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今しかない

No.254(2024.01.09)


日本語だけではなく英語でも「生活」、「生きる」、「人生」の三つの言葉は似ているかまたは同一です。
生活の質を自分が望む方向へより近づけていくことができれば、結果として残る悔いがより少ない人生を送ることができるように思えます。

かといって生活環境を意のままにすることは難しいのが普通です。となると、決意さえすれば可能な、自分自身の状態を心身ともに整えることに傾注することが大切だと気づかされます。

先日読んだ連れ合いがとっているスポーツ指導者向けの雑誌に興味深い記事がありました。

フロー」という「ご機嫌で外的要因による心の揺らぎがない今の自分に集中した状態」を目指せという提唱です。
フロー状態を保てば、パフォーマンスの質が向上し、自身の成長、健康などにも効果があるというのです。

いくつかあるフローへ導く思考訓練のなかに、「今ここ、自分」を大切にする、とあります。過去や未来は心を揺るがす外的要因であって、フローになるのをさまたげるとのこと。

私事の低次元な話になりますが、早朝の散歩前準備運動の際に余計なことを考えてほんの少し身体の動かし方から意識をそらしたために痛みを感じることがあります。

そんな経験から準備運動の際には常に動かす部分に意識を向けて余計なことを考えたり思ったりしないように心がけています。

今の自分に集中することの大切さを再認識させられた記事を読んだ後日、今度はテレビ番組からヒントが得られました。
認知バイアスの成せる技ではなく、連れ合いが面白いと感じて番組途中から録画したもので、私が見ても絶対に面白いと思うから、と半強制的に見させられました。

それは黒田未来雄という、商社や放送局勤務を経て猟師をしている風変わりな人物のインタビュー番組でした。

連れ合いの言通り同氏の主張は私が共感できるものばかりでした。一言で言えば、「人間よ、謙虚であれ」というもの。現代文明批判ととれます。

野生動物にとっては一瞬の判断の誤りが死につながるという自然の摂理に言及していました。私の中で「今ここ、自分」とつながりました。

動物が生き残る術は、今その瞬間に常に集中することです。日常で判断を誤っても命に別状のない人間とは大いに異なります。
野生動物や昆虫の必死さに美しさを感じる私にとって示唆に富む話でした。

「今」、過去、未来に関してインドネシア旅行の帰路に日本に立ち寄ったアメリカ白人男性と会話して知った事柄を思い出しました。

彼からインドネシア語を少し話せると聞いた私が感心すると、それほど難しい言語ではないと彼は言います。続けてインドネシア語には時制がないことをその理由としてあげていました。

その時彼が優越感に浸っていると私の目に映りました。有色人種のひがみかもしれません。
いやむしろ、時制がないと知った私自身が失礼ながらプリミティブな言語だと感じたことからその様に見えたのかもしれません。

今あらためて思い及ぶに、むしろフローな日常生活を送っていればこその言語構造と解釈することもできます。

インドネシアといえば、音楽の分野では大切な音を意図的に小さくしたり遅らせたりして演奏すると知った時に、意外性に魅力を感じている自分にはっとしたことがありました。
知らず知らずのうちに、奥ゆかしい、慎ましい、という感覚、和魂を失った西洋かぶれ洗脳済人間になっている自分に気づいたからです。

独自の文化に根ざした価値観を持ち得ていた国々や地域が、西洋文明の荒波に押し流されて変質してしまった、と考えるのは被害妄想でしょうか。それとも単なる歴史的必然だと冷静に受け入れなければならないのか。

西洋文明に従順であることにより物質的豊かさを享受しつつも、利便性が薄氷上にあるという危機意識が頭から離れないのが私の日常です。

個人のレベルでは「今ここ、自分」で日常を過ごす以上の理想形が思い浮かびません。

ただし、大きな目で眺めてみれば「今さえ良ければ」という現文明の行きつく先の未来に、人の理想が具現化するとは考えられません。

人類が自ら滅亡する道を進んでいるのではないかと共通認識されつつある昨今、目先の各論的ムーブメントでは状況は改善しないとそろそろ気づくべきでしょう。
パラダイムシフトするなら「今しかない」、と新年早々大風呂敷を広げてしまいました。


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