日本敗戦間近の1945年5月17日

米軍、喜界島上陸を計画

沖縄県公文館史料編集室が史料入手

 敗戦間近の1945年(昭和20年)5月、沖縄戦に臨んだ米軍の精強部隊第十軍(S・B・バックナー陸軍中将)が、沖縄攻略の「アイスバーグ作戦」を策定していた中で、大兵力による喜界島上陸を計画していたことが、沖縄県公文館史料編集室の調査で分かった。米国空軍歴史調査センター(アラバマ州)所蔵のマイクロフィルムから入手したもので、米軍は空中撮影などによって喜界島の地理や日本軍の兵器、施設など綿密な準備の下に上陸計画を進めていた。第十軍は陸兵七個師団(18万3000人)、艦船1500隻、艦載機2000機といわれ、太平洋戦争中最大規模の編成部隊。研究者は「八月の敗戦がなければ九州上陸への目標として攻略されていただろう」と話している。

航空基地建設が目的か?

   空中撮影で綿密な準備地図

 入手史料によると、米軍の喜界島上陸作戦では「エーブル」「ベーカー」「チャーリー」と三つの計画地図が作成されており、赤連地区を「ビーチレッド」に、湾港を「ビーチグリーン」に、志戸桶港周辺を「ビーチイエロー」に、早町漁港周辺を「ビーチブルー」にそれぞれ色別していた。
 エーブル計画はトンビ崎方向と早町漁港方向から二艦船で連隊を送り込み、予備の一艇が待機する。百之台公園周辺を経由して中西公園、中里方面を確保して前進するが、中西と中里が安全でなければ湾地区での基地建設は無理−としている。チャーリー計画は悪天候時のもので、赤連と湾方面から三艦船で上陸し、伊実久と左手久を結ぶ畑地周辺に陣地を構える計画。ベーカー計画はエーブルとほぼ似通った攻撃作戦だが、上嘉鉄港から艦艇で上陸した部隊が北進しようとするものであった。(WEB master 註)
 三計画とも百之台周辺を喜界島攻略の主要点と位置付けているのが特徴。「17・MAY・1945」と記されているのは上陸作戦開始日だった可能性が高い。
 米軍は喜界島上陸を計画するにあたって周到な準備と慎重な軍事行動を展開していたらしく、第十軍の情報グループは同年4月28日までの航空撮影によって島内の各陣地や配備されていた兵器、弾薬庫、無線施設などを既に把握しており、「準備情報地図」を作成していた。
 喜界島には45年4月に海軍航空基地が造られ、戦時中は陸軍守備隊や高射砲隊、高射機関砲隊、砲台隊などが配備されていた。空襲は45年1月22日から8月13日までの半年余りで71回を数え、被災戸数1910戸、死者は119人に上ると言われている。
 今回の調査にあたった沖縄県公文館史料編集室の吉浜忍主幹(48)は「沖縄戦では実際のプランと作戦が違っていたが、喜界島の計画は上陸に値する港や陸地の状況を分析している。米軍はアイスバーグの後、南九州に上陸するオリンピック作戦、関東上陸のコロネット作戦の三つを策定しており、喜界島には九州侵攻のための航空基地を建設する計画だった可能性が高い」と話している。

アイスバーグ作戦

 米軍が1944年(昭和19年)秋に策定した沖縄上陸作戦。当初の台湾攻略作戦を中止し、小笠原と琉球列島をたたく(アイスバーグ・氷山)作戦の展開を決定し、三段階に分かれていた。まず、慶良間諸島と沖縄中南部を占領して日本本土への上陸作戦用の基地を建設すること。次いで伊江島を占拠し、沖縄本島北部を制圧すること。最後に南西諸島の占拠範囲を拡大することであった。(沖縄大百科事典などから)

1998年05月04日、南海日日新聞記事より
WEB master 註:米軍のオペレーションマップと照合する限り記事中の表現に誤りはないが、赤連集落とされているのは実際には池治集落であると思われる。
詳細は、各マップをご覧頂きたい