5年1組出席番号31番学級委員書記である松木は、
黒板に大きくきれいな字で本日の議題を書いた。
【先週の秋の遠足について】
書き終わらないうちに、廊下から2列目前から3番目に座る、
川島が手を上げながら、委員長吉田の指名を待たずに、
座席を鳴らしながら起立した。ふちなしの眼鏡が光ったように見えた。
「今井君は遠足のおやつにバナナを持ってきていました!
これはよくないことだと思います!」
言い終わると今井の方をキッと睨んだ。
窓側から1列、後ろから2番目に座る今井も、
負けじとその視線を正面から受け止めた。
よく陽の当たる席だ。
既に口をとがらしている。
「あの…指名してから発表してください」
5年1組学級委員長吉田がその存在感のような声を出した。
川島はアゴをつきだすようにして、首を縦に2回振った。
注意を受けた川島にあてつけるかのように、
今度は今井が「はい!」と大声を上げて、
いんぎんに手を地面に対して垂直に挙手した。
指先までまっすぐになっている。
「はい…川島く…」
「バナナはおやつではないと思います!」
既に体はまっすぐ前を向いていない。
川島の眉間に穴をあけんばかりの調子だ。
それにあわせて川島の友人が拍手をした。
拍手が鳴りやむと間髪を入れずに川島が手を挙げた。
今井の所からでも顔が紅潮しているのがわかる。
「バナナはおやつです!」
今度は女子たちが拍手をした。
注意深く耳を傾けると、どさくさに紛れて
今井に対する人格否定的単語も聞こえる。
副委員長赤瀬は教壇の隣の椅子に座って、
さっきから熱心に爪をきれいにしている。
委員長吉田は「静かにしてください」とおろおろしている。
いつのまにか黒板には、
【今井君が遠足にバナナを持っていった】
という文字が書かれていた。
書記松木は外を見ながら髪をいじくっている。
片方の手には白チョークが握られている。
『おやつってなんだよ』
今井サイドから誰ともなく声が出た。
教室で独りだけ起立している川島を糾弾するかのように、
拍手とやや低音の喚声がわきあがった。
「その…ご飯じゃないものです…」
川島は不意をつかれて焦った。
脇の下がじんわりと熱くなってきた。
背中もちくちくする。
まずい。この展開は以前の【金魚を飼いましょう】に似ている。
川島は先週の敗北を思い出した。
相手はへりくつを並べて逃げようとしている。
小さい子供のどうしてどうして攻撃とおなじようなものだ。
へりくつにはへりくつで返すか──
しかしそれでは泥試合だ。
加えて、敵は妙に口が立つというか、
放っておくと餓死するまでしゃべり続けているぐらい、
意味のない文を吐き続けられる精神異常者だ。
勝ち目はない。
『お弁当に入らなかったものはおやつでぇす』
人を馬鹿にしたようなイントネーションの音声が発せられた。
書記松木は漢字の書きとりをしているときの顔でそれを黒板に記した。
10個の爪はすでに十分すぎるほどきれいになって、
副委員長赤瀬は教室の後ろの掲示物を眺めながら、
週末はどうしようかという空想を広げた。
今井に視線が集まった。
考える前に今井は手を挙げた。
今井は発言を考える前に手を挙げる。
そうしてなるべく冗長な表現を心がけて、
自分の発言に自分で興奮、励起されながら、
最終的な意見をまとめるタイプの人間である。
つまり聞いてる方は非常に疲れる人間である。
「弁当に入ってないっていうことは、弁当箱に入ってないんでしょ。
だからそれだと入り切らなかったおかずとかが、
おやつってなるんじゃないですか?おかしいよ、それ。
だからバナナがおやつじゃなくておかずとして弁当箱に入れようと思って、
ようするにだからバナナを弁当にご飯としておかずに入れようとしてたらどうするんですかぁ」
この瞬間、今井流亜空間殺法が炸裂した。
無駄だとは知りつつも、反射的にその発言の意味を解釈しようと試行、
そして思考停止、空白の時間、“すき”ができたのだ。
今井は机に左手を乗せて、乗り出すような姿勢になっている。
右手をばたばたと振り回している。いまがたたみかけるチャンスだ──
「そりゃあ、『あんたはバナナをご飯にするのか』とか言うかもしれないよ、
だけどバナナを主食にする国だってあるよ、だって。
煮たりして食べるのがあるよ、ほら。そういうのはどうするんですかぁ」
明らかな論点のすり替え──。
いまはそんなことはまったく議論していない。
しかしすでに術中にはめられている──。
それに追い風を立てるように今井サイドが歓喜の声をあげる。
川島はひどく動揺していた。
落ち着け、落ち着けと心の中で念じた。
息があがってきた。まばたきの回数も増えた。
あふれる唾液を何度も飲み込む。
教室ごと回転するような錯覚に陥る。
川島は発狂したように手を挙げた。
挙げたというより、ほとんど振り回した。
川島は考えずに発言するタイプの人間ではない。
理詰めで攻めるタイプ、
というより、そうとしかできないし、自分が許さない。
にもかかわらず、このときは頭の中は真っ白だった。
それは「このままではやられる──!」という、
本能的防衛行為と言ってもよかった。
吉田は知り合いの上級生が泣いてるのを見てしまったように、
何か見てはいけないものを見てしまった思いがした。
赤瀬と松木はひそひそときのうのテレビの話をしている。
「それはバナナが違うんです!」
鬼女──
そういう単語が今井の頭に浮かんだ。
川島の鼻息がここまで届いたように感じた。
すでに肩で息をしている。顔面の血液が激流となっている。
頭をかきむしったために、髪はばらんとしている。
今井は“圧倒”された。もしこれが廊下や下駄箱で、
相手が同性であればとっくに逃走しているところだった。
しかし今井は異性に嫌われるのを、なんとも思わないタイプの人間だ。
それをさらに挑発するように、火事にTNT爆弾を投げ込むように手を挙げた。
「じゃあバナナってなんですか」
松木は赤瀬と話しながら黒板に向かった。
【バナナとは何か】
白チョークをつかめなかったらしく、
黄色で強調されて、でかでかと書かれた。
2人を除いて、クラス一同があっけにとられた。
ぽかんと開いた口に1本ずつ、バナナを入れたくなるような光景だった。
だが、川島はそれどころではない。
2人ともすでに立ったままで対峙している。
吉田の存在価値はとっくになくなっている。
「そっちが考えればいいんじゃないですか!」
「言い出したのそっちだよ、だいたい立証責任って(以下すごいへりくつ)だよ!」
「だってバナナ持っていったのあんたじゃない!」
「だけどそれを言い出したのそっちだよ!」
いちいち相手を刺殺するように指さして絶叫する。
人を殺せる言葉があるなら、躊躇せず口にしそうな顔だ。
「だからそのバナナが違うって何かって言ってるんだって!」
話が2巡、3巡して、再びそこに戻ってきた。
これを言い出したのは川島であるから、そこをつかれると辛い。
『そうだそうだ!』という野次をごまかすのも限界だ。
「だからその、そういうのはバナナが違うんです!
その、種類が、フィリピンバナナとか台湾バナナとか…」
川島はしどろもどろを辞書でひけば、
「左図参照」というような様になった。
自分でも何を言ってるのか、何をしたいのかもわからない。
夜の海に投げ出されたような心境だった。
「バナナを説明しろって、そこにまたフィリピンバナナとか言ってバナナを使ってるよ。
そんなの説明になってないよ。なんとかの定理を証明しなさいで、
その定理をそのまんま使うようなのだよ、それって。おかしいよ、あんた」
川島が1考える間に今井は10も20も発言してくる。
考えがまとまらない。頭の中を何かが走り回る。
「バナナを説明してバナナが出て…バナナの中にバナナ…」
川島は自分に言い聞かせるように、震える口でぶつぶつとつぶやいた。
「だからバナナの中にばなながあるんだから…バなナがばなナなのよ…」
今井の姿が小さくなったり大きくなったりする。
見なれた教室が知らないところのようだ。鼻水が止まらない。
「だからバ七を再帰的に定義してるのよ…場7の中にバなナなんだから…
だからバ7の中のバ7はバ6なのよ…そしてバ5、バ4、バ3、バ2、1、0…、
バゼロ、ばぜろ、バ0、ぜろ、ゼロ、ぜロ、0…」
それが頭の中で考えたことなのか、つぶやいたことなのか、
あるいは大声で口にしたことなのか、川島にはもう判断できなかった。
吉田は学級会を終わらせる手続きを始めた。
次は給食だったので、机と椅子が教室の床をがたがたと震わした。
川島は友人によって教室のすみの方に連れられていた。
それから、いろいろと慰めの言葉や、今井を呪う言葉をかけられた。
「ばぜろ、ばゼロ、0、ゼロ…」
それは何なのだろう、それさえわかればバナナを、今井を、
ゼロ、0、ぜろ…、すべてがわかるのに、なにもかも、
ゼロ、ゼロ、ゼロ、ゼロ…。
頭の中でぐるぐると回っていたものが、
突然すさまじい勢いで回転を始めた。
耳からの信号がテレビのノイズのように聞こえる。
景色の輪郭が強調される。視線が真っ直貫通する。
次の瞬間、風景が走り出した。
友人たちの悲鳴がハウリングする。
廊下が地平線まで続いている。
あそこまでたどり着かなければならない──。
バゼろ、ば0…、ばばばばば、な、な、な、
ばなばばなば#!*(&………!、わかっ…
動かなくなった川島の周りに、すぐに人だかりができた。
川島に驚いた給食当番が、デザートのバナナを落として
廊下にばらまいてしまったのだ。
川島はそこに、人体からは到底発せられないような音と共に突っ込んだ。
そしてバナナの皮ですべって転んで頭を打った。
川島の顔にはべっとりとバナナの果肉がこびりついていた。
100円硬貨を口にしたような、嫌な味を感じた気がした。
救急車の人が来るまで、
川島さんはそのままにしてあった。
その人たちが顔のバナナを少し取って、
すぐに「見ない方がいい」とすごい剣幕で言うと、
先生たちはボクたちを教室に戻らせた。
お葬式に出たとき、川島さんの死体は見当たらなかった。
そして川島さんの両親はなぜかひどくおびえていた。
彼女はたぶん何者かになったのだ。
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