4年毎の踊りでたいへんですが、次回もきばりましょう。

   
 観客からアンコールが出るほどの熱演で頭太鼓の重役を果たされ4名です。拍手

 


youtubeで学習しよう 「川添太鼓踊り」

①道楽(12べ) ②門がかり ③庭入り ④山道 ⑤ひきまわし ⑥歌「あたらしどの」

➆歌「空ゆく雲」 ⑧歌「様しのぶ」 ⑨さおつくり ⑩馬締 ⑪退場「のぜ」

歌の所は1発勝負で録画した為、音程と歌詞が「オヤ?」というところもありますが
時間をみて修正していきますのであしからず、御勘弁願います。(^^)/

画像は平成14年の文化祭です。
 

 

 


平成28年3月20日
阿波井堰改築事業の完成を祝う会

祝う会のお知らせ 
 
式次第 
 
式典会場案内 
 
新旧の阿波井堰画像 
 
中学校体育館で猛練習しました 

指導者

吉村一成
渋江公雄
森山健一
清水信広 
 
道具作りにがんばりました 

世話役

酒瀬川 博
石本実行
馬迫重一
久保健一
新村修三
吉岡勇二
福島幹雄
 
本番前の前踊り風景   
 

動画が見れます
 
 初めての太鼓踊り

吉村俊太郎君(右)
親子です
 
 初めての太鼓踊り

竹中照由樹さん(右)
 
 家族で応援  
 
除幕式


動画が見れます
 
   
 ⑤ ④ ③ ② ①

 「スイッチオン」!!  私の合図で

水門の扉が倒れます
 
 堰の解放状況を見る
参列者
 
 
いよいよ本番!! 気合を入れる頭太鼓(かしでこ)4人衆  左より ●富永 彰 ● 森山貴史 ●富永英昭 ●桑原一弘
 


保存用動画が見れます
 
 道太鼓で会場に向かう  
   
 
 <祝う会披露終了後の記念撮影> もっと大きい画像が欲しい人はhp管理者までご連絡ください。hayaokidori@po.synapse.ne.jp
 
 会長 𠮷村一成   副会長 石本実行
 永い間の役員と練習指導 あいがとさげもした。
 新しい3役です。

会長 � 福島幹雄
副会長 森山健一
会計  酒瀬川 博

よろしくお願いします。
 


平成28年11月23日
秋まつり「農林商工祭」で 
84年振り栗野会場で踊りました。

 

ナワジの縄編みには常時4人が必要でした。

動画で見れます  考案者 酒瀬川 博氏
 
 支度ぞろえ
   (ALT)  トマス マクスエル
   
 
 お父ちゃん本番頑張ってね。 凛花 
 竹中池駐車場での  出陣前リハーサル  10分前

    かっこいい!!
 
   
   
   
 

本番さながらのリハーサル風景

旗手 副会長 森山健一氏
    会長の福島幹雄氏は入れ太鼓で参加しました。

動画で見れます 提供 宮田慎二さん
 
   
   
 いざ 本番 !!


紹介者 吉岡勇二
 
  湧水町吉松地区には、江戸時代後半から、明治までの年号が刻印された、太鼓踊りの鉦が数多
く残っております。これらの鉦は当地方の太鼓踊りが、江戸時代から踊られきた、いう証(あかし)と
なっております。

明治時代には「日露戦争凱旋祝い」大正時代には「電気開通祝賀会」など、戦勝祈願や祝賀会に踊られ、
近年では本年3月に「阿波井堰改築事業祝賀会」に踊らせていただきました。
県内の太鼓踊りの多くは、
島津義弘公の朝鮮出兵と結びついており、川添太鼓踊りの太鼓連の隊列と跳躍には、薩摩藩の力強さが
表現されていると、言われております。

さらに歌の部分でも、1番では、義弘公の祖父「じっしん公」の繁栄をたたえた「あたらし殿」を、
歌2番では、義弘公が朝鮮から栗野松尾城の夫人に何通か手紙を書いていますが、これに由来する
「そらゆく雲」を歌います。
 

川添太鼓踊りがここ栗野で踊るのは「昭和7年の栗野町制施行記念式典」以来84年振りとなります。
1592年、文禄の役の出陣式があった勝栗神社を前方に置き、このような盛大なイベントの中で、
皆様の前で踊れることは本当に光栄の至りであります。
 
本日は吉松中学校2年生吉村駿太郎くん、同じく1年生、米永新也くんを筆頭に、新人5人が初めて
この大舞台に挑戦いたします。特に今回は、外国語指導助手
ALTのトーマス・マックスエルさんも
参加しますので、皆様のご声援をよろしくお願い申し上げます。
 
 
   
 
 
  前半の演技  後半の演技      撮影 吉岡勇二