タール湖畔の一夜

 終戦50年の節目の年平成7年,フィリピンを訪れる機会に恵まれた。

ある修道会のアジア管区の管区長会議に,オブザーバーのような形で連れていってもらったが,セブ島で開かれる会議に先立ってフィリピン国内の希望の場所で体験学習が行われた。日本から参加の2組4人のうち,東京組はイスラム過激派が多い南のミンダナオ島へ行き, われわれ鹿児島組二人は少しでも鹿児島に近いルソン島のマニラとリパに向かった。

マニラでは東洋一のスラム街,「スモーキーマウンテン」に行き,その後,マニラから南へ車で1時間半くらいのリパ郊外にあるタール湖畔で1泊する体験学習であった。

 リパの郊外にあるその修道会経営のコミュニティーを訪ねたとき,ちょうどミーティングの最中だったが,言葉が英語ではなかったために内容は一切分からなかった。ミーティングの中で,突然の訪問者を,「オーストラリアから4人,日本から2人のお客様だが,日本から2人のうち,一人はドイツ人で,もう一人は日本人。」というように紹介があったらしいようである。

ところが第二次世界大戦の傷痕と,日本企業の進出で日本人にはあまり好意的ではないようだった。

ミーティングが終わり,教室を出たとき一人の女性が近寄ってきて私に言いました。

「You are a yoi Japnese.」「”yoi”とはどういう意味だろう」と思っていると,今度は「You are a good Japanese.」と言い直しました。日系企業で働いたことあったらしい彼女は,日本人に対して嫌な思い出があったみたいでした。(同行の神父さんからあとから聞いた話。) 自分の言いたいことだけを言い,したいことだけを強引にしてしまうのが,彼女が思っている日本人でした。ココナツ林とバナナの木以外何もないような貧しい村に来るような日本人は,大戦以後ほとんどいなかったのでしょう。彼女にしてみればそんなところに来る日本人は,心のやさしい人に見えたのだと思います。

 さて,その夜宿泊する場所は,タール湖の船着き場からカヌー両側にフロートが付いたボート(インデックスの写真のボート)で20分くらいかかる場所にありました。到着してみると,それはそれは素敵なバンガローでした。家の柱はココナツの木,壁と床は竹,屋根はココナツの葉で葺いてありました。電気はありません。水道は大きな水源地に抱かれています。普通はガスもないそうですが,われわれの食事を準備するために,携帯用のガスこんろを準備したそうで,通常薪で炊事をするとのことでした。夜の照明は,これも我々のために明るい灯油ランプを準備してくれましたが,いつもは150cc位のドリンク剤のスクリューキャップに穴を開け,そこに芯を差し込んだ簡単なランプだけで夜は過ごすそうです。

 その夜,夕食のメニューはスパゲティーとパン,そしてコーヒーでした。食べる前に,その日の我々6人の食費は5,6人の家族が1週間は楽に食べられるだけの食費だと聞かされて,かなりショックでした。(食費は後で修道会から出た。)

交通手段がボートしかない辺鄙な場所にもかかわらず,近隣の家から毛色の違う外国人を見ようと,子供たちとその母親が,夕食の前から集まってきました。衆人環視の中で夕食を済ますと,話や歌が始まりました。地元の年寄りや小さい子供たちは英語が理解できずタガログ語だけ,若い人たちはタガログ語と英語,当然オーストラリアの人たちは英語だけ,同行の神父さんはドイツ語・日本語と英語,私はほとんど日本語だけ,という奇妙な(?)おしゃべりでした。

地元の人の中に,年の頃5,60歳くらいのいて,たどたどしい英語でおもむろに喋り始めました。

「私のお爺さんは,大戦中にゲリラとしてあなた達日本人と戦っていた。そして,あなた達日本人に殺されてしまった。今まで日本人を憎んで来たけど,あなたがわざわざここに来て,一緒に話をしたり,歌を歌ったりしてくれて,どうにか日本人を許せる気持ちになった。」

と言いました。私は,世界で唯一の被爆国であり,沖縄戦で民間人が犠牲になった国であることだけを認識していました。日本人から肉親を殺された話を聞いて,日本人として恥ずかしさと歴史の認識の甘さを反省させられ,偏った教育しか受けていなかったと気づかされました。


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