三話


学校では通常の授業が始まったが、第一学年ということもあり、 小波はそれほど進行に戸惑うこともなかった。 極亜久高校には普通科しかないが、 実質的には普通クラスと特進クラスに分かれており、 授業の内容はかなり異なるものであるというのが半ば公然の規則だ。 この辺りには普通科の公立高校はここぐらいしかないため、 群を抜いて高い偏差値を持つ生徒も多く集まっているという。 実際、極亜久高校から名だたる大学へと進学する もののほぼすべては特進クラスの生徒が占める。 その一方で、野球部の部員のような素行不良の生徒も存在しているが、 ある一定数以上の集団が抱える必然的ともいえる現象なのだろう。

今日は明日香は学校で姿を見せていない。 明日香なら特進クラスでも十分にやっていけると思うのだが、 学校を休みがちになるためか、普通クラスで授業を受けている。 後で明日香に見せることになるかもしれないと考え、 小波はいつもよりも心持ち丁寧にノートをつけた。

昼休みになって亀田と売店に向かう途中で柄の悪い生徒たちが馴れ馴れしく声をかけてきた。
「おい、転校生。お前野球やるらしいな。野球部には入らないのか」
余程暇があるのか、小波が野球をするらしいということをいつのまにか聞きつけたらしい。 小波はすぐに相手がくだんの野球部であろうと感じるとうんざりした気持ちになった。
「入らないよ」
「どうしてだよ」
「野球を続ける気がないから」
野球部員たちはにやにやとしながら小波の肩を組んできた。
「まあそういうなよ。どうせうちの野球部は練習なんてしないんだぜ。遊びだよ、遊び」
小波は内心かなり不快な気持ちになったが、 いたずらに相手を刺激したところで何も得るものもあるまいと、 軽く愛想笑いをしながらそっと相手の腕を振り解いた。
「部活とかめんどくさそうだし、いいって」
辺りを大勢の生徒たちが行き来しているためか、 野球部員たちはあっさりと引き下がった。
「まあ、お前がそういうならいいけどな」
小波と亀田が立ち去ると、ややあってから後ろから癇にさわる大きさで笑い声が上がった。
「今のが野球部?」
「うん」
小波と亀田は浮かない顔で言葉少なにその場を早く立ち去った。

「亀田君も野球をやってたんだ」
皆それぞれお気に入りの場所があるのか、 教室の中には小波と亀田しかいない。 人気のない教室はそこだけ違う時間の流れを持つようであり、 疎外感と優越感が入り混じったような妙な気持ちになる。 開け放った窓際に立っていたが、少しの風も吹いてこず、 この炎天下の中にもかかわらずサッカーに興じる生徒たちの嬌声だけがときどき届いていくる。
「あんまりうまくなかったけどね」
「野球部には入るつもりだったの?」
「ま、半々ぐらいだったかなあ。野球部の実態を知ったら入る気は完全になくなったけど」
「同好会というかさ、そういうのを考えてるんだけど」
「野球の?」
小波は放課後や昼休みなどの空いた時間にキャッチボールをすることを提案した。 亀田には詳しくは伝えなかったが、この学校で野球をしようと思っていた 生徒はまだまだいるはずだと考え、小波はそういう人たちを集めることができればいいと、 漠然とした期待を持っていた。
「いいよ。どうせ暇だし」
あまり考え込む様子もなく亀田は断る理由もないといった風情で快諾した。 グローブやボールの用意や、場所について話をしていると、 教室の入り口の方から「お、いた」という声が上がった。 見ると、男子生徒の一人がこちらに向かってきた。 初めて見る顔であるところからすると、男子生徒はよそのクラスの生徒だろうか。
「いつも売店のあたりうろうろしてるのに」
「いや、今日はその」
亀田は小波を紹介するように手を伸ばした。
「小波君と一緒に」
「あー、転校生の」
男子生徒は平山と名乗ると、冗談ぽく「転校生に変なこというなよ」といって笑った。
「平山はソフトボールやってたよね」
「今も草野球みたいなので試合に出るけどね」
「じゃあせっかくだし入らない?キャッチボール同好会」
亀田のいつのまにかの命名に小波は少し苦笑いをした。
「いやまあ、そんなちゃんとしたやつじゃないんだけど、 暇なときにキャッチボールとかをしようって話をしてて」
小波が話し終わるかどうかといううちに、平山はいかにも合点したようにおうおうと返事した。
「いいねそれ。なんかかっこよくて」
かっこいいかどうかは個人の問題として、 ともかく亀田も平山も小波の提案に乗ってきた。 その後、昼休みが終わるまでこの学校の教師の評価、 というよりも悪口を二人から聞きながら過ごした。 相づちを打ったりしながら、途中で何度かこの三人が野球をしてる光景を少しだけ想像した。

次の日、小波は昼休みになると昼食もそこそこにグラブとボールを鞄から取り出すと、 亀田にキャッチボールをしようといった。革が手を包む感触を久しぶりに確かめるように、 亀田は取り出したグラブを早くも身に着けると、 握りしめた右手をぽんぽんと左の手の平にぶつけた。
「どこでする?」
転校してきたばかりで学内の様子をよく知らない小波は、 亀田に場所を決めてもらおうという口調で尋ねた。
「グラウンドの第二体育館のあたりでいいんじゃないかな。あそこは人もあんまり通らないし」
亀田のいうところはグラウンドの端っこで、 すぐ傍にはグラウンドと校舎がある敷地とを隔てるコンクリートの階段があり、 足元にはまばらに雑草が生えていた。
「亀田君はどこのポジションだったの?」
軽く投げても届くぐらいの距離から徐々に離れながら、何気なく小波は尋ねた。
「一応キャッチャー。でも、試合では外野のことが多かったけど」
それからは二人ともキャッチボールに専念して、黙々と少し傷が目立つ硬球を投げ合った。

汗をかきそうになる前にどちらからともなく休憩を訴え、 日光から逃げるようにして木陰に入った。 今日はサッカーをしている生徒もおらず、 強い日差しに照らされたグラウンドは何も動くものがなくひっそりとしている。
「そういうえば、平山君は?」
「場所はいっといたから、来るかもしれないけど。どうかな」
久しぶりに体を動かして暑気にあてられたのか、 亀田はややけだるそうにして地面の草を漫然と引きちぎっている。 あれほどの数の生徒たちがどこにいるのか、 見渡せる視界の中にはまったく誰の姿も映らない。 こうして野外に出ていることが、ひどく場違いで、 まちがったことをしているかのように錯覚してしまう。 小波はズボンに土が付かないようにして腰を下ろすと、 ボールを地面で軽く弾ませながらグラウンドの隅々を見渡した。 白昼の日常の中、視界になんら生物を感じられないというのは、 何も見えない真っ暗な闇とはまた異なる恐怖を覚えてしまう。 明らかに何かがどこかにいるにもかかわらず、 その存在を確認できないことに本能が怯えるのかもしれない。

もう少ししたら教室に戻ろうかといい、小波たちは再びキャッチボールを再開した。 ボールを投げ合うとすぐにまた汗がしたたってきた。 辺りに照射される熱線の効果音かのようにセミの鳴く声が響き渡る。 反復する行為ととりとめのない環境に思考が鈍くなっていると、 不意に体育館の陰から数人の生徒たちが現れると、 ばらばらとまとまりのない歩容でこちらに向かってきた。
「なんだよ、やっぱり野球をするんじゃないか」
生徒たちはいやらしい表情をしながら小波たちににじりよると、 亀田を促してさも当然のようにボールを手にした。 そういったふてぶてしさを業腹に思いつつも、反面、 何事もなく過ぎ去って欲しいという弱い気持ちもあった。 二三度仲間内でふざけるように投げ合うと、 突然、亀田目掛けて全力でボールを投げつける素振りをした。 驚いた亀田が跳ねるようにグラブで顔を覆う仕草をすると、 その様を見た不良生徒たちは下品な笑い声を上げた。
「お前ら野球してるんだろ。だったらボールをびびったらダメだろ」
あからさまに人を小ばかにした態度で話しかけてきたが、 関わり合うのを忌避しようと、亀田は伏目がちに意思を表に出さないような返事をした。
「野球するんだったらおれたちも混ぜてくれよ。なにせ野球部だからな」
生徒の一人が心にもない言葉を口にしながら、やはり昨日のように不躾な態度で小波に肩を組んできた。 それらの行為はいちいち小波の感情を逆撫でするものであり、 また、実際に彼らがそのような思いを嘲弄しているのは明らかであろう。 こんな奴らのために自分の大切なものが侵されるのかと思うと、 小波は吐き気がするほどの感情の高まりを覚えた。

「野球部だって?何が野球部だ」
語尾を荒げながら、小波はひったくるようにしてボールを取り返した。 思わぬ反応に生徒たちは一瞬戸惑ったが、すぐに反撃に転じた。
「今なんていった」
乱暴な口調で問いただしてきたが、返答せずに小波が立ち去ろうとすると、 突然生徒は殴りかかってきた。 頬の内側が切れて、舌を当てると嫌な味がする。
「こいつ、調子に乗るなよ」
汚い言葉とともに、更に生徒の拳が小波の顔面を襲う。 咄嗟に腕で防いだが、苦痛に小さく嗚咽を漏らす。 怒りに任せて小波が生徒を殴り返すと、まともに相手の頬に当たった。 ほかの者の手前弱音を吐けないのか、生徒は痛みに耐える呻き声を威嚇に変えて咆哮した。 顔を紅潮させ、息を荒くし、飢えた畜生のような目で睨んできた。

「おい、そいつ押さえとけ」
生徒がそう声をかけると、それまで見世物でも眺めるようにしていた 周囲のほかの生徒たちが小波を取り押さえにかかった。 抵抗するも、たちまち数人に羽交い絞めにされてしまった。 けだもののような醜態で荒れ狂っていた生徒は、 しかし、かすかに冷静さが残っていたのか、 最初の一発は自分が殴られたところと同じ箇所に打擲を加えてきた。 反射的にわずかに動かせた頭を仰け反らせたが、 衝撃を軽減させる効果はほとんどなく、 小波は激痛のために全身の体液をぶちまけるかのような感覚に襲われた。 依然として体の自由は多勢に拘束されており、 こうなってはもはやさっさと気でも失った方がましかもしれない。

続いて、生徒は品のない文句を口にしながらみぞおちを殴打してきた。 打撃に備えるために息を止めていたが、 そのまま声にならない呻きとなって力なく開いた口から空気が漏れた。 その様相を見て勢いがついたのか、生徒が更なる一撃を加えようと身構えると、 急に体を押さえつけていた力がするりとなくなり、小波はその場に膝から崩れ落ちた。 気勢をそがれた生徒は小波を取り押さえていた生徒たちに当たり散らそうかというように 食って掛かったが、生徒たちの戸惑うような視線の先に気づき、 振り返るとばつの悪そうな顔をして、手持ち無沙汰なように両腕をだらりと垂らした。

地面にうつ伏せに倒れていた小波も皆が見つめる先に目をやると、 亀田と共に目つきの鋭い一人の生徒がこちらに近づいてきていた。
「お前らちんぴらのやることはたいがいくだらないな」
「村上には関係ないだろ」
「関係ない、か。だったら続けろよ」
村上と呼ばれた生徒は荒々しい感情を込めるでもなく、 事務処理でもするかのような素っ気ない口調でいた。 小波に暴行を加えていた生徒は、はっきりとは目を合わさずに、 落ち着かない両手をズボンのポケットに虚勢をはるかのように乱暴に突っ込んだ。 ほかの生徒たちは矢面に立つのを避けるようにして、 小声でささやきながらうつむいている。
「さっさと失せろ」
生徒の態度をまるで相手にせずに、村上は有無をいわせぬように短くつぶやいた。 野球部の生徒たちは口の中で聞こえぬ悪態をかみ殺しながら、 捨てゼリフのように舌打ちをすると、 芝居がかった足取りで校門から白昼の学外へと消えていった。

「はん、ああいうやつらの消えざまは決まってあんなもんだ」
生徒たちの後ろ姿に、村上は軽蔑するかのように鼻で笑った。
「見ない顔だな。転校生か。大丈夫か」
「あ、ありがとう。助かった」
亀田に支えながらなんとか立ち上がると、 小波は体中の悲鳴を表すかのように苦しげな息をつきながら、 危難をはらってくれた生徒に対して感謝の言葉を述べた。
「そんなたいしたことをしたわけじゃない。それに、これはおれ自身の用事でもあるし」
小波は村上自身の用事という言葉の意味を量りかねたが、 ともかく窮地を救ってくれたことは確かだ。
「村上君、ありがとう」
おそらく村上を連れてきたであろう亀田も礼をいうと、 村上は照れるでもなく面倒がるでもなく、 やはりなんの感慨もないように、何事か達観したような口調で返した。
「亀田。おれは別にこの学校をどうこうしようというつもりはないし、便利屋でもない。 ただ、今度の場合はたまたま自分の都合と合っただけだからな」
村上は小波の名前を確かめると、「じゃあ、気をつけろよ」といって 興味なさそうにどこかに行ってしまった。

「村上君て、どんな人なの?」
「この辺りを仕切ってるやくざの息子とか…。ホントかどうかは知らないけど」
「知り合い?」
「野球部について何度か聞かれたことはあるけど」
日陰に腰を下ろして短い言葉を交わすと、二人は酷く疲れていることに気づいた。

(つづく)


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