精神病の経過

 精神病という単語の意味について、ともすると大変な誤解があるようです。たとえば、鹿児島県では、「神経」という単語が、精神病と同じ意味に受けとられて、精神病院のことを神経病院と呼んだりします。精神と神経はもともと大変ちがった言葉であります。精神は心と呼びなおすことができるし、目で見ることはできません。その実態は分かるようでなかなか分かりにくい。一方神経は、はっきりと見ることができるものであります。坐骨神経や肋間神経など多くの神経が全身をくまなく血管と同じようにはしっています。それはてぐすのような、ナイロンの糸のようなものだと考えて下さればよい。特に坐骨神経などは特別に大きく、きしめんのようなものだと思って下さい。そして、神経は私どもの身体を動かすことや感覚を感じとる働きや内臓を動かす働らきをしています。
 ところで、精神、心とは一体何ものなのか、それがどこから生まれ出てくるのか、江戸時代以前には、おおよそ腹の中に心があると考えられていました。いやなことがあって「腹が立つ」とか、残念で「断腸の思いである」とか、心の表現は胃や腸で代表されております。ところが腹の中には心らしきものが入っていないことを知ると次には心臓に心はあると考えられるようになりました。だから心の臓器と呼ばれたのです。心配事があると心臓がドキドキするなどの現象から、まさしく心は心臓にあると長い間考えられていました。それは、洋の東西を問わず、欧米では心のことをハートと呼びますし、心臓のこともハートと同じ単語を使用していることからも分ります。そしてこのハートのマークに矢が刺さると、初恋が実った記号としてマンガなどではよく見かけます。しかし、心臓を解剖してみましても中には何も入っておりませんし、心臓はただ血液を送り出すポンプの役目しかしておりません。そして医学の発達によって、ようやく、心は大脳の働らきによって生まれるものであることが分ってきました。精神病が大脳の働らきの障害によるものであることが明らかになったのは最近のことである と言えるでしょう。それ以前には、ヨーロッパなどでは悪魔がついたとか、魔女だとか呼ばれて、いみ嫌われましたし、同じような感覚は日本でも長い歴史が続いておりました。それは医学が未発達であった時代のなごりであり、精神病を、ひとつの病気として受けとることのできなかった時代のなごりが、今でも大きな偏見となって続いていると云えましょう。

 それでは、精神病の医学的分類について説明を加えてみたいと思います。精神病は、広義の精神障害の中の一部であります。精神障害という言葉はとても広い範囲のものを含んでおります。
 まず、医学的治療の対象としてあつかわれないものから取りあげますと、精神欠陥とでも呼ぶべき二つのものがあります。第一は精神薄弱であり、第二は性格異常(精神病質)であります。
 次に精神疾患と呼んで医学的治療の対象となるものでありますが、これは大きく三つに分類されております。第一は内因性疾患、第二は外因性疾患、第三は心因性疾患です。
 内因性疾患は、その人の体質のように生れながらにしてそなわってきた心の質とも言うべきもので、素因とも呼ばれております。しかし、体質と同じだと考えれば、脳の体質を意味していると言えましょう。弱い体質の人は、よく病気をしがちであります。しかし、成長するにつれて、その弱い体質を訓練し、努力することによって、克服することができます。これと同じように脳の体質も、病気をしがちな体質があるわけで、それを注意深く、根気強く訓練していくことによって立派に克服できることも理解できると思います。この内因性疾患を精神病と呼び、精神分裂症、操うつ病、てんかんがあげられます。三大精神病とも呼ばれています。
 次に外因性疾患とは、身体の外から病気の原因となるものが入り込んでおこる病気であります。アルコール依存症やシンナー中毒、麻薬や覚醒剤中毒もあり、頭部外傷後遺症や、コレステロールを主成分としておこる脳動脈硬化症の結果、老人性精神病や老人性痴呆、その外にも限りないほど沢山の病気に伴なっておこる精神障害があります。
 心因性疾患とはストレスやショックなど心に何かの刺激が加わっておこる病気です。その代表はノイローゼです。ノイローゼはドイツ語ですが、一般には日本語の神経症よりも分りやすい言葉になっています。
 ノイローゼの外にもうひとつ、大変重大な病気があります。それは心因反応(心因性精神病)と呼ばれるものです。ノイローゼと同じように、心に何かの刺激(心配事や不安なこと)があって、ノイローゼと同じような状態になりながらも、症状は三大精神病(精神分裂症や操うつ病など)と同じようなものが発現してくるものです。無論、幻覚や妾想などを認めることもあり、症状からだけではいわゆる精神病と区別が困難です。しかも最近は、この心因反応がふえている印象があります。心因反応と精神病との診断の区別は、心に加わった刺激があるか否かと言うことになりますが、気の小さい人では、私どもの考えでは考えられないような些細なことに大きなショックを受けたりする人もいるので、何が原因になっているのか分りにくい場合もあります。しかし、心因反応であれば、的確な治療をすれば、3ヵ月から6ヵ月程度で症状は改善されますし、1年も経過すれば、ほとんど完壁によくなるものが多いのです。しかし、このような病気になる人は性格的に弱さがあり、気が小さいことなどから、再び心配事などが起これば、また同じような症状を示す場合もあって、再発のように見えることもあ ります。どんな些細なことでも、その本人にとっては、何よりも大きな負担になることがあるのですから、この原因になっているものを見落してしまえば、精神分裂症や、操うつ病と診断されることも無いとは言えません。心因反応の場合には、薬物療法も大切でありますが、精神療法的な治療や患者さんへの暖かい支えなどが大きく症状の改善に役立つわけです。

 以上で、精神障害の大略を見渡すことができたと思いますが、それでは、「精神病」について、その経過を説明したいと思います。心因反応と異なり、精神病は脳の質とその働らきが問題でありますから、特に、精神的ストレスやショックとは直接的な関係もなく自然発生的に症状が出現してきます。ただ体質の弱い人が、ちょっとした疲労などから大病をわずらうのと同じように精神病の素因をもった人の場合には、時に、些細な精神的不安やショックが引きがねになって、本ものの精神分裂症や操うつ病を引き出してしまうきっかけになる場合もあります。安定した生活であれば、素因はあっても、症状が出ずにすむ人もいるわけです。しかし、多くの場合には、大体、自然発生的であると考えなければなりません。発病の仕方は多くの場合、除々に発症します。最初はなまけている、落ち着かないと言う程度の状態が続いて、あまり家族も気にしないうちに病状はどんどん進行してしまうのが普通で、そのうち、大変困ったことをしたり言ったりするようになって、はじめて家族があわてだすようなことになるようです。まさか、自分の 子供が、自分の夫が精神病になろうとは夢にも思っておりませんから、気付くのにおくれるのは仕方のないことかもしれません。発症の年令は多くは青年期です。
 病気に気付いて、すぐに専門医の治療を受ければ冶りも比較的によいのですが、なかなか精神科を受診するのには抵抗があるようです。うろたえているうちに症状は増悪して、どうすることも出来ない状態となって、治療のスタートから入院、しかも、保護室にでも入らなければならない状態になってしまっている場合も決して少なくありません。早期発見、早期治療であれば外来通院治療で結構やっていけるのですが・・・。
 それでは、病気の最も悪化した時期を第1期としましょう。幻覚や妾想のために、それに動かされ(支配され)た行動をとり、興奮、不安、自閉、無言、無為(何もしない)、昏迷(ボヤーッとしている)などの症状で、病識が全くなく、指導や説得の通じない状態です。この時期に早目に的確な保護と薬物治療をしなければ、事故をおこしがちであり、また大脳は疲れはてて荒れはてて、後々まで回復の悪い事態をまねきます。
 次に、第2期ですが、上記のような症状が消えて、比較的におだやかとなり、話も通じますが、落ち着かない、イライラしている、不眠、寝てばかりいる、など精神不安定な状態の時期です。この時期では、開放病棟で治療することも可能ですし、症状の程度によっては外来治療も可能です。しかし、症状が安定せず、波状的な経過、よくなったり悪くなったりしがちですから慎重を要します。この時、些細な刺激で再び第1期に逆もどりすることもまれではありません。
 次に第3期ですが、精神的に安定はしてきますが、自発性や意欲がない、指示通りにできない、自分勝手な行動をとる、他人の迷惑を考えない行動が残ります。一人の社会人としては未だ不充分な段階です。この時期には作業や集団(家庭や病陳)での生活訓練を必要とします。多くの人が、一人前の社会人となり就職し結婚生活に入る前に発病してしまう場合が多いために、このような未熟な人格の状態で社会人としての生活体験のないまま病気に落ち込んでしまいますと、一人前の社会人として通用するレベルに到達するのに大変な努力や訓練を必要とします。もう一度、赤ちゃんから育てなおすような手がかかる場合が少なくないと言えましょう。
 第4期は、社会復帰の段階です。ここでは最も対人関係をスムースにできるか否かが問題になります。その基本は、家族または病棟での人間関係です。我がままがなくなり、相手の立場や気持ちを理解したり、少々の難儀はがまんし、自己中心的でなく、協調性や忍耐強さがでてくればもう大丈夫です。
 ここまで到達するには、先にも述べましたが、大変な努力と根気がいります。しかし、その努力と根気は決して精神病にだけ課せられた悲惨な宿命であるとは云えません。
 小児マヒの子供や脳性麻痺の子供たちが、一歩、歩こうとして歩行訓練をしている。あの痛ましい光景を思い出して下さい。そして、一歩、歩かせようとして、どんなに泣き叫けぼうともその訓練をやめようとしない母親の姿と心を思い浮べてみて下さい。精神病の治療にも、あの母親の心と努力が必要なのです。病気の治療には、どんなすばらしい生活よりも、生きるという尊い姿がにじみ出ているのを見ることができます。


出典:鹿児島県精神障害者福祉促進の会会報「みどり」第41号「講演 精神病の経過」