卓上の平和論


如成王が治める地はさして大きなものではなかったが、 徳政でもって国と民に安寧をもたらしてきた。 ひどい災害も起こらず、天下は太平そのものであり、 人々は天と、それから王の人徳に感謝した。 如成王が天寿をまっとうすると、人々はその死をおおいに嘆いた。 まもなく、彼の長兄である如久が王位に就いた。

王となって一月目は忠実な側近たちの補佐に助けられながら、 わけのわからないうちに過ぎ去っていった。 二月目になって少しだけ周囲を見る余裕が生まれた。 三月目になってようやく自分から行動を始めるような気持ちになった。

ある日、如久はもっとも信頼する側近の一人にその思いを告げた。

「下芥よ、相談があるのだが」
「なんなりと」
「今、我が国は天下太平そのものであるな」
「さようでございます。これもひとえに君の徳のいたすところで…」
「ああ、よいよい。それで相談があるのだが」
「はあ、なんなりと」
「このようなときだからこそ、改めて国の平和を考えるべきだと思うのだが」
「すばらしいお心がけです。今のように国力のあるときにこそ、 余裕を持って平和を乱す要素への対策を立てるべきでしょう」
「そこでだ。そなたは平和とはどのようにして成されると考えるか」
「難しい問いですな。今のような世のことをいうのでしょうが、 具体的にどこがどうだから平和だとは説明できませぬ」

下芥はふむと首をかしげ、それからううむと天井を仰いだ。 考えるふうにしながら、部屋を見渡すようにゆっくりと一回りした。 下芥は先代のころより使えており、しばしば近傍の国との外交にも同行していたが、 余程の小さな国とでも比べない限りは、これほど質素な王城もないだろう。 城の守りがおざなりというわけではなく、奢侈品がまったく見当たらない。

先代について思い出していると、下芥はふとそのころに耳にした一人の老人を思い出した。 竹林に覆われた山奥に隠れるように住まっており、 たぐいまれなる人徳と学識を備えているという。 この国だけに留まらず、周囲の国々からも声がかかるほどの人物らしい。 その老人ならば、この難問にも答えてくれるのではないだろうか。

「そのような人物がいるのなら、ぜひとも会ってみたいものだ。よし、明日行くか」
「いきなりですか。しかし、老人は山奥に住んでおります。また、あるいは死去してるかもしれませんし、 あるいは妄言を吐くかもしれません。王自ら出向くこともないでしょう」
「まあ、いいじゃないの。どうせひまなんだし。一日二日自分たちがいないところで、業務に支障はないんでしょ」
「そりゃまあそうですけど」
「じゃあ決まりだな」

早速、如久と下芥は老人のもとを訪ねに出かけた。 如久にとっては生まれて始めての旅行のようなものらしく、 川渡しの舟に乗ってははしゃいで落ちそうになり、 目を離すといつのまにか得体の知れない料理を口にしており、 民家で飼っている犬をなでようと近づいて噛みつかれそうになり、 くだんの老人が住むという山に来たときには下芥は精根尽きたといった顔つきになっていた。

「こんなところに住んでいるのか」
「話によればそうらしいです。用があるときでも弟子を使いにやるので、 ここ数年は誰も姿を見た人はいないそうです」

うっそうと茂る葉をかき分けながら、踏み固められている地面を道なりに進んでいると、 唐突に視界が開けて、明るい場所に出た。もう少し歩いたところに、 風雨をしのぐことで精一杯といった風情のみすぼらしい家屋が建っている。 狭い庭では一人の童子が雀に餌をやっている。

「おや、珍しい。客の方から来るなんて何年ぶりだろう」
「こんにちは。ここの先生に用があるのだが、ご在宅かな」
下芥たちが近寄ると、雀たちは一斉に飛び立った。
「うん、いるよ。でも、おじさんたちも物好きだね。 そんな立派な身なりをして、うちの先生に用があるなんて」
如久と下芥は童子に促されるままに敷居をまたいだ。

広くない部屋の隅に老人が寝ていた。 こちらが入ってきたことに気づいているのか気づいていないのか、 まるで動じない様子で姿勢を崩さないでいる。 妙に長い筒をくわえており、鼻からぷかぷかと白い煙をふかしている。 注意深く観察すると、なるほど、あれだけ長い筒ならば先端を地面に置くことができるようで、 臥床したままでも安定してくわえていることができるらしい。 老人の目尻はとろんと垂れており、だらしなく開いた口からも時折煙が漏れてくる。

「下芥よ」
「はい。おっしゃりたいことはわかります」
「人は見かけで判断するべきではない、そうはいうけれども」
「はい。確かにものには限度というものがあると存じ上げます」
「まあ、ひとたび話せば、彼が玉であるか石であるか、 それぐらいの判断ならまちがえずにできるだろう」

童子が何事か耳元でささやくと、老人は相変わらず寝そべって煙をふかしながらも、 目だけは二人へと向けた。一つ大きな煙を吐き出すと、 老人は大儀そうに半身を起こして如久と下芥に向き直した。

「して、客人がた。こんな老体にどんな用かな」
大きく伸びをしながらも、老人は存外はっきりとした口調で話した。
「お休みのところを失礼します。先生のご高名は遠くまで響いております。 今日はわたくしどもに知恵を貸していただければと思い、訪ねさせていただきました」
「老い先短い人生です。拙論でも世に残すことができるのであれば、惜しまずお伝えしましょう」
童子はほかの部屋にいるようだが、お茶が出る様子はない。如久と下芥は床に腰を下ろすと、すぐに尋ねた。
「ではお聞きしますが、天下太平の世とは、平和とはどのようにして成されるのでしょうか」
二人の問いに、老人はすぐには応答せずにしばし目を閉じた。
「ふむ、易しくはない問いだ。しかし、教えられないものでもない」
如久と下芥は童子が用意した椅子に着席した。長い話になるようだ。 老人は筒に口をあてて一息だけ大きく吸い込むと、これから口にする話を落ち着かせるかのように、 ゆっくりと煙を立ち上らせた。

「まずは組織を統率する者について、そう、まさしく君のことです」
如久と下芥は老人が自分たちの正体を知っていたことに驚いて顔を見合わせた。
「国の上に立つものとして、容易に流されてはなりません。周囲の風説や讒言に惑わされてはなりません。 また、おごってもなりません」
「なるほど。もっともな意見だ」
「それから、色事におぼれてもなりません」
「色事か。それは具体的には何色だろうか」
如久の問いに下芥はそういうことではないという眼差しを向けたが、 老人は特に気にも留めずに答えた。
「色事とはすなわち女性のことです。君にとっての女性の凶相を述べるならば、 まず、肌の白い女性はいけません。それから、萌えるような青々とした黒髪の女性もいけません。 最後に、紅色の唇を持つ女性も国に不幸をもたらすでしょう」
老人は長いあごひげをさすりながら、何事か感慨深そうな様子で話した。 今までにそういった女性におぼれて破れた国を見てきたのだろうかと、 下芥はこの老人のとらえどころのない生い立ちや年齢を考えた。

「では、組織とはどのようにあるべきだろうか」
「組織とは連結が重要です。互いに反目することなく、よく繋がった者たちで構成されるべきでしょう」
「ふむ」
「けれども、その一方で、幅広い意見を生かし、柔軟力を出すためには、 同じような者ばかりが集まるのは避けなければなりません」
「それは、饅頭でいえば、同じ具しか入っていないあんまんは避けるべきだということか」
脈絡のない発言に、再び下芥は如久をいさめるように見つめたが、 やはり老人は意に介さないどころかよく理解してくれているといったふうでいる。
「まあ、そうですな」

気のせいか、話始めてから老人の眼光が鋭くなったように思える。 如久も下芥も、この老人のただならぬ才に敬服し始めていた。
「ほかに気をつけねばならぬことはあるだろうか」
「君は狡兎三窟という言葉を知りますか」
「いや」
「賢く、素早い兎ですら、危機に備えて三つの窟を持つといいます。 何事にも肝心要、ここがもっとも重要というところがありますが、 そういうものは複数用意しておかなければなりません。 たとえば、我が国で現在民が口にする穀物はなんでしょうか」
「米だな」
「さようでございます。そして、もしかすると米が大凶作となる年もあるかもしれません。 そのような不測の事態に備えて、豆や芋など、ほかの作物も育てるべきでしょう」
「余裕のあるうちにこそ挑戦するべきなのだな」
「始めのうちはうまくいかないでしょうが、国にたくわえのあるときにこそ、備えを作るべきです」
如久と下芥はこの目の前の慧眼の士に畏敬の眼差しを並べていた。

「外交はどのようにあるべきだろうか」
「国の基盤が整うまでは避けるべきです。親しくすれば、こちらの手の内を悟られ、 付け入る隙を与えることとなるでしょう。かといって、すべてを自国のみによって解決しようとすることも、 また、世の流れに取り残されてしまうことでしょう」
「では、どうすればいいのだろうか」
「国内が整い、揺るがないものとなったことを確かめた上で、初めて他国と接触し、 国の繁栄へとつなげるのです」

そこまで話すと、老人は静かに如久を見つめてきた。 自らの論が誤って伝わることがあってはならないと、 老人は如久の心を射抜くような目をしていた。
「先生の話は理解できました。最後に尋ねますが、平和とは結局どのようなものなのでしょうか」
ここが一番大事なところなのだろう。下芥は緊張した面持ちで固唾を飲んだ。
「結局のところ、面前で、頭が風牌以外の字牌ではなくて、暗刻のない両面待ち、ロン上がりです」
老人のもっともらしい顔と、意味不明な発言に、下芥は大変怪訝な表情をして見せたが、如久は構わずに続けた。
「平和とはどれぐらいの価値があるのだろうか」
「二十符一翻、のみ手で千点といったところです」

いつのまにかやってきていた老人の弟子らしい童子も加わった四人は、席に着いて四角い卓を囲んでいた。 下芥が事態を飲み込めないまま、あれよあれよというまに、 如久と下芥は帰りの最低限の旅費を残して有り金すべてを巻き上げられた。 老人は「米を買う金と電車賃だけは残してやるのが渡世人の流儀ってもんよ」といって満足げに頷くと、席に座ったまま呆然としている二人をよそに、 訪問したときの位置と姿勢に戻ると、再び淀んだ目を浮かばせながら白煙を垂れ流した。

しばらくしてから、老人は寝言のようにしてつぶやいた。
「そうそう、一番大事なことを忘れていましたな。夜郎自大にならず、 己をよく知り、自分よりも強い奴とは絶対に一緒に卓を囲まないことこそが極意です」
それっきり、老人の口からはまともな言葉を聞き出すことはできなかった。 帰り際、二人にいうでもなく童子がぽつりと漏らした。
「うちの先生もなあ、薬をするまではまともだったんだけど」
それを聞いて、下芥はようやく合点がいった。

以後、如久は優れた家臣たちにも恵まれ、よく国を治めることができた。


戻る