ローマの病院に約3週間入院したときに出会った人々


神父さん


 毎朝,聖体を持って病室を回ってくださり,夕方は全部の入院患者の病室を回られるのが日課でした。夕方,私の病室に来られるときは,私が新聞を読んでいるときでした。(通信衛星で日本から送られてきた新聞が,オランダで印刷され,ヨーロッパ各国へ配送されて,ローマでは同じ日の夕方配達される。値段は1部5000リラ=約350円。安いか高いかは各自の判断にお任せします。)新聞をのぞき込まれたので,縦書きと横書きを教えると「非常に不思議な文字だ」というような顔をされました。
4月11日夕方,「明日,日本に帰ります。」と言うと,自分のことのように喜んでくださり,12日朝,イタリアでの最後の聖体をいただいたとき,特別に祝福をいただきました。

スリランカ出身のシスター


日頃,日本ではテレビを見ない自分も,新番組が始まる4月上旬に入院していた為に,新聞の番組批評と,番組欄を見ていたときに部屋に入ってきて急に「オシン,オシン」と言い始めました。最初は何のことだろうと思っていたらスリランカにいたころ『おしん』を見たことがあるといわれて納得しました。私は『おしん』を見たことがないというと,「日本人にしては珍しい人。」と言いたげな顔をしました。

病室の掃除婦のおばちゃん


 3月20日に入院したとき病室は2階にあり,4月5日御復活の休暇で殆どの入院患者が家に帰り,帰れない患者が3階に集められるまで毎日顔を合わせたのが2階の掃除を担当していたイタリア人のおばちゃんでした。
「ブォンジョルノ」の大きな声で病室に入ってくるなり,大きな声で歌ったり,鼻歌だったりとそのときの気分によって違いましたが,とにかく歌の好きなおばちゃんでした。ある日のこと,いつものように部屋に来て掃除を始めるのが早いか,歌い出すのが早いかといった感じで,始まりました。その歌も最初は何気なく聞いていたのですが,「あれっ,どこかで聞いたようなメロディだ。はて,何という曲だったかな?」と思っていましたが,さわりの部分に入ったときは,一緒に歌い出していました。なんと約30年前に日本でヒットした,メアリー・ホプキ ンの『悲しき天使:英題 Those were the days』だったのです。
原曲はジプシーの『花の季節』という曲で東欧のジプシーの間で歌いつがれた歌でした。歌には無縁のような能面のように無表情な東洋人が,いきなり歌い出したものだから,おばちゃんは気をよくして,その日から急に打ち解けて,カンツォーネを色々歌ってくれました。ところが,私が知っているイタリア人と特定出来る歌手は,テノールのパヴァロッティとポピュラーのジリオラ・チンックエッティだけですが,私が知っている歌はないかと,掃除にやってくるたびに歌ってくれました。

西アフリカの小さな島から来た看護婦:Ms.ファティマ


 イタリアで生活しているだけあって,普通の会話はイタリア語だったが,私に話かけるときはきれいな英語で話しかけてきた。彼女は英語で話しながら,「日本語ではなんと言うか?」が口癖で,「おはようございます。」「こんにちは」「今晩は」「お休みなさい」「さようなら」をすぐに覚えてしまいました。
 ある日,夕食の時に,いつものように「「Thank you」を日本語ではどのように言うか?」と聞いたので,「ありがとう。」と答えると,「まるで,リガトーニ(大きめのマカロニ:普通ペンネと呼ばれる)みたいだ。」と笑っていました。その夜,その日の最後のベッドメイキングに別の看護婦と二人で来て,終わったときに私が「グラッチェ」と言うと彼女は,大きな声で「マカロニ」と言ったので,最初は意味が分からずきょとんとしていたものの,勘違いに気づき笑い出したら,彼女も間違いに気づき二人して大笑い。もう一人の看護婦も理由を聞いてまたまた大笑いになってしまいました。

 その後すぐ,御復活の休暇に入り,病室が3階に移ったために,彼女と会うこともありませんでしたが,帰国の前日,2階に挨拶に行ったときに別の看護婦が「ありがとう」と日本語で言ったところを見ると,”リガトーニ=マカロニ”発言はすぐに広まったようである。

レントゲン室の人々


 3月19日骨折をした近くの救急病院で一泊し,20日にローマの病院に転院したのは夕方になってからでした。痛みや疲労のために食事も喉を通らない状態の中で,久しぶりに食事にありつき食べていると,ストレッチャーを押してレントゲン室からお迎えが来ました。
日本では考えられないことかもしれませんが(日本で入院経験がないので事実確認は出来ていない),無理矢理食事を中断してストレッチャーでレントゲン室に連れていかれ,撮影が始まりました。2,3枚撮影したところで腕の向きを変え て,再び撮影が始まろうとしました。そのとき,最初の現像が上がり,「Don't move」と言ったまま何か話が始まりました。私の方をチラチラ見ながら話は続き,骨折した箇所にひびくような姿勢のまま,放置され,少しでも動こうものなら「Don't move」を繰り返され,撮影が終わって病室に戻ったときは, 食事も冷えて 食欲もなくなっていまいました。この悲劇は1回だけでこりごりと思っていたら,翌21日は昼食の時間に,また起こりました。右大腿骨の付近の骨折が確認できず,CT撮影のため再びレントゲン室送りとなりました。

イタリア人の性格でしょうか,ベッドメイキングの看護婦も同じように話に夢中になると仕事はそっちのけで大声を張り上げて話していました。しかし,「Don't move」にはまいりました。

主治医のポスタキーニ先生


 190センチはあろうかというような大男で,目つきも鋭くまるでマフィアの親分と言った感じの人でしたが,大学教授と自分の病院と私が入院した病院を掛け持っており,イタリアの整形外科の第一人者とのことでした。見た目には似合わないほど,親切で優しい先生で症状を教えてくれるときもジェスチャーを交え て医学用語を使わずに英語だけで説明してくださいました。

3階の看護婦やシスターのこと

 御復活の休暇に入ったときに2階から3階の病室に移されたことは,前に書きましたが,3階に移った日のこと,一人の看護婦が「パードレ,パードレ」と言って部屋に入ってきました。悪い気はしませんが,「私は神父ではない。」というと,「神父ではない人が,どうして口ひげやあごひげを生やしているんだ?」と,私にして見れば訳の分からない質問をしてきました。
復活祭の時に,見舞いに来てくれた他の修道会(病院を経営していない修道会)のシスターからも「パードレ」と言われ,フィリピンの少女を連れてきたシスタ ーからはレデンプトリスト(レデンプトール会修道士)に間違われました。2月に韓国に行ったときも神父に間違われ,帰国後,鹿児島教区の評議会の席でも神父に間違われたくらいだから,いたしかたのないことかもしれません。

カトリック中央協議会のローマ事務所のシスターと神父さん


 3月22日他のメンバーが帰国してから,ローマに一人残りましたが,その後はローマの旅行会社の人,診察の時は通訳として立ち会ってくださいました。一番気を遣っていただいたのが,ローマ事務所に勤務していた宮崎カリタス会のシスターがたでした。殆ど毎日のように電話をしてくださり,寂しさを紛らわすことが出来ました。また日本語の聖書を貸してくださり,以前巡礼に行ったパウロの宣教を復習することもできました。

枝の主日には,オリーブの枝をいただきました。(所変われば何とやらです。私たちはソテツを使っています。)この枝は,2年間,家の祭壇に飾っていましたが,灰の水曜日に教会で灰に戻りました。。
 また,西日本で春先に中国の黄砂が降るように,イタリアではアフリカ・サハラ砂漠の砂が降ることも教えてもらいました。
 ローマ事務所の神父さんは,巡礼の黙想指導で不在でしたが,4月9日に帰ってきてすぐに,来られました。以前2回ほど一緒に巡礼に行ったことがあり,レデンプトール会東京準管区の神父さんで面識もあり一日千秋の思いで待っていました。

 巡礼に行ったことで色々な人と出会い,骨折によってメンバーに心配をかけながらも入院によって新たな出会いが生まれ,心暖かい親切がよく解りました。一時期,杖をついて片足を引きずりながら歩いてみて,日本の社会の作りが,弱者に対して冷たいかを,わずかながら身をもって体験しました。

 

  

  

  

  

  

  

  

復活祭の朝食に卵型のチョコレートがついてきました。

   

  

   

  

  

  

  

チョコレートは好きですが、食べるのはもったいないような気がしました。

紙ナプキンで作った靴型のチョコレートを置く物

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