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秀吉と屋久杉(天正14年・1586):豊臣秀吉は1586年、京都の東山に建立する方広寺大仏殿のために、薩摩藩主・島津義久に建材の調達を命じました。このとき伐採されたのが、樹齢3000年といわれる屋久杉の巨木でした。その切り株のひとつが、ウイルソン株だといわれています。 |
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ローマ法王庁の宣教師ジョアン・バティスタ・シドッチは、1708年、キリスト教の布教のために、屋久島南部・恋泊の唐之浦に上陸しました。シドッチは、まげを結い刀を差して武士の姿に変装していましたが、すぐに捕らえられ江戸に送られました。江戸で取り調べにあたった新井白石は、シドッチの広い見聞や知識に感服し、その内容を「采覧異言」や「西洋紀聞」にまとめています。シドッチは江戸で獄死しました。 |
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伊能忠敬、屋久島を測量(文化9年・1812)江戸幕府の命令で、日本列島をくまなく測量していた伊能忠敬は、1812年3月に屋久島にもやってきました。総勢19名の測量隊は、安房港を起点として、北回りと南回りに分かれ、永田まで約1ヶ月かけて測量しました。忠敬の作った屋久島の地図は、現在の地図とあまり変わらない精巧なものでした。 |
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縄文人と丸木舟(紀元前2000年〜1000年)ごろ。屋久島の縄文後期の遺跡からは、沖縄や奄美大島の影響を受けた松山式土器が出土します。このことは、当時から海上交通が盛んだったことを物語っています。また、屋久島を中継地として、南の島々と本土との文化交流もおこなわれていました。縄文人の海上の往来を可能にしたのが丸き舟で、その材料にはタブノキやヤクタネゴヨウマツが使われました。 |
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ウイルソン博士来島(大正3年・1914)アメリカの植物学者E.H.ウイルソン博士は、屋久島を2度調査しました。植物の種類が多いこと、生態がたいへん特殊で貴重なことなどを学会に報垂、屋久島を世界に紹介しました。有名な切り株"ウイルソン株"は、彼の名前に由来しています。 |
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屋久聖人・泊如竹と屋久杉の伐採(元亀元年〜明暦元年・1570〜1655)泊如竹は、1570年に安房の船大工の長男として生まれ、6歳で家出し、安房の本仏寺に入りました。さらに京都の本能寺で修行を積み、晩年は島津藩主に仕えた法華宗の高僧です。74歳で屋久島に帰り、島の人々が「神の宿る木」と畏れて切らずにいた屋久杉を、神の許しを得たからと人々を説得して、伐採するよう指導しました。屋久杉から平木がつくられ、藩や屋久島の財政を救いました。 |
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小説家・林芙美子は、長編小説「浮雲」を安房の宿で執筆し、雨の多い屋久島の自然を細かく描写しています。有名な「月に35日雨が降る」は、島に着いた主人公を出迎える営林署員の言葉に出てきます。「はア1ヶ月、ほとんど雨ですな。屋久島は月のうち、35日は雨というくらいでございますからね・・・」。 |
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- 椋鳩十と屋久島(明治38年〜昭和62年)1905〜1987
- 椋鳩十は長野県下伊那郡にうまれ、小さいときから大自然の中で動物に親しんで育ちました。大学卒業後、鹿児島県で教師をしながら、少年少女のために多くの動物文学を執筆しました。屋久島の動物をモデルにした作品には「ヤクザル大王」「片耳の大シカ」「野生の叫び声」などがあります。
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- 最大の屋久杉・縄文杉発見 昭和41年(1966)
- 縄文杉は、上屋久町役場の岩川貞次氏によって発見されました。高塚山南側斜面で発見されました。
- 胸高直径5.22m、樹高25.3mで、現在確認されている最大の屋久杉です。樹齢は、さまざまな説があり、
- 推定で2600〜7200年といわれています。
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