内之浦の歴史
このコラムは小大塚平男氏著「内之浦町史」よりの引用で紹介をさせて頂いています。


時代の推移

内之浦の原始古代社会に於ける様相はこれを明らかにする資料に乏しく、和銅6年日向国を 割いて大隅国を置かれたころ、大隅平原には古墳文化が咲き誇っていたが、内之浦は隔絶し た辺地としてそのような文化の遺物も発見することができない。ただ悠遠の昔、彦火火出見 尊を始めとする神々の伝説が残り景行天皇が天子山に行幸され鷹屋の郷名が起こってきた頃 から、内之浦の歴史がほのかに浮かび上がって来る。
奈良朝及び平安朝の頃、中国に渡る要津として利用されたことが諸記録に見えるが、平安の 末期肝付氏が高山に入って以来約550年その支族「内之浦氏」「岸良氏」の治下にあって 中央の権力者源氏に叛いて安徳帝をたすけたといい、又南北朝時代には南朝に属する肝付氏 と運命をともにしたという。
平安戦国の頃国民が海外に雄飛した頃の内之浦は港としての活気を呈し、中国及び南方へ貿 易港として栄え、時には又倭寇の根拠地ともなり内之浦の船頭は遠く中国沿岸、呂宋方面に 航路を求めて活躍した。
天正の頃、肝付氏が島津氏に降ってからは北郷氏領次いで伊集院領と変わったが後、島津氏 の直邑となり、従来高山の支配を受けていたのを改められ一外城として内之浦郷が成立し島 津の治下に入った。
藩政時代の内之浦は薩藩の厳重な封建制度に苦しみつつも県下の漁業、交通の中心地として 繁昌しその航路は江戸及び琉球に至り、幕末海防論の盛んなる時は海岸に砲台を設け、陸上 の遠見番所及び津口番所とともに警備を厳重にした。
明治に至って薩藩の重圧から脱し徐々に新しい政治形態に入った。以来約百有余年その間に 第二次大戦後の異常なる変革の試練を経て今日の内之浦は地理的に偏在する悪条件を克服し て、政治、経済、教育、文化の発展に努力をかさねて。昭和7年に町制を実施。



縄文文化時代

人がまだ農耕を知らず狩猟や漁労によって生活していた時代である。この時代の人々がどん な生活をしていたかということは貝塚や土器、石器等によって知ることが出来る。
内之浦は森林、海浜に接近し生活しやすい位置にある。名勝考母養子の条に「又戌亥の方一 里余に貝浜てふ地ありて、介殻多く出る。古くむかしは海浜にてもありしにや」と記されて いるが、現在ではその位置を明らかにすることができない。貝塚であろうと考えられる。
内之浦には矢じりに使った、石鏃、これらの調理に使用した石匙たたき石等が出土している。 石匙は食物を切断する時に使い、たたき石は木の実をつぶしたり肉を柔らかくする為に使用 したのである。
当時使用されたと思われる石斧は町の処々から出土し、小串・樫脇・平牟田・坂元・馬込・ 赤木屋・江平・乙田・大平見・小田・小野・津代・岸良・大浦等で発見されているが、それ らはだいたい山地から平地に移る位置であり、当時の人々が住んでいた場所を想像する資料 となる。例外として海抜200mの松生、海抜300mの佐牟田からも出土している。石質 は雑多で磨制のものが多く、高屋神社付近からは打制の石斧2個が出ている。 物を煮たり貯えたりするのに使用する土器は多くは発見されていない。



弥生文化時代

大陸文化の影響を受け、人々が水田で稲をつくり、青銅器や鉄器を使用して、生活を営んだ ころの社会生活である。それは北九州から始まり全国に広まった稲作農耕を中心としたわが 国の経済的基礎をつくった文化である。
人々は稲作に便利な低地に下って住居を構えたが、稲作農耕は共同作業を必要としたことか ら集落を形成する場合が多くなってきた。そして竪穴式住居に移り変わっている
この時代の石器には打制と磨制のものがあり、石包丁が出て来て稲作農耕が広く行われるよ うになったことを示している。土器は形が整い美しい曲線を持ち、色も明るく、朱塗りのも のも多くなり、焼きも堅い。形は皿・鉢・壷・高杯等であり大きさも様々で町内各所から出 土し、特に北方枦木の宮路氏宅付近は土器類の包含層と考えられ、この付近が次の古墳時代 まで内之浦町の中心として栄えたのではないかと思われる



国見連山と神話と高屋神社

国見連山には幾多の伝説が残っている。国見山とその西にそびえる黒園嶽、さらにその南西の甫与志嶽(通称 笹尾嶽 )の三山は「国見、黒園、笹尾の嶽よ、三度詣れば妻給る」と歌われ、昔は陽春の季節ともなれば内之浦・岸良・高山・吾平等近郷の青年男女は群れをなしてこの三山を巡拝した。このような行事を生み、いつも参拝の者が絶えなかったのはこの三山に石長比売および彦火火出見尊を祭る祠があってこれらの神々の伝説があった。 黒園嶽にある石長比売を祭る祠は、「寿命継ぎの神」として厚く信仰され、病気等の平癒祈願をする者が多く祠の回りには感謝の石灯籠が並んでいる。
古事記や日本書紀に出てくる「石長比売・木花之佐久夜比売・彦火火出見尊など」の神々が内之浦の伝説として残っている。 彦火火出見尊は笹尾嶽で降臨され、尊が綿津見宮から帰って上陸されたのが内之浦の海岸である。 また尊の御陵である高屋山稜は国見山山上と伝えられている。本居宣長も古事記伝で「薩摩の国の人云く高屋の山稜は、大隅の国、肝属の郡、内之浦の郷北方村の高屋山の嶺にあり。今俗に国見山と云て、国中をみわたす所なり。麓に高屋の神社あり。出見の尊を祭れり・・・・」と記している。また嘉永6年、島津斉彬が内之浦巡視の時山稜に参拝している。
景行天皇が大和から九州に入り、熊襲を征伐されたのは日本書紀に書いてある。内之浦北方高屋神社の東方の天子山は高屋宮の跡であるという。 天皇はまず周防から豊前、豊後を経て日向に至り、高屋の宮へ入られた。海から南方川原瀬の海岸に到着された。今でも御着が瀬と呼ばれている。上陸され休憩されたところは御腰掛けの石があるといわれる(名勝志)。丘を越えて小田部落に入られ一泊されて。このとき天皇が置き忘れられた杖が根付き大きくなったのが「小田の大楠」である。



高屋神社
小田の大楠





平家と安徳天皇

壇ノ浦で源氏にやぶれた平家の一族、入水したとされる安徳天皇はひそかに日向を下り、内之浦に滞在された後、中央の目をのがれ、南海の孤島「硫黄島」に定住されたという説がある。また大浦を中心とした内之浦・田代・佐多・大根占に至る山岳地帯の集落に平家の一族郎党の子孫が住んでおり系図・遺品・特殊な風習などを残しているといわれる。大浦の大浦姓・白坂姓が平家の子孫と称せられる。
「大浦の謎」・・・平氏でありながら源氏の氏神の八幡神社を祭っている。一族以外に立ち入り禁止の区域があった。正月2日までは部落外に出さない風習。集落の人々のたくましい骨格。みやびな感じの婦人たちの言語・行動など・・・




平田神社と神舞

岸良本地に鎮座の平田神社は、大山祇命・猿田彦命・金山彦命の三神を祭り、御神体はそれぞれ鏡である。 その創建の時はさだかでない、国分と川内に同じ神々を祭る神社があるが、そちらも共に創建の時は明らかでない。平田神社は岸良氏の城の麓にあっる。平田神社の祠官は代々松脇氏が司り、後に松脇姓から神主領姓に変わった。
平田神社では、夏越祭や新嘗祭が盛大に行われ、同神社に長く伝わってる神舞か奉納される。
また祭典で特殊なものとして「テコテンドン行事」がある、1月2日に北嶽神社の神霊を勧請し、一夜神霊を平田神社に祭り翌日還御される行事である。その行列は笛太鼓と共に進むので、その音からテコテンドンといったのだろうか。(テコテンドン・ソウライ・ソウライ・ホー・ホー)



神 舞


岸良氏と内之浦氏

肝付氏の氏族として岸良氏が岸良に封ぜられた。岸良氏の住居の後は岸良上西集落神園付近の台地である。久保田川の清流に臨み、付近に賀茂神社を祭り、道路も整然としている。戦いにそなえ、城塞は平田神社の北方の山地を選び、堀をめぐらし通路を深く掘って非常に備えた。城山という場所がそうである。これを本城とし、海岸の両端に城を築いた。
岸良と高山とは婚姻、経済等関係が深く、宗教、言語、習慣など共通するものが多い。それは肝付氏が岸良に入った当時から始まっている。
肝付氏の一族内之浦氏が内之浦に城をかまえ勢力を持っていた。その住居は北方枦木界隈であった、その周囲には、家臣の家々が後世まであった。本城は乙田と江平の境にあった川上城である。のちに肝付氏が島津氏に下り内之浦氏もその職をとかれ高山に移された。
肝付氏の没落・・・肝付兼護は阿多に移された。肝付一家の内之浦氏は高山に復帰して肝付家累代の墓を守りつつ明治に至った。(串良・加治木・高城の内之浦氏も高山の分家)。同じく肝付一家の岸良氏の正統は城下士として鹿児島に移された。幕末や明治維新前後に活躍する岸良氏がその末裔か。また宮之城に岸良姓が多く存在する。ここも岸良氏の末裔だろうか。



近世の内之浦

肝付氏の没落後、内之浦は日向の雄「北郷氏」の領地となる。北郷氏が祁答院に移封のあとは伊集院忠棟の領となる。その後関が原の戦いを経て,家康から薩摩日向大隅の領土安堵を得た島津氏の直轄領となった。
島津領となった内之浦は小串村、南浦村、岸良村の三村に分かれ、高山の支配を受けていた。この時代に高山から派遣されて行政事務を執ったのが、「東郷・吉井・川原」の各氏である。その後内之浦は島津の外城となる


藩政時代の陸上交通

高峻な山岳に周囲をさえぎられ他の諸郷と隔絶した内之浦は極めて交通不便であった、それを海上の交通で補ったけれど限度があった。薩摩藩は諸命令の達示などの道順を定めらていた。大隅のそれは桜島筋と称するルートで、桜島に始まり牛根・垂水・新城・花岡・大姶良・大根占・小根占・佐多・田代の順で内之浦に至り、更に、高山・姶良・鹿屋・高隈・串良・大崎を経由して志布志に至る道筋で、各所に宿場があった。
この場合内之浦に至る道路は、田代大原から山越えで万黒を経て岸良に入り、内之浦に来てまた山越えの道路、すなわち津房から山を登り、坂元・馬込の北を通り標高720Mの峠を越えて波見に下る道路であった。この幹線道路は終始手入れがされていた。馬も荷を背負って通行した。嘉永6年の斉彬の内之浦巡視の時もこの道路を籠に乗って往復した。
その他の路線として、平野越え(馬込から山を登って国見を越え高山の平野に通じる)・岩屋越え(平野越えの途中で分かれ、南西に国見を越えて高山の岩屋に通じる)・姫門越え(岸良西から姫門を通り、海抜460Mの峠を越えて高山の二股・川上を経て麓に通じる)・田代越え(大浦から北に山を登り標高720Mの峠を越えて田代の鵜戸野に通じる)・内之浦郷内の道路は樫脇から小串・海蔵を経る現在の国道に沿ったもの・岸良から舟木・船間・辺塚を経て大浦に至るものがあった。
江戸時代の学者「伊能忠敬」の全国測量行脚は有名であるが、その伊能忠敬が我が内之浦にも来て測量したのである。文化7年5月15日から20日まで測量した、あいにく雨が続き内之浦沿岸を測量したほかは、太陽や恒星の観測によって経緯度を知ろうとした。20日は火崎に至りて。南をみてその難所に驚いて波見に引き返した。