吾平町の位置・地勢・沿革
吾平町は、鹿児島県大隅半島のほぼ中央、北緯31度16分〜31度22分、
東経130度5 2分〜130度56分の間に位置し、東西約7Km,南北約15Kmの広がりをもち、
鹿屋市・高山町 及び大根占町と境を接しています。

地勢は、南部に高峻 な国見山系や福師岳、その他の小丘陵による山地が形成され、北に漸次
低くなり、肝属平野に続いています。南部山地に源をもつ姶良川・苫野川が町の中央部で合流して
姶良川本流となり町の北端で肝属川と合流しています。姶良川流域に水田、それを扶んで西原台地
及び東原台地 が開けています。地質は、町の南部は花崗岩・砂岩・安山岩等の基岩からなっており、
中部以北の台地はシラス 土壌、水田地帯は沖積平野です。

気侯は温暖で、年平均気温は17℃、年間降雨量は2500ミリ前後です。集落は、台地外縁 部に
多く形成されており、姶良川沿いに開けた市街地が、町の中心となっています。

吾平町は、吾平山上陵の所在地で、吾平の地名は日本書紀神代記(西暦720年)に『吾平山 上陵』と
あるのに由ったもので極めて由緒ある用字です。
また後代長く用いられるようになった『姶良』の用字は延喜式の用例によったものです。

国分正八幡宮の四別宮の一つである姶良正若宮八播宮は早くから当郷に建立され、
これが大隅 半島上の正八幡冨の中心拠点となったと思われます。
西暦l030年頃、平良宗が当地に住し、荘園を 開いたと伝えられています。
要するに中世の吾平は早くから開けていました。中世の当地は肝付氏治下 にありましたが、
肝付氏の滅亡した天正以後は島津氏直轄となりました。

明治4年廃藩置県が行われ、その後上名村に戸長役場を置き上名村一円を統治し、
一つは鷲村 に戸長役場を置き襲村下名村の二ケ村を治め明治22年町村制施行と同時に姶良郷3ケ村
を合併して姶良村と称しました。

昭和22年10月15日姶良村を吾平村と変更し、同日町制を実施して今日に至っています。

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