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「知る」と「分かる」(3)

No.223(2019.05.24)


「分かる」ということについて考えていることをまとめてみようと始めた連載です。

どうやら時期尚早だったようで、私自身が分かっていなかったことが分かりました。(苦笑)

まず、日常会話の中で「分かる」と「知る」を明確に使い分けてはいないことに遅まきながら気がつきました。

というか、「分かる」と「知る」を同じ意味合いで使う場合もあります。

表題のつけ方から問題がありました。

現時点で私が主張したかった要点だけをまとめて最終回とします。

たとえ話、が理解しやすいと思います。

数学の問題集に取り組んでいて、どうしても解けない問題がありました。

自力で解くのは無理だとあきらめ、回答を見たとします。

見たことで答えが分かった、と普通は表現するでしょう。

より正確に言うなら、答えを知った、だと私は考えます。

問題から答えを導き出す解法まで理解できて、はじめて分かったと言えます。

本当に分かっていれば、その問題の答えを忘れた頃に再び解くことができるはずです、解法を覚えていれば。

また、類似した解法で解くことができる他の問題でも解を導き出すことができます。

応用できる、ということです。

インターネットで簡単に答えを「知る」ことができる便利な世の中になりました。

ネットで「知った」ことは「分かって」いるのでしょうか。

単なる知識ではなく応用できるものなのか。

即「分かった」気にさせてくれるところが問題だと私は思います。

たとえ話では問題を「考える」という通り道があったものの、それもありませんし。

知らないことは、すぐさまネットで調べて知り、はいおしまい。

それのくり返し。

考えたり悩んだりすることはなし。

これで何かを「分かる」ことができるのか疑問に思うわけです、私は。

「知る」から「分かる」に至るには、「知った」上で過ごす時間が必要ではないかと考えています。

内面的には考えたり悩んだりする、外面的には接したり経験したりする、というような。

一つ一つの知識の点が結びつき線になり、さらに面になることによって「分かる」に近づくということもあるでしょう。

「分かる」ことの大切さとともに、バラバラな知識ではなく体系的包括的な知識の重要性を再認識させられています。


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