北京から西安へ

 9月23日,朝7時,私にとっては早めの朝食をとり,7時40分にはホテルを出発した。
西安に向かう前に,景教が消えた後,17世紀前半,中国でキリスト教の布教をした,イエズス会宣教師マテオ・リッチ(中国名:利瑪竇:りまとう)の墓所へ行き,そのあと,北京空港から西安へ向かった。
空港で,飛行機に先に乗り込んでしまいゲートで待っていたほかのメンバーを慌てさせてしまうポカをやってしまった。
 北京のホテル(北京金健飯店)の部屋からは,バスの車庫が見えた。わかりにくいかもしれないが,青いバスは日本では全く見られなくなったトロリーバス。乗合バスにはクーラーはほとんどついておらず,クーラー付きのバスは運賃が高いとのことだった。午前5時,窓から外を見ると薄暗い中で仕事に向かう人々が沢山見えた。中国=自転車部隊というイメージが強かったがホテルの周辺では,それほど沢山の自転車とは出会わなかった。
マテオ・リッチ(中国名:利瑪竇:りまとう)の墓所
北京行政学院(共産党の行政のエリートを育てる学校)の中にある。
画面左のワイシャツのおじさん(北京行政学院のお偉いさんらしい)が,案内してくださいました。
 マテオ・リッチの墓だけでなく,隣は北京で宣教に従事した耶蘇会士の墓地になっていて沢山の墓石が立っていた。でもこれらの墓石は文化大革命のときにかなりの数が破壊されたようです。
他のメンバーを差し置いて飛行機に乗り込んでしまい,迷惑をかけながら午前11時20分に西安へ飛び立った。上空から見える風景は,棚田や段々畑,それに地肌剥き出しの山や砂漠,風景写真を趣味としている人間にの食指を動かすものだった。
午後1時前に西安の空港へ無事に着陸,北にゴビ砂漠,西方にタクラマカン砂漠がある西安は,埃っぽく降灰直後の鹿児島市のようである。この黄色い砂が春先に日本まで飛んで来ていると考えると,自然の力を考えさせられた。ここには写真はないが,空港には飛脚の絵が描かれた日本の中古トラックが我が物顔に停めてあった。
空港を出てすぐ昼食だったが,そこで食べた酢拉麺はさっぱりとしていて非常においしかった。

昼食後,西安市内へ向かい,西の城門へ登る。西安の中心市街地は明朝時代に作られた高さ12m周囲14kmの城壁に囲まれており、その中でも西の城門はシルクロードの出発点として観光客がよく訪れるところである。夜になると,周囲全部がライトアップされ,闇に浮かび上がる姿は非常に美しい
空気が澄んだ日には,ローマが見えるということだったが(まさか!!),われわれが行った日は霞んでおり遠景は全く見えなかった。

西安まで来てみると,シルクロードを西のほうへ進んでみたくなるから,不思議なものである。

左写真:城門上の楼閣の小窓からみたシルクロード
垂直方向に伸びているのがシルクロード。
西安の城壁内(市街地)にあった天主堂。
小さく見えるが中に入ると結構広く,小祭壇も多くバジリカになっている。建物の前には,以前工場があり敷地を返還されたばかりで整地されていなかった。また,教会の裏手には教会経営の病院がある。

西安碑林博物館

唐時代の石碑を保存する目的で1090年に建設されたのが始まりで,石碑の宝庫である。
ここでの目的は,左の写真キリスト教(ネストリウス派)が中国に伝わった証をあらわす「大秦景教流行中国碑(だいしんけいきょうりゅうこうちゅうごくひ)」(781年)を見るためである。この碑にはシリア文字も刻まれている
この時代に空海は西安(長安)に留学しており,景教と出会っている,大秦(シリア)の言葉から京都の太秦寺(現在の広隆寺)は,最初,景教の寺院だったという学説もある。
また「大秦景教流行中国碑」のレプリカが高野山の奥の院入り口近くにたてられている。数年前,高野山に行ったことがあるが,当時は空海と景教が出会ってレプリカが日本にあることすら知らなかった。
「大秦景教流行中国碑」と同じ部屋の,通路を挟んで反対側には,唐中興の忠臣・顔真卿(がんしんけい)の「顔氏家廟碑(がんしかびょうひ)」(780年)と,その後ろに書聖・王義之(おうぎし)の「集王聖教序碑(しゅうおうせいきょうじょひ)」(672年)がある。篆書や隷書や楷書の碑まで書をたしなむ人ならば一日いても飽きない博物館である。王義之の拓本を売っていたが,おいそれと手が出るものではなかった。購入しても「猫に小判」か,はたまた,「豚に真珠」であろう。これは買わなかったが,王義之の「三亭序」という拓本を別のところで手に入れた。時間が足りずにゆっくり見学が出来ずに残念だったが,再訪問の口実は出来た。

馬繋留の石柱の頭部分に彫られたペルシャ人→
 西安の城壁内の中心部近くにある鐘楼。


 ホテルは,この鐘楼の南西側「西安鐘楼飯店」というところで,ロビーからこの鐘楼が見えていました。
今さら何も言うことがない,秦の始皇帝の地下軍団「兵馬俑」すべて陶器で作られており,すべて彩色されていたという。
1974年の第一発見者は,現在みやげ物店の一角で資料の購入者に署名をして生計を立てている。
青龍寺は唐長安城の東南にあった名刹で,空海が留学し,密教の習得に励んだ寺として知られており,空海記念碑がたてられている。
804年唐に渡った空海は,この青龍寺で恵果(けいか)について,密教を学んだが,11世紀にはこの寺は廃寺とされ,その所在はわからなくなっていた。
1973年,西安の南東部の畑で寺院あとが発見され,真言宗の宗徒により,日中共同事業で再建された。

青龍寺の庭園(後ろの建物は,雲峰閣と名前がついた展望台)

青龍寺がある丘に登る路で,前からブレーキ壊れたトラクターが下ってきて,危うく正面衝突するところだったが,トラクターの運転手が機転を利かせて急ハンドルを切って難は免れた。
惨めなのはトラクターがぶつかったレンガ塀の民家である,中国は事故による補償額が低いために「やられ損」の国らしい。大きな音と同時に周囲の家から野次馬が集まってきた。
「壊れた塀の家の方,我々が通ったばかりに塀が壊されてしまいました。ごめんなさい」


                      空海記念碑
老子ゆかりのお寺で現在は国立楼観臺森林公園の一部になっている。景教末期の頃迫害を受けた人々が,この寺の鐘楼で隠れキリシタンのように祈りを捧げた証として,数多くのイコンが発見された。中心となる寺院群からは離れており,そこの鐘楼までは行けなかった。
以前,NHKで放送した場所かどうかはわからないが,この楼観臺の近くには,絶滅寸前の朱鷺を人工飼育している場所があると,中国のホームページに書かれている。


道教のお寺:楼観臺
 西安の二日目は,東の兵馬俑坑から西南西の楼観臺までかなりの距離を走った。
西安の郊外には,煉瓦工場が数多く点在している。また東西にそれぞれ一箇所ずつ火力発電所があったが,何を燃料に使って発電しているのか,その周囲は悪臭が充満しておりとても生活できる環境ではないように思えた。周辺の小川もゴミが投げ込まれ,流れは澱んでガスが発生し,悪臭の発生源になっているようだった。
農産物は,主にトウモロコシだが,ザクロや柿の栽培も盛んである。農家の前には,まるでバナナが実っているかのようにトウモロコシを乾燥させている光景がみられた。(げんに,「バナナがなっている」と叫んだメンバーもいた。)
トウモロコシの皮をただ捨てているだけのようだが,あの繊維で何も作れないのだろうかと思ってしまった。

バナナのようなトウモロコシの乾燥風景や,町の様子など写真の題材には事欠かないが,団体でバスの移動となると自由に車を止めて写真撮影と言うわけにもいかず残念だった。

西安市の公式ホームページはこちらから
 (日本語表示)