四話


木目のはっきりした黒ずんだ板が段々に折り重なってできている壁や、す っかり錆び付いたトタン板の屋根、 どことなくおざなりに植えられた垣根などで構成された、 古い家屋が詰め込まれて建てられた住宅地の中に、 周囲の家々を束ねる要のようにして屋敷と呼ぶに相応しい家屋が構えている。 アスファルトで舗装されていない細い路地に気を取られて歩いていると、 その巨大な建物はあまりに唐突に視界に入るので、 初めてこの辺りに迷い込んだ者は大抵戸惑いを覚える。 また、公道、私道、私有地の境界があいまいになっているため、 いつのまにか敷地内に無断で入ってしまっていることもその要因の一つであろう。

轍を避けるようにして生えた雑草が目立つ道を歩いていると、 次第に地面に砂利が混ざるようになっていることに気づく。 そのまま道なりに進んでいると白いさざれ石が敷き詰められた庭に足を踏み入れて、 村上姓を名乗る表札を掲げた屋敷に辿り着く。

村上が家に帰ると、玄関を開ける重い音に反応して 奥から「お帰りなさいませ」という声が聞こえ、 すぐにその声の主も姿を現して出迎えた。
「坊っちゃん、お疲れ様です」
黒いものがまばらに残る頭を短く刈り込んだ老人は、 村上に近寄ると荷物を持とうと両手を伸ばしてきた。
「いいよ、そんな重いものでもないし部屋もすぐそこだし」
村上はうっとうしそうに手を振って男を軽く遠ざけた。
「そうですか。お疲れのときは御遠慮なく。 ああ、そうそう。旦那様が坊っちゃんに御用がおありだそうで」
「おれに?」
「左様でございます」
村上はこんな時間に親父が家の方にいるのも珍しいと思い、 何か厄介な話でなければよいがと考えた。 それから、荷物を自分の部屋に置きに行く前に、 少しの逡巡の後に面倒そうに男に口を開いた。
「頼むから坊っちゃんはよしてくれ、吉田」
老人はばつが悪そうに恐縮して見せたが、 もう随分と前からいい続けてるにも関わらず改めないところを見ると、 自分なり親父なり吉田なりが死なない限りはどうしようもないのかもしれないと、村上はほとんど諦めていた。

「おう、坊っちゃん。お帰り」
陰影が強調されるような造形のためか、どことなく暗い印象を受ける和室で、 村上の父親はいくつかの書類を机の上に広げていた。 村上が部屋に入ると、仕事で悩まされていたことを ごまかすようにしてにやりとした。
「よしてくれよ、親父まで」
村上は一回短く息を噴き出して、角を挟むように斜め向かいに座った。
「で、用ってなんなんだい。この部屋で仕事してるってことは、『こっち』の話なんだろ」
「まあな。なに、そんなにややこしい話じゃない」
村上の父親は机の上の書類に、ちらと目を落とし、それから胡坐を組んだ脚に肘を立てて 少し身を乗り出すように切り出した。

「最近、この界隈で妙な奴の話を見たり聞いたりしなかったか?」
「妙な奴?」
質問があまりにも漠然としており、また、ありきたりなものだったため、 厄介事を覚悟していた村上は少々拍子抜けした。
「うちの野球部の奴らがまたぞろくだらないことでもやらかしたのか」
極亜久高校の野球部は、以前に村上の家が深く関係する店で騒ぎを起こしたことがあった。 村上はたまたま今日の昼休みの出来事を思い出し、 たいした意味もないと考えながらいってみたが、 野球部という単語が村上の口から出ることなど予想だにしていなかったのか、 村上の父親は一瞬改めるように真っ直ぐに視線を村上の顔に向けたが、 すぐにまたどこを注視するでもなく、あいまいな位置に戻した。
「そういう連中の話じゃない。もっと違った手合いだ」
「そんな漠然といわれてもなあ。もっと詳しい情報がないと」
「いや、特に知らないならいい。こっちもまだ確かな話をつかんでるわけじゃないんだ」
村上の父親は書類を手に取り、ひとしきり眺めると「うんうん」と、 一人で勝手に得心するようにして見せた。

父親のはぐらかすような態度に村上は軽い苛立ちを覚えたが、 意固地になって問いただしたとしても、細部にわたった、 泥臭い話は今はまだ教えてくれそうにない。 それでも、先ほど僅かに見せた父親の機微から、 この案件が野球部、あるいはもっと広く、自分と同じ年代の人間に 深く関わっているであろうと考えつつも、その場は黙って村上は下がった。

放課後になって殴られた頬の痛みも多少は和らいできたが、 それでも指で軽く押しただけで神経に触るような感覚がずきりと響く。 青あざを見て驚いた級友が理由を聞いてくるたびに、 野球部に絡まれたと述べると、皆一様に同情してきた。

亀田と話し合った結果、キャッチボール部としての学内での行動は控え、 放課後や休みの日などに学校の外で地味に活動することになった。 会話の端々で、亀田は野球部が再び今日のような暴挙に出る可能性を暗にほのめかし、 野球と関わるのはやめた方がいいかもしれないといってやや消極的であった。 しかし、そんなことになればそれこそ連中に屈したことになると考え、 小波は意地でも野球に関わっていってやろうと腹を決めていた。
「それから、このあたりの社会人チームに入るっていうのもあるんじゃないかな。 さすがにほとんど学外の人間にちょっかいを出してくることもないだろうし」
「小波君は入るつもりなの?」
「それはまだわからないけど…。でも、平山君もやってるんでしょ、そういうの」
「そうだけど」
「そこのチームの試合とか練習に混ざったりしてさ」
「ううん…。まあ、考えてみるけど…」

昼の出来事の衝撃が大きかったのか、 最後までいまひとつ歯切れの悪いままでいた亀田と別れて、 小波は浮かぬ足取りで帰路に着いた。 一人でいるとどうしても考えごとが多くなってしまい、 結果としてどうしても今日の光景が頭に浮かんでは、 はらわたが煮えくり返る思いになる。 家に着いて、落ち着こうと思い部屋にごろりと横になってみたが、 そうしてじっとしているとかえって悶々とした気持ちが頭の中にわいてくる。

普段なら何の気なしに眺められるテレビや漫画も、 今のような気分のときにはどうしても気に障ってしかたがない。 こちらの心象を全く考慮せず、ただ一方的に表現されることが苛立たしく思えてしまう。 自分は愚痴や不満や泣き言を聞いてもらう相手を欲しがっているのだろうか。 そうして、優しい言葉で慰めてもらいたいのだろうか。 枕に顔を突っ伏していると、息苦しさでカッとなる頭の中で 端の見えない思考がぐるぐると回り続けた。

小学校に上がる頃から、小波は誰かに弱音を吐くということをしないでいた。 時々誰かに心配されて声をかけられたときでも、相好を崩しながらごまかすばかりだった。 どれほど泣き言を訴えたところで、自分をまっすぐに救ってくれるものなど何もないのだと、 半ば自虐的な感情を含む信念めいたものが心にあった。 どれほど心のこもった言葉を受けたとしても、結局は悲愴の原因を解決するには至らず、 ただ、ひと時の感情で気を紛らわせて、折り合いをつけて、妥協していくことであり、 あるいはそれは自分の思考を酒や享楽に任せて逃げるような卑怯なことなのではないだろうか。 あの日以来、小波は涙を流す代わりに拳を握り締めるようになり、 小波の父はそれまで夕食時にはほぼ食卓に上っていた酒を全く口にしなくなった。

おもむろに起き上がると、小波の足は神社へと向かった。 世の中の仕組みだとか、人生観や難しい思想を理解するつもりなどなかったが、 ここで野球をやめたりするのは何かに負けるような気がしてならなかった。 ボールを握ると今日の昼の出来事を思い出したが、 だからこそそんな感情に対抗しなければならないのだと考えた。

日が暮れかけて、まだ明かりが灯されていない境内は、 一日の内でもっとも暗くおぼろげな空間となっている。 軽くランニングして辺りを回ってみたが、今日はこの間の少年の姿は見当たらない。 学期が開始して、遅くまで練習をするようになったのだろう。 小波は叩きつけるようにして壁に向かってボールを投げた。 少し投げ込んだだけで、普段よりもずっと早く息が上がってきた。 精神が高ぶっているためであるかもしれないし、 昼に受けた損傷が思いのほか効いているのかもしれない。 小波はベンチの上に寝転がった。 外灯に群れる虫の飛び交う様が意味のない雑音のように見える。 深く呼吸しながら、平静を取り戻そうとすればするほど、 却って嫌な思考を強く意識してしまう。 自分の意思であり、自分そのものであるにも関わらず、 思うように制御できないことにまた苛立ちを覚える。

ひとしきり休むと、小波はボールを投げることを再開した。 このまま頭に血が上ったような状態で闇雲に投げ続けても決してよい方向にははたらかないと考え、 このあいだ猪狩に聞いた変化球を思い出しながら投げてみた。 教わった方法によれば、普通に投げたときよりも変化がより鋭くなるらしく、 実際、前回猪狩の前で二三度試してみたところそのような感触を得られた。 リリースのタイミングがまだよく把握できていないため、 あれこれ自分で調整してみたが、狙い通りのところにボールを放れない。 ボールを握ったまま、ゆっくりと動きながらいろいろなイメージを模索してみたが、 いまひとつ自信を持って選べる答えを見つけられない。

体を動かしたためか、殴られた部位にまた疼痛が響き出した。 今日はもうこれぐらいにしておこう。 壁に立てかけたマットを片づけて、神社を出ようとすると出入り口に人影を認めた。 一瞬猪狩かとも思ったが、よく注意を向けると見知らぬ中年の男のように見えた。 こんな夜中にいかなる用であるかと不審に感じたが、 それは相手も同じように思っていることかもしれない。 双方ともに無関心を装うのが一番だろう。 小波はなるたけ視線を交差させないよう、 真っ直ぐ出入り口に向かわずに、回り込むように塀沿いに歩いた。

「こんばんは」
わざとよそ見をしながら通り過ぎようとすると、不意に男が声を上げた。 恐怖と驚きのために、小波はびくりと体をこわばらせた。
「なんですか」
小波は慎重に距離を取りながら、男の方に体を向けた。 目を凝らして手先を確認したが、不審な素振りはしていない。 歳は小波の父親より少し上ぐらいだろうか。 白地にワンポイントが入った素朴なシャツを、 やや明るいカーキ色のズボンの中に入れている。 外見から簡単に判断する限りでは怪しい印象はない。 もしかすると、神社の中で野球の練習をしていたことを咎められるのかもしれない。

「ちょっと尋ねたいことがあってね」
男は年季の入った顔のしわに任せるような笑みを浮かべた。 距離を縮めようと一歩踏み出したが、それに合わせて小波が後ずさりすると、 すぐに近寄るのはやめてそのまま話を続けた。
「君、野球部なのかい?」
小波が少し考えてからそうではないと答えると、男は意外そうにしていった。
「でも、さっきあそこで野球のボールを投げてたよね」
「趣味みたいなものです」
男は何事か納得しないところがあるように目を伏せたが、 それならそれで構わないといった風情で顔を戻した。
「ところで、ここで時々夜遅くに練習してる子がいるでしょ?」
馬鹿正直に答えるべきか迷っていると、相手は勝手に話を進めた。
「猪狩進君、だよね」
「知ってるんですか」
「いい選手だからね。有名だよ」
猪狩に用があるにしても、わざわざこんな時間帯にこんな場所を選ぶだろうか。 それとも、たまたま今通りかかった野球好きなのだろうか。 相手の意図をつかみかねたまま、小波は相変わらず警戒の色を見せた。

「今日は来てない?」
「そうみたいですね」
「君、猪狩君と知り合いかい?」
「そんなには」
小波はなるべく素っ気なく、いかにも話を続けたくないような口調で答えたが、 男は構わず同じ調子でしゃべり続けた。
「猪狩君がここで練習するのがいつとか、わからないかな」
小波はそれ以上の会話を拒絶するかのような沈黙を示しながら首をかしげた。 まったく心当たりのない見知らぬ人間が 詮索してきたことに対する不快感もあったが、 それ以上に得体の知れない対象への恐怖と不審の念が強まっていた。

「ああ、いや。悪かったね、話しかけたりして。ありがとう」
男は詫びと礼が入り混じったようなあいまいな手刀を切るふうにした。 小波は短い相づちだけを返して、心持ち早足にその場を立ち去った。 ある程度歩いてから途中で一度振り返ったときには、すでに男の姿は見えなくなっていた。 雑踏の音を遠くに、暗い住宅地の中を歩きながら小波は男の正体について想像してみた。 次第にそれは妄想がかった大それた物語になっていき、面白がるように呆れながら打ち消した。

丁度夕飯どきのためか、周囲の家々はどこも明かりが灯っていたが、 人のいない小波たちの家だけは気味が悪いほどに暗くしていた。 別に珍しいことでもないので、今さらなんの感情も湧かない。 怪我のことについて気を遣ったり、遣わせるなどして、 わずらわしい思いをしなくてもよかったのだといい聞かせた。

(つづく)


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