親切の席

肘の先の不規則な軽い感触に目を覚ました橋山は、 少しぼやぼやとした頭でその原因を確認した。 組んでいた腕がいつのまにか解けて、だらりと垂らしたところに 隣の客が持っていたバッグのベルトが当たっていたようだ。 橋山は伸びをしながら少し向きを変えた。

どれくらい意識をなくしていたのか少し不安になり、 対面の窓から外の景色を確認しようとしたが、 辺りは真っ暗らしくガラスには車内の照明と陰鬱な顔をした乗客たちが映っていた。 少し考えてみたがまだあまり頭がしっかりと働かないのか、 どこからどこに行くつもりなのかがはっきりとしない。 目的地の名前でも見れば思い出すと考えて、 停車駅の一覧を示すような掲示か何かを探したが見当たらない。 乗務員でも通りかかれば尋ねようと思ったが、 そんなにいいタイミングでやってくるはずもなく、 また、駅を出たところでも着くところでもないらしく、 車内放送のたぐいもなく、がたがたとした音を遠くに流しながら 電車は淡々と進み続けた。

自分がどこに向かっていたのかは依然として思い出せないでいたが、 一旦大きな駅にでも降りて調べればわかるかもしれないと思った。 車内の混雑からそういった地点を通過したかどうか判断してみると、 おそらく大部分の乗客たちはまだしばらくは乗っているように思え、 そのうちに周りが大勢降りるところで自分も降りればいいような気がしてきた。

橋山はもう一度自分がどこからどこに何をしに行こうとしてたのかを思い出そうとした。 外の様子からするともうずいぶんと遅い時間のようであり、 加えて、街のにぎやかさはおろか民家の光ですら見当たらないということは随分と辺ぴなところのようであった。 それにしてはこの乗客の数は多すぎるように思えた。 毎日通勤している会社の帰りではないようなので、 出張か何かで遠くまで来たところだっただろうか。 見知らぬ土地での疲労のせいなのかもしれない。

すっきりしない頭で必死に考えると、どうもそうではないように思えてきた。 今朝は確かに自宅を出ていつもの道を歩いて会社に向かったはずだ。 しかし、なぜか確かに今日の出来事だったかもう何日も前のことなのかが判然としない。 あるいは、どこかで伝聞した他人の体験と混同しているのかもしれない。 ひょっとすると覚醒夢を見てるのだろうか。 橋本は自分の腕を1本ずつ確認したがしっかりと体とつながっている。 続けて、周囲の乗客の様子を見るとこれもやはり自分と同じようにはっきりとしている。 対照的に、椅子や吊り輪といった背景はどこか抽象的に見えて、 ふっと気を抜いた瞬間に盲点に入ったように暗く消えてしまうことがある。

やはり夢を見ているのだろうか。自分の頬をばんばん殴ってみると痛みを感じたような気がした。 夜の寝床以外で眠ったとき特有のけだるい頭痛もしている。 それでもどこか不審な非現実的な感覚を完全に打ち消すことができない。 振り返って自分の席にある窓にじっと顔を近づけて、 そこから見えた景色をきっかけにどこかほかの場面に移るかとも思ったが、 やはりそこには遠近をまるで持たない虚空ばかりしかなかった。

しばらくそうしていてもまったく何も見えるものはなく、 橋山はあきらめて再び向き直し、腕を組んでうつむいた。 この電車はどこに向かっているのだろうか。 外の様子はもちろんのこと、車内の様子もまったく変化することがなく、 一体どれほどの時間がこの中で経過したのかまるで判断ができない。 何かが変わることでしか時間の流れを感じられないのであれば、 気づいたときからまったく少しも時間は過ぎてないのかもしれない。 橋山は電車が振動する音を数えてみたが、 10まで数えたところでそれに何か意味があるとも思えずにやめた。 乗客を見渡すと、半分ぐらいは寝ているか目を閉じているかしており、 そうでない人たちもほとんど動かずにじっとしている。 大声で会話をする人もおらず、自分の荷物をいじくる人もまったく見当たらない。

すべての乗客がじっとしており、疲れているようでもなく、 何かに遠慮している、はばかっているというわけでもなく、 はたまた、深い思慮に沈んでいるというようにも見えなかった。 座っている人はただ座っており、扉の近くに立つ人はただ立っているだけだった。 どこかの瞬間で動きを止めたというよりは、 滑らかに転がるボールがゆっくりと止まるように、 そうなるであろうことが予感できるような様子をしていた。 目を閉じれば自分もその中に何の違和感もなく溶け込むように思え、 そうしていると波間に漂う浮きのように、うとうとと意識が切れ切れになり、 外の景色が頭の中に浸水してくるかのような感触を覚えた。

膝に何かが当たる感触で、橋山は再び意識を取り戻した。 いつのまにかいくらかの乗客が乗り込んだらしく、 目の前にはちょうど自分と同じぐらいの年の男が立っていた。 男は吊革を握るというよりは手をかけるようにして立っており、 誰とも目を合わせなければ、何も見ようともしないかのように顔を伏せていた。

橋山は顎の辺りから目の前の男を軽く見上げてみた。 座っているこちらをにらんでいる様子はなかったが、 どことなく具合が悪そうに見える。 日焼けしていない二の腕のような顔色をしている。 時折、男は目を閉じて何かに耐えるようなしぐさを見せた。 少し迷ったが、目の前でこれほど気分の悪い顔をされても困るので、 橋山は席を立とうとした。
「あっ、大丈夫です」
男は弱々しく手を振ったが、橋山は構わず立ち上がって ドアの近くの手すりに寄りかかった。 空いている席の前にあえて立つという理由もないらしく、 男は橋山に小さく「すみません」といって腰を落とした。 すぐに腕を組んで目を閉じた。

ドアのガラスから外を見たが、はたして何も映らなかった。 立ったついでに改めて車内を見渡してみたが、 あいかわらず通過駅の表示や広告のたぐいもまったく見当たらない。 乗客の誰もが静かに揺れに身を任せているばかりでほかにはまったく何もしない。 立ちながら手すりを握ってしばらくしていると、 ふと橋山は奇妙なことに気づいた。 こうして握ってから随分と経ったはずにもかかわらず、 手すりの手の触れていたところの温度がまったく変わらず、 わずかにひやりとしたものを感じる。冷房が強めにかかってるようにも思えない。 橋山はドアのガラスに手を当ててみたが、 いつまで経っても手から伝わる温度に変化を感じられない。 不審に思いながら手を離すと、ガラスにはまったく指紋が付いていなかった。

わずかに焦りながら、今度は強くこすりつけたが、 やはりガラスは何もなかったかのように透き通っている。 何か得体の知れないものに対する恐怖を感じ始めた。 今この事態を説明しようにも、まるで因果を考えられない。 そもそも、自分はどうして電車に乗っているのか。 混乱した頭で無理に考えたためか、 橋山は今まで体験したことがないほどの苦痛を感じ始めた。 筋肉が疲れるように脳が動くことを拒否するかのようで、 次第にその感覚は全身へと広がり始めた。 溶けた鉛を血管に流され、鋭利な剃刀を飲み込んだような痛みが全身を包んだ。

意識を失うことを望んだ瞬間、橋山がもたれかかっていたドアが ぷしゅうと音を立てて開いた。駅員か誰かが気づいてくれるだろうと、 自力で動かせているのかわからないような体を外に投げ出した。 視界が急速に暗く絞れていき、耳に入るざわつきが遠くなっていく。 地面に倒れた体の上から重い液体でゆっくりと押し潰されるような感覚が襲った。 橋山はこの責め苦の因果を考えたが、本当の理由がわからなければ、 自分を納得させることができる理由も思いつかなかった。思考はそこで途絶えた。

「先生、橋山さんの意識が戻りました」
橋山は自分の近くに誰かがいることに気づいた。 それから、自分の体中から伸びているチューブやコードが目に入った。
「橋山さん。わかりますか。橋山さん」
自分と同じか少し若い白衣の男が、覗き込むように話しかけてきた。 事態がよく飲み込めず、黙ってぼんやりとしていると、 白衣の男はより丁寧な口調でさらに話しかけてきた。
「橋山さん。自分の名前がわかりますか。は、し、や、ま、さん」
自分の名前を口にしてみると、たったそれだけでひどく疲れを感じた。
「意識はしっかりしてるみたいですね。じゃあ、簡単に状況を説明します。 通勤途中、あなたを乗せた電車が脱線事故を起こしてしまいました。 気になるのであれば詳しく書かれた記事も取ってありますが、 今は治療に専念した方がいいでしょう。ひとまず、危険な段階は乗り越えたところです」
事故の瞬間を思い出そうとしたが、頭に浮かぶのは 何度も繰り返した同じような通勤の光景ばかりだった。 ついさっきまで恐ろしい体験の中にいたような気もしたが、 悪夢から覚めたときのように、むしろ安堵の念の方が強くなってきた。
「とにかく、今は悪いことはなるべく考えないで、体を治すことだけを考えましょうね」
そういい聞かせるようにして医者の男が立ち去ろうとしたとき、 橋山はふとほかの乗客たちがどうだったのかを知りたくなった。
医者の男はあまり気が進まないようだったが、思いのほか橋山がしっかりしてると判断したからか、 事故について少しだけ言及した。
「全部で数十人の方が犠牲になりました。この病院にも…」
そこで男は言葉を濁したが、どうせ調べてしまえばわかることだといって続けた。
「こういうことをいうと、自分がとても悪いことをしたように 思ってしまう人もいるのですが、この病院にはあなたのほかにもう一人運び込まれていました。 しかし、あなたが運び込まれるほんの前に息を引き取りました」
医者の男は誰に対してかはわからないが、申し訳なさそうな顔をした。 一瞬だけ、橋山の脳裏に顔色の悪い自分と同じぐらいの年の男の姿が浮かんだが、 それが確かな記憶にもとづくものか、想像の産物によるものかを判断する前にすっと消えていった。 それから、これからしばらく続く入院生活に少しだけ憂鬱になった。


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