五話


あれから数日経つが、野球部の連中とはまったく顔を合わせないでいた。 最初、小波は村上が何か行動をしたのかもしれないと考えたが、 そうだとしても姿すら見かけないというのは少し奇妙に思えた。 とはいえ、元々彼らはそれほど熱心に学校へやってきていたわけではなく、 ひょっとすると学校を辞めたか、あるいは退学処分を受けたかしたのかもしれない。

「平山君はどこをやるの、ポジション?」
昼休みに、初めて平山も入った三人でキャッチボールをした。 曇り空のためか、今日は軽く体を動かすぐらいならほとんど汗をかかない。
「まあ、外野をやったりピッチャーをやったり」
ボールを回すようにしてキャッチボールをしており、 平山は小波からボールを受け、亀田に向かって投げている。 平山は時折カーブか何かを投げるような動作で暴投気味な球をよこすことがあるが、 そのたびに亀田は軽く悪態をつきながらもうまくさばいてキャッチしている。
「おい、変な投げ方するなって」
「わりいわりい」
「それでピッチャーが務まってるのかよ」
「おれはまあ秘密兵器だから」
今度は平山が投げたボールは亀田の頭上を越えていった。

「おい」
さすがに亀田もいささかうんざりした口調で平山をなじった。 ぶつかるものがなかったため、ボールはやや離れたところまで転がった。 平山はあまり悪びれるふうもなく「わりいわりい」といいながら、 あまり気の入っていないような駆け足でボールを拾いに行った。
「そういえば、あれから野球部の連中を見かけた?」
平山が離れて二人きりになったので、なんとなく小波は尋ねてみた。
「ううん。ぜんぜん見かけないけど」
「だよね」
大方、亀田も小波とそう大差のない考えで落ち着いているのかもしれない。 あれ以来二人とも野球部員から嫌がらせを受けているということはないようであり、 彼らが学校を休むなり辞めるなりしたとしても、小波の興味のわくところではない。

「小波君、進藤さんの家知ってるわよね?」
午後の授業が始まる前、廊下で担任の山本先生が話しかけてきた。
「ええまあ」
「進藤さん、学校を休んで結構なるでしょう。 それで、彼女の机にたまってる授業のプリントを届けてくれないかしら」
「いいですよ」
「じゃあ、頼むわね」

明日香は二学期の始業式に出席してから、ずっと学校を休んでいる。 そんなに休んでばかりで進級できるのか気になるところだが、 ほとんどの先生は明日香の体調に配慮して、 定期的な課題さえ提出していれば出席扱いにしている。 そういうわけで、明日香にとっては授業で配布されるプリントのたぐいは 結構重要な位置づけになっているらしい。 休みがちでそう親しく付き合う同級生もおらず、 一学期のあいだはもっぱら山本先生が家まで届けに来ていたそうだが、 始業式の日に小波が明日香と会話しているところを見て、連絡を頼むことにしたようだ。

放課になって、プリントを届けるというれっきとした大義名分があるものの、 やはりいささか後ろめたい気持ちも抱きながら明日香の机を覗き込もうとすると、 不意に後ろから声をかけられ、小波はびくりと反応しながら振り返った。

「なんだ、そんなに驚かなくてもいいだろ」
「む、村上君か。いきなり話しかけるから」
村上はいささか呆れ気味の様子でいた。
「何か変なことでもしてるところだったのか」
「いや、プリントを届けるように頼まれて」

小波はなるべく平静を装って、作業的な手つきで机の中に入っていた まちまちのサイズと紙質のプリントを取り出した。 ぱらぱらとめくった限りでは、いずれも小波も 同様なものを受け取った記憶のある書類ばかりで、 適当に折り曲げたりしてから、とん、とそろえた。

「それで、なんの用なの?」
「最近、野球部の連中を見かけてないよな」
「うん」
村上が野球部員のことを気にしていることは少し意外だったが、 この様子からすると連中が学校に姿を現さなくなった原因は村上でもないようだ。
「確か、小波は前の学校で野球部だったよな」
「そうだけど」
「そこで何か妙なことはなかったか。噂レベルの話でもいい」
「妙なことっていわれても…。それに、すぐに転校したから あんまり詳しいことはよくわからないし…」
「転校、か。じゃあ、小波のほかに転校するという野球部員はいたか」
「転校した野球部員かあ。うーん…。二人ぐらいいたかなあ。 単に学校を辞めただけだったのかもしれないけど」
繋がりがつかめない質問の連続に、小波はいささか困惑気味に首をひねりながらも 記憶をたどって答えた。
「そうか」
小波の自信のない答えに、村上は納得とも諦めともつかないふうにうなずいた。 それから、あらかじめ用意していた問いのような口調で尋ねてきた。
「ところで、小波はこの学校で野球をするつもりはないのか」
「うん、まあ考えてはいるけど…」
「そうか」
先ほどと同じように、心中を推測しかねる表情のまま村上は低くつぶやくと、 「じゃあな」といって周りに何もないような足取りで教室から去っていった。 村上が見えなくなると、小波は一つ息を吐いて体を弛緩させた。

前に一緒に下校したときに別れた三叉路で明日香が行った方の道に入ると、 すぐに山本先生から聞いていた特徴の家が見つかった。 高所から飛び降りるようなわずかな覚悟と度胸を伴いながら呼び鈴を押すと、 家の奥の方でチャイムの鳴る音が聞こえた。 間もなく足音が近づいてきて、玄関の引き戸が開けられた。
「はい、こんにちは…。あら、小波君じゃないの!」
明日香の母親は小波の姿を見るなり、ゆっくりと驚きながらも破顔してみせた。
「こんなに大きくなってねえ。ほんと、最後に見たときは小学生だったのに」
小さいころのそれこそ幼稚な自分を知られていることが恥ずかしく思え、 小波はばつが悪そうにごまかすような愛想笑いを浮かべた。
「はは、どうも」
もう少し気の利いた返し方ができればなあと、 小波はほんのちょっとだけ情けない気持ちになった。

「明日香のお見舞いかしら?」
「いやその、これを届けるようにって」
小波は鞄からプリントの束を取り出して明日香の母親に手渡した。
「まあ、ありがとうね。まだ学校にも慣れてないでしょうのに」
いくらかのんびりした口調で、明日香の母親はたいそう重要な書類でも扱うようにプリントを受け取った。
「あの、明日香さんはまだ具合が」
「そうね、もうちょっとかしら。微熱が続くぐらいだから」
心臓への負担からか、明日香は子供のころから何かと病気がちだったことを思い出した。 小学校に通っていたころはクラスが違っていたためにあまり気づかなかったが、 おそらくそのころから学校を休みがちだったのかもしれない。
「小波君がお見舞いに来たって伝えれば、明日香も少しは元気になると思うわ。 始業式から帰ってきてから小波君と会ったって、随分うれしそうにしてたし」
「いや、そんな。ぼくもびっくりしましたから」
少しちぐはぐな返事をしながら、小波は面映い空気を払いのけるように軽く手を振った。

夕方、いつものように神社で軽く体を動かしてから家に戻ると、 珍しく比較的早い時間に小波の父親が帰宅しており、 居間に寝転びながらつまらなさそうな顔でテレビの映像と音声を部屋に流していた。 「ただいま」とだけ声を出しながら、立ち止まらずに小波はそのまま自分の部屋に入った。 父親は何ごとか返事をしたような気もしたが、テレビからの音だったかもしれない。

久しぶりの父子揃っての夕食となり、小波は事態が良くなることに期待する反面、 それを実現するための努力や、逆に悪化することに対する懸念といった面倒な気持ちも抱いていた。 そういう思考について、おそらく父もそう大差のないところで 生活しているのではないかと小波は考えている。 下限を見れば自分たちよりもはるかにひどい状態で家族の関係を続けている者はいるはずであり、 それと比べれば、小波家はまだましな方なのかもしれない。 そして、感情を交し合ったり、ぶつけ合ったりといった係わり合いを極力避けておけば、 相手に対する好意も悪意もぎりぎりの調和を保つことができ、 今の状態のままで明日を迎え続けられるのではないか。

不明瞭な口調で小波が「いただきます」とつぶやくと、小波の父は黙ったまま頷いた。 何か話した方がいいように思えたが、意識した言葉を口にするのも なんとなくしらじらしいようで踏ん切りがつかない。 顔を上げると向かいに座った父と目が合ってしまうような気がして、 うつむいたままでいようとするが、間が持たずに、 さして興味のないテレビのニュースにちらちらと視線を送ってしまう。

「進藤さんが近くに住んでいるんだな」
小波の父は視線を食卓の上に伏せて、箸を動かし続けたままつぶやいた。 その口調は、会社でもこういうしゃべりかたなのだろうかと想像させた。
「どうして?」
「進藤さんのところの…、美奈おばさん、だったかな。帰りにたまたま会ったんだ」
ということは、明日香が学校を休んでいることや、小波がプリントを届けた話なども聞いたのだろう。 そのことの詳細を話す必要があるかどうか判然とせず、小波は「ふうん」とだけ息を漏らした。
「明日香ちゃんとは仲がよかったからな」
「うん、まあ」
「よかったなあ…」
小波の父は相変わらず小波の方を見ないまましゃべったが、 ほとんど予期しなかったセリフをいわれたために、 小波はやや動揺しながら「そうだね」とだけ返答した。 小波と明日香が仲良く遊んでいたころを回想しようとしたのか、 小波の父は少しだけ口の動きを止めたが、またすぐに淡々と食事を再開した。

その日の夜、村上は再び父に呼び出された。
「お前のところの野球部員が学校に来てないのは知ってるな?」
「ああ。知ってる」
いいながら、村上は父親の近くに腰を下ろした。 村上の父親は前回と同じようにいくつかの書類を広げていたが、 今回は村上の方を向いて話している。
「うちの奴でな、少し前にそいつらを見たっていうのがいるんだよ。 いや、ただ見ただけならどうってことないが、車の後部座席に乗せられてるのを見たっていうんだ。 それも、目隠しをされていたらしい」
「見間違いじゃないのか」
「そいつは、うちの店でなめたことをしたときに顔はしっかりおぼえていたといってるが、 まあその可能性もおおいにあるだろう。目隠しをしていたならなおのことだ。 ただ、おれの考えていることや、周囲の噂とは辻褄が合う」
村上の父親は机の上に散らばった書類の中から、一枚を村上によく見える向きに回した。
「少し遠いところまで含めた、この辺りの高校の野球部について、休学や退学した生徒の名簿だ」
名簿には、高校名、学年、氏名、住所、家庭状況、それから簡単な注釈が記してあった。 ところどころ空白になっているのはわからなかったところなのだろう。

「妙だと思わんか。いくら退学する生徒の数が多くなったといっても、 これほど短期間に、しかも野球部員ばかりが学校を辞めていくなんて」
村上は書類に目を落としたまま相づちを打った。 同じようなことを想像して、今日小波に野球部のことを尋ねたのだ。 目を通していると自分の高校の名前もあることに気づき、あの野球部員たちの氏名を初めて知った。 小波が前に通っていた高校を探したが、所在地が遠く過ぎるのか記載されていないようだ。
「で、親父はどうするつもりなんだ」
村上の父親は慣れない人が見れば直ちに目をそらしてしまいそうな、 今にも怒鳴り出しそうな険しい顔をしている。
「気に入らない、な。何が起きているのかも気になる」
聞くものの臓腑を震わせるような声が部屋に響いた。 重く静かな間ができたが、村上は何もいわずに父親の次の句を待った。

「野球部に入れ」
村上の父親はそれだけいって口を閉ざした。 こうなると、聞き返したり、説明を求めたところで、 何も話さないことを村上は知っていた。 どのみち、村上自身もこの事件の真相を知ろうと、野球部と深く関わることを考えていたところだ。 村上は自分にもいい聞かせるように、 「わかった」とつぶやいて部屋を後にした。

(つづく)


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