二話


小波は夏休みの終了とともに極亜久高校での生活を始めることになった。 連絡されていた時間は普通の登校時間よりは少し遅いころで、 校門で待っていてくれた小波の担任だという若い女性教師に連れられて校長室と職員室を回った。
「困ったらなんでも相談してね。といっても、わたしもまだ今年着たばっかりなんだけど」
教室に向かう途中で小波は担任の女性教師とぽつぽつと話した。 担任は山本洋子と名乗り、国語の教師だといった。 それから、前の学校の授業などについて簡単に話しているうちに教室の前に着いた。

山本先生を先にして二人が教室に入ると、生徒たちは浮き足立った様子でざわめいた。 高校の転校というのは珍しく、自己紹介を終えた小波に対して、 ほとんどすべての生徒たちは興味と厚意が入り混じったようなように拍手で迎えた。 ざっと見渡すと、女子生徒の一人が微笑みながら わかるかわからないぐらい軽く手を振った。 そういう素振りをされることを予期していなかったことと、 なにより、その女子生徒の雰囲気に何か思わせるものがあり、 小波は不思議な気持ちを抱きつつも目礼を返した。
「席は真ん中の一番後ろだけど、いいかしら」
担任に促され、小波は自分の席に着いた。 前後と隣の生徒に改めてあいさつをすると、 全員快く返事をして小波の緊張と不安をほぐしてくれた。

学期の最初の日ともあって、小波の紹介の後に担任が簡単な話をすると、 その日はそれで放課となった。椅子を引く音と生徒たちのざわつきが まだ夏の気配を残す教室の中に騒々しく響く。
「へえ、小波君は小学校から野球をやってたんだ」
すぐ隣の亀田という生徒が小波に話しかけてきた。 小波は配布されたプリントを二つ折りにして、 かばんの中につめながら会話を続けた。
「うんまあ。でも、野球部には入らないと思うけど」
小波はなるべくそっけなく答えた。 野球をするにしてもここの野球部とは関わらない方がよさそうだ。
「ここの野球部のことは知ってるの?」
小波はあまり興味のなさそうにうなずいた。 それ以上は亀田も話を続けても意味がないと思ったのか、 途中まで一緒に帰ろうというと立ち上がった。

二人が立ち上がるのを待っていたのか、 先ほどの紹介のときに注意を向けていた女子生徒が近づいてきた。
「小波君、久しぶり。おぼえてる?小学校のとき以来だもんね」
改めて女子生徒を間近で見ると、小波はその顔に昔の面影を見つけて、 驚きと喜びの声を上げた。小学校の途中まで隣の家に住んでいた進藤明日香だった。
「思い出した?わたしもびっくりしちゃった。まさかこんなところで会うなんて」
明日香は「ふふ」と微笑みながらうれしそうに目を細めた。 幼馴染との再会と見知らぬ土地での知り合いの存在に小波はうれしくなり、 たとえ野球部に入れなくても、そう決して悪いことばかりでもないかもしれないなどと考えた。

「じゃあ、ぼくは家がこっちだから」
亀田と校門で別れると、小波と明日香はしばらく何も話せずに歩いた。 小学生のときとは違って何もかもが簡単ではなくなっていた。 小波がきっかけを作れないまま、そわそわとしていると明日香から話し出した。
「やっぱりお父さんの仕事の関係で?」
小波が答えると明日香は「大変よね」と納得するかのようにつぶやいた。
「明日香はどうして?」
「この近くにいい病院があるの」
明日香は子供のころから心臓を患っており、 最近とみにその具合が悪くなってきたので、 いい病院を探してその近くに引っ越してきたということらしい。
「学校を休んだときはノートとか見させてね」
小波は短く「ああ」と答えた。それからまた黙って歩き出した。

歩きながら小波は昔のことを回想していた。思い出の中で、 明日香は大抵静かに微笑んでばかりいたが、その笑みはどこか寂しげなようだった。 激しい運動を禁止されていた明日香は、子供のころから体を動かしてばかりいた 小波のそばでいつも少しだけ笑っていた。 小波が野球を始め、その中でも投手というポジションを選んだきっかけも、 今になってみればほんの些細なことだった。 小学校に入学したかどうかという頃に、河原で石を投げて遊んでいるところに 明日香がやってきて、そのときの歳にしては随分と遅くなるまで投げ続けていた。 明日香が「すごいね」というたびに、もっと遠くまで投げようと張り切って、 それから三日ぐらいは右腕がろくに動かせなくなった。ともかく そのときに明日香は「小波君、野球の選手になれるよ」とうれしそうにいってきて、 それからすぐに小波は地域の少年野球の練習に参加することを親に伝えた。 その日のうちに、父親は小波に子供には上等とも 思えるほどのグローブを買ってくれたことを今でもはっきりとおぼえている。

「まだ野球続けてるんでしょ?」
小波と同じようなことを考えていたのか、明日香は懐かしそうにつぶやいた。
「まあね」
「部活、どうするの?」
「さすがにここの野球部に入るつもりはない、けど、野球の練習は続けるつもり。 このあたりのクラブチームに入ったりして」
小波はさしたる感慨もないかのように返答したが、 自分の気持ちをうまく隠せないほど幼かった頃の小波の姿を見てきた幼馴染は、 その口ぶりから本心を語っていないことをすぐに見抜いた。 しかし、その思いに気づいているからこそ、 明日香には軽い気休めすら口にすることができずにいた。

そのまま二人は相手の次の言葉を待ったまま黙って歩き続けた。 車の通りの少ない路地に入ると、下校中の小学生らが 喚声を上げながら走り過ぎていった。 授業がないためかどの児童もランドセルを背負っておらず、 軽い手提げ袋を振り回しながらはしゃいでいた。
「ほら、おぼえてる?小学校の頃によくランドセルを持ってくれてたこと。 確か科目数が多かった火曜日と木曜日だったかしら」
「そうだっけ」
「『トレーニングだ』っていって持ってくれてたじゃない」
「いやあ、おぼえてないなあ」
小波が照れ笑いを浮かべながらとぼけると、 その反応に明日香は顔をほころばした。 夏休みが終わったとはいえ暑い日が続く。 日はほとんど真上と思うような場所に昇ってきている。 光線に照らされた顔が熱いのか、 明日香はほとんど日焼けしていない白い額に手を当てて熱気を拭うような動作をすると、 少し辛そうにして細い息を吐いた。 焼けたアスファルトで続く道は苦役のようであり、 その終わりを見定めようと先を見れば、 地面との際でおぼろげに揺らぐ景色が、 意識を溶かし、なまらせてくる。 それは物心ついてから何度も繰り返してき感覚であり、 ずっと前に別の道を明日香と二人で歩いていたときも、 今とまったく変わらない気持ちだったのかもしれない。

その日も小波の父は夕刻時になってもまだ帰宅しないでいた。 部屋のにぎやかしにテレビをつけながら、 小波はだらだらと漫画や雑誌のたぐいを見るでもなくめくっていた。 ふと、自分は父が帰ってくるのを待っているのだろうかと小波は考えた。 実際、もうそろそろ晩飯の時間といってもいい頃になっていたが、 軽い空腹を覚えながらも小波は特に何も食べずにいた。 また、たとえこの場に帰ってきたとしても、父は無言で玄関から入ってくると、 何の感慨もなさそうにして勝手に食事を始めるに違いない。 あるいは、外で済ませてくるかもしれない。 にもかかわらず、小波はよく父が帰ってくるまで食事を待っていた。 いっそ正面切って反発してしまえばどれほど楽だろうか。 しかし、そうして父を否定してしまうことは、 今の父の理由となるものすら否定してしまうように思えた。

父はまだしばらくは家に帰ってこないだろう。 長く差した夕方の薄い光が不思議な色合いで外を満たしている。 暑気と夕闇と虫の声は彼岸を連想させる。 家族そろって盆に墓参りをしたのはもう随分と昔のことになる。 外に出よう。家の中にいるといろいろと余計なことを考えてしまう。 小波は動きやすい服装に着替えると、 自分の机の引き出しから野球ボールを取り出し、 先日の神社までかけていった。

適当なコンクリート塀に向かって硬球を投げつけると、 衝撃が振動となって境内に伝わった。 叩きつけるような軽い音と、少ししてからどこか奥から重い音が響く。 人通りからやや離れた所とはいえ、 これほどの音を立てれば不審や不快を訴えられることが危惧される。 何かの工夫が必要だと考え、境内を物色していると 縁の下に古びたマットレスが見つかった。 誰かがここで寝泊まりしている可能性が絶対にないとはいえないが、 かなり汚れが目立つのでそんな心配はまあないだろう。 壁に立てかけたマットレスに先ほどと同じようにしてボールを投げつけてみると、 際立った音はしなくなった代わりに、跳ね返りが少なくなったために 壁際までいちいち拾いにいかなければならなくなった。 はためには面倒に違いないが、小波は投げては拾いに歩くという動作を繰り返した。 少なくとも成人するまではとにかく野球は続けよう。 勝手な考えとは思ったが、そうすることが二人の供養になることを願い、 小波は淡々とボールを投げ続けた。

やや息が上がる程度まで投げて、 少し休もうとベンチに腰掛けてぼんやりとしていると 先日の男子生徒が前と同じような格好でやってきた。 また会うことをあからさまに考えたいたわけではないが、 やはりどこかでは偶然に期待していたところもあり、 そういう気持ちに気づいて小波は少し照れるように手を振った。 男子生徒もはにかみながら動作を返してきた。
「こんばんは。また会いましたね」
学校であったことなどについて簡単な言葉を交わした後、 誘われるままに小波はキャッチボールを始めた。 二三回ほどボールが往復すると、 男子生徒はおもむろに話しかけてきた。
「ピッチャーやってるんですか?」
「うん。あ、いったっけ?」
「いえ。投げ方からそんな気がして」
周囲のにぎやかさのお陰でかなり明るいとはいえ、 部分的に薄暗くなるところもあるので、 互いにやや軽く投げながら会話を続けた。
「そういえば名前聞いてなかったよね」
「あ、そうですね。猪狩っていいます」
ボールを投げ返しながら小波も自分の名前を伝えた。
「猪狩君はどのポジションを?」
「キャッチャーですね。ピッチャーをやってたときもあるんですけど」
その後はほとんどしゃべらないでボールを投げあい、 小気味よい乾いた音だけが断続的に響き渡った。

「それじゃあ、やっぱり小波君は野球部には入らないことに?」
「まあ、今のところは」
やや汗ばんできたところでキャッチボールをやめてベンチに腰掛けた。 体を動かすのをやめてじっとすると、体内にこもった熱気が放射されて まとわりついてくるかのような感覚がする。
「よくここには来てるの?」
近くで座ったままだと話しにくいと感じて、 小波は両手でボールをもてあそびながらおもむろに立ち上がった。
「そんなに頻繁には来ないんですけど。練習が早く終わったときなんかですね」
猪狩は手首をひねるようにしながらボールをぽんぽんと上に放った。
「中学まではピッチャーもやってたんですけどね、 高校に上がってからはキャッチャーに専念することになって。 それでもときどき思い出したくなるんです」
そういうと、猪狩は先ほどまで小波がボールをぶつけていたマットレスの方に向かった。
「あ、これぼくが持ってきたんですけどね。ここで─」
しなるように振り出された上肢から放たれた白球は 左にそれるような変化をしながら重い音とともにマットレスにぶつかった。
「ピッチャーの練習をしてるんです。といっても、ほとんど趣味のようなものですけど」
「今のは変化球?」
これで投手のポジションを取れないのかと、 小波は驚きと同時に強豪と呼ばれるチームに対するいささかの呆れも感じた。
「ええ。スライダーです」
多少の称賛も混じった小波の問いに猪狩は衒うでもなしに答えた。 それから二人でいろいろな変化球を遊び半分で試して、 曲がった、落ちなかったといいあいながら楽しんだ。 そうこうしているうちにだいぶ遅い時刻となり、 どちらからともなく別れの言葉を出してその場を後にした。

今さら説教をされるほど干渉してくることもないとも思ったが、 明かりがついていない真っ暗な部屋を見て小波は少し安堵した。 その一方で、連日遅くまで帰宅しない父に対して どうすることもできない歯がゆさも感じた。 父を一日家で姿を見ないこともある。 会社に泊まりこんでいるのか、朝早く出て夜遅く帰ってきているのか、 ともかく家庭というものを避けようと行動しているように見え、 その中にはおそらく小波も入っているのだろう。
「結局それが父の取った方法だったのだろうか」
楽しみや喜びといった一切の私事を捨て去ることによって 父は心の平静を得ようとしているのかもしれない。 その真意を問いただすことはできないが、 父自信も自分の行動に一貫した理由を求めることはできていないのかもしれない。 小波は見ないテレビをつけながら、レンジで暖めた昼の残り物をのろのろと口に運んだ。

(つづく)


戻る