『昭和20年8月11日 母校焼失 その日その時』編者:堀中清美(くすの木会)から
〔オリンピック作戦〕昭和20年11月1日に南九州に上陸する計画。
南九州の上陸参戦は、昭和20年の4月頃から着々と練られ、そして入念に総合的な判断で、8月9日に発動された。
上陸地点は西部が鹿児島県串木野海岸(吹上浜)東部が有明(志布志湾)で、北部が宮崎県の海岸
オリンピック作戦というのは、昭和20年11月1日に南九州に上陸するという計画で、コロナ作戦は、翌年の昭和21年3月1日に関東地区に上陸し、東京を占領するといった計画である。この計画は単に上陸戦闘に留まらず、日本を完全に占領し、征服する意図の下に立案された。
オリンピック作戦である南九州上陸計画案は、昭和20年3月29日から4月一杯にかけて練られ、硫黄島戦や沖縄戦において、日本軍の徹底抗戦で、米軍の戦死、負傷者30%といった数字などを基礎に、綿密に準備された。同年5月18日には、トルーマン大統領がこの計画案を承認している。そして5 月18日にアメリカ統合参謀本部から、陸海空軍に対し、南九州上陸作戦の実施時期は、台風シーズン後とする具体的作戦の作成命令が下された。当時日本進行作戦には、原爆開発の状況を睨みながら進められていて、その年の4月には原子爆弾の爆発実験に成功している。 作成にあたりマーシャル海軍大将は、南九州上陸においても、原子爆弾の使用を考慮に入れていたとされている。
昭和20年6月23日に沖縄戦が終わり、約一ケ月後に"無条件降伏を受け入れ、日本に戦争を終結する機会を与える"というポッダムが発表された。しかし日本政府は、この宣言を全く無視し、"最後の一兵まで戦う"との報道を行ったので、その3日後にトルーマン大統領は、日本本土上陸作戦の実施を承認している。
日本進攻の作戦計画は空中撮影、日本側の交信傍受、捕獲資料の分析や、捕虜尋問などを総合的に判断して作成され、4 月一杯かけて練られた計画も、それ以来の状況の変化に添って、修正更新を積み重ね念入りに行われた。
南九州上陸作戦は、8月9日に作戦命令が発動されている。上陸地点は西部が鹿児島県の串木野海岸(吹上浜)、東部が有明(志布志湾)で、北部が宮崎県の海岸の3箇所である。それによると吹上浜に上陸する米軍は、第五軍団9万9000名、志布志湾に第十一軍団11万3000名、そして宮崎海岸には第一軍団9万5000名となっている。これらの軍団は、タラワ島や、サイパン島、ブーゲンビル島やダガルカナル島、グアム島、硫黄島などの激戦地に参加した海兵隊の精鋭を中心に編成された。更に、支援隊として第九軍団7万9000名、空挺部隊1万5000名、極東空軍11万9000名、そして66隻の航空母艦に搭載する戦闘機と急降下爆撃機、陸上からの爆撃機1000機、その他、第三、第五、第七艦隊に属する戦艦、重巡洋艦、軽巡洋艦、駆逐艦などを含む、艦艇総数3000隻からなる編成で、史上空前ともいえる上陸作戦が計画された。
南九州上陸の準備は10月24日に開始、まず敷設機雷の除去から防衛陣地の破壊などを行い、27日には屋久島と甑島列島に第四十師団2万2000名を、種子島に第十五旅団7600名を上陸させて、南九州上陸の後方支援の拠点とし、10月31日までに空爆と艦砲射撃を行い、上陸のための障害をすべて取り除く予定になっていた。そして11月1日の午前5時〜5時30分の間に、それぞれの上陸海岸線の前方400ヤードの土地一帯を、艦砲射撃による集中砲火を浴びせ、午前6 時ごろ上陸用舟艇で、前進速度1分間当り150ヤードで上陸を開始する。軍隊は上陸地点から、12分当り100ヤードの速度で前進し、海岸線より200〜400ヤードの範囲を確保して、20分ぐらいで態勢を整える。という綿密な作戦計画が作成された。この計画は、硫黄島や沖縄その他の激戦地で、したたかな日本軍との戦闘経験を踏まえて作成されたもので、上陸当初は1時間あたり、米軍の死傷者は1000名に上ると推定している。
串木野に上陸した第五軍団の一部は、西へ進み川内川までの地域一帯を、まず確保し防衛線を確立する。残りの兵力は、最も激戦が予想される鹿児島市街地へと進撃する。そのとき上陸海兵隊員の54%に当る1万3000名戦死、3万4000名の負傷者を想定している。鹿児島市街地とその一帯を制圧し、まずは鹿児島市から串木野市、川内市に至る地域のラインで戦線を確立して、鹿児島港は11月4日艦艇をもって制圧するという計画案である。
日本軍の動きについて、米軍は8月当初の予想では、日本軍は開聞岳から鹿児島市、そして加治木を経て人吉に至る一帯の防衛線に、19万6000名の兵力を配備しており、上陸地点の串木野に、国分地方一帯に駐屯している部隊が駆けつけても、48〜72時間で到達するだろうと予測していた。
一方、志布志湾(志布志〜相原)に上陸した第十一軍団は、鹿屋市を確保し串良などの特攻基地を制圧して、鹿屋から青木、岩川と高岡を結ぶラインに、部隊を展開していくというもので、また宮崎海岸(宮崎〜松崎)に上陸した第一軍団は、宮崎市を制圧し、近辺の特攻基地を確保。佐土原町から高岡町を結ぶラインまで進出して、志布志湾に上陸した第十一軍団と合流し共同戦線を張り、上陸は各地とも同時に上陸を開始するというものである。
3 地点(串木野、志布志、宮崎)に上陸した軍団は、延岡から水俣を結ぶ、南九州の地域一帯を占領し、北九州の日本軍の南下と対峙しながら、関東地区攻略のコロナ作戦(昭和21年3月1日実施)に備え、その前線基地として強化を図るという計画案である。
南九州地区での戦闘は、ヨーロツパ戦線のそれとは異なり、南九州は山岳地帯が多く、ペリリュー島や硫黄島、沖縄のように山岳に縦横に掘られた壕からの抵抗が主流となるため、地を這い3歩前進1歩後退の激戦になるだろうと予想していた。
米軍を迎え撃つ南九州の日本軍は、総勢65万7000名、この勢力の中には男子15歳から60歳、女子17歳から40歳の民間防衛隊40万人を含んでいる。民間人は手榴弾、刀、鎌、竹槍などで、最後の一人まで抵抗してくるであろうと想定し、枕崎から鹿児島市間での激戦では1対1の損害を予測し、上陸部隊55万のうち9万4000名が死亡、負傷は23万4000名に達するであろう、この作戦における米軍側の損害は57%、日本側の損害は民間人を含めて約200万人にもなるだろうと想定していた。
これらの上陸作戦計画案は、具体的かつ詳細な内容のものであったが、日本政府がポッダム宣言を受け入れ、昭和20年8月15日に無条件降伏をした結果、地上最大の流血が予想された惨事は回避された。
pageのtopへ
1945年8月11日 加治木町空襲の様相
『米国第五航空軍団の記録から』1945年8月9日は串木野市が、8月11日には加治木町と宮崎県の油津、そして12日には阿久根市と再び串木野市が、多数の攻撃型爆撃機で無差別に攻撃されている。
米国アラバマ州マックスウエル空軍基地にある、空軍歴史研究所に保管されている爆撃に参加した部隊の報告書(原本)訳から(訳者 今吉孝夫/アメリカ在住)
本日(昭和20年8月11日)の爆撃目標は、加治木、山川及び指宿、油津と対馬の厳原の4箇所、投入機数はA−20(低空で地上攻撃を行う双発爆撃機)及びB−24爆撃機111機である。
加治木を攻撃する爆撃隊は、第三百八爆撃部隊の第三爆撃隊のうち第八、第十三、第八十九及び第九十爆撃隊の4飛行中隊により、編成されたダグラスA−20型爆撃機35機である。
午前8時0分、先導隊である第九十中隊の9機が、ボロ滑走路から発進、続いて第八中隊10機、第八十九中隊9機、最後に第十三中隊の7機が順次離陸し、飛行場の上空で全機集合して3機編隊の態勢を整える。加治木を目指し進路を北北東30度にとり、2 時間余りの飛行で目標の加治木に接近。視界良好。加治木の町全体が手に取るように観える。
先導隊の第九十中隊が3機横列編隊で、町の北西より時速200マイル(320h)超低空高度で侵入し、75ガロン(285リツトル)のナパーム弾、落下傘付き500ポンド(230キロ)の焼夷弾、0.5(12.7ミリ)機銃弾による攻撃を、午前10時25分に開始。各編隊1回の攻撃で町の南東方向に飛び抜ける。事前に対空砲火陣地の所在が、確認されていた場所にある建物群(旧加治木中学校−訳者註)行政の大きな建物(町役場・小学校−訳者註)そして住宅に、ナパーム弾が直撃するのが確認され、4箇所で大火災が発生した。2箇所は川(網掛川−訳者註)の流れの曲がりに治った街並みであった。機銃掃射を徹底的に行ったので町全体のあちこちから火の手が上がった。町の東南端で、川の流れの曲がった所から下流約1000フィート(330m)の堤防の西側にあった対空砲火陣地より、軽火砲による中規模で正確な砲火を浴びて、2機が被弾した。沿岸の造船所には建設中のSugar Dog(サイロ−訳者註)が4 基あり、大型運搬船が入江に繋留されているのが観測された。東経130度36分北緯31度42分の海岸あたりに在る陣地から軽砲火による散発的な攻撃を受けたが、不正確であったため被弾しなかった。爆撃は10 時35分に終了。投下ナパーム弾捉個、焼夷弾36個、その95%が目標域内に落下した。
第2 次爆撃はヘイラー大尉に率いられた第八中隊10機、3機編隊で75ガロンナパーム弾20個、500 ポンド焼夷弾の個が投下され、その90%が標的に命中したが、2 個は目標を逸れて海岸際に落下した。爆弾2 個を加治木から湾(錦江湾−訳者註)に出ている突堤に投下したが成果は不明であった。多数のナパーム弾、焼夷弾が町の建物を直撃し、あちこちで大きな炎が上り、町全体が煙に包まれた。町の中心数箇所は盛んに炎上しており、南端の水際近くでは、かなり大きな火の手が1箇所上がっていた。掃射で消費した。0.5機銃弾は9550発であった。
第3 次爆撃は、第八十九中隊9機、3機編隊で75ガロンナパーム弾16個、500ポンド焼夷弾34個を、町の東側半分の区域に投下。そのうち1個は倉庫と思われる建物群(工業学校か女学校−訳者註)に直撃したのを確認した。0.5機銃7400発を掃射した。町全体が火の海と化し、煙はすでに2000フィート(600m)の上空まで昇っていた。
最後の爆撃は、第十三中隊7機、3機編隊で進入し、75ガロンナパーム弾6個と500ポンド焼夷弾28個を投下した。そのうち80%は爆撃指定域内に落下したが、残りは目標に隣接した、すぐ東側の住宅地区に落下した。第十三中隊は、後翼を務めたために、爆撃を開始した時は、既に3000フィート(900m)の上空まで達していた噴煙で、町全体は太陽の光りが遮られていたので、投下弾の爆発による破壊の度合いを、正確に確認する事は出来なかった。 消費した0.5機銃弾は4500発であった。町の海岸付近から、軽火砲による散発的な攻撃を受けたが、不正確で被弾はなかった。加治木の町全体はナパーム弾、焼夷弾と徹底的な機銃掃射で、完全に破壊し尽され、戦果は上々であった。
爆撃完了後、全機が編隊を組み帰途に就くころは、加治木の町は上空400フィート(1200m)に達する煙で覆われていた。帰路を南南西210度に取り、午後1時5分ボロ滑走路に全機無事帰投した。
日本降伏の第1報が報道され、爆撃に参加した第八十九爆撃中隊の全員は、テントというテントから全員が飛び出して来て、部隊の広場で叫び小躍りしながら、およそ30分の時の間、夜空を覆う赤い線の絵模様を全員が眺めていた。その光景は、恰もこの島に居る全ての人が同じ事を想っているように思われた。
![]()
旧加治木工業学校前に爆弾が炸裂、その手前が加治木駅 空爆で炎上する加治木の町並み

網掛川東岸(現いち松の南部)より、西岸(木田塩入地区)をのぞむ

中央部は省営バス車庫(現七八)、中央奥は加治木工業学校(現加工高)

中央(材木の並べられた処)は現在のホテル亀の井。
中央左の二階家は加治木重工業の工場。道路右手を進めば、城の坂(県道)。
pageのtopへ