〈 家族の変容 〉   「変容する家族の病理」

三代の家族


 私の祖母ちゃんの家に行くと黒光りした天井や柱があって畳敷きの居間には大きく四角に切った囲炉裏があった。
祖父ちゃんはその正面に座って、祖母ちゃんの指定席は出入りする障子に近い場所だった。
薪が赤く燃えて皆の顔に炎の影がゆらめいていた。
大きな薪はいつまでもくすぶって、私たち兄弟が帰る時は、いつも祖母ちゃんは暖かい薩摩芋を持たせてくれた。
 かつて、私の家では四角い大きな火鉢があって、真中に五徳があって、やかんがいつも置いてあった。灰を火箸で整えながら、白く赤く焼けた炭火にフーッと息を吹きかけてみた。
父はいつも正面に座ってやかんの代わりに黒じょかを置いて焼酎に燗をつけて飲んでいた。
手を擦りながら皆の手が炭火のまわりに並んでいた。
 今、私の家では、楕円形のテーブルがあって椅子が周りをとり囲んで、天井から暖房機が暖かい空気を送っている。
今ではもう妻と二人並んでテレビの方を向きながら夕食を食べている。
子供たちは、それぞれ東京や福岡などにいて、時々電話がくるくらいのものである。
それでも私の家族は夫婦と子供4人だから、正月とお盆のわずかな日だけは少しばかり賑やかになる。
 今の若い夫婦の家族は子供が一人か多くても二人だと聞いている。
寂しくないものかとよけいな心配をするのも、もう時代遅れなのだろうか。

 確かに私が体験した三代の家族の姿は比較してみると驚くほど変化してきた。
戦前、戦後、そして高度経済成長の時代を象徴する家族の姿であった。
 家族の変容 戦後の民主主義導入で、日本の結婚のあり方は大きく変わってきた。
「家と家」の結婚から「両性の合意によってのみ成立する」と謳った民法によって「個と個」の結婚へ移行した。
それまでの大家族は三世代家族となり、さらに核家族を生むことになった。
見合い結婚から恋愛結婚が主流となって、家族は形式や仕来りよりも相互間の感情的な結びつきが重視されるようになってきた。
最近では少子化によって核家族はさらに小規模化し、家族としての機能までも縮小化しつつある。
 経済企画庁が出した昭和60年版「国民生活白書」によれば「戦後40年」の総括として、
日本が達成できたものとしては、
 最長寿国、豊かで安全な社会、高い教育水準。
十分に達成できなかったものとしては、
 道路や下水道、公園など生活関連の社会資本の整備、労働時間の短縮と十分な余暇時間。
失われたものとしては、
 自然、家族や社会のきずな
などをあげている。
家族の変容は今や誰の目にも明らかであり、それは国としての判断でも「失われたもの」としての認識となっているのが悲しい。

 

時代の流れと家族

 戦前では、女性にとって結婚は生きるための保障としてきびしい掟があった。
今では女性一人で生きることも決して困難なことではなく、むしろ一人の方が生きやすい面さえある。
そんな時代の結婚は、女性にとって自分の自由な意志による自己実現と幸福追求のための場となってきた。
かつて生活水準が低く、食べるにも事欠く時代には、人間のしあわせは、生きるために必要な「衣食住」が足りてさえおれば十分であった。
しかし今では、それが当り前のこととなり、「衣食住」のすべてに有り余るほど多くのメニューが揃っている。
だから、それ以上の欲求が満たされることを望むようになって今では、さまざまな問題が発生しつつある。
 昭和30年代には「もはや戦後ではない」と言われたほど経済は成長し、大量の労働力が「集団就職」や「出稼ぎ」として都市に集中して「都市化」現象が始まっていた。
この時点ですでに「マイホーム主義」という核家族化は始まっていたのであった。
電気洗濯機、電気冷蔵庫、白黒テレビが普及し始めて「三種の神器」と呼ばれた。
昭和40年代になるとカー、クーラー、カラーテレビが3Cと呼ばれて「新三種の神器」が普及し始めた。
高度経済成長にいよいよ拍車がかかり、エコノミックアニマルとかワーカホリック(仕事中毒)と呼ばれながら「長時間労働」に耐えて頑張るお父さん達がいた。
企業は高学歴を採用するようになって、「教育ママ」たちは我が子の育児と教育に没頭し始めた。
その一方で「共働き」による女性の社会進出もめざましく、ウーマンリブをきっかけに始まったニューフェミニズムによって女性の社会的な意識は急速に高まっていった。
その影の部分では公害問題や都市問題、交通戦争など経済至上主義の「経済大国」に大きなかげりが出始めた。
円高不況やオイルショックによる「物不足パニック」もあった。
昭和50年代には安定成長の時代と呼ばれ、会社の生き残りをかけて単身赴任で頑張る「会社人間」と呼ばれる夫たちがいたが、「国の豊かさ」と「個人の豊かさ」には大きなギャップがみられた。
昭和60年代から平成にかけてはバブル景気の中で「企業戦士」として頑張る亭主たちがいて、一方には振り向いてもくれない、何もしてくれないと嘆く「くれない族」の妻たちが、諦めと孤立によって「亭主元気で留守がいい」と言っているうちに、バブルの崩壊で日本の経済も政治も社会全体が混沌として先行き不透明な時代を迎えるに至ったのであった。
このように展望してみると男達は高度経済成長とともに家族を顧みることもせず、ただ働きづめのロボット化した姿が浮き彫りになってくる。
女達は家電製品の普及によって余暇時間をものにしながら、高学歴社会のなかで育児と教育に力を注ぎ、母子密着を強めつつ、フェミニズムの流れの中で旺盛に社会進出をはたして、戦前や戦後時代とは比べものにならないほどの変化をみせている。

家族の病理

 子供の頃は家庭でも学校でも男女平等として育てられてきても、ひとたび社会に出て、特に結婚となると、今なを男性優位の風潮が残っている。
自分の自由な意志によって自己実現と幸福追求のための結婚となった時代でも、家族の意識は前時代的な意識を引きずって亀裂が生じやすい土壌を抱えている。
特に女性の場合はフェミニズムに象徴される社会的に男女平等意識が高まって、前時代的な意識とのずれが亀裂をより深刻なものにした。
これが夫婦関係を希薄にして家庭内離婚状態や現実の離婚を生み出す基盤になる危険性となってきた。
 「衣食住」が足りれば何も言うことのない時代から、今や有り余るほどのメニューの中で生きる人々にとって、選択が自由に許されることは、あれも欲しい、これも欲しいと限りなく欲求水準を高めてしまう結果となって、かえって多くの欲求不満を抱え込んでしまう。
持続する欲求不満状態は、言い替えればストレスそのもので、特に物質的豊かさを追い求めエコノミックアニマル化した競争社会は、生き残りをかけて、極度にストレスフルな社会を生み出した。
 子供たちも高学歴社会の中で偏差値だけの価値観にしばられながら、自由の中で硬直化した家庭や学校の管理を受け続けることになった。
その子供たちが校内暴力や家庭内暴力、非行やシンナーなどの薬物依存、不登校やいじめ、少年犯罪などとして、ひとつの社会現象を示してきたのも当然のことであった。
 このような子供たちの現象は、親たちを刺激して育児と教育には、さらに過敏さを増してきた。
夫婦関係の希薄化とともに多くの欲求不満を抱える母親たちは、数少ない子供たちに過剰な期待をかけて管理することに没頭しはじめて、母子密着が強化されてきた。
一方父親たちは競争社会の中で孤立化し、家庭の中でも疎外化される立場に追いやられながら、家族には背を向け、ワーカホリックに陥って、会社に過剰適応することでしか安定感を得られなくなってしまった。

共依存とアダルトチルドレン

 少子化傾向は核家族の規模を縮小すると同時に社会との接触面をも縮小して、それぞれの家族が孤立化しはじめた。
家族は密閉されたブラックボックスの中で、対立する不安定な人間関係を生きなければならなくなった。
ストレス状態に疲弊しはじめた家族の中から一人がアルコール依存症のような病気になって、ある種の弱者になることで家族のバランスを保つ病理現象が出はじめた。
多くの場合、それは社会的にも家庭的にも疎外化されやすい夫たちで、そこに追いやりながら見事に支配し世話焼きを続ける妻たちがいる。
このような人間関係を保ちながら家族の崩壊を免れている関係を「共依存」と呼ぶ。
これは昭和40年代後半に家族システム論が展開されるようになって見えてきたアルコール依存症家族の病理である。
このような家族の中で育つ子供たち(Children-of-Alcoholics=COA) には、不登校や非行など情緒的にも社会的にも多くの問題が発生していることが指摘されるようになった。
ところがこのCOAがおとなになって、より深刻な問題を抱えていることも知られるようになった。
子供の頃、親に甘えることもできず、自分の感情を押し殺して生きてきた人にとっては、感情の表現も自由にできなくなっている。
そのような「生きづらさ」をたくさん抱えて悩んでいるおとなたちのことをAdult Children of Alcoholics(ACOA)と呼んだ。



ところが、アルコール依存症には無関係でありながら家族が家族として機能していないような機能不全家族にも同じように悩んでいる人たちが大勢いることも分ってきて、Adult Children of Dysfunctional Family(ACOD)と呼ばれるようになっ た。
今まで見てきた現代の家族の多くはACODを生み出すのに十分な条件を満たしている。
 共依存の妻は子供に対しては共依存の母となって、期待という見えない鎖で子供たちを縛り上げ、自分の思い通りに支配しようとして見えないカプセルに子供たちを押し込んでしまっている。
幼児期から母親の価値観に支配されて作り上げられたアダルトチルドレン(AC)は本当の自分の人生を生きることができない息苦しさがある。
偽りの自己のまま親の押しつけた人生を生きる虚しさを訴えるACたちが今また、かつての自分の幼児期と同じように共依存妻や共依存母になって、次の世代に過酷な問題を伝えようとしている。
これが世代間伝達と呼ばれる現象で「親のようにはなりたくない」と思っていながら見事に親と同じことを繰り返してしまう家族の病理現象である。
ACや共依存からの回復をはかって、自分の世代でこの病理にストップをかける必要がある。
そのためにはまず自分がACや共依存であるという自覚から、ようやく回復が始まることになる。


出典:随筆かごしま 107号  「変容する家族の病理」