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農村で暮らす (24)

No.80(2002.04.23)


いつ頃神楽舞が復興されたのかは知り得ませんでした。

経緯を聞いた感じでは、それは高度成長期以降のように私には思われました。
「地域興し」という言葉が頻繁に使われるようになった後での出来事でしょう、多分。

かなり曖昧になってしまっている私の記憶ではその神社の神楽舞は全部で二十番前後ありました。

いざ神楽舞を復興しようという時に、実際に過去に舞った経験のあるお年寄は既に数人しかいなかったそうです。

ですから神社独自の舞いを再現できたのはほんの数番だけだったとのこと。

それらだけだと披露するには当然不十分です。

でどうしたかというと他の神社の舞いを教わって番数を増やしたそうです。

必然的にその部分は元々我神社に伝わっていた独自の振り付けではなくなってしまいます。

が、これで終わりではなく、ここからの展開が農村ではよくある形で進行したと宮司や師匠から教えてもらいました。

前述のように神楽舞経験者はごく少数であったものの、それに比して昔は毎年実際に舞いを見ていたという老人は健在な方が多かったそうです。

そういう方達が当時の復興された舞いを見て、うちの神社の振りは本当はそうじゃない、などとああでもないこうでもないのケチ、いや注文をつけたのでした。

フィルムやビデオテープで昔の映像が残っているわけではないので、異なった意見が出た時にどちらが正しいかを判断する材料はありません。

明確な根拠が無く、また誰かが責任を負うわけでもなく、何となく振り付けが変わっていったものと私は想像しました。

前回述べた、舞いを指導する際の意見の不一致の大元の原因もここにあったのでした。

私が社人になって3年目からは神楽の時だけではなく大祭などの大きな神事の際に必ず二人で舞う「四方舞」も担当するようになりました。

この舞いは社人を務めた方の葬儀の際の神事でも舞うことが通例となっていました。

あるお葬式で舞った時のこと、鴨居が低く頭をぶつけはしないか心配しながら舞っていたところ、そちらに気をとられていたために二人とも順番が分からなくなってしまい、目と目で合図を送り合いながら強引に終わらせたことがありました。

冷や汗をかいたそんな経験も今では良い思い出になりました。


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