内観と医学

1、死ぬ時の内観

 「なぜ、内観をするのか」ということから考えてみたいと思います。私ども医者にとって人が死ぬ場面に遭遇するのは珍しいことではありません。一人の人間が長い人生を生き抜いてきて、そして、今まさに死んでいこうとする場面、自分の指の先で最後の脈が終わっていく瞬間に、しばしば遭遇しています。人間にとって死ぬ時、死を迎えるその瞬間を、死ぬ一時間前かあるいは一週間前、もっと一ヶ月前や一年前に知ることの出来る人々がたくさんいます。不慮の事故、すなわち交通事故とか災害によって死ぬ人は別ですが、多くの人が病床に伏して死んでいく場合には、自分の死期、すなわちもう自分は駄目だ、いよいよ死んでいくという時をほとんどの人が知っておられるようです。
 その時になると、どの人もどの人も、真剣に自分の過去をふり返り、自分の人生がどういう人生であったか、ほんとうに生きてこうして死んでいく、悔いのない人生であったか、多くの人に迷惑をかけて来はしなかったか、そういうことを五分でも十分でも一週間でも、静かに静かに反省する場面に我々は遭遇しています。そして、最後の時を見守ろうとして、あちらこちらから身内の方々が寄り集まり、手を取り合い、あるいは頬ずりをしながら最後を見取っていくわけです。
 最後の場面になりますと、「どうもいろいろありがとう」、「お世話になりました」、「後をよろしく頼むよ」などという言葉を残して死んで行かれます。
 すべての人が死ぬ時、必ず自分の人生をふり返って「どうであったか」という反省をしておられるようです。しかし、そのとき、死がまさに目前に迫った時に、どれほど深い反省をしても、もう後がありません。もう何も為すすべがありません。そこで今、あと一時間、あるいは−日、私に自由な時間を与えられるとしたら、ご迷惑をおかけした人に対して、何か−つだけでもご恩返しをしたい、あるいは、これだけはしておきたいというようなものが,必ず−つやニつはあるのではないかと思います。しかしながら、もうその時は、身動き出来ません。悲しいことです。死の床に伏した自分の周りに身内の人たちが寄り集って、慰めてくれます。自然にぼんやりと意識がなくなっていきます,周囲の人々によって、すべてが許されたかの如く、非常に安らかな死顔を、私共は見てまいりました。
 このように、人間は必ず一生に一度は自分を振り返ってみるという「内観」をするようであります。内観を終えて死んでいくとき、あの仏様のような静かな顔、美しい顔は、深い内観の結果だと思うのです。ところが、内観をするのは死ぬ時になってからでは遅いということに気付きます。死ぬ時の内観を今、まだこうして生きているうちに、本当に死ぬ時と同じ程の真剣さで過去を振り返り、自分を見つめてみようというのが「内観」なのです。自分を真剣に見つめることによって、今何を為すべきか、今後いかに在るべきかということや、そしてまだいくらか残された貴重な時間をいかに生きるべきか、自ら分かってくるのではないでしょうか。「内観」はそういう厳しいものであり、尊いものであることを最初に理解して頂きたいと思います。


2、自分の歴史

 私どもは、小学生、中学生時代にさまざまな反省の仕方を教わって来ました。教室で「今週の反省会」が行われていました。また学校教育では、小学四年生、五年生にもなりますと「郷土の歴史」を学びます。あるいは、中学生になりますと「日本史」「世界史」という歴史を学びます。ところで、こういう歴史を何のために学ぶのかを考えてみたいと思います。過去の日本はこのような歴史をたどり、このような過ちを犯し、あるいは、このような発達を遂げて、そして現在に至っているということを教えられます。今後の日本を背負って立つ若い人々に対して、同じ間違いを繰り返さず、よりすばらしい日本を作ってもらうために、またよりすばらしい世界を作る人間になるべく、日本史、世界史というものを義務教育の中で教えているのです。歴史とは、非常に大切なものだと思います。
 ところが、この義務教育の中においても、ただ一つ、最も大切なものを見落としているように思えるのです。それは、郷土の歴史、日本の歴史、世界の歴史を学んだとしても「自分がいかに生きてきたか」という最も身近で、最も大切な自分の歴史について、何ひとつ学んだことがないということです。「自分が今後いかに生きるべきか」「今何をなすべきか」ということについて、私どもは小学生時代から何ひとつ学んできておりません。すなわち、自分の歴史というものについては全く勉強していないのですから「自分は何をすべきなのか」あるいは「今、自分はどうなっているのか」ということさえも、全く知らないままに大人になり、こうして生きてきてしまったのです。最も大切な自分の歴史を調べること、そして今後いかに生きるべきかを考えること、それが「内観」なのです。郷土や日本や世界がいかに立派になろうとも、自分自身がほんとうに幸福な生活を送り得なかったら、何になりましょう。自分の歴史を学ぶことが「内観」のもつ最も大きな仕事の一つであります。
 私どもは、生まれて一年、あるいは二年の間、何もかも両親の手を煩わせて生きてきています。三度三度の食事、大小便の世話、それこそ手取り足取り、すべての面でお世話になってきています。しかし、そういうことを、私どもは全く思い出すことさえできません。そして、自分が思い出せるのは、結構自分一人で動き回り、自分一人でご飯を食べられる頃になってからです。その頃から初めて記憶の中に残ることになるのです。ですから、両親がいかに自分のためにさまざまな難儀をし、努力をしてくれたかということを、生まれて一歳や二歳のころのことは、都合よく忘れ去っているのです。ここが、人間の非常に勝手なところであります。人間は歩くことでも、立つことでも、一年という期間が必要です。一年の間、母親は夜でも、どんなに寒い冬の夜でも、おむつを替え、乳を飲ませます。乳の出ない母親は、どんなに冷たい夜であろうとも、ミルクを温めて飲ませてくれたのです。それほど人間には手がかかります。ところが、他の動物を考えて頂きたいと思います。例えばオタマジャクシが、卵から孵ってすぐに水中をすいすい泳いでいきます。そこに、親であるカエルが見守っているというこ とは決してありません。オタマジャクシは卵から孵ると、自分ですいすい泳ぎ回って、ちゃんと一人前のことをしていくのです。牛や馬でもそうです。生まれて一時間か二時間もすると、ひょこっと立ち上がります。そして結構一人前の顔をして、よちよちと歩き出します。それなのに、人間には一年という時間がかかります。一年という長い期間、親の手を借りなければ立つことさえできないのです。


3、人間の大脳

 どうして、こうも他の動物と人間とは違うのでしょうか。その最も大きな違いの理由は、大脳の生理構造の問題なのです。人間の大脳は、他の動物と大変に違っています。脳の構造
 人間の大脳は一番表面の部分を新しい皮質と呼ばれる神経細胞のかたまりによって覆われています。新しい皮質と呼ばれる部分は人間だけに発達していると言っても過言ではありません。他の動物においては、新しい皮質は、あったとしても非常にうすっぺらなものであり殆ど働きをなさないと言ってもいいくらいなのです。
 その新しい皮質の奥にあるものは、古い皮質(大脳辺縁系)と呼ばれています。古い皮質は、いわゆる本能を司る中枢なのです。食欲・性欲・集団欲など、動物に備わっている非常に原始的な欲求を司っているのが古い皮質です。
 その古い皮質の奥にあるのが、脳の中心部で間脳と呼ばれるものです。この間脳という部分は、人間が生きていく上に、あるいは動物が生きていく上に、なくてはならない中枢です。例えば、心臓を動かす、胃腸を動かす、さまざまな内臓の器官を動かす働きをするのが間脳です。間脳が機能をストップし、働かなくなると、心臓が止まり、肺臓の動きが止まります。死んでしまうのです。私どもはよく新聞などで、植物人間という言葉を聞きます。この植物人間というのは、炭鉱のガス爆発、あるいは交通事故などによって大脳の新皮質が死んでしまった場合や、さらに古い皮質が死んでしまった状態で、その状態のまま生きている人間のことです。植物人間とは、間脳だけで生きている状態の人間です。胃の中に食べ物が入ると、胃が動いて消化する。心臓はともかく動いているだけですが母親が来ても、それを母親と認識することができず、言葉を発することもできません。ただ、生きているだけなのです。
 このように、大脳は新しい皮質、古い皮質、間脳という三つの領域に分けることができます。新しい皮質の働きは過去の記憶を蓄え、知識を蓄え、その記憶を組み合わせて新しいものを作り出していく、すなわち、創造する能力や高等な感情を生み出すことができるのです。この新しい皮質は、生まれたての赤ちゃんでは、まだ全く働いていません。新しい皮質が働くのは生まれ出てから一年、二年、三年と経つうちに、一つ一つ記憶を蓄え、そして、その記憶と記憶を結び合わせながら、次々に高等な脳の働きを示すようになるのです。年数が経つにつれて、段々と高級なコンピューターができあがっていくと言ってもよいでしょう。
 ところで、私どもは、狼少年と呼ばれる少年の話を知っています。狼少年というのはインドの山奥で、17〜8歳の年齢で発見された少年のことです。この狼少年は、生まれて1〜2歳のころ、まだよちよち歩くか歩かないかという頃に、山奥に捨てられました。そして、その子どもを狼が見つけ、狼が乳を飲ませて育てたらしいのです。この少年が発見された時には四つん這いで歩き、走り、スープを持っていってもスプーンを使って食べることを知りません。舌でぺろぺろとなめ、夜になると外に出てウォーと遠吠えをするのです。まさに姿や形は人間でも、習性は狼そのものだったのです。ですから、人間の大脳はその記憶のされ方や保育の仕方、教育の仕方によってどんなにでも変わることができるのです。
 他の動物は決して人間の大脳のようにはいきません。人間と同じように育てた猫であっても、猫はやはり猫でしかありません。猫には大脳の新しい皮質がほとんどありませんから、人間のように言葉を使うわけでもなく、人間のようにスプーンを使うこともできません。ところが人間は、大脳の新しい皮質に次々と新しい記憶をインプットしていくために、育て方次第では狼にもなるし、ライオンにも、虎にも、豚にもなる危険性があります。他の動物は結局「カエルの子はカエル」ということでしかないのです。このように大脳の新しい皮質の働きによって、人間と他の動物とは大変に違っています。
 このことが、人間をして人間たらしめる大きな原因なのです。これは非常にありがたいことでもあり、非常に不都合なことでもあります。一つひとつ記憶し、覚えていかなければ、人間は人間になっていかないのです。人間を人間として育て上げ、一人前にするには、大変な努力が必要です。人間は、父親、母親が並々ならぬ努力を重ねて育てあげてきたのです。


4、大脳と欲求

 ところで、他の動物には、大脳の新しい皮質がほとんどありませんから、古い皮質と間脳だけで生きているのです。ツバメの巣の作り方を見ていますと、何十年前のツバメの巣も、最近作っているツバメの巣もやはり同じような形です。千年前のツバメの巣も、きっと同じ格好をして、材質もやはり泥であったに違いありません。しかし、人間の住居は、驚くほどのテンポで発達しています。材質も変わる。スタイルも変わる。色も変わる。そして、その人その人に応じた家の作り方があります。ここにも大変な違いが見うけられます。ツバメは、古い皮質のみで家を作っているのです。人間は新しい皮質に様々な記憶を蓄え、その記憶を組み合わせながら、新しいものを創造していきます。次々に新しいものを作り出す力が人間には備わっているからです。
 新しいものが出来あがると、つぎにはさらに便利なもの、美しいもの、より良いものを作ろうと人間は努力します。人間には限りなく、このような欲求が起こってくるのです。もっと大きな家が欲しい、もっと美しい家が欲しいという欲求が人間には起こってくるようになっているのです。それは、新しい皮質の働きによるものです。ところが、ツバメたちは、あの巣で結構なのです。それ以上の欲求は起こりません。泥の家で、泥の巣でなんとか子どもを育てていければそれで十分なのです。
 ここに大きな違いが出てきます。人間は次々に新しいものを創造する力があるだけに、次々に新しい欲求が起こってきます。このように、欲求には二種類があります。古い皮質にある原始的で先天的な本能的欲求―これはツバメとなんら変わりません― 一方、新しい皮質にある欲求は、後天的欲求、あるいは社会的欲求と呼ばれています。このように原始的な、先天的、本能的欲求と、後天的、社会的欲求とが折り重なって、心の源泉を形成しているのです。この欲求が人間を行動にかりたてていきます。この欲求は、私どもをより良い方向に向上させるために生まれ出てくるのですが、この欲求がきわめて自己中心的で利己的な場合には、我欲と呼ばれることがあります。この欲求のために、人間はしばしばたいへんな過ちを犯すことがあるのです。ライオンを例にとってみましょう。ライオンは、腹一杯に食べさえすれば、もうそれ以上に何も欲しいとは思わないのです。近くにどんな獲物が寄ってきても、見向きもしません。また獲物を生け捕って、それを腹1杯食べれば、あとはもう喰い残したまま放置し、ハイエナや他の動物たちがその残飯を食べるのです。ライオンは余ったものまでも自分のも のにしようとは決してしません。ところが、人間は蓄えに蓄え、他人のものまでも盗んで自分のものにしようとします。
 また、別の例を考えてみましょう。二匹の雄のライオンが一匹の雌のライオンをねらっているとします。二匹の雄は決闘をして、一方の雄がしっぽをまいて逃げ出すと、勝った方のライオンは、もうそれ以上追って行って、そのライオンを殺してしまうことは決してありません。動物の世界では種族保存の法則が厳密に守られています。それなのに人間は、男女の三角関係によって、殺人が行われることが、しばしばあります。種族保存の神の摂理を、他の動物たちはきちんと守っているのに、人間は我欲のために人殺しまでするのです。あるいは戦争という大量殺人を行うのです。自分たちの国や民族の利益のために、同じ人間同士が殺し合います。人間という動物は本来の神の摂理から逸脱して、新しい皮質にわき起こる我欲のために古い皮質にある種族保存の本能さえも圧迫して無視して、平然としている姿を我々は見てきています。
 我欲のために家族や周囲の人々をどんなに苦しめ、悲しませても、平然としている人間の姿も見ることができます。アルコール依存症の人もそうです。自分の我欲のために、酒を飲みたいという唯それだけのために、周囲の人々をどんなに苦しめても、家族がどんなに泣き悲しんでも、自分の我欲に克つことができず、家族を顧みることもないのです。アルコール依存症の人ばかりではありません。非行の少年も、そして今ここで話している私自身の中にも、我欲はうごめいています。自分の我欲のために多くの過ちを犯していることを、私は内観をしなければ気づかないでいる現状なのです。内観は自分の過去を振り返って、人間として当たり前の姿であったかを厳しく見つめることであると思います。
 ところが、内観の途中で、親が子を育ててくれるのは当たり前ではないかという疑問がわき起こったりもします。しかしながら、自分が子どもとして当たり前のことをしてきたかどうか、という質問を自分に投げかけてみると、全く頭の下がる思いがするのです。当たり前のこととして過ごしてきた事が、神の摂理を全く無視し、人間としての当然の姿から逸脱してライオンやツバメよりも、もっと劣った生活を私どもは続けてきているような気がします。内観をすることによって、それに気づくということが二番目に大切な問題であるように思います。


5、心と身体の医学

 今まで、新しい皮質、古い皮質、間脳のことを述べてきました。新しい皮質にわき起こってくる欲求によって、私どもはより発達した、より高度な科学、より高度な文化を謳歌しています。
 例えば、電気もそうです。ずっと昔の人間は、西に日が沈み夜になると、静かに休むのが当然の姿でした。そして朝日が昇り、明るくなると起き出して動き出す。それが人間本来の姿であったと思います。ところが、電気ができたことによって、夜でも動き続け、夜も寝ずにさまざまな活動をするという現実が起こってきています。徹夜の受験勉強や深夜の地下鉄工事などは、当然の姿から随分と違った姿に変わってきているのです。深夜、一時や二時でも、おなかがすいたといっては、インスタント・ラーメンなどというものがあり、お湯をかけるだけでサッと食べられるような便利なものさえ作っています。
 ところで、新しい皮質が、自分の欲求のために一生懸命になっている姿はよいとしても、一方で、間脳の方を考えてみてください。脳の一番中心部にあり、人間の生命を守っている間脳は、夜になれば静かにゆっくりと働いて、心臓もゆったりと動かし、肺臓も胃腸もゆっくりと動かし、お休みの時間となっていたのです。ところが、電気ができて、夜でも無茶苦茶に働くことになりました。インスタント・ラーメンが胃の中に思いもかけない時間に入ってくると、胃はびっくりします。胃がびっくりするということは、間脳がびっくりするということです。間脳は、朝から晩までへとへとになって働き続けます。新しい皮質のために、生命の源である間脳はへとへとに疲れるほど酷使されているのです。こんな状態は、胃だけではありません。たとえば、新しい皮質におけるさまざまなストレスやショックの状態がそれです。嫁と姑がうまくいかないという問題にしても、その刺激は間脳を脅かします。間脳はいつも窮屈な思いをするために、段々と食欲がなくなり、十分に睡眠がとれなくなるのです。このような現象は、決して珍しいことではありません。新しい皮質の刺激は、つねに間脳を無理矢理に刺 激しているのです。
 このような問題を研究する学問は、精神身体医学(心身医学)と呼ばれています。昔の人がよくいう「病は気から」という問題です。病気というのは、気持ちが病を引き起こしている状態のことではないでしょうか。「病は気から」という言葉は、非常に含蓄のある言葉です。
 精神身体医学の進歩によって、新しい皮質と間脳の関係がよく分かるようになりました。精神が身体に及ぼすざまざまな影響を、私どもは日頃よく経験しています。たとえば、雷がゴロゴロと鳴ると、びっくりする。びっくりする瞬間、心臓がドキドキと動き出し、動悸が激しくなる。あるいは、嫌な事を聞かされた時には、顔色がサッと青ざめてしまう。また、人がけんかをし、口論するとき、興奮して顔面蒼白となり、唇はカラカラに渇き、わなわなと震える。このような姿は、まさに精神と身体の結びつきをよく表現していると思います。精神身体医学が発達してくるにつれて、新しい皮質がどれほど間脳を刺激し続け、間脳がどれほど圧迫を受けているか、ということを知ることができるようになったのです。間脳は生命の根源です。間脳が働かなくなれば、人間は死ぬのです。新しい皮質が死んでも、間脳さえ生きていれば、植物人間としてまだ生きられます。間脳が死んでしまうと、終わりです。この間脳をどれほど健やかに伸び伸びと本来の姿で生かし続けるかということは、私どもがいかに人間らしく、いかに伸び伸びと人生を過ごすかということと全く同じだと思います。


6、内観と精神身体医学(心身医学)

 内観をすることによって、私どもは自分の我欲をイヤというほど見せつけられます。我欲によってどれほど間脳を苦しめていたかということにも気づかされます。また一方、内観をすることによって、身も心も軽くなるような体験をする人も沢山います。あるいは便秘が治ったとか肩凝りが治った、腰の痛みが治ったと言うような身体疾患の改善にも、内観が大きな影響を与えていることを多くの症例が示しています。それは当然考えられることです。今まで、大脳の新しい皮質がむやみに間脳を圧迫し続けていたのです。つまり、大脳の新しい皮質の我欲のうごめきや我欲の塊が、内観をすることによって、一つひとつ取り除かれていくので、徐々に間脳の圧迫も取り除かれていくのです。間脳に加えられていたストレスや圧迫が除かれると、間脳は伸び伸びと働くようになり、胃腸の運動は活発になり、便秘は治っていくのです。食欲は旺盛になり、神経性胃炎などの病気が治るのは当然です。そして、腰の痛みが治ったり、肩凝りが治るというのも当然です。間脳の働きが活発になると、血液の循環が非常にスムースになり、血管運動神経の働きが活発になって、血管は拡張し血流が改善されます。その ために凝り固まっていた筋肉も柔らかくなるのです。痛みが自然にとれていくのは十分にうなずけることです。
 間脳は身体の中枢であり、新しい皮質が心の中枢であると言ってもよいでしょう。心と身体の結び目が、ちょうど間脳で結ばれているのです。間脳の働きは生命を守ろうとすることにあります。したがって、本来生きるということと密接な関係をもっているこの間脳が、本当に健やかに伸びやかに活動するとき、私どもは心の奥底から幸福を感ぜずにはいられません。当然、顔面の筋肉が柔らぎ、微笑むことになります。そして、仏像の安らかな顔を見るかの如き状況がでてくるのです。
 私どもは、精神科医療に、内観を取り入れる際に、便秘を治すとか、胃腸の運動をよくするとか、筋肉の凝りをほぐすということを狙っているのではありません。それらは副産物なのです。私どもが治療のポイントにしているのは、今まで過去に繰り返してきたさまざまな我欲の塊によって、大脳の新しい皮質がひん曲がってしまっているので、それを本来の姿に戻すという作業なのです。これが内観の精神医学的な治療で最も狙いとするところです。
 内観療法というのは、便秘を治すためのものではありませんが、便秘を治すために行っても結構です。結構期待に沿えるものです。


7、内観と精神医学

 精神医学で、私どもが内観療法を活用する目的は、あくまでも人間としての本来の姿を獲得するためです。本当に伸びやかな、神の摂理に反しない、そのような入間の姿に戻ること、すなわち、人間の再形成の問題を解明しようとする所にあるのです。つまり、人間の改造の問題ともいえるでしょう。
 内観がもつ精神療法的な効力は、私どもの過去19年、3600例以上の体験によって、実証されています。その症例中、8割の人には何らかの変化が起こり、6割の人々には治療的に有効な変化が認められています。現在までに内観療法を適用したアルコール依存症の患者さんたちは、確かに3〜5割の人が断酒を実行しています。それは、内観によっていかに自分が我欲の塊であり、いかに多くの迷惑をかけて、平然と過ごしてきたか、ということに目覚めてくださるからです。そのとき、間脳にしっかりと響く断酒の誓いができあがっていくようです。
 例えば、ここに青酸カリの入った一升瓶があるとします。それを差し出されて、「ああ、おいしそうだ、飲みたい」と言う人はまずいないでしょう。それは、青酸カリと聞いただけで、すでに生命の危険を間脳がピシャリと感じとるからです。だから、決して一升瓶に入った青酸カリを飲もうとする人はいないでしょう。このように、すでに間脳でストップをかけるというのが、体得した断酒です。
 新しい皮質で、理屈でわかる断酒は、三か月で駄目になるようです。いわゆる「わかっちゃいるけど止められない」という姿です。”わかっちゃいる”というのは理屈です。理屈というのは、新しい皮質のレベルです。
 体得する断酒とは、間脳のレベルでわかる断酒なのです。間脳でピシャリとアルコールを排斥する。つまり、アルコールに対して間脳がビシッと自分を防御する。そういう姿が苦労のない断酒のあり方です。そのような断酒こそなんら無理がなく、自然の姿で断酒していけるのです。そのためには、新しい皮質にインプットされた様々な過去の体験やその記憶をたどりにたどって、それを深く深く見つめて、自分というものを知って、その上で間脳にまでその刺激を与えていく。そして間脳で分かる。これが、体得する断酒です。体得する断酒でなければ、決して、継続性はなく一生の断酒はできません。
 今までに大勢の人々が断酒に成功し、平和な家庭を築いています。その人々は、内観によって体得した断酒、体得した心の断酒を実行しているのです。決して理屈で抑え、理屈で我慢している断酒ではありません。
 過去の自分を見つめることによって、自分が今後いかにあるべきか、今、何をなすべきか、それを真剣に見つめながら、まさに死ぬ時、全ての人間が一度はする内観を生きている今、実現させる方法が、この内観療法であると思います。そして、まだいくらか時間の余裕のある今こそ、内観をして、なすべきことをきちんとやらなければなりません。ですから内観は死を見つめながらするものなのです。死を見つめながら、真剣に自分を見つめることに取り組むのが、内観なのです。ただ漠然と座って、ぼんやりと時間を過ごすという内観は内観とは呼べず、内観にはなりません。死を見つめながらの内観、間脳で体得する内観というものを、どうぞ自分で実際に実行していただきたいのです。


出典:「内観と医学」(1979年5月25日初版、1994年10月24日改訂)