連続

目を覚ますと白いシーツと見飽きた壁が視界に入った。 彼は病んでいた。まだ精神はしっかりとしたものだったが、 日ごとに悪くなる身体とその治療は少しずつだが確実に心も蝕んでいた。 眠りから覚めたことに気づいたが、彼はすぐに再び目を閉じた。 入院した最初の数週間を除いて、彼は新聞もテレビも避けるようになっていた。 彼にとっては、どれほど悲惨な殺人事件や、憂うべき、あるいは憤るべき政治も経済も、 そのすべてがどこか遠い異国の寓話よりも興味の無いことだった。 最近では読書もほとんどしなくなった。 例えそこに何かを見出したとしても今後の人生に何の役に立つのか、 むしろ、自分には今後など何も無いと、どうしようもないむなしさを感じるからだった。 彼にとっての未来とはせいぜい明日の献立ぐらいで、 確かに存在しているのはこれまでの数十年の過去ばかりだった。

布団にすっぽりともぐりながら、彼はこれまでの自分の人生を回顧していた。 この病気の原因は長年に渡る不摂生が原因だったのだろうか? しかし彼はそのことはあまり考えないようにしていた。 同じような、いや、もっとひどい生活をしていてもぴんぴんしている奴だっている。 彼は人間の寿命は運で決まると若いころから強く信じていた。 自分は運が無かったのだ。しかし、彼は不運を呪うということはしなかった。 運を強く信じるからこそ、人間にはどうしようもないことだと達観していた。 暗闇の中で彼が想うのは歳月によってろ過された甘い過去ではなかった。 彼はいくつものことを後悔していた。受験、就職、結婚、人生の岐路において、 もっと違った選択肢があったはずだと考えては、その結果を想像していた。 彼の見舞いにやってくる人はほとんどいない。 会社と生まれ故郷を捨てる大恋愛の末に一緒になったはずの相手は1年と持たなかった。 しがらみを断ち切るように、彼は何の繋がりも無い土地に移り住んだ。 そこから先の想い出はほとんど残っていない。 人並みの生活をしていたというのがすべてだった。 人生のおおよそ半分を費やしたにもかかわらず、振り返れば何も残していなかった。 あのとき、もっと違った選択肢を選んでいれば─ 人間の寿命の長さが決まっていると考える割には、彼は運命論者ではなかった。 寿命が決まっている分、その中身は自由に変えられるものだと信じていた。

昼間に眠ることが多いためか、彼はしばしば深夜に目が覚めた。 そんなとき、今この瞬間に覚醒しているのは自分だけであると思い、強い孤独を感じた。 夜は明日のために来るが、自分にはそれがなんの意味も無いことだと思っていた。 目を開けても続く暗闇の感覚は日に日に彼の絶望を深くしていった。 ある晩、目が覚めた彼はいつものように過去の自分を呪っていたが、 ふと、もっと違った何かを呪うべきではないのかと考えた。 彼は心の中にすべての怨嗟の対象を偶像化したものを作り上げた。 そして、奥行きの無い真っ黒な虚空にそれを投影してじっと睨んだ。 その日から、彼は自らで作り出した偶像に念を送るようになった。 昼間明るいとき、ほんのひと時だけは楽しかった時代を夢想したが、 それ以外の時間はすべて自己をうちのめす感情だけを浮かべていた。 呪いの対象を作り出すのを前後して、彼の身体は急速のうちに弱っていった。 彼を支えているのは精神力で、その源はほかならぬ呪いの対象だった。 彼の中では時の流れは無くなっていた。昨日と同じ今日を迎えては過去を呪った。

多くの人々が休息の床にあるときに、彼はうねるような吐き気で目が覚めた。 彼は心身ともに健常なころから今に至るまで、一切の神の存在を侮蔑してきた。 したがって、今この状況を何者かに祈って救いを求めるということはせず、 どれほどの苦しみの中にあっても彼の心は恨みに満たされていた。 しばらく前にナースコールを押したが、彼の元には誰も現れないでいた。 長い時間経っていたかもしれないし、実際はほんの一瞬の時間だったかもしれない。 病室の扉が開き、誰かが自分の傍らに立っている気配に彼は安堵した。 容態を尋ねられると思い、その返答の準備をしていたが、 そばの人物はなかなか何もしないでいた。 不審に思った彼は片目だけを薄く開いて相手を確認した。 だが、そこには誰も立っていなかった。 彼は自分の勘違いだったと思い、再び目を閉じて苦痛に備えた。 しばらくすると、彼は暗室のぬるま湯に浮いているような気分になってきた。 目を開けても、常備灯の光も窓から入る月の光すら見えなかった。 その中にあっても、彼の感情とその対象は変わらなかった。 すると、これまで一方的にしか存在しなかった接触に反応があった。
「やり直したいか」
その声は、彼が想う過去のできごとの人々の会話と同じように発せられた。 もしかすると、彼の病んだ精神が生み出した幻覚だったかもしれない。
「その厚い信仰に応えて願いを叶えてやろう」
彼の意識は黒い水の中におぼれていった。

気が付くと彼は記憶の中の懐かしい家の中にいた。 何十年も過去の経験にもかかわらず、忘れることの無い空間だった。 彼の姿や身振りはその中にごく自然に調和していた。 次に気が付くと、彼は広い和室で正座していた。 奥の方を見ることはできない。彼はこれは夢だろうかと考えた。 いつのまにか彼の正面には抽象的な形をした机が現れていた。 机をはさんで彼の両親が座っていた。彼の最後の記憶よりもやや老けていたが、 少なくとも、生きていればもっと歳を取っているはずだった。 両親は彼に決断を迫ってきた。机の形が重厚かつ几帳面な四角へと変化していた。 彼はこの光景にある自分を呪っていた。両親が用意した縁談を断ることは、 そのまま父が経営していた会社を辞めて、故郷を捨てることを意味していた。 目の前の自分は決意に満ちた顔をしていたが、彼には今から人を殺す顔に見えた。 彼は、決して長い時間をかけたわけではないが、 濃縮され、心の内にべっとりとへばりついた念をいつものように送った。 何かを言いかけていた自分は、画質の悪い白黒テレビの映像のようになり、 あっというまに崩れてなくなってしまった。 彼は台本を読んでいるように、自分に代わってそこに座った。 両親の姿はまったく変わらず、最初から微動だにしない。 彼は自分の両親に対する記憶があまりないことに気づいた。 厳しい視線を感じたが、彼は少しも動揺せず見返した。 そして、この瞬間のために組み立てていた言葉を口にした。

目を覚ますとお気に入りの色をしたシーツが目に入った。 彼は手元のスイッチを操作してベッドごと半身を起こした。 全体としては見慣れた室内が目に入ったが、 1つ1つの家具は借り物のように彼によそよそしい態度を見せた。
「起きたの」
若い女性が話しかけてきた。上品な身なりをしている。 女性は少し乱れた寝具を整えると、食事の準備をすると言って出て行った。 まもなく壁を覆っていたカーテンが開き、明るい外の景色が広がった。 黄色い帽子をかぶった大勢の子供が2、3人の大人に引き連れられていた。 彼はその集団を、天井に見える巨大なプロペラと同じ目で眺めた。
「キョウハチカクノショウガッコウデエンソクナンダッテ」
女性が部屋に入ってきたが、彼は自分の視界に何か動く物があるとしか感じなかった。 彼は一瞬だけ自分も外の集団と同じようなことがあったような気もしたが、 水面に立った泡をつかんだように、すぐにその考えは立ち消えた。 彼は枕元に写真立てがあることに気づいたが、 知らない人物が自分に親しげにしているのに怖くなって床に捨てた。 女性が「オカアサンモワカラナクナッタノ」と悲しそうな顔をしたが、 彼の耳には自分には関係の無い会話が遠くでされてる程度にしか聞こえなかった。 それとは別に、周りの何よりも聞きなれた声がそっと聞こえてきた。
「これがお前の望んでいた過去を変えた結果だ。もっとも、その途中で何があったのか、 もっとさかのぼって、変える以前に何があったかまでは何もわからないだろうが」
彼がそのような言葉を理解できることは二度とやってこなかった。 彼は自分の死期が近いことに気づいたが、振り返るものが何もなければ、 そういった発想さえ浮かぶことなく、目の前の食事を手づかみにした。 彼は熱いものと冷たいものがあることだけを感じた。 横にいる人々が増えていたことにも、彼らの表情にも気づかなかった。 そして彼の意識は濃い霧のかかった泥の中に沈んでいった。


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