宮之城町久富木


旧国鉄宮之城線廃線近く
キヤノン EOS55 EF28〜105

角郷川の思い出

久富木区角郷下 SR

 私は,角郷を出て関東で18年,大分で12年,チョコチョコ帰ってはいるが帰るたびに色々と田舎にも変化が見える。その中で,私の母校であり,廃校となった山崎小学校久富木分校時代から私の遊び場であり,先輩,同級生から色々教わった場でもある角郷川(すんごがわ)もほとんど姿を変えている。その角郷川の昔の姿と思い出を書き留めておこうと思い立ち不器用なペンを執った。

<その前に一言>
 我が家の口約束の親戚(昔,盆正月の家々の行き来を多くし華やかにして楽しむためか,口約束みたいな養子縁組みの風習があり,実際は養子先に行っていないが,養子にしたことにして,盆正月は“とぅちゃん”“かぁちゃん”と遊びに来ていた)で俊ちゃん(私よりずーっと年上だが)が,焼酎を飲んで言っていた言葉が気にかかり先に書き記す。
 川の流れがどうなろうと,そこに住む人たちが一番便利で,且つ良いと思うことが自然なんだ,古里を出ていったものが昔の思い出だけで,田舎の自然を含めた変化を見て昔が良かったなど批判じみた言動は,この地で生きている住人の事を考えていなくナンセンスだ…。帰りたくともすぐには帰れない身ではあるが,私にも思い当たる節があり反省させられた一言であった。それを含めて単なる思い出として聞いて頂きたい。

 まずは,私の角郷川の思い出は分校前の井堰から始まる。
実家の田んぼで田の神どんの奥(今はメダカの田んぼなるものをやっている)にあった井堰は,田植え前になると,堰を切り溝掃除をするのが季節の行事であった,溝掃除の後井堰を止めるがその後数日間は角郷川が干上がり,(カラカラとまでは行かないが,川の至る所が大きな水溜まり状態になる)この時,鮒,鮠(ハヤ),川えび,にごい,たまには鯉も,…手掴みでとれる。鯉,鮠以外は我が家の隠居の囲炉裏で干して甘露にして美味であった,食種の少ない昔だからこそであるが。魚釣りの不器用な私には最高の自慢すべき場であった。そこから10mも下ったところに角郷橋(5mくらいの小さな橋で今も健在である)が架かっていた,その横の田んぼは春はレンゲで至る所ピンクのじゅうたんですばらしかった。
 そのピンクのじゅうたんの中にある,わが母校,山崎小学校久富木分校は,明治時代まで遡る由緒ある学校であった。そこに小学2年生まで在校し,3年から本校へ登校するようになっていた。分校へは大野,角郷の子供たちだけて゛,なぜか近くの大畝町や北原はこなかった。当時の担任はたしか持原先生であり,1年.2年複合学級であった,持原先生はとてもやさしくて(男の先生だが)休み時間は,全校生徒でのキックボール(正式名称は不明だがソフトボールでボールを打つのではなく,ドッジボールを転がし蹴ってソフトボールのルールで行うもの)が良くあったが,昼休みが終りかけても勝負がつかない場合は,急きょ昼から体育の授業になったりしていた。算数の勉強で出来合いの棒とか玉とかでの授業に飽きた顔をしていたら,天気の良い日は角郷川ほとりの田んぼで課外授業であった,しかし,ちゃんと算数の勉強はしていた,レンゲを数えたりしてある程度終ったら,みんな走ったり,転げまわったり楽しんでいた,今でも覚えているのが,あお向けに寝てレンゲのジャングルから見た青空の素晴らしさだった。レンゲのピンクと葉っぱのグリーンの輪の中に見た空のブルーは今はもう見られない光景だ。
 今の子供たちの授業には絶対無いものだろう,良い悪いは別として,小学生に味和せたい光景である。こんな楽しい授業をいっぱいしていても,本校の生徒に学力で引けは取っていなかったのが,不思議ではある。持原先生には今思えば故郷を愛することを教えてもらえたと思っている。
その角郷橋の下には鮠がいっぱいいて,橋の上から唾をペッと吐くと(汚い話だが)一回で10匹以上群がって寄ってきていた。だから橋の近くの鮠は汚い気がして取らなかった。その橋の3mくらい下流は数十年毎年の如く起きる洪水で岩盤が現れ,小学前の子供たちには絶好の自然プールであった,(但し,定員は4〜5名であるが)私も遊んだが,私の父はここで孫を遊ばすのが一番の楽しみで,関東から帰ってくる私の子や妹の子を連れてここで遊ばし孫より喜んでいた。安全で,水は適度な水流があり,奇麗で冷たく,橋の上からは見物人もいたりして,水の中には鮠がチョロチョロしていて,子供たちもキャーキャーしながら遊んでいたので,唇が青くなってもあがろうとしなかった。ここから実家まで炎天下の中をぬれたまま,意気揚々と引き上げる姿もまた父が胸張って,孫の元気さを自慢げに歩いていた。
 そこから緩やかな蛇行をしてタオの前に流れている,ここには川沿いの農道といっしょになるため,石積みの土手があった,この石積みの中にはうなぎが良くいた,とは言っても下手な私は取ったことが無かった。細い棒の先端にどじょうを餌として,うなぎ用の針を引っかけるようにして石積みの隙間に差込,手応えがあったら一挙に引き抜く,もたもたしていたら,うなぎが中で巻いてしまい引きぬけなくなってしまう,同級生の利隆や寅彦は良く取っていて羨ましかった。この手前,分校を過ぎたころを流れる用水路の所に,椎の木の大木があって,その根元から冷たい水が懇々と湧き出ていた,これがいつも角郷川に放れ流れていた。この湧き水だけは今も健在で,農機具の洗車場として使われ,又田んぼの農薬用の希釈水として重宝されているらしい。
 この石積みを過ぎたところに,用水路からあふれ出た水が流れ落ちてくる,2.5m位の小さな滝(と言えるか疑問だが)があり,少し深くなっていた,しかし,ここには何も取れなかったような気がする。ここで左に90度曲り進んでいくがこれからの流れはすばらしかった。ここはタオの前と呼ばれ,同姓の同級生が居た。蛇足だが,今聞くと末永家の元祖はここに住んでいたらしい。
ここの流れは岩盤の上に小さな石が敷き詰めたようになっていて,深さが30cmちょっとあったかと思う,流れに対し右手側は緩い傾斜の土手になっていて,歩くだけの狭い道があり,左手は切り立った崖になっていた,この崖には斜めに大きな木があった。
 この10mちょっとの流れは,歌に出てくる“春の小川”の歌詞そのままであった,ここでは良く“浸けビン”をした,浸けビンは,家の味噌と田んぼの泥と糠を混ぜて団子にして入れておくとおもしろいくらい一度に20匹位の鮠が取れた,これは釣り下手な私でもいっぱい取れた。ビンに団子を入れ水の中で空気を完全に抜く,そして金網を掛けた方を下流に向け,ビンが割れない様に静かに川底の平坦部へ沈める,これだけでよし…・
だから私でも,大漁となった。魚が入る間田んぼの土手に腰掛けてビンをジッと見ていると静かな中に,川のせせらぎと田んぼの中のひばりの泣き声,それに緩やかに流れる水面の輝き,腰掛けた周りは野草の花盛り,空さえもここだけは違う趣であった。
ここにいる時は,親の小言もなく,勉強の事も全て消え,故郷で最高のすばらしい場所であった。
この浸けビンには,鮠,川エビ,などが大量に取れて,母が甘露煮で料理してくれると美味しかった,今の様に豪華な食材がなく良く食べた。偶にカニ(山太郎カニの小さいやつ)が入ったら,魚はほとんど入っていなかったと思う。見ていて入っていくのが見えたら,ガックリ来ていた。
 ここを過ぎたら,又もや岩盤むき出しの場所になる。ここは角郷下の洗濯場であった。そのころは洗濯機が出回ってすぐのころで,(私の家では,たしか,洗うだけで脱水はゴムローラーに入れて手回しで絞る仕様の洗濯機だった,手伝いもしたが,なかなか大変な作業だった。)初々しい若奥さん(今はもう60才前後だろうか)が,籠に洗濯物を入れて川の対岸(角郷下からの角郷川に降りる唯一の場所)から何人も降りてきて,一種の社交場でもあった。この時赤ん坊のおむつを良く洗っているのを見かけた,赤ん坊のウンチが流れたのを鮠が何匹も群がり,ここのも取りたくなかった。
 この洗濯場に畳一畳はありそうな自然石の橋が架かっていた,洪水が出てもこの石は,ズレはしても絶対流れず,残っていた。この石橋のある所が我が家の田んぼであった,川はこの田んぼの外周を周る様に馬蹄形に蛇行していて,深い淵があった。田んぼは“たおん下”で,淵は“たおの淵”と呼ばれていた。このたおん下の田んぼでは洪水になると,蛇行していた川が直線になり,我が家の田んぼは水没していた。しかし,水が退いた後は,田んぼの中に,鯉やら,うなぎ,なまずと色々いて,手掴みで取れていた。この田んぼは元々は畑だったのか,水の保水効果が薄く,又用水路から末端であり,水が少なく角郷川から,ポンプで毎日くみ上げていた。この係りは,農機具機械修理にかけては,山崎農協でも,三本の指に入る,私が自慢であり,機械修理では私の師匠でもあった,今は亡き祖父の時雄じさんであった。私とよく夜中や早朝にいっしょに行って,燃料の補給を行なっていた。田植えの前には,二昼夜くらいかけて,染込んでいく排水性の最高な田んぼとの競争をしていた。発動機とポンプの組み合わせで3mくらいの高さにくみ上げていたが,ポンプへの呼び水をいれねばならず,私の係りであって何回も汲みに行き大変だった。発動機は水冷で灯油を燃料として入れて,大きな鉄輪を回し一回かかったら,二昼夜以上動きつづけた,と言うのも,一回止めたら,呼び水やら,発動機を始動させるのが大変な労働だったからだ。おにぎりや芋を食べながら祖父のメンテナンスを見ている時,川のせせらぎと発動機の音が共和音を奏でて,いい心持ちだった覚えがある。
 この田んぼは,私が高校生の時は大体,いとこであり同級生の信ちゃんと耕運機で毎年耕していた。耕運機は日の本号で洒落た塗装であり,我が家のエンジニアであった時雄じいちゃんが手入れしていたので,二十年以上も健在であった,私も手伝ってエンジンンのオーバーホールし,ピストンリングの交換を行なった事がある。私にまかされた時は,ピストンを前後逆にいれ,組み立て後回らなくて,再度分解した事もあった。
話は元に戻るが,この田んぼの突端に“たおの淵”があり,長い年月の洪水により,奥深く抉り取られ,洞穴みたいな淵であった。このため上からは大木が斜めに垂下がり,釣り糸を引っかけたりして,糸の出しいれで技術がいるものであった。ここでは鯉やうなぎがよく取れて,誰かしら釣りに来ていた。私はここにうなぎの浸けバリを仕掛けて,うなぎを狙っていた。糸は凧糸で,長いうなぎ用の針に,田んぼで取った鰌をかけて,夕方仕掛けて,朝早く取りに来る方法であった。朝早くというのは,他人に取られるからは約取りに行くんだと思う,何回もかけても,先輩のにはかかっていても私のにはなまずはかかっても,うなぎはかからなかったが,一回だけ間違えたように大きなうなぎがかかっていた。早朝引き上げに行って,何か手応えを感じウキウキしながら引き上げたら,大きなうなぎがかかっていた,糸を巻き込むため即座に首をつかんだが,私の手首に巻きつき,元来ヘビやニュルニュルしたものは,大嫌いな私であったので,卒倒しそうになりながら,でもうなぎを離さず,家まで走って帰って祖父に捕ってもらった思い出がある。
 又脱線だが,高校生のある日曜日母に起こされて,“たおん下”を耕してくれと言われ,親父はどうしたと言ったら,朝早くに釣りに行ったとふて腐れながら言っていた。当時は郵便局で遅くまで保険の勧誘で廻り,息抜きであったんだろうが,なんで俺がと思いつつ耕運機を運転して行き耕し始めた。我ながら素直な高校生だったんだと思う。 耕している最中,たおの淵から釣竿がチラッと見え隠れしていたので,もしかしてと思い,覗いたら,親父が釣り糸を垂れていた。少しムッときながら釣れたかいと言ったら,恐縮した顔で苦笑いしていた,農作業している隣近所に,みっともないので暗くなってから帰ってきたのを覚えているが,成果は上々で(短気な性格は釣りに合うとは良く言ったもので)鮠のはらわた取りまでやらされた。なぜかはらわた取りは私の仕事だった。今と変わらず,昔のサラリーマンもストレスのたまる職業であったらしい。
さて,たおの淵を通り過ぎると,90度以上右に曲りそこは,拳より大き目の石がゴロゴロしている場所があって,そこには雛ウケを仕掛けていた(川カニを捕るウケのミニチュア版)小川の石を積み上げて,川幅全てでウケに集まるように仕掛けていたから,毎日結構取れていた。ナマズも良く取れて,隠居の囲炉裏で干乾しにし,食べていた。これに台湾鰌が取れて,(正式には雷魚だと思うが)ウケに入りびっくりして,バケツにいれて家に持ち帰ったが,祖父にこれは食べられないだろうと,分校の池にでも放してきたらと言われ(当時,分校には鯨の形をした池があり,この中に,金魚や錦鯉が入っていて,さらに子供たちが捕ってきた鮠なども入っていて,群れていた)分校の持原先生に話したところ,快く承諾してもらい,放した。ところがこれがとんでもない事になってしまった。
 この台湾鰌と言われているものは,最初はみんな珍しがっていたが,他の金魚等が少しずつ少なくなっているのに気づき,狸が来たのかなと言っていたところ,良く見ると金魚の頭だけが底にあったりして,この台湾鰌の仕業だと解った時は,大半が食べられてからだった。その後台湾鰌はいなくなったが,どう処分したのかは聞かなかった。
 再度話を,川に戻し,この雛ウケをつけた場所を過ぎると,両岸がうっそうとした竹薮や木の茂みになって行く,木も大きくて,日差しもあまり入ってこなく,水も冷たく夏には気持ちの良い場所であった,ここは当時の若い衆が良くバッテリーを使っての漁をしていた,右手の網と左手の棒の先端に+と−を通し,岩陰に差し入れるとおもしろい様に取れていた。網に取れず,仮死状態で流れてきたものを捕るのも私たち小学生の手伝い仕事でもあった。川は左に右に少しずつ蛇行しながら,久富木川の瀬高淵に流れ込みこれで角郷川が終る。この河口でも,大きな川から小川にあがって行こうとする鮠がたくさんいた。河口手前の川底は小さな砂利となっていて,深さも浅く鮠が登って行こうとするのに向かって拳大の石を投げ込むと,たまには当たって浮いてくるので,川での泳ぎが飽きると,皆で捕っていた。又,川エビも河口にはたくさんいて,女の子などが,手ぬぐいですくって結構捕れていた。これを油で揚げるだけで,美味だった。
これで,私の角郷川の思い出を終る。

しかし,今は川遊びしている子供も見なくなり,川と生活とが離れて行っているように見える。あのころの自然の中の自分に帰りたい願望でいっぱいである。子供たちにこんなにすばらしい自然があり,必ず何かを教えてくれて,何かが心に残ることを教えたい。
角郷川は,いまの私の知恵と勇気と心の土台を作ってくれた,一ページであった。
これを読んでくれた人が,自分の角郷川の思い出を思い起こしてくれたら,幸いです。

我が故郷,我が思い出に感謝 おわ

戻る