アルコール依存症の心の経過

 すべての病気に初発期から末期までの経過があって、その経過は不思議なことによく似ている。確かに外見的な病気の症状の経過も似ているのだが、特に病気になった患者の心理的な過程は、どの病気でも同じだと言ってよい。

第一段階
 まず、どんな病気でも初発期には「あれ、病気なのかな」と思う程度で過ごしてしまう。カゼでもそうだ。ちょっと、くしゃみをして「あれ、カゼかな」と思ったりするが、それだけで、すぐに病院を受診する人はまずいない。「まさか、そんなに悪くはならないだろう」とか「すぐによくなるだろう」と楽観的に考えて、しばらくは放置してしまう。
 アルコール依存症でもそうだ。初発期ののん気さはカゼよりものんびりと過ごしてしまう。それから少し病状が進んで、鼻水が出たり、のどが痛くなったりして、全身が何となくだるくなったりすると「やっぱりカゼかな」と思ったりするが、とりあえず仕事を休んだりはしない。多忙だから休んでなんかいられないと思う。だから病院にも行かない。しかしそれでも少しずつ病気は進行していく。咳が出たり、痰が出たり、それが長びいたりすると嫌な予感におそわれる。「重症な病気になったのだろうか」とこの段階で、漠然とした不安がおこってくる。

第二段階
 「もしかして肺癌のはじまりか」と心配することもある。アルコール依存症の人も同じだ。「もしかしてアル中になったのかな」と思うこともあるのだが、すぐに「まさか俺が」と打ち消してしまう。
 これが心理的過程の第二段階である。アル中になってしまったら大変だと思う気持ちがあって「俺はちがう俺はちがう」と認めようとはしない。これが第二段階に特有な否認である。癌の人でも、万一、癌であったらどうしよう。遂には死んでしまうのか、仕事も失って、入院治療を続けなければならない。家族にも迷惑・心配をかける−−ああ、困ったなぁ、どうしよう。と思えば思うほど「まさか俺が癌であるはずはない」と否認してしまう。現実から目をそらそうとする。逃げようとする。その反動で、「俺は何ともないのだ、まだこんなに元気じゃないか、仕事もできる。やろうと思えば何でもやれる」と強がってみる。自分は何ともない、病気ではないことの証拠を示そうと無茶なことをして頑張ってみせたりする。
 アルコール依存症の人も同じで「俺は止めようと思えばいつでも止められるのだからアル中じゃない」と立派なところを見せようと大いにカムフラージュする段階である。否認が強ければ強いほど、目の前の現実は、どうにもならないところまで進行している証拠でもある。こうしながら次の第三段階に進行していく。

第三段階
 アルコール依存症は治療をせず酒を飲み続ける限り、とどまることなく進行・憎悪する病気である。事態は急速に悪化しはじめる。遂に自分ではどうすることも出来ない段階になってしまう。癌の人でもそうだ。どんなに病院ぎらいの人でも、もう、無茶をして強がってみせることもできなくなる。身体が言うことをきかない。遂に俺も病気なのだと認めざるを得なくなる。そこで仕事も止めて病院を受診し、治療に取りかかることになる。入院すると家族とも別れ、慣れない不自由な生活が始まる。それでも、病院に行けば自分より重症の人はいくらでもいる。
 そこで「まだ俺はましな方だ」となぐさめたりしながらも、遂にここまできたかと哀れでみじめな気持ちになる。絶望的で抑うつ的気分になってしまう。
 しかし、この時期は一種の休養状態である。そして次の段階に進むための心のエネルギーを蓄え、心の整理をする絶好の時期となる。この時期の患者の苦悩は深刻であり、はじめて人生を深く考えたり、人間らしい心が芽生えはじめる。こうして次の第四段階に入る。

第四段階
 病気のために失うものが沢山ある。しかし、それを素直に自分の現実として認め、受け入れる。病気をもちながらも、よりよく生きていくために新しい目標や生きがいを見出して人生を有意義に生きていこうとする社会復帰の段階である。ここでは自己の力の限界を知るとともに他人の立場を深く理解し、自我が成長し、人間性が成長していくのである。
 例えば、脳卒中で突然に手足が麻痺した人の場合でも最初はイライラして、怒りっぽく、感情的になりやすく、こんなことなら死んでしまいたいと、現実の自分の姿をなかなか受け入れきらないが、徐々に、そんな自分を素直に認め、たくましく生きてゆこうと車椅子に乗ったり、杖をつきながらも麻痺した手足も一緒に第二の人生に挑戦していくのである。手足も丈夫で、車椅子もいらないアルコール依存症の人こそ、もっとたくましく自分の人生を見事に切り開いてほしいといつも祈るような思いである。


出典:鹿児島県竹友断酒会機関誌「竹友」第29号(1993年3月)
「アルコール依存症の心の経過」