心はいつも新鮮

 先日、一冊の詩集が送られてきた。鹿児島県在住の詩人である。それほど親しいわけではないが、名前と詩にはしばしばお目にかかっている。高良絃行詩集「柔らかな光」である。その詩集の中の一作に心が動いた。

   寝息

仕事で疲れて帰った夜
ちょっとした子どもの躾のことで
ぐずぐずしたけんかを引き起こした
何もかも意に添わなくなり
言い過ぎだと思いながら
時間も気になりながら
それでも言い争いは続いた
帳尻を合わそうと追いつくのが
やっとの状態で

失った時間を惜しみながら
明日の仕事を思って床についた

夜中に眼を覚ますと
少し咳を含んだ妻の寝息が聞こえる
ミイラのような妻の寝姿
気管支を痛めているのではないか
薄暗い所に置かれ
生き物の運命を思うとき
ずしんとする寂しさに襲われる
妻もこの世を生きているのだ
彼女自身の重荷を背負い
さらに僕の意地悪な言葉にまとわれて

ひどく怒られて床についた
子どもたちの無邪気な寝顔や
次第しだいに若さをなくしていく
妻を思うと
わがままな自分をすまなく思う
こんな寂しい気持でいると
人の小さな欠点など
容易に許せる気になる

前の庭から
絶えず虫の声が響いてくる
彼らも精一杯生きているのだ

ふと自分を振り返る・・とこんな心境になれる。この人とならば幸福になれると信じて結婚に踏み切った妻は、今、しあわせなのだろうか。ミイラのように眠っている。あの若かった妻の人生を思う時、男は自分のわがままを、すまないと思う。そして人の小さな欠点など、容易に許せる気になる。みんな精一杯生きているのだ。とても分かりやすい詩であり、とても情感あふれる詩である。「内観」をしたことのある人ならば、心の奥底まで響いてくるはずである。ふと振り返る・・という程度の軽い日常内観でいいから、今日一日の心のゴミをそっと汲み出しておきたいものだ。
 自己反省とは、その度に自分を新鮮にさせてくれるものであり、新しく生きる力を生み出してくれる。
 アルコール依存症からの回復とは、こんな心の回復である。難しいことを並べ立てればきりがないが、要するに相手の立場になって考えることができる。相手の心の痛みを感じ取ることができる。そんな心のゆとりと感性が回復してこそ、妻や子や家族みんなの心も回復してくる。
 アルコール依存症とは、心の病である。もし、こんな詩を、本当に心の底からしみじみと味わうことができるようになれば、すでにその人は、しあわせになる準備が十分に出来ていると言えるだろう。
 もう7、8年も前のことになるが、ご主人が入院することになり、病棟に入っていく姿を見ながら、眼にハンカチを当ててつぶやく奥さんの言葉が、今も印象に残っている。「私はあれほど尽くしたのに、遂に主人には通じませんでしたよ」と。
 アルコールによって麻痺した心は、犬や猫より劣っている。人間の心が通じなくなってしまう。姿かたちは人間でも、心を無くした人間ほど哀れな存在はない。アルコール依存症者にとって、まずこの「哀れな存在」に気付くことが、治療の第一歩であり、人生における日々の反省のテーマでもある。
 この詩の最初の連は、この「哀れな存在」の姿を具体的に示してくれている。第二連では、そっと振り返る心の姿勢、第三連では自己反省の姿、そして第四連では天地万象への感謝と生きる力をみなぎらせている。まさしく内観進展の深化の段階を示しているようである。詩とは感性である。芸術とは生きる力をみなぎらせてくれる心の躍動ではないか。心はいつも新鮮に生きている。


出典:鹿児島県竹友断酒会機関誌「竹友」第24号(1990年8月)
「心はいつも新鮮」