bP.正月に門松を立てるのは
bQ.鶏になったうそつきの占い者
bR.湯湾大親(ゆわんふうや)の父子
bS.龍郷での平家落人の悲劇
bT.殿様をやりこめる炊事係
bU.豪傑太郎はケンムンの声を聞けた
bV.恋仲を引き裂かれた美人娘

bW 為朝の子、親に似た力持ち
瀬戸内町 実久(さねく)三次郎
 加計呂麻島(かけろまじま)の実久集落がこの話の舞台である。実久三次郎の父親はかの鎮西八郎為朝、母はヨチコーという島の娘であったと伝えている。
 伊豆大島に流されていた為朝が島を抜け出し、着いたところが奄美の喜界島であった。為朝は、この島で妻を得たが、そこでは落ち着かず、奄美大島、次いで加計呂麻島にやって来た。そして実久で島の娘を見初め、一緒になってもうけたのが三次郎であった。
 三次郎は誰よりも力持ちであった。彼のことをウフユホ加那志(がなし)と言つたという伝えがあるが、大きな櫂を漕ぐお方という意味である。つまり、大きな櫂で一漕ぎすると海を隔てた対岸まで着いてしまうくらいの力持ちだったというのだ。
 こんな話もある。あるとき、彼は宇検村の名柄集落の八丸という、やはり力持ちで知られる男とカ比ベをした。三次郎が大きな石を手にして、名柄を目がけて投げたのだった。石は大島海峡を飛び越えて瀬戸内町の久慈の近くに落ちた。八丸も負けてはいない。それを蹴り返したという。
 どつちが勝ち、どつちが負けたという話は伝わっていないが、このときのものといわれる石が、実久の三次郎神社に二個残っている。一個についているのは三次郎の手形だと言い、もう一個にあるのは踏んばったときの足形だと、村びとは言っている。
 近年ユタ(巫者ふしゃ)のお告げで、三次郎や母親が埋葬されたといわれる場所が発見され、掘り出されたという。
 (参考『碑のある風景』・『海原の平家伝承』)

 為朝の南島への渡来伝説は、江戸時代の戯作本『椿説弓張月ちんせつゆみはりづき』(滝沢馬琴作)で有名であるが、今日の学問で歴史的事実としては疑問視されている。しかし琉球首里王府の正史では、舜点(しゅんてん)王(十二〜十三世妃の人)の父親が為朝だとあり、今も信じる人は多い。
 一方の三次郎だが、為朝の子であるという伝承以外に沖縄の血筋を汲む者だという伝えがある。なお力比べをした相手や、母親の名前に一致しないところがある。

加計呂麻島北西部の実久にある実久三次郎神社

実久海岸
   加計呂麻島の地図
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