坊津に古くから伝わる風俗・文化には、中国との交流を示すものの他に、京都から伝えられたと思われる行事も多い。 坊地区の八坂神社に伝わる『ほぜどん』もそのひとつ。
 
起源は古く、室町時代までさかのぼります。 仏教の殺生の罪ほろぼしの行事、法生会の意味合いを持つと伝えられています。 ご神体が神社に帰られる御還幸の日には、赤面・黒面・獅子面が行列の先払いをし、十二冠女・笛・太鼓等が続いて華やかです。(10月第三土日)
 
その他に、『唐カラ船まつり』、『十五夜行事』などの民俗行事があります。 詳しくは、次頁ならびに次々頁をご覧ください。

『坊ほぜどん』起源は室町時代の頃と伝えられる京風の雅やかな行事です。 「ほぜどん」は、十月十四日(十月第三土曜日)の ”内の祭り”  から始まり、行列に守られて、八坂神社のご神体が坊地区の公民館へ移されます。
 
かって、坊津の漁業が盛んだった頃は、カツオ船の船主の家に移るのが習わしでした。 遷座先に選ばれるのは、非常に名誉なことで、親戚や近所の人を甘酒や御馳走で持て成していた。 遷座先では、神事・神楽が行われ、夜を徹してご神体のお守りをしていました。
 
ハイライトは、翌十五日の本祭り。 午後の満潮時に合わせて御還幸行列が始まります。 大ほこ・神輿・笛・太鼓など、地区民総出で二百メートルにも及ぶ行列が、八坂神社へ帰るご神体をお守りして、地区内を練り歩きます。
 
なかでも人気の的は十二戴女(かんめ) 十二歳の女の子十二人が美しく着飾り、頭に賽銭箱(さいせんばこ)を載せて行列に加わり、鮮やかな彩りを添えます。
 
沿道には坊津町民のほか、県内外の坊津町出身者が見物にやって来て、今も昔も変わらない賑わいを見せています。
八幡宮とホゼ <考察>(南日本新聞 昭和46年5月9日掲載記事より抜粋)

     「ほぜどん」が行われる八坂神社

 
 ホゼは農作物の取り上げの祝い、収穫の祭りと考えられ、方限単位に日が決まっているので「方祭」と書いたり、収穫祭すなわち豊年祭りの意味で「豊祭(豊才)」などと書いたりすると云われる。
 幕末頃の南九州地方の地理風俗を伺うことのできる『三国名勝図会』で、方限の産土神と見られる神社を拾い上げて見ると最も多い神社名が諏訪神社(現在、南方神社と云っている所が多い)で、次に多いのが八幡神社である。
 
 諏訪神社は、信州(長野県)に本社を持ち、武の神、狩猟神として全国に広く分布しているもので、特に鹿児島県は全国的に見ても、非常に分布密度の高い地方である。 ところが、そのほとんどは鎌倉末期から室町時代以後に勧請されたもので古いものではない。
 
 それに対して、八幡神社の方は、非常に古い神社が多いことが注目される。 大隅国一宮(いちのみや)とされた「鹿児島神宮」も、元は「正八幡宮」と呼ばれていたし、薩摩国一宮の地位を南薩の枚聞神社と争った新田神社も「八幡新田宮」と称せられていた。
 
 八幡神社は大分県宇佐に本社のある大社で、奈良時代、聖武天皇が東大寺に大仏を建立する時、上京してこれを助け、山城国(京都府)岩清水に「岩清水八幡宮」が創建されてから、にわかに全国に拡散したのである。 さきの「正八幡宮」と「八幡新田宮」も、これにならって大隅・薩摩両国府の鎮守として祭られてきたものである。
 さらに、平安時代末期以後、南九州にも荘園が成立するようになると、荘園の中心地にも荘園の鎮守神社として、また八幡宮が勧請される。 吹上町伊作の「大汝(おおなむち)八幡宮」はその例である。
 このように古代から中世にかけて、一つの政治的支配地域の鎮守神社、すなわち産土神としての役割を担っていたのが八幡神社であった。
 
 そして、八幡神社の最も重要な行事の一つに「方生会(ほうじょうえ)」と云うのがある。 これは、仏教の戒律の一つである「不殺生戒(ふせっしょうかい)」に基づいて行われる行事で、その昔、養老四年(720年)に大隅隼人を征したさい、隼人を多数殺傷した罪を償うため、宇佐八幡宮で始められた行事だと云われている。
 
 放生の本来的な姿は、しかし、このような供養ではなく、生ける者を放つと云うことで、魚を川や池に放つ儀礼を行うことが多いが、宇佐八幡宮の放生会は、それのみでなく、銅鏡奉持(どうきょうほうじ・奉げ持つこと)、神領巡行、浜下り、細男楽(せいのおがく・人形を使った芸能)、相撲、伶人(れいじん)の舞楽など、極めて広範囲で豊富な内容のものである。
 最初に書いた「方祭」も普通に云われるように、八幡信仰が入ってくる前から南九州でも行われていたと考えられる収穫祭の一つであって、これに八幡信仰がこの地方に移入した時、付随して入ってきた放生会の儀礼が融合して、収穫祭のことを「ホゼ」と呼ぶようになったのではなかろうか。
 
 一つの地域社会、信仰圏に、新しい神が入ってきた場合、既存の信仰行事を利用して自己の信仰を定着させていくのは、八幡の例に限らず、外来の神々のとる常套手段(じょうとうしゅだん・いつもの決まったやり方)である。
 鹿児島地方のホゼのように、各家々の行事にまでなっているものは、比較的古くに入って来て、定着した行事であり信仰であると云えよう。
 
 八幡信仰は、八世紀以後、隼人社会に大和朝廷の勢力が浸透するにつれて広がり、特に古代末期の荘園制の発展、郡司・荘官などの在地領主制の成立期に、かなり多くの地域に八幡信仰は浸透したと見られる。 謂わば古代の大和朝廷を中心とした貴族による、隼人社会の支配を、精神的に、信仰面から補強していったのが八幡神社であって、この八幡に守られた貴族の支配権は、やがて中世後期になると、諏訪神社の信仰によって補強された武士の支配権に座を譲っていくのである。
 「ホゼ」と云う言葉は、このように、古代の貴族支配の名残であると云えよう。
 

<平成30年度のお祭りに遭遇、多くの画像が得られましたので、厳選して掲載させて頂きます。 町を挙げてのお祭り模様をお楽しみください。>  坊津には、雅なお祭りが脈々と息づいています。 是非、訪れて見てください。

 今日は、町を挙げての”ほぜどん”の祭りである。

 

 出発に当たり、行列を整え中

 さぁ~八坂神社に向けて出立

 行幸の進め

 ”ほぜどん”は進む、赤鬼も進む

 赤鬼も、黒鬼も進む(鬼は摩除けの守り神)

 鐘を鳴らし進む二才(ニセ)の行列

 笛を吹きながら進む巫の行列

 

 笛を吹きながら進む巫の行列

 笛を吹きながら進む巫の行列

 

 神様の尾下り

 神様の尾下り

 ”ほぜどん” は進む

 

 ”ほぜどん” は進む

 ”巫さん”も進む 八坂神社へ

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