bP.正月に門松を立てるのは
bQ.鶏になったうそつきの占い者
bR.湯湾大親(ゆわんふうや)の父子

bS 龍郷での平家落人の悲劇
龍郷町 オデモリ山と平家の落人
 源氏と平家の戦いである壇の浦の合戦に敗れた平家の平行盛(たいらのゆきもリ)一族は、ひそかに南島落ちした。やがて龍郷の戸口に住むようになった。ところが、敵の源氏がいつなんどき攻めて来るかわからないと言って、龍郷の今井崎と笠利の蒲生(がもう)崎に、番人を配置して沖行く船を見張りさせた。今井崎の番人は、戸口から大勝(おおがち)、浦、瀬留、久場(くば)、龍郷を通って安木屋場(あんきゃば)の今井崎まで、徒歩で行ったり、馬に乗って行ったりする慣わしだった。
 ある日、番人が久場の前を通りかかると、久場のきれいな娘がソーケ(笊ざる)に野菜や芋を入れて、海辺で洗い物をしていた。それを見た今井崎の番人は、その娘に恋心を抱いた。そのうちねんごろ(親密)になり、ある時、一晩だけその娘の家に泊まったために、今井崎に行くのを怠ってしまった。
 ところが、その留守に源氏の船が大島に攻めて来たのだ。油断していた行盛公をはじめ平氏の一族はことごとく打ち滅ぼされてしまった。今井崎の番人は、「自分が忠実に見張りをしていたら、こんなことにはならなかっただろうに。」と言って、切腹して死んでしまった。その人は、今井コンダーフ(右近太夫)であった。
 一方、久場の娘も、コンダーフが自分のために過ちを犯したことを悩み、オデモリ山に登り、ガジユマルの木に首を吊って死んだ。
 オデモリ山には、今でもその娘の墓というものがあり、石塚が二基数えられる。時には、その娘の夕マシ(死霊)といって、チョウチンウマツ(提灯の火)がともるのが見えると信じられている。
 (原話『龍郷町誌民俗編』)

 平行盛神社は、戸口のウチブクロの寺山にまつられており、茅葺き屋板だったが、昭和41年に現在のコンクリート製の社に建て替えられた。 
 龍郷町上戸口にある平行盛神社     今井権現
 今井崎から笠利の蒲生崎を望む
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