モダン・ジャズの玉手箱

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−ジャズ入門・初級の初級編−40歳からの挑戦・その2−

その2.モダン・ジャズの流れ−ジャズの歴史−
 
◎珠玉のCDアルバム◎ その2 サキソフォン・コロッサス(Prestige)ソニー・ロリンズ
     パーソネル:ソニー・ロリンズ(ts)、トミー・フラナガン(p)、ダグ・ワトキンス(b)、マックス・ローチ(ds) <録音’56年>

☆ジャズ・ジャイアント☆ その2 ソニー・ロリンズ −奔放な音色とユーモア感覚あふれるハード・バップの巨人−


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ジャズは黒人が作り白人が模倣したというのは常識のウソ
 ジャズだけでなく、もろもろの芸術はそれだけが単独で隔離された形で育っていくものではない。ジャズは黒人がつくって白人が模倣した、というのは常識のウソである。
 ジャズは黒人の音楽でもなければ白人の音楽でもない。両者の出会いから生まれた混血音楽である。だからアフリカでジャズは生まれなかった。
 ジャズの、前進のひとつと考えられる音楽にラグタイムがあった。1900年以前のことである。ラグタイムの中心地は北アメリカ大陸の中部に近いミズリー州のシダリアであった。ここにはテキサス生まれで、ラグタイムの始祖ともいうべきスコット・ジョプリンがいたからだ。彼の音楽は映画「スティング」に用いられて70年代にリバイバルするが、数百曲も作曲したという多作家だった。ラグタイムは作曲されたピアノ音楽で、19世紀のヨーロッパ音楽の性格が強かった。ただ黒人的なシンコペイションとブレイクが見られ、ヨーロッパ風タイムをラグ(からかう、いたずらする)しているので"ラグタイム"と呼ばれた。このラグは完全なアドリブ音楽ではなく、ジャズと呼ばないが、セントルイス、カンザスやニューオリンズでも流行った。ニューオリンズのクレオール、ジェリー・ロール・モートンは各地を旅してラグを身につけ、生地にもどってラグを元にしたニューオリンズ・ジャズを創造した。

なぜ、ジャズはニューオリンズで生まれたか
 ジャズは、ニューオリンズで20世紀とほぼ同時に生まれたというのが定説になっている。ほかの南部各地にもブルースがあり、似た音楽もあったといわれるが、ジャズ発祥の中心地となったのはルイジアナ州のニューオリンズである。これはニューオリンズという都市の性格とも無関係ではない。
 ニューオリンズは人種のルツボであった。フランスとスペインが支配した時代があり、ヨーロッパからアメリカに渡ってきたヨーロッパ人は、ドイツ人、イタリア人、イギリス人と雑多であり、もちろん黒人は南部で需要の多かった奴隷としてニューオリンズ港からどんどん入ってきた。後にルイジアナ州はアメリカ領となるが、その頃には黒人とフランス人の混血クリオールも多数生まれていた。そしてさまざまな場所で、ヨーロッパ人の白人たちが持ち込んだ音楽と黒人が持ち込んだ音楽が出会い、スクランブルが起こってジャズを生むことになるのだ。特にクリオールを生んだフランス文化と音楽の影響が濃く、ニューオリンズのお祭りマルディ・グラに登場するフランス風ブラス・バンドとその楽器群に黒人音楽が入り込んでニューオリンズ・ジャズが生まれたといえる。フランス人の自由な精神がクリオールを奴隷から解放したので、彼らは積極的にジャズを演奏するようになった。
 ブラス・バンドを範としたため初期のジャズメンにはトランペット、トロンボーン、クラリネット演奏者に名手がいた。クリオール系にはジェリー・ロール・モートンをはじめ、フレディ・ケパート、キッド・オリー、シドニー・ベシエ、アルバート・ニコラスらがいた。ブラス・バンド風の演奏におけるブレイクやカデンツァをしだいに拡大し、アドリブし、ビートをスイングさせてジャズ化したのである。アフリカ系黒人にはバディ・ボールデンやキング・オリバーがいた。もちろん白人バンドもかなり初期から活躍していた。そして、ニューオリンズには音楽を職業にできるだけの好適な職場があった。
 ジャズは本質的に都市の音楽であり、歓楽街こそジャズの育つ場所である。南部の広大な綿畑をひかえていたニューオリンズは、貿易港として発達した。このため人の出入りも多く、"ストリートビル"と呼ばれる一角に娼家があり、酒場あり、ダンスホールありで、ジャズメンの働く場所には事欠かなかったわけである。資料によると、南部の大西洋岸からテキサス中部までの広大な綿花畑は、この地方の農作耕地の40%もあり、その高温多湿な地域の綿花つみ作業に労働力としてアフリカの黒人奴隷が輸入されたのである。そして南岸にはニューオリンズ以外にもいくつもの綿花輸出港があった。
 しかし、ニューオリンズが軍港に変わり、1917年に歓楽街のストリートビルが閉鎖されると、ジャズメンは他の都市へ流れたり、他の職業につかざるを得なくなった。ジョージ・ルイスやバンク・ジョンソンが1940年代初頭に再発見されたとき、荷揚人夫になったり引退していたのはそのためである。
 ところでニューオリンズ・ジャズは、アンサンブルを主体にソロ・パートもある程度制限しているので、没個性的な面がある。クラシックでいえば、バロックのような古典的な演奏といえるが、このパターンを破った1人が、ルイ・アームストロングである。彼は徹底したロマンチストで、個性的な自己主張を行い、オーケストラ編成ではトランペットを思い切り吹き、"スイング"を示唆する演奏をみせた。ルイこそジャズ界に最初に現れた本格的ロマン派のミュージシャンであった。ルイがジャズをどんどん発展させるきっかけを作った男なのである。


珠玉のCDアルバム◎ その2 サキソフォン・コロッサス(Prestige)ソニー・ロリンズ[先頭へ][ジャズの玉手箱の先頭へ]
     パーソネル:ソニー・ロリンズ(ts)、トミー・フラナガン(p)、ダグ・ワトキンス(b)、マックス・ローチ(ds) <録音’56年6月22日>

1. セント・トーマス ST.THOMAS
2. ユー・ドント・ノウ・ホワット・ラブ・イズ YOU DON'T NOW WHAT LOVE IS
3. ストロード・ロード STRODE RODE
4. モリタート MORITAT
5. ブルー・セブン BLEU SEVEN

その音色やフレーズから受ける豪快で男性的といった印象とは逆にデリケートでナイーブな内面を持つロリンズの最高傑作。日本でのロリンズの名を決定づけた「モリタート」をはじめラテン・リズムが楽しい「セント・トーマス」、バラードの「ユー・ドント・ノウ・ホワット・ラブ・イズ」等、名演揃い。


セント・トーマス あまりにも有名なロリンズの人気曲。セント・トーマスとは、彼のは母方の出身地であるバージン諸島の一島嶼である。ここでの屈託のないロリンズのおおらかなテナー・プレイは圧倒的な魅力にあふれている。

モリタート ロリンズの人気を高めた代表作で、この演奏にしびれ、彼のファンになった人も大勢いる。曲そのものはクルト・ワイズがG.Wパプストの映画「三文オペラ」のために書いたもの。 


 YOU DON'T NOW WHAT LOVE IS 映画「キープ・エム・フライング」の主題歌として作られたラブ・バラード。”あなたは愛って何なのか知らないのね。ブルースの意味が分かるまでは、愛しつくして失ってみるまでは、あなたには愛が何なのか分からないのよ・・”失った恋人へのモノローグなのだが、それだけ自分は愛は何かよく知っている、といったニュアンスも込められている。
 この曲はロリンズとコルトレーンが共に演奏している。両ジャズ・ジャイアントの代表的なバラード演奏であると同時に、モダン・ジャズ・テナーのバラード演奏の極致といえる、最大の賛辞に値する演奏だ。


ジャズ・ジャイアント☆ その2 ソニー・ロリンズ −奔放な音色とユーモア感覚あふれるハード・バップの巨人− [先頭へ][ジャズの玉手箱の先頭へ]

 セオドア・ウォルテン(ソニー)・ロリンズという長ったらしい名前を持つ彼は、1930年9月7日、ニューヨークに生まれ、高校時代にアルト・サックスを学ぶが、のちにテナーに転向し、プロの道に入る。初めはパーカー、ホーキンス、レスターなどの影響を受け40年代後期にはパウエルやナバロといった当時のバッパーたちと共演する機会も持つが、まだこの時期の彼の音色は硬く、そのスタイルもデクスター・ゴードンのエピゴーネンのようだったといわれている。1951年、半年間だったがマイルスのコンボに加わり、また56年にはローチ=ブラウンのコンボに約1年間参加するなどして腕を磨き、1957年、ピアノレストリオを結成する。この頃より奔放な音色、魅惑的なフレージング、すぐれた構成力とユーモアの感覚に満ちたインプロバイザーとして一躍、世界の人気者になった。
 1950年代におけるソニー・ロリンズの足跡と影響は、ジャズ史上特筆すべきものがあった。当時の彼の偉大さは、「サキソフォン・コロッサス」(プレスティッジ)と「ウェイ・アウト・ウエスト」(コンテンポラリー)という2枚の名盤に凝縮されている。あとはマイルスとモンクのLPを揃えればひとりでに聴ける。「ロリンズは随分持っています。」というファンで、以上の2枚を欠いていたらひどい片手落ちで、ロリンズファンとしては失格である。
それほどこの2枚にはロリンズのあらゆる美点が収録されていて、1950年代−伝統的なコード分析によるアドリブが絶頂をきわめていた時代における最高のアドリブ・プレィを知ることができる。
アドリブというものがロリンズによって、ここまで達成されてしまったら、このあと余人に何ができよう。ジャズは遠からず伝統的なアドリブ・プレイを突き抜けて未開の領域に進むに違いない−とそこまで読めれば大したものだが、当時そんな予測を立てた人は1人もいなかった。
1955年11月、せっかくデビューしたジャズ界から身を隠し別の仕事についていたロリンズは、巡業してきたクリフォード・ブラウン=マックス・ローチ五重奏団のテナー奏者として再びニューヨークに現れ、翌年上記の代表作を吹き込んだが、イミテーターが世界各地に現れるに及んで嫌気がさし、再び引退、61年カムバックするまで、禁酒、禁煙ひたすら精神修養と楽器のマスターにつとめた。彼が引退している間に後輩ジョン・コルトレーンは60年代における最大のミュージシャンへの道を歩み始めた。またオーネット・コールマンの出現が大きな話題をよんだ。ロリンズはオーネット出現の意味を真っ先に理解したミュージシャンであり、その影響下にあったエリック・ドルフィーとも共演したこともあり、61年秋カムバックしての第2作「アワー・マン・イン・ジャズ」(RCA)ではオーネットのオリジナル・サイドメン…ドン・チェリー、ビリー・ヒギンズと共演、そのキャリアの上で最も左傾化した作品を作った。このレコードを吹き込んだ直後、ロリンズは初めて来日し、ポール・ブレィと組んでひどくフリー化したソロを取り、引退前のイメージを覆して我々を驚かせた。1968年2度目の来日をしたときは、50年代のスタイルに大きく逆戻りしていた。しかし50年代の「歌もののうまいロリンズ」に逆戻りしたとすると、冒頭に上げた2枚の代表作−自分自身の最高記録がひどく邪魔なものになったはずである。自分が立てた世界新記録を自分で破ることは容易なわざではない。
そのあとの彼は再び方向を変え、テナー・サックスの性能をきわめつくし、バリバリモリモリ吹きまくる名人芸を展開して王座を守りつづけている。

主なCD

ビレッジ・バンガードの夜Vol.1 1967年 ソニー・ロリンズ(ts)、ウイルバー・ウェア、ドナルド・ベイリー(b)、エルビン・ジョーンズ、ピート・ラ・ロッカ(ds)
チュニジアの夜/アイブ・ガット・ユー・アンダー・マイ・スキン/朝日のようにさわやかに/フォア/ウディン・ユー/オールド・デビル・ムーン
Blue Note
ウエイ・アウト・ウエスト 1967年 ソニー・ロリンズ(ts)、レイ・ブラウン(b)、シェリー・マン(ds)
おいらは老カーボーイ/ソリチュード/カム・ゴーン/ワゴン・ホイール/ノー・グレーター・ラブ/ウエイ・アウト・ウエスト/
Contemporary
ソニー・ロリンズ第2集 1967年 ソニー・ロリンズ(ts)、J.J.ジョンソン(tb)、ホレス・シルバー、セロニアス・モンク(p)、ポール・チェンバース(b)
ホワイ・ドント・アイ/ウエイル・マーチ/ミステリオーソ/リフレクションズ/ユー・ステップト・アウト・オブ・ア・ドリーム/プアー・パタフライ/
Blue Note

参考文献
モダン・ジャズの世界 岩波 洋三
ジャズ ベストレコードコレクション 油井 正一
ジャズCD ベストセレクション 油井 正一
ジャズ・スタンダード100 青木 啓他
ジャズ・ピアノ ベストレコードコレクション 油井 正一
ジャズ喫茶マスターこだわりの名盤 鎌田 竜也
ブルーノートJAZZストーリー 油井 正一


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