第38話 「教室は間違うトコロなのだ」
〜 「発表での間違い」が恥ずかしいアナタへ 〜


授業中の話である。

先生から指名を受け,発表したときのコトである。

答えを間違え,クラスのみんなから笑われることがある。

面(つら)の皮の厚い中学生なら
「別になんのコトはない・・・」と
平気の平左ですませることができるだろうが・・・

気の小さい中学生にとっては
顔面ファイヤー状態に陥り
精神的ダメージ受けてしまうものである。

「馬鹿にされた」という気持ちでいっぱいになり
自己嫌悪の泥沼を彷徨(さまよ)うことになる。

そんな
「間違い恥かき大嫌い症候群」の中学生に
是非とも読んで頂きたいのが
今回のお話しである。



実はこの
「笑われる」「馬鹿にされる」という感覚は
とても貴重な感覚なのである。


アナタは多分,極端に
「笑われる」「馬鹿にされる」「恥をかく」
という感覚を嫌っていると思う。

そんな目に絶対に遭わないように
発表を控えたり
できるだけ目立たずに授業時間を終えようと
息を殺しているかもしれない。


だが
授業に攻めの姿勢で臨んで
その結果の間違いなら
何も「恥」に感じることはないのである。

むしろ
馬鹿にされて身につけた知識や体験は
絶対に忘れない頑強なモノになる。




アナタが今まで授業中に笑われた経験があるのなら
そのシーンを思い出してみるとよい。

何が間違っていたのか・・・
どうして私は笑われたのか・・・
正しい答は何だったのか・・・


それをハッキリ覚えているモノである。

「悔しさ」「恥ずかしさ」がサポーターになって
あなたにの記憶を手助けしてくれているのだ。



また,その逆に
今までにアナタが誰かの間違いを笑い飛ばした経験を持つのなら
「間違いの理由や原因」「正しい答」を
覚えていることは少ないだろう。

ほとんどの「笑い」が
何が原因だったのか
どうして笑ったのか
すでに,どうでもよい「過去」となっているからだ。



時に「笑い」は刹那的で無責任である。

クラスの誰かが間違えば
たとえ自分に同じ問題を解く実力がなくても
「笑い」に参加できる。

そして
「笑い」に参加しているうちに
なんだか
「自分にはできそうな」気分になってくる。
だが
それは,ただの思い過ごしであり
勘違いである。



一方・・・
本当に「デキる奴」は
そんなシーンに遭遇しても
決してヘラヘラ笑ったりはしないものである。

「なぜ,彼は間違ったのか」
「正解はどこにあるのか」
「間違えないためには何が大切か」


「問題」と「間違い」の間で
いろいろと考えを練っているため
笑うヒマなど,どこにもないのである。

さあ,それがわかったら
次の授業時間から

おおいに間違って
おおいに笑われ
おおいに恥をかいてくるのだ。




教室は
よい子が正解ばかりをならべる場所ではない。

教室は
よい子が
堂々と胸をはって
間違いを発表することが許される
特別な場所
なのだ。

社会に出ると
間違いが許される場所は
なかなかあるものではない。

「間違うこと」は学生の「特権」であり
それが許される「場所」が「教室」なのだ。



さらに言うならば

「答を間違えること」が恥ずかしいのではない。

「自分の答が正しいか間違っているか追求しないこと」が
恥ずかしい行為なのであり

「自分の答はさておいて,他人の間違いを笑うこと」こそ
恥知らずな行為なのである。



昔の人は,良いことを言ったモノである。

「聞くは一時の恥,聞かぬは一生の恥」

ちょっとアレンジすると

「笑われるは一時の恥,笑うは一生の不覚」

う〜〜ん・・・
ちょっと切れ味が鈍いような気もするが
まあ,いいか・・・。

今日のトコロは
これくらいで勘弁してやるのである。


ぺっぺっぺ!


  

直線上に配置