アルコール依存症の精神構造と治療



一定の精神構造

 「どんな性格の人がアル中になりやすいのですか』などという質問を受けることがある。この質問に答えはない。どんな性格の人でもアルコール依存症になる可能性はある。しかし、依存症になってしまえば一定の性格傾向を示すようになる。それは、麻疹(はしか)にはどんな性格の人でも罹患する。しかし、罹患してしまえば、どんな人でも、麻疹の経過は一定の症状を出してくるのと同じである。熱が出て、食欲はなくなり、頭痛や嘔気があったりする。間もなくすると発疹が出てくる。医師であれば、すぐにロの中を診察する。すると口腔粘膜にコツプリック班という白い斑点を見ることができる。しばらくすると発疹は融合して色があせてくる。熱もひいてくる。それで麻疹は治癒する。どんな人の麻疹も、こんな経過をたどる。アルコール依存症になつてしまえば、麻疹と同じように一定の経過をたどり、一定の性格傾向を示すようになる。それは病気の一症状であるから、みんな同じようになってしまう。病気になる前の病前性格とはちがった性格になってしまう。
 では、その一定の性格とは、どんな性格であろうか、どんな精神構造であろうか。私がみてきた何千人のアルコール依存症者は、基本的にはみんな同じ形をしている。病態として、根本的に同一の精神構造になつてしまっている。その姿は、どの家族も一様に気付いている姿である。何とも困った姿である。

否認  まず、第一は「否認」である。何ごとも認めようとはしない。特に人の言うことなどは頭から否定してかかるという心の構造がある。これは、ことばをやわらげて言えば「すなおさがない」ということに尽きる。それは独断と独善である。そこにある現実を認めようとしない。飲んで真赤な顔をしていても「飲んでいない」と言いはる。認めようとはしないのである。すべてが「ごまかし」であり「嘘」になってしまう。しかし、その嘘に対して良心の呵責になやむどころか、嘘が成功したと秘かにほくそえんでいる。ここまでくれば、周囲の人々は大変な迷惑であり、嫌気がさしてくる。もう勝手にしてくれ、と言いたくなるレベルである。これが周囲の人々の信用を失っていく大きな原因にもなっている。周囲の人々が相手にしなくなる。そうなれば、いよいよ一人淋しく孤独になって、もっともっと酒をあおるようになる。悪循環は尽きることなく続いてしまう。こうして入院しなけらばならない状態になり「アルコール依存症」であると診断されても、まだそれを認めようとはしない。「少し飲み過ぎて肝臓を悪くしただけだ」とか「女房にちょっと大声をはりあげたのでここに連れてこられた」 とか「俺はたいして飲みはしない。もともと好きではない。俺がアル中なら世間の人は皆、アル中だ」と言ってアルコール依存症であることを認めようとしない。それを「病識がない」と言う。そのために依存症の治療はスタートから大変困難な一面をもっている。本当に心の底から依存症であることを認めることができるようになれば、半分以上治療が進んだと考えても良いくらいだ。
現実逃避 第二の精神構造は「現実逃避」である。そこにある現実から目をそむけてしまう。現実を直視しようとしない。直視することがこわくもあり、めんどうでもある,それはある意味で精神的な弱さである。特に困難なことやめんどうなことからはサッサと逃げてしまう。そして、妻や両親にあっさりまかせて、依存しているのである。酒は飲んでも、支払いからは逃げてしまう。大きなことを言ってはみても実行からは逃げてしまう。だから、約束ごとは守れない。言うこととすることが一致しない。だから信用されなくなる。「言わせておけばよい」と周囲の人がさけるようになる。この程度はまだ良い方だ。「現実逃避」は「現実直視しない」ことの結果であるが、最も「困るのは、今、現実の家庭の状況を直視しないことである。家族がどんな気持ちで生活しているか、家計はどうなっているか、子供の教育は、しつけは、両親はどんな思いでいるのか、まったく無視してしまっている。無視すると言うよりも、しっかりと直視することが、やはりこわいのである。めんどうなのである。結局はどうでも良いのである。自分さえ酒が飲めれば良いのである。さらに、仕事のことも直視しない。経営がどう なっているか、職場の対人関係は、どんどん減り続ける注文のことも、真剣に考えようとはしない。仕事がうまくいかなくなれば、その原因を人のせいにして、さらに飲み続ける。
 「責任転嫁」も「現実逃避」の裏返しである。ここまでくれば「どうにでもしろ」と周囲の人は相手にしなくなる。だから、もっと仕事はうまくいかなくなる。そうなれば、人が悪いと相手を恨み、それを理由にまた飲み続けるという具合になる。
 現実を直視せず、現実から逃げてばかりいるから結局は現実ばなれしたことばかり言ったり、したりするようになる。この姿を見ていると赤ちゃんと一緒である。おとなとしての考えがない。なぜ、こうなるかと言えば、アルコールによつて脳が麻庫して、脳の働きが低下するから、赤ちやん程度のことしか考えられなくなる。おとな社会のむつかしいことはにがてである。めんどうである。だから逃げてばかりいる。困難に立ち向かうだけの思考力、判断力も忍耐もなくなっている。がまんすることが出来ない。それは、赤ちゃんが欲しいものねだりをして、ギャアギャア泣いてみせるのに似ている。がまんすることを知らない赤ちゃんのやり方と同じである。飲みたい時に飲み、食べたい時に食べるという我がままのしほうだいだから、入院生活にも耐えられない。入院生活は集団生活であり、時間に区切られた生活である。それが苦痛でたまらない。赤ちゃんのような勝手気ままが許されないからそこから逃げようとする。転院や退院を考えて、そればかりを要求する。その言いわけに見事な口実を並べたてる。この要求の電話にどの家族も悩まされる。ところがここは家族も我慢のしどころである。い つもだまされ続けてきたのに、またもや「今度だけは本人の言う通りにやらせてみよう、あれだけ言うのだから」と、あっさり治療中断してしまう家族も時にはいる。その結果は断酒という大きな忍耐から逃避してもとのもくあみである。
自己中心  第三の精神構造は「自己中心]である。赤ちゃんのように我がまま勝手に泣いてみせる姿はおとな社会では許されない「自己中心」の姿である。おとな社会では常に客観的にもの事を考えなければならない。すなわち、周囲の人々のことも考えて行動しなければ、おとなとは言えない。
 しかし、酒を飲んで酩酊している世界は、まったく一人だけの世界で、自分一人が酔って、いい気分になっているのだから、はた迷惑なことである。自分だけの脳が麻庫して赤ちゃんのような世界で生きているから、赤ちゃんのような「自己中心」になってしまっても決して不思議ではない,赤ちゃんのような我がまま勝手は、周囲の人々にとって、とても許しがたい苦痛を味わわされることになる。
 こんな姿が家庭を崩壊させる大きな原因になる。妻が夫を、子供が父を殺してしまうなどという悲惨な事件はこんなところから起こってくる。
 親が子を殺すことはあまりないが、最も多くの被害者は親である。夫婦が離婚すれば親もとにころがり込んでくる。単身になった息子をかかえ込んで、どんなに痛めつけられても、せっせと親の愛をささげ続ける姿には驚嘆と敬服しかない。それでも息子の方は、自分一人で大きくなっつたような顔をして、それがあたりまえと云わんばかりのやり放題である。尽くせば尽くすほど、依存症の心は赤ちゃんになってしまう。遂には犬猫にもおとる姿になってしまう。犬でもおしっこの場所は決まっている。猫でも自分の糞には砂をかける。ところが立派なおとなが尿失禁のたれ流しになってしまう。犬でもやさしくしてくれる人には尾を振っって感謝する。猫でも身をすりよせてゴロゴロないてみせる。なのに依存症になってしまうと、やさしくしてくれる人に暴言を吐き、暴力を振るう。相手の気持ちなど犬猫ほども分かっていない。なぜこうなるかと言えば、アルコールにつて麻痺した脳はボケてしまって感受性が極端に落ちてしまうから、相手の気持ちなど分かりようがなくなってしまう。それはまさしく「自己中心」の言動である。
 だから、自分の言動を改めようなどという発想はおこらない。ただ、その時、その場で自分の気ままにやれればよい。自分の思い通りにならなければ、赤ちゃんのようにかんしゃくをおこせばよい。興奮して、何もかもめちゃめちゃにしてしまう。面白くないことがあれば、それを叩きこわしてしまう。いつもいつもそんなことのくり返しで、結局は、自分自身をも叩きこわしているのである。依存症は慢性的自殺行為であるとも言われる。そのまま現実にも自殺して死んでしまう人の数も多い。この行為自体が極めて「自己中心」的行為であり、「現実逃避」である。そして、自分の病気を病気だと認めることができず、治療のための努力が足りないことを認めず、ただ自分の不幸を運命的に悲観する「否認」の結果である。さらに、今、この時を耐え、我慢して生きることができない、過去も未来も消え去って、今さえ楽になればよいと思う心が働いて自殺してしまうことになる。これは次に述べる「刹那主義」の精神構造でもある。依存症者の心は自殺と直結していると言つても過言ではない。
刹那主義  第四の精神構造は「刹那主義」である。すなわち、過去や将来のことを考えず、目前の快楽を求めようとする姿勢である。要するに今さえよければ良いのである。前後左右が見えなくなる。考えようともしなくなる。だから自分自身が見えなくなる。見ようとしないと言った方が当たっているかもしれない。
 将来を考え、過去を振り返って反省することをしないから、自分は自分一人で立派にやってきたと思い込んでいる。これまで、どれほど多くの人のお世話になり、どれほど多くの愛の恵みに支えられて生かされてきたかに気付くことができない。だから、周囲の人々に感謝することを知らない。「感謝」という言葉は知っているし、その意味も知ってはいるのだが、「感謝する心」を知らない。人にしみじみと感謝するという体験がない。
 感謝の心がないから「ありがたい」と思う心が起こらない。すべて、そうしてくれるのがあたり前で当然としか受けとめない。だから支えてくれた多くの人々にご恩返しのひとつもしなければ、と思う心が起こらない。だから高慢で、つつましさがない。身のほどを知ると言うことがない。気にくわないことがあれば、その瞬間に激怒して、攻撃してくる。それが、どれほどあさはかなことであるかが分からない。
 今さえ良ければ良いのだから、人のことなどかまってあげる暇はない。今、その時に起こってきた欲求のままに行動してしまう。
 「依存」とは、まさしくその時の欲求を抑えることのできない強さで、アルコールに引きずり込んでしまう魔力である。それは、アルコールの中にある力ではなくて、アルコールによって手なずけられた生身の身体と精神の中に秘かに生まれてきた魔力である。それを「身体依存」、「精神依存」と言う。そして、この魔力が、依存症者を奴隷のように引きずりまわしている原動力になっている。刹那主義で行動してしまうのは、すべてこの「依存」と呼ばれる魔力のなせるわざである。その意味では、アルコール依存症者は「依存」と言う魔力のあわれな犠牲者なのである。
 「飲んではいけない」とささやかに抵抗はするものの「依存」の力には勝てない。ズルズルと、いつの間にか飲まされてしまっている。「依存」という魔力のあわれなあやつり人形になってしまっている。ズルズルと流れる時間は一瞬である。刹那である。だから依存症者は刹那に生きるしかない。今、この時だけが人生であり、過去も未来も消え去っている。依存症者を正しく理解するためには、「依存」の力によって刹那主義になってしまった気の毒な犠牲者の姿、奴隷のような、あやつり人形のような可愛哀相な姿を理解してあげなければならない。
 この依存こそ、アルコール依存症の本態であり、依存症者を苦しめている悪役である。

治療

 「依存」の治療が根本的治療である。ともかくも酒を断つ以外に治療はない。一滴たりとも飲んではならない。酒を断って三日もすれば離脱症状(禁断症状)が出現してくる。症状の度合いはさまざまだ。症状は二、三日もすればほとんど消失してしまう。それからが本番である。心身ともに安定したところで、自分は「アルコール依存症」であることを認めることが先決である。すなわち「病識」をもつことが何より大切である。「否認」があってはなかなか病識は出てこない。
 わずかでも病識をもてるようになったところで、治療をうけることを「すなお」に認め、外来治療にしろ、入院治療にしろ、ともかくもその治療から逃げずに頑張ることである。
 とかく、今、受けている治療を認めようとせず、自分には合わないとか、治療法を非難したり、治療者を非難したり、さらに治療施設を非難したり、あげくのはては、ともに生活している同病者を非難して「あんな奴らと一緒にはおれない」と言って現実逃避しがちである。結局は「転院したい」とか「退院したい」と言いはじめる。そこを、どのように乗り越えるかが「治療の成功、失敗の分かれ目である。この時が、家族にとっても一番苦しい。ひっきりなしに電話がくる。泣き落としで駄目なら、おどしにかかる。よほど家族がしっかりしていなければ、たくみな言葉に負けてしまう。家族の初志一貫した態度や、何としても、しっかりと治療してほしいと願う岩のように不動の姿勢があれば遂にはあきらめてしまう。 あきらめてしまうと心が落着く、しばらく放心状態になるが、まもなく精神安定状態になって、冷静にことを考えるようになる。それまで、いかに自己中心で我がままなことを言っていたかに気付きはじめる。「おとなげないことだった」と少し反省の気持ちがめばえはじめる。自己反省の姿勢が出てくると、治療は半分以上でき上がったと言ってよい。我々は、この段階で「内観療 法」という精神療法を活用している。幼少期からの自分を、くわしく調べてみる治療である。自己をみつめる治療が進むと、いかに自己中心でその場かぎりの刹那主義で生きていたかに気付いてくる。自分のおろかさ、馬鹿さかげんに、涙を流しながら深い反省ができるようになる。この頃から人間が変わりはじめる。性格、人格の変化が見てとれる。人柄が変わってくる。言うこと、なすことが今までとはちがってくる。この段階になれば治療は9割成功である。ここまでが基礎的治療になる。あとは現実社会の中で自分を鍛え続ける治療である。ここまでくれば自己反省の深まりから、多くの人々への感謝の心が生き生きと湧き出してくる。「ありがたい」とすなおに喜べるようになる。感謝の深さによって、今まで支えてくれた人々に対する恩返しの気持ちも高まってくる。自分でも自分の成長に気付きはじめる。そして、さらに高く自分を磨き上げることに喜びを感じはじめる。それと同時に、今、アルコールに苦しんでいる人を、一人でも救いあげたい衝動にかられてくる。この世は一人では生きられないことを知りはじめた証拠である。自分も何かに役立つ人間でありたいと思う人間らしい欲求である 。
 こうして、今まで、酒、酒、酒と求めてきた欲求が、社会の中で生きる一人の人間として、より良い姿でありたいという欲求に変わってきた時、はじめて、アルコール依存症からの回復が成功しはじめたと言える。しかし、依存症の治療は、限りない人間的成長として死ぬまで続けなければならない。何故なら、一杯の酒を飲んでしまえば、その瞬間から、たちまち再発して、再びあおるように飲み続けるようになるからである。依存症の治療は死ぬまで一滴のアルコールも飲まない生活を続けることしかないのである。「少しくらいは」と思う心が三度五度十度の入院になつてしまうことを、しっかりと肝に銘じて断酒を続けなければならない。そうすることによって、人生は明るく、大きく発展し続けることができる。
 このような人間的変化、成長がない限り治療が成功したとは言えない。治療前と少しも変わっていない場合には、必ず再飲酒して、見事にもとのもくあみである。
 本人も家族も、この人間的変化をチェックポイントにしながら、耐えるところをしっかりと耐えながら、治療を成功させなければならない。


出典:鹿児島竹友断酒会機関誌「竹友」第25号(1991年2月)「アルコール依存症の精神構造と治療」