町に点在する史跡や資料の数々。 悠久の時を越えて、今なお私たちに語りかけて来ます。 坊津の礎を築いた先人たちの、瑞々しい息づかいを感じてください。
 
坊津歴史資料センター「輝津館(きしんかん)」には、中国や琉球等との交易の隆盛を伝える資料や、一乗院を中心とした坊津の仏教文化にまつわる資料、漁具をはじめとする様々な民族資料など、貴重な文化財が展示・公開されています。
是非ともお立寄りください。

一乗院は、今から1400年程前の敏達12(西暦583)年に百済の日羅と云うお坊さんが建てたお寺で、敏達・推古天皇の御願所になったと云われています。
 
それ以来、栄えたり衰えたりしますが、長承2(西暦1133)年、鳥羽上皇のお許しを得て、紀州(和歌山県)根来寺の別院として、真言宗西海の本寺として上皇の願所となり、「如意珠山一乗院」の称号を頂きました。
 
更に、延文2(西暦1357)年、日野少将良成(成円上人)が、しばらく衰えていた寺を島津氏の協力を得て再興し、中興の祖となり、天文15(西暦1545)年、後奈良上皇の願所として「西海金剛峯」の額を頂きました。
 
その後、歴代の住職等の努力によって、堂塔等が整えられて来ましたが、明治2(西暦1869)年の廃仏毀釈によって廃寺となっています。

今岳方面から秋目に入ると目の前に秋目浦が飛び込んで来ます。
 
少し下ると右手に鑑真大和上上陸記念地に到着します。 ここが天平勝宝5年12月20日(西暦753年)我が国の律宗の始祖・唐僧鑑真が上陸されたことを記念する一帯です。
 
鑑真は中国・揚州の人、諸宗の奥義を極めた当代随一の高僧で、聖武天皇のお招きで日本への渡航を企てられたが、海上暴風や密航の差し止め等のため5回(12年間)も失敗され、ついに疫病のため盲目となるなど、惨状を極められたと伝えられています。
 
天宝12年(天平勝宝5年/西暦753年)、我が国遣唐大使・藤原清河らの帰国に際し、密かに副使・大伴胡麻呂の第2船に乗り、途中風波の難に遭遇されたが沖縄、種子島、屋久島などの島を経て、漸く同年12月20日「秋妻屋浦」に到着されました。 そして筑後川下流の鹿瀬を経て、同月26日大宰府に着かれ、翌年2月4日に目的の奈良の都に着かれています。
 
鑑真は仏教の戒律を伝えただけでなく、空海が密教を伝える以前に、また最澄が天台を伝える以前に、既にその教旨をもたらし、伴った仏工、携えて来られた仏像等は奈良末期より平安初期にかけて、我が国美術上大きな影響を与えたと云われています。 また薬に関しても詳しく、いろいろな薬を一つ一つ嗅覚で判断し、真偽を明確にされる程で、「鑑上人秘方」と云う薬等に関する書物を伝え、近世に至るまで薬等の専門家たちは「元祖」として鑑真像を祭っていたそうです。
 
現在、鑑真大和上上陸に関する根拠資料は「鑑真大和上東征伝」による以外にありませんが、既に日本本土上陸の第一歩は秋目と云う考え方は通説となっており、昭和41年12月12日に鑑真大和上上陸の遺徳を讃えるため、このゆかりの地に上陸記念碑が建立されました。
 
更に、平成4年12月20日に同地に鉄筋コンクリート造り二階建ての鑑真記念館が建設され落成式が行われました。 館内には、鑑真大和上上陸の当時の様子を伝える奈良の唐招提寺に残されている「東征伝絵巻」の代表的場面の電照パネルや年表、秋目上陸を再現したスライドやジオラマ模型、中国で作製された鑑真大和上座像の複製品が展示されています。
 
記念館の南側ベランダからは、東シナ海や上陸された秋目浦が、眼下にパノラマの様に望むことが出来ます。

坊津で秘密貿易屋敷(官許貿易に対して)として公開されていた森家は、現在八代目にあたります。 坊津では享保(西暦1716年)以降も、規模はともかく商いに従事していた者も多かったが、その中でも坊の森家は、幕末の豪商として知られています。
 
森家は鰹漁業と販売を営み、かたわら海運業者であり島津藩の御用船としても活躍したと云われています。 四代目森吉兵衛が記録した「坊津拾遣史」によると初代は安永元年(西暦1772年)からで、当初は海産物である塩漬けや魚の販売で、二代目から屋久島のサンゴ採取をしたり、坊津での金山試掘などを行い、幕末まで巨額の富を蓄えていきます。
 
尚、森家以外にも坊津では多くの豪商たちが存在していましたが、歴史の流れの中で、江戸時代の建物は老朽化のため大規模に改造されたり、建て替えられたりして現存している建造物は数少なくなりました。
 
これらの豪商たちが保管していた中国を中心とする輸入品など貴重なものは、現在、南さつま市の歴史資料館「輝津館」等に展示されていますので、是非訪れて、素晴らしい繁栄の時代を振り返って見ては如何でしょう。
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