一話


土曜だというのに小波の父は「会社に行ってくる」と 誰にいうでもなく独り言のようにつぶやくと、 顔を合わそうともせずにさっさと家を出ていってしまった。 会社に融通してもらった四人家族のための借家は、小波と父の二人だけでは広すぎたが、 それでも家の中は封を開けてすらいない段ボールであふれており、 このままでは夕飯も就寝もままならない。 小波は暗澹とした気持ちで自分を慰めるように わざと大きなため息をついた。

どこに何を収納すべきか判然としなかったが、 ひとまず小波は自分の荷物を子供部屋と思える部屋に移動させ、 両側の壁にそれぞれ設置された勉強机の一つを陣取り、 なるべく以前の自分の部屋の雰囲気を思い出しながら教科書や文房具のたぐいを並べていった。 清潔な背表紙で整然と彩られた机は、けれどもどこかよそよそしく、 また、空っぽの引き出しのあっけない軽さは虚無な薄寒さを感じさせる。 この借家に備え付けてある机が なるべく万人向けで事務的なデザインであることも 住む人や使う者と完全には馴染もうとしない態度を示した。

あの家にいたころ、自分は机の引き出しに何をつめていたのだろうかと考えた。 ゲームソフトや音楽CD、おもちゃの箱や、 学校でもらったいつか使うかもしれないプリントを入れていたが、 引っ越すときにその大半は捨ててしまった。 段ボールから捨てずに持ってきた物を入れてみたが、 半分ぐらいの空きができてぴったりと収まらない。 さりとて、もう入れるような物も思い当たらず、 今度は少しの手ごたえを感じながら引き出しを閉めると、 不安定に立てかけておいたCDが中でパタンと倒れる音がした。

机を整理すると、小波はこれから自分の住みかとなるであろう部屋をざっと見渡した。 そう古くはないエアコンが設置されており、 また、テレビもつなげばすぐに見られるようで、 さしあたって困りそうなことは見当たらない。 ただ、机が二つ置いてあったように、 二人で使うことを前提とした部屋なので一人では少々持て余す観がある。 部屋の広さとしてはそのように十分なものがあったが、 小波は使わないもう片方の机をどこか見えないところにしまうべきかどうか考えた。 以前の自分の部屋にもきれいなまま使われないでいた勉強机があり、 それを見るたびに小波は怒りとも憤りとも悲しみともわからない、 あるいは、それら負の感情をすべて混ぜ合わせた黒くどろどろとした感情に苛まれた。

そういう感情をまったく意識せずに忘れたころに、 ときどき小波は三人でキャッチボールをする夢を見た。 小波と父と、もう一人は夢のたびに毎回違う人物で、 よく知っているのに名前を思い出せなかったり、 どうしても顔を見ることができなかったり、 もっとも多いのは三人でキャッチボールをやっていることはわかっているが、 なぜか小波と父だけでボールを投げ合うというものだった。 その夢を見たときは必ず小波はわけもわからず涙を流しながら目を覚ますのが常で、 覚醒してすぐに現実を受け止めることもあれば、 ひょっとするとこれはまだ夢の続きではないかと、 もう一人の相手を確かめようと部屋の中を探し回ることもあった。 探しながら正気を取り戻すと、小波は最後に儀式的のように 空っぽの机の引き出しをむなしく開けて区切りとしていた。

自分の荷物を整理したところで、小波は家の周りをざっと見て回ろうと思ったが、 父が帰って来ないまま家を無人にするのもまずい気がした。 しかたなく、そう種類も数も多くない食器を棚に入れたり、 テレビを悪戦苦闘しながら接続していると、 ふと、辺りが随分と暗くなってきたと思い、 そこで時計と照明をまだ設置していないことに気づいた。 蛍光灯を点けると部屋全体が開くように明るくなり、 先ほどまでは室内と比べてほのかに明るく見えた外も、 真っ暗になって窓には薄暗く部屋の様子が映っていた。

そろそろテレビの番組でおもしろいのを始めるかというころになって、 ようやく小波の父は出先から帰ってきた。 出迎えようかどうかと迷っているうちに、 小波の父は部屋の入り口で服を脱ぎながら無言のまま立っていた。 小波は迎える声をかけたが父は特にそれに反応せず、 おもしろくもなさそうに室内を睥睨すると、 「メシは食ってきた」とやはり独り言のようにつぶやいた。 小波は「ああ」と勝手に納得するような返事をしたが、 小波の父はそれに応答することなく、 残っていた段ボールの整理を始めた。

捨てる理由もなく以前の家からそのまま運んできた いくつかのインスタント食品が残っていたが、 どのみちこの家の周辺を見て回ろうと思っていたので、 「買い物に行ってくるから」といって小波は家を出た。 まったく知らない町の夜道をでたらめに歩くような酔狂な性分は持っていないため、 小波はここに来る途中の道すがら確認していた、 引っ越す前の町でもよく見かけた全国チェーンのコンビニを目的地として進んだ。

住宅地の路地を抜けて大通りに出て、そのまま道なりに進んでいくと 煌々とした明かりと特徴的な配色の店にたどり着いた。 店内は引越し前に住んでいた町のそれとまったく同じであり、 雑誌を立ち読みしていると自分がいる場所というのがあいまいになった。 買い物を済ませて家路に着こうとしたが、 小波は出てきた路地がよくわからないことに気づいた。 来るときは大通りに出ることだけを考えればよかったが、 帰りはいくつもの曲がり角や横道から 適切なひとつを選ばなければならないことまで頭が回らなかった。 最初、そう距離があったわけではないし 方向さえ合っていればどこかで繋がるだろうと甘く考えていたが、 暗い中で住宅地の特徴のない家々から得られる情報は乏しく、 いくつかの角を曲がるうちに方向は横から斜めに変化していき、 ついにはどの方向を歩いているかまったく自信がなくなってしまった。 引き返そうにもすでに随分な距離を歩いてしまったため大通りに出られるかどうかも怪しい。 周囲の家のほとんどには明かりが灯っており、 外を心細く一人で歩いている人がいるなどとは想像すらせず、 家族で楽しく過ごしているだろうと考えると、 小波はそれらの家族たち自分のような人間を見て笑っているような気がして、 ひどくみじめな気持ちになった。

コンビニで買ったペットボトル飲料の重みに辟易してきたとき、 住宅の隙間から大きな建物が目に入った。 位置を変えてもう少しよく見えるところから眺めるとデパートか何かのように見えた。
「ということは、あの近くは大きな道が走っているはずだ」
目的もなく暗闇で知らない道をさまようことが思った以上に精神的に辛いことに気づいた小波は、 とにかくどこかに向かって歩きたいという気持ちで一杯になっていた。 スポーツをしているため肉体的にはそれほど疲れていなかったことも手伝い、 小波はかなりの早足で目標へと向かっていった。 少し広くなった道に出て、さらに進んでいくと小波は明るく大きな通りに出た。 歩道にはそれぞれの方向へ歩く人々が交錯しており、 真っ直ぐ遠くまで通った車道では多くの車両がごうごうとした光流を作り出している。 車線を挟んで向かいには目標とした建物が見えたが、 デパートではなく雑居ビルか何かのようだった。 週末の夜だというのにいまだ明かりのついた一つ二つの部屋は、 物悲しくもあれば秘密裏に事を進めるような怪しさを感じられた。

この道がコンビニがある通りかどうかは依然として不明だが、 ともかく同じ方向に同じように黙って歩く人々に囲まれていると、 たとえ行き先がわからなくとも不思議と安心した。 しかし、そうしていたところで家に戻れる公算はかなり低く、 小波ははたと足を止めて辺りの様子を見渡した。 不意に立ち止まったため周囲の人々は迷惑と不審の目を小波に向けた。

素直に道を尋ねた方がいいのかもしれない。 だいぶ前から何度か検討してきたことだが、 どうしても小波は気が進まないものがあった。 もちろん見ず知らずの人に話しかけることが それほど好ましい作業でないということもあったが、 なにより、そんなにすぐに家に帰ったところで 時間と場所を持て余してしまうだろうという考えが頭にちらついていた。 やってきたばかりで自分のテリトリーとしてなじんでいないということもあるのだろうが、 引っ越しというあからさまな話題が目の前にぶら下がっているにもかかわらず、 黙って同じ屋根の下で寝るまでの時間を過ごすことに耐えられなかった。 もっといえば、小波から話題に触れたときの父の反応を予想するだけで気が重くなった。

「腹ごしらえをして、もう少し歩いたら考えよう」
少し道を入ったところにカラフルな遊具が目に入ったので、 おそらく公園か何かだろうと、小波はそこで夕食を腹に入れることにした。 家を出た時間から推測すれば、いつもよりもだいぶ遅い時刻になる。 中に入ろうと正面に回ると、奥の方に木造の建築物が目に入り、 神社と小さな公園が混ざったような構造になっていた。 境内は周囲の建物のせいでかなり明るかった。 ベンチに腰を下ろしてコンビニのおにぎりを食べていると、 車のエンジンや途切れ途切れに聞こえる放送に紛れて、 「ぶん、ぶん」と空気を鳴らす音が聞こえた。 明るさと喧騒のために心理的に余裕があったのか、 小波は恐怖よりも好奇を感じて音の主を確かめることにした。

外灯の下で野球のユニフォームを着た小波と同じぐらいの年と思しき 男子生徒が素振りをしていた。 まさかユニフォームを普段着にしているはずもないので、 部活の帰りにここに立ち寄ったのだろう。 小学生のときから野球部に所属していた小波は、これまで飽きるほど 多くの素振りを見てきていたが、 ここまで整った動きを見たのは初めてだったかもしれない。 決して軽いとはいえないバットを力任せに、野蛮に振り回すような印象を与えず、 次々と飛んでくるボールを難なく軽快にはじき返す様をありありと想像できた。 しばらく呆然と眺めていると、男子生徒は小波の存在に気づいたらしく、 やや警戒の色を見せたがそのまま素振りを続けた。 あまりじっと見ていると見世物にされた気になられると考え、 小波はその場を離れようと思ったが、 迷子になって周囲のすべてが自分と無関係となったときの心細さの反動のため、 ただ野球をしているという共通点だけで、他人とつながった気持ちを感じた。

「何か用ですか」
やはり気になるのか、男子生徒は素振りをやめると少し離れたところにいるまま 小波に声をかけてきた。
「いや、きれいなフォームだなって」
「それはどうも」
それをきっかけに小波は男子生徒の近くに寄った。 高校野球のユニフォームはどの学校もあまり大差がないが、 間近で胸に書かれた校名を見ると「AKATSUKI」とあった。 この地区から今年甲子園出場を果たしたあかつき大付属高校に違いない。 小波は驚きと羨望の声を上げた。
「すごいね、あかつき大付属って」
「ええまあ。でも、レギュラーではないですから」
男子生徒はややはにかみながら手を振って謙遜するように答えたが、 その口調は到底実現できない夢うつつのようなことを 口にすることによる照れを隠そうというよりも、 すぐにでも実現できることがわかっているような余裕の笑みに見えた。 かといって、それがまったく嫌味にも計算高くも映らず、 自然と気配りを心がけた振る舞いをする人間であることがうかがえた。

小波が自分も野球をしているというと男子生徒は人懐っこい顔をしたが、 極亜久高校に転校してきたというと少し表情が曇った。
「あそこの野球部はちょっと考えた方がいいかもしれないですね」
「考えた方が?」
男子生徒は腕を組むと一瞬小波から目をそらした。 話す方にとっても聞く方にとってもあまり楽しくない内容なのか、 男子生徒はどう伝えようかと思案しているようだった。
「ええ。聞いた話では去年の今ぐらいかららしいんですけど、 今の三年生の代に素行が悪い生徒が四、五人ぐらい入部して、 そこからずるずるとおかしくなっていったらしいんです」
話によれば、練習らしいものはほとんど行っていないにもかかわらず 公式戦には毎回参加して、 その動機は高校球児の必死な様をあざけようというものらしい。 試合中の態度も最悪で、汚い言葉で叫ぶ、わざとボールを当てようとする、 バットを振り回す、途中で帰るなど枚挙に暇がない。 そんな状態でまともな生徒が入部するはずもなく、 今の二年生の部員は夏に引退した三年生に輪をかけてひどいという。
「そう、なんだ」
弱々しい声を漏らして、そのまま小波は二の句を出せなかった。 ほんの短い間に頭の中でさまざまな思いが錯綜した。 これでもう辛い練習をすることもないという見方もあるとひとごとのように考えたが、 一方ではそれを拒むように胸がしめつけられるような気がした。
「あの、このあたりにはいくつか社会人チームもありますから、 そういうのに入るっていうのもありますよね」
小波の心中を忖度してか、男子生徒は親身になったように話した。 小波は「うん、まあ、考えてみる」とそっけなく答えた。 その男子生徒があまりにも思いやりがありそうだったため、 今ここで深く考えてそれに伴う感情をあらわにするのはためらわれた。

このまま重い空気を保っていてもしかたがないと、 小波はできるだけ自分の気持ちを悟られないようにしながら、 思い出したかのように話題を変えることにした。 引っ越してきたばかりで道がわからなくなったと伝えると、 厄介そうにもしなければ小ばかにするでもなく、 男子生徒は丁寧に道順を教えてくれた。
「うん、わかった。ありがとう」
そのうち、あの辺りの道は入り組んでてわかりづらいからと、 男子生徒が家まで送ろうかといいだしたが、 さすがにそこまでしてもらうのは悪いと思って 小波は何度もいいよ、大丈夫だよと繰り返した。 立ち去る間際に男子生徒は「ここにはよく来てるから」と伝えた。 それがどういう意味なのかは聞き返さなければわからなかったが、 小波はそのままにして手を振って別れた。

神社は小波の家から案外近い距離だった。 それでも、その短い道のりを小波は悶々とした気持ちで歩いた。 小さな子供だったころからつい最近まで、 甲子園の舞台に立つというのは他人に話せば笑われるような寝言のように感じていたが、 宝くじの高額当選者に間近で会ったように、 あの男子生徒を見てから俄然現実味を感じてきた。 だというのに、自分はそれに挑むことすらできない境遇にいるようだった。 またしても、どうせ初めから無理に決まっているのだから 徒労に人生を費やさないですんでよかったではないかという思いと、 それを必死で否定しようという相反する思いに小波は動揺した。

家に着くと玄関に明かりがついていたことに小波は少し驚いた。 よその家に黙って侵入するような後ろめたさを感じつつも、 小波は「ただいま」といって靴を脱いだ。 荷物の整理は終わったのか、小波の父は静かな茶の間で新聞を広げていた。 小波が「ちょっと道に迷って」というと、 父は顔を上げて短く「そうか」とだけ答え、 それからすぐに新聞に目を戻した。 いっとき小波は部屋の入り口にたたずみ、 神社の話をしようかと少しだけ思ったが黙って自分の部屋に行った。

(つづく)


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